第2話:超遡及処罰!
王都最高裁判所、第一審理室。
今日、そこで行われようとしているのは、司法の歴史始まって以来の、そしておそらく空前絶後の「怪奇」な裁判だった。
「……静粛に! 静粛に願います!」
裁判長席に座る初老の男、ガラン裁判長が木槌を叩く。
しかし、傍聴席のざわめきは収まらない。
被告人席の檻の中では、男が喚いていた。
その醜悪な光景を、検察側の席から二人の女性が冷ややかに見つめていた。
白衣を纏った賢者、エラーラ・ヴェリタス。
漆黒のドレススーツを着た美女、ナラティブ・ヴェリタス。
「……腐ってるわね。どいつもこいつも」
ナラが吐き捨てるように言った。
「この空気に火をつけてやりたい気分よ」
「抑えたまえ、ナラ君」
エラーラは、手元の分厚い資料を整えながら、淡々と言った。
裁判は、奇妙なほどスムーズに始まった。
検察側証人として立ったエラーラは、完璧な論理を展開した。
「証拠物件A、『未来予知記録』をご覧ください」
エラーラが空中にホログラムを展開する。
そこには……あまりにもリアルで、おぞましい光景。
傍聴席の空気が凍りつく。
「……こ、これは?……」
ガラン裁判長も、その映像の迫力に言葉を失った。
「これは予言ではなく、確定していた未来の観測結果です」
エラーラの説明は完璧だった。
魔法的な証拠能力としても、申し分ない。
通常の判断力があれば、「この男は危険だ」と即決するはずだった。
だが。
裁判が進むにつれ、雲行きが怪しくなった。
弁護側の席に立ったのは、この国一番の悪徳弁護士だった。彼はニヤニヤしながら立ち上がった。
「異議あり。……賢者様のおっしゃることは理解できます。しかし、これは『まだ起きていない』ことだ」
弁護士は、檻の中の無様な男を指差した。
「見てください、このあどけない青年を。彼が? ……ナンセンスだ」
そして、弁護士は傍聴席の貴族たちに向かって、同意を求めるように両手を広げた。
「それにですな……彼は高貴な公爵家の嫡男だ。貴族の特権というものを、よくお考えになられたほうがいい。」
その言葉に、傍聴席から「そうだそうだ!」という声が上がった。
ナラは、耳を疑った。
こいつらは、何を、言っているんだ?
「あれ」を、「特権」の一言で片付けるのか?
裁判長席のガランが、顎を撫でながら頷いた。
「ふむ……。弁護人の言うことにも一理ある。……確かに、映像は衝撃的だが、被害者は所詮、獣人や貧民だろう? 彼らの命と、公爵家の未来を天秤にかけるのは、はたして、いかがなものか」
「……あ?」
ナラが声を漏らす。
裁判長は、汚らしい笑みを浮かべていた。
彼もまた、「同類」だったのだ。
「それにだ」
裁判長は、侮蔑のこもった視線をナラに向けた。
「そこにいる検察側の助手……ナラティブ君?と言ったかな」
裁判長は鼻で笑った。
「君のような、どこの馬の骨とも知れぬ女が、神聖な法廷に立っていること自体が不愉快なのだよ」
傍聴席から爆笑が起きた。
悪意の奔流。
権力を持った豚どもが、安全圏から弱者を嘲笑う、最も醜悪な宴。
ナラは、机を蹴り飛ばして立ち上がった。
その瞳には、殺意すら生温いほどの激怒が燃え盛っていた。
「ふざけるなッ!!」
ナラの怒号が、法廷の空気を引き裂いた。
彼女は証言台に駆け寄り、裁判長を睨みつけた。
「あたしは泥水啜って生きてきた! でもね、あんたたちみたいな薄汚い根性はしてないわよ!」
「な、なんだその口の利き方は! 退廷を命ずる!」
「黙りなさいッ! あんたたちの目は節穴か!? こいつは、こいつは……世界を! それでも『特権』なんて寝言が言えんのか!?」
ナラは叫んだ。
だが、彼らには届かない。
弱者の痛みなど、想像すらできない。むしろ、他人が踏みにじられる音は、彼らにとって心地よいBGMなのだ。
「……所詮はヒステリーの女か……育ちが悪い。」
冷笑。
嘲笑。
無視。
「……殺す!」
ナラの手が、隠し持っていたナイフに伸びた。
もういい。言葉が通じないなら、物理で分からせるしかない。
この場で全員、血の海に沈めてやる。
「ナラ!」
その腕を、強い力で掴まれた。
エラーラだった。
「離して、お母様!……お母様!こいつらは人間じゃない! もう話しても無駄なのよ!」
「ああ、無駄だな。……だが、君の手を汚す価値もない」
エラーラは、静かに、しかし絶対的な力でナラを制した。
その顔は無表情だった。
だが、その黄金の瞳の奥底には、ナラの怒りを遥かに超える、深淵のような「絶望」と「断罪」の意志が渦巻いていた。
「ナラ。君のその怒りだけで、十分だ。……君が彼らのために怒ってくれた、その事実だけで、私『が』救われた」
「エラーラ……?」
エラーラは、ナラを背後に庇い、裁判長と傍聴席に向き直った。
「ガラン裁判長。そしてここにいる『権力者』の皆様」
エラーラの声は、マイクを通していないのに、法廷の隅々まで響き渡った。
それは、ただの音波ではない。
魔力が乗った、魂への直接干渉波。
「あなた方は、どうやら、想像力が欠如しているようだね?」
「当たり前だ!我々は権力側だ!弱者を気遣う必要など、あるわけがないだろう!」
裁判長がせせら笑う。
「懲役1年!いや、禁錮1ヶ月!これが最大の判決だ!執行猶予をつけてもいいくらいだがな!」
勝った、と彼らは思った。
この茶番は終わりだ。男はすぐに釈放され、また楽しい宴が始まる。
エラーラは、ふっと笑った。
それは、慈愛に満ちた、そして最高に残酷な聖母の微笑みだった。
エラーラは、両手を広げた。
その瞬間、法廷の床に巨大な魔法陣が展開された。
それは、攻撃魔法ではない。
『記憶共有』。
「言葉で分からないなら、体験していただきましょう。……私の『絶望』を。私の『痛み』を。……たっぷり、私の『10年』を、すべて」
「何をする気だ……!?」
エラーラが、指を鳴らした。
パチン。
世界が、暗転した。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
絶叫。
法廷にいた全員の脳内に、情報の奔流が突き刺さった。
それは、映像を見るような生易しいものではない。
五感、痛覚、感情、その全てが「エラーラ・ヴェリタス」と完全に同調させられたのだ。
彼らは、体験した。
「あ、あがッ……!? い、痛いッ! やめろォッ!」
裁判長ガランが、白目を剥いて椅子から転げ落ちた。
彼は『自分を守ろう』と、机に頭をガンガンと打ち付け始めた。
ゴンッ! ゴンッ! ゴンッ!
額から血が流れるが、彼は止まらない。その痛みの方が、脳内の地獄よりマシだからだ。
傍聴席の男たちも、一斉に狂った。
その未知の恐怖と恥辱に、彼らの精神は一瞬で崩壊した。
ある男は、立ったまま失禁し、泡を吹いて痙攣した。
ある男は、持っていた高級な万年筆で、自分の爪の間をガリガリと抉り始めた。
ある男は、首を高速で微振動させながら、幼児退行して泣き叫んだ。
プライドが高ければ高いほど、その崩壊は凄惨だった。
彼らが嘲笑っていた「弱者」の立場に、強制的に引きずり降ろされたのだ。
恥と、悲しみと、そして何より「無力感」が、彼らの自我をミンチにしていく。
一方、女性たちの反応は違った。
貴族の婦人たち、女性記者、女性弁護士。
彼女たちもまた、白目を剥き、ガタガタと震え、涙を流していた。
だが、彼女たちは「発狂」しなかった。
なぜなら、彼女たちは知っていたからだ。
社会の構造的暴力と、理不尽な扱いを。
その「痛み」の延長線上に、この地獄があることを、本能的に理解していたからだ。
「……ひっ、うぅ……」
「苦しい……なんて……なんてひどい……」
彼女たちは泡を吹きながらも、エラーラの痛みに「共感」し、共に泣いていた。
それは恐怖の涙であり、同時に、レクタという絶対悪に対する、魂からの拒絶の涙でもあった。
法廷は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
たった数秒。
現実時間では数秒だが、彼らの脳内では10年以上の歳月が流れた。
終わりのない地獄のフルコース。
ナラだけが、その影響を受けずに立っていた。
彼女は、目の前の光景に戦慄した。
これが、エラーラが背負っていたもの。
あのお母さんが、一人で抱えていた闇の深さ。
「……お母様……」
ナラは、隣に立つ母を見た。
エラーラは、蒼白な顔で、しかし毅然と立っていた。
自分の傷口を広げて見せるような行為。それがどれほどの苦痛か。
それでも彼女は、やったのだ。
この愚かな世界に、「痛み」を教えるために。
術が解けた。
静寂は戻らない。
あるのは、すすり泣きと、うめき声と、異様な湿った音だけ。
ガラン裁判長は、血まみれの額で床に這いつくばり、ガタガタと震えていた。
彼のズボンは濡れ、目は虚空を彷徨っている。
ナラは、ゆっくりと裁判長の前に歩み寄った。
そして、その髪を掴んで顔を上げさせた。
「おい!テメェ!……判決は?判!決!は!どうしたんだよ!コラ!」
ナラの声は、氷のように冷たかった。
「あ……ひぃっ……!」
ガランは、ナラの顔を見て悲鳴を上げた。
彼の目には、ナラが「復讐鬼」に見えただろう。もしくは、記憶の中で、彼を救ってくれた『あの』ナラティブ・ヴェリタスと重なって見えたのかもしれない。
「た、助けて……許して……」
「あ?……あぁ?許すだぁ?」
ナラは冷笑した。
「『あんた』が許すのかぁ? ……あの男を。なるほどだよねえ?あんたたち『も』こんな目に遭わせる元凶を。たった10年の懲役で、許していいのか?なるほどねえ。」
「い、いやだ……! 嫌だぁぁぁッ!」
ガランは絶叫した。
想像しただけで発狂しそうだ。あいつが生きていたら、またあの地獄が始まる。
自分の家族が、自分が、あんな目に遭う。
絶対に阻止しなければならない。
権力とか、特権とか、そんなものはどうでもいい。
ただ、「恐怖」だけが彼を支配していた。
「じ、じゃあ死刑……」
「じゃあ?……『じゃあ』だとお?責任を持って言えッ!」
ガランは、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「死刑だ!私『が』命ずる!今すぐ!殺せ!八つ裂きにしろ!魂ごと滅却させろ!二度と生まれ変われないように、存在の痕跡すら残さず消してくれぇぇぇぇッ!!」
傍聴席の男たちも、狂ったように同調した。
「殺せェ!」
「あいつは悪魔だ!」
「『俺たち』を守れ!」
先ほどまで男を擁護していた彼らが、今は我先にと極刑を求めている。
自分たちが被害者側になった途端、掌を返す。
醜い。
だが、それが現実だ。
檻の中の男は、何が起きたのか分からず、キョトンとしていた。
彼だけは、記憶共有の対象外だったからだ。
無知な悪魔。
自分が何をしたのか、何をしようとしていたのか、永遠に理解できない哀れな男。
ナラは、彼を憐れむように見つめ、そして背を向けた。
「……決定ね」
ナラは、エラーラの隣に戻った。
エラーラは、疲れ切った表情で、しかしナラに寄りかかって微笑んだ。
「……終わったな」
「ええ。……最低で、最高の裁判だったわ」
判決:『存在抹消刑』。
死刑を超えた死刑。
最大級の苦痛を与えて肉体を撃ち滅ぼし、王宮魔術師団による「魂の封印」と「因果の切断」を行い、現世に存在させずに、無の空間で永久に苦痛や、侮蔑や、後悔や、喪失を継続させて苦しめさせ続け、二度と転生すら許さない、この国における最大級の極刑。冗談としか思えないほどに、倫理に反している。もはや死刑ではなく、死後も続く、拷問。この世界で司法に携わるものは、この極刑を疑似体感する。半数は廃人になるか、即死する。
ついに、歴史上初めて『存在抹消刑』が確定「してしまった」。
それは、『恐怖』の二文字だった。
司法がついに、一線を越えてしまったのだ。
法廷に、拍手はなかった。
ただ、深い恐怖と、疲労と、そして「助かった」……というよりは「まだ何故か生きてしまっている」という後ろ向きな安堵のため息だけが満ちていた。
ナラとエラーラは、出口へと向かった。
扉を開けると、外には眩しいほどの太陽が輝いていた。
二人は、光の中へと歩き出した。
未来は変わった。
痛みを知った世界は、もう二度と、あのような怪物を生み出すことはないだろう。
「……帰ろう、お母様。ケンジさんのカレーが待ってるわ」
「ああ。……今日は激辛にしてもらおうか。なにせ、刺激が足りない」
「し、刺激? このマッドサイエンティスト!」
ナラが呆れたように笑い、私の腕を小突く。
その温かさに、私はふと立ち止まり、振り返った。
裁判所の重厚な扉の向こうには、今まさに断罪された過去がある。
そして、私の脳裏には、これから語られるべき、あの。忌まわしき「過去」が蘇っていた。
「どうしたの? お母様」
ナラが怪訝そうに私の顔を覗き込む。
「いや、なんでもないよ。……ただ、少し昔のことを思い出していただけだ」
私は微笑み、再び歩き出した。
そう、これは記録されなければならない。
未来を変えるために私たちが駆け抜けた、あの血と汗と涙の日々を。
あの日、あの雨の夜に、私があの男と出会った時から始まった、全ての物語を。




