第2話:ねばりつく優しさ!
警報が鳴り響く処理場。
駆けつけた警備員たちに取り押さえられながら、泥まみれのナラは叫び続けた。
喉が裂けるほど、血の味がするほど叫んだ。
「タンクの中を見て!あいつがアンナを殺したの!この泥はアンナなのよ! 調べてよ! お願いだから調べてよォッ!」
ナラの声は、絶望的な響きを帯びていた。
しかし、その訴えを聞く警備員たちの目は、冷ややかで、そして憐れみに満ちていた。
彼らの目には、ナラが「正義の探偵」ではなく、「汚物を浴びて錯乱した不審者」としてしか映っていない。
エラーラも必死に、理性を取り繕って現場責任者に食い下がっていた。
「私の娘の言う通りだ! 即座にタンク内の残留物を採取し、成分分析をしてくれ! DNA鑑定を行えば、人間のタンパク質が含まれていることが証明できるはずだ!」
しかし、現場責任者は、事務的に、そして少し面倒くさそうに首を横に振った。
「無理ですね、ヴェリタス博士。貴女ほどの方がご存知ないのですか? この最新鋭処理システムは、聖都の『個人情報保護特別条例』に基づき設計されています」
「……なんだって?」
「ここには、医療廃棄物や個人の所有物など、プライバシーに関わるゴミも大量に搬入されます。ゆえに、投入された有機物は即座に特殊酵素で分解され、遺伝子情報は完全に消去される仕様になっているのです」
エラーラは言葉を失った。
法と科学が、殺人を隠蔽していた。
タンクの中にあるのは、もはや少女ではない。法的には「所有者不明の産業廃棄物」でしかないのだ。
そこへ、着替えを済ませたグロッグが現れた。
彼は新しい白衣に身を包み、清潔そのものだった。
彼はナラたちを見ると、痛ましげに眉を寄せた。
「ああ……なんてことだ。警察に通報しないでやってくれ。彼女たちは、私の甥の友人なんだ。工場見学中に、私が誤って配管を操作ミスしてしまってね。汚水を浴びせてしまったんだ。ショックでパニックになっているだけなんだよ」
警備員たちは、グロッグに敬礼した。
「長官……なんと寛大な。わかりました、警察には『事故』として報告します」
「嘘よ! 嘘つき! 人殺し!」
ナラが喚く。だが、その声は誰にも届かない。
彼女の全身から漂う強烈な腐臭が、周囲の人々を遠ざけていた。
彼女は、ただの「臭くて汚い、可哀想な狂人」だった。
獣病院への帰路。
エラーラの運転する魔導車の中で、ナラは助手席に座り、ガタガタと震えていた。
車のシートにはビニールが敷かれている。ナラの汚れが移らないように。
そのビニールの感触が、アンナを巻いていたラップフィルムを思い出させ、ナラは何度もえずいた。
「……お母様。ねえ、お母様」
ナラは縋るように言った。
「ゴウなら……ゴウなら信じてくれるよね?ルルだって、親友のことだもん。あたしの言葉、信じてくれるよね?」
エラーラは何も答えず、ただハンドルを強く握りしめていた。
その沈黙が、答えだった。
獣病院に到着する。
リビングに入ると、暖かい光と、夕食のシチューの匂いがした。
そこは、あまりにも平和で、清潔だった。
泥まみれのナラたちが異物として浮き上がるほどに。
「ナラさん! 先生!」
ゴウが駆け寄ってくる。
しかし、ナラたちの姿と臭いに気づき、一瞬だけ顔をしかめ、すぐに心配そうな表情に戻った。
「ひどい臭いだ……。叔父さんから連絡があったよ。配管事故に巻き込まれたって。怪我はない?」
ナラはゴウの手を掴んだ。ナラの手についたヘドロが、ゴウの服を汚す。
「違うの! ゴウ、聞いて!叔父さんは嘘をついてる!あいつが……グロッグが、アンナを殺したの!生きたままタンクに落として、すり潰して……この泥は、アンナなのよ!」
ナラの必死の訴え。
しかし、ゴウの反応は、ナラが予想だにしなかったものだった。
ゴウは、怒った。
激昂ではない。心底、悲しそうに、失望したように怒ったのだ。
「……ナラさん。いくら気が動転しているからって、言っていいことと悪いことがあるよ」
ゴウはナラの手を、そっと、しかし拒絶の意思を込めて外した。
「叔父さんはね、君たちが汚れてしまったことを、電話口で泣きそうな声で謝っていたんだ。『私の管理不足だ。ゴウ君の大切な友達を、汚物まみれにしてしまった』って。すぐに新しい服を用意して、車まで手配してくれた。……そんな人を、人殺し呼ばわりするなんて。君らしくないよ」
「本当なの! 信じてよゴウ!」
「もういい!」
ゴウは背を向けた。
「叔父さんは、僕のたった一人の肉親なんだ。僕が化学の道に進んだのも、叔父さんの背中を見て育ったからなんだ。その叔父さんを侮辱するのは、僕を殴るのと同じだよ」
ナラの足元が崩れるような感覚。
ゴウは悪くない。彼は何も知らない。純粋に叔父を愛しているだけだ。
だからこそ、その拒絶は鋭利な刃物となってナラの心臓を抉った。
騒ぎを聞きつけ、奥の部屋からルルが出てきた。
「ナラ? 帰ってきたの?」
ルルは、ナラの姿を見て息を呑んだ。
全身が茶色い泥まみれ。強烈な異臭。
そして、ナラの目から流れる涙が、顔の泥をまだらに溶かしている。
「……アンナは?アンナは見つかったの?」
ルルの問いかけに、ナラは口を開いた。
しかし、言葉が出ない。
『見つかったよ。私の服についている、このシミがアンナだよ』
そんなこと、言えるはずがない。
「……ごめん」
ナラは絞り出した。
「見つから……なかった……」
ルルの目が、サァッと冷たくなった。
それは軽蔑の色だった。
アンナを探しに行って、自分だけ汚物まみれになって、めそめそ泣いて帰ってきた無能な探偵。
ルルにはそう見えただろう。
「……そっか。じゃあ、なんで泣いてるの?自分が汚れたのが、そんなに悲しいの?アンナは今も、どこかで一人で泣いてるかもしれないのに」
ルルは踵を返し、自分の部屋に戻った。
バタン、とドアが閉まる音が、銃声のように響いた。
ケンジとアリアが、痛ましげにナラを見ている。
「ナラ。シャワーを浴びてきなさい」
アリアが静かに言った。
「最近、事件続きで疲れていたのよ。少し休めば、また冷静になれるわ。グロッグさんのことは……また後で、ゆっくり話しましょう」
信じていない。
彼らは、「ナラが精神的に参ってしまい、幻覚を見ている」という結論で納得しようとしている。
その方が合理的だからだ。
街の英雄であるグロッグが殺人鬼であるという現実より、一人の探偵が狂ったという現実の方が、遥かに受け入れやすいのだ。
浴室。
ナラは熱湯のシャワーを浴び続けていた。
タワシで皮膚を擦る。
血が滲む。石鹸の泡がピンク色に染まる。
それでも、鼻の奥にこびりついた「脂」の臭いが取れない。
「……落ちない……落ちないよぉ……」
ナラは泣きながら、自分の腕を爪で掻きむしった。
アンナの脂が、毛穴から体内に入り込んで、自分の一部になってしまった気がする。
そして、あの時の叫びがリフレインする。
『汚い! 臭い! 最低!』
自分が叫んだ言葉。
アンナを「汚物」として定義づけた決定的な一言。
もし、アンナの魂がそこに残っていたとしたら、最期に聞いたのは、親友が依頼した探偵からの罵倒だったことになる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……あたしが汚いの……」
脱衣所には、エラーラが座り込んでいた。
彼女は、何も言わずに床を見つめていた。
ナラがシャワーから出てくると、エラーラは力なく首を振った。
「……ナラ。諦めよう」
「え……?」
「勝てない。証拠はない。証言者は私たちだけ。相手は社会的信用のある権力者で、私たちの家族の信頼も得ている。これ以上騒げば、私たちは『妄想癖のある母娘』として、社会から排除される」
最強の論理使いであるエラーラが、論理的に「敗北」を宣言した。
戦う手段はない。
ただ、沈黙し、この狂った現実を受け入れることだけが、生き残る唯一の道だと。
「……忘れなさい、ナラ。アンナという少女は、『最初からいなかった』。私たちは、ただの汚水処理場の見学に行って、服を汚しただけ。……そう思い込むんだ」
エラーラの目にも、涙が溜まっていた。
彼女もまた、自分の無力さと、娘に嘘を強要する痛みで、心が壊れかけていた。
数日後。日曜日。
聖都は穏やかな晴天だった。
獣病院の皆は、ナラを気遣って明るく振る舞っていた。
「今日はいい天気だね」
「美味しいケーキを買ってきたよ」
その優しさが、ナラには針の筵だった。
昼下がり。呼び鈴が鳴った。
ケンジがドアを開ける。
「やあ! グロッグさん! よく来てくれた!」
ナラの心臓が止まりそうになった。
玄関に立っていたのは、スーツをパリッと着こなしたグロッグだった。
手には大きな菓子折りと、美しい花束。
彼は、一点の曇りもない笑顔で立っていた。
「こんにちは。突然すまないね。ナラ君たちの様子が心配で、居ても立っても居られなくてね」
リビングに招き入れられたグロッグを、全員が笑顔で迎える。
「おじさん! いらっしゃい!」
ゴウが嬉しそうに抱きつく。グロッグはゴウの頭を愛おしそうに撫でる。その手は、あの日、アンナの腹にゴミを詰めていた手だ。
「よく来てくれたわね。さあ座って」
アリアがお茶を出す。
ルルでさえ、部屋から出てきて、ぺこりと頭を下げた。
「……先日は、ナラがお世話になりました」
ルルは、グロッグを「ナラの粗相を許してくれた恩人」だと思っているのだ。
地獄だった。
この部屋にいる全員が、善意で動いている。
誰も悪くない。誰もナラを傷つけようとしていない。
だからこそ、逃げ場がない。
ナラとエラーラだけが、部屋の隅で、死刑宣告を待つ囚人のように青ざめていた。
グロッグが、こちらへ歩いてくる。
ナラは震えが止まらない。吐き気がする。
「やあ、ナラ君。エラーラ君」
グロッグはナラの前にしゃがみ込み、目線を合わせて、優しく語りかけた。
「顔色が良くなったね。安心したよ。あの時の『汚れ』は、ちゃんと落ちたかな?」
悪意など微塵もない。
彼は本気で心配しているのだ。
彼の中で、アンナを殺した記憶と、ナラを心配する気持ちは、完全に矛盾なく共存している。
「……は……はい……」
ナラは掠れた声で答えるしかなかった。
ここで「人殺し!」と叫べば、ゴウとの関係は終わり、ルルにも軽蔑され、ケンジたちにも見限られるだろう。
社会的に、殺される。
「よかった。お詫びの印に、これを持ってきたんだ」
グロッグは箱を開けた。
中に入っていたのは、有名レストランのロゴが入った「焼きたてのミートパイ」だった。
「このパイは絶品なんだよ。中身のひき肉が、たっぷりと詰まっていてね。とてもジューシーで、温かいんだ」
「わぁ! すごい! 有名店のパイだ!」
ゴウが歓声を上げる。
「いい匂いね。さっそくいただきましょう」
アリアがナイフを入れる。
パイ生地が割れ、中から濃厚な茶色のソースとひき肉が溢れ出す。
湯気が立ち上る。
甘く、重く、脂っこい、肉の匂い。
ナラの視界が歪む。
その匂いは、あの処理場で嗅いだ匂いと同じだった。
パイの中身が、ドロドロに溶けたアンナに見える。
「さあ、ナラ。グロッグさんのご厚意よ」
アリアが皿を差し出す。
「いただきなさい。温かいうちに」
拒否できない。
全員が見ている。心配そうに、優しく見ている。
無言の圧力が、ナラの全身を縛り付ける。
グロッグは、ニコニコとナラを見つめている。
「遠慮しないで。君たちのために、特別に選んだんだ。……栄養を摂らないと、生きていけないからね」
ナラは、震える手でフォークを持ち上げた。
重い。鉛のように重い。
フォークの先にある肉の塊が、アンナの破片のように思える。
(食べなきゃ。……あたしは、汚い人間だから。友達を見殺しにして、友達を汚いと罵って、今、その友達の仇が持ってきた肉を食べて、生き延びようとしている)
ナラは口を開けた。
パイを放り込む。
噛む。
ジュワリと、肉汁が広がる。
スパイスの香りと、脂の甘み。
美味しい。
脳がとろけるほど、絶望的に、美味しい。
「……っ……うっ……」
ナラの目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
それは感動の涙ではない。魂が死んでいく音だ。
グロッグは、それを見て満足そうに頷いた。
「ああ、泣くほど喜んでくれるなんて。たくさんお食べ。おかわりもあるからね」
「……おいしい……です……」
ナラは言った。
言ってしまった。
その瞬間、ナラの中で何かが完全に砕け散った。
リビングには、温かい笑い声が満ちている。
ゴウが叔父に学校の話をし、ルルが口元にソースをつけて笑い、ケンジとアリアが紅茶を飲んでいる。
ナラティブ・ヴェリタスは、涙と共にパイを飲み込み続ける。
彼女の胃袋の中に、アンナの無念と、自分への呪詛と、社会の闇が、永遠に積み重なっていく。
窓の外では、聖都の鐘が鳴り響いていた。
今日も街は清潔だ。ゴミ一つない。
その清潔さが、一人の少女をミンチにし、一人の探偵の心を食い殺して維持されていることを……
誰も、知らない。




