第1話:罪作りの牛歩戦術!
聖都の地下深く、迷路のように張り巡らされた下水道のさらに奥底に、その施設はあった。
「第三有機廃棄物処理プラント」。
地上で暮らす300万人の市民が排出する、ありとあらゆる「不要なもの」が行き着く場所。
しかし、その入り口に立ったナラティブ・ヴェリタスが感じたのは、腐臭ではなく、不気味なほどの清潔さだった。
白く磨き上げられたタイル張りの床。
手術室のように明るすぎる蛍光灯。
「……ここだよ。叔父さんの職場は」
案内役のゴウが、誇らしげにIDカードをリーダーにかざした。
「すごいだろう?叔父さんは潔癖なくらい真面目だからね。『汚い仕事だからこそ、どこよりも美しく』が口癖なんだ」
今回の依頼は、ゴウの幼馴染であり、ルルの親友でもある少女・アンナの捜索だった。
アンナは三日前、パンを買いに出たまま忽然と姿を消した。争った形跡も、家出の動機もない。唯一の手がかりは、彼女の通学路が、この処理場の「回収車」のルートと重なっていたことだけだった。
警察は「ただの家出」として取り合わない。
だから、ゴウが提案したのだ。「僕の叔父さんなら、街中の監視カメラ網にアクセスできる。お願いしてみよう」と。
「叔父さんは、衛生局長官なんだ。『私がゴミを見る。市民には光だけを見せる』っていうのが信念の人でね。本当に尊敬できる人だよ」
ゴウの瞳に一点の曇りもない。彼にとって、叔父グロッグは聖都の英雄であり、自慢の親族なのだ。
だが、ナラは背筋に走る悪寒を抑えきれなかった。
綺麗すぎる。
ここは、毎日数百トンの汚泥や生ゴミが運び込まれる場所だ。それなのに、ハエ一匹飛んでいない。
まるで、有機物が存在すること自体を許さないかのような。
「……ゴウ。悪いけど、ここで待っていてくれる?」
ナラは努めて平静な声で言った。
「え? 一緒に行かないの?」
「少し、込み入った調査の話になるかもしれないから。エラーラと二人だけで挨拶させて」
「わかった。叔父さんによろしくね。ロビーで待ってるよ」
ゴウは無邪気に手を振った。
ナラとエラーラは目配せをし、重厚な気密扉の向こう側――「特別管理区画」へと足を踏み入れた。
扉が閉まった瞬間、世界が変わった。
むせ返るような湿気と、暴力的なまでの「煮詰まったタンパク質」の臭い。
そして、巨大な鍋で何千匹もの獣を煮込んだような、甘く、重く、胃にまとわりつく脂の臭気。
天井を這う無数のパイプからは、ドクン、ドクンと、まるで巨大生物の血管のように、何かが圧送される脈動音が響いている。
蒸気の音。液体が跳ねる音。
その空間の中央に、ステンレス製の巨大な作業台が置かれていた。
その上に、「それ」はあった。
そして、その傍らに、一人の巨漢が立っていた。
衛生局長官、グロッグ。
真っ白な防護エプロンをつけ、肘まである厚手のゴム手袋をした彼は、侵入者に気づくと、ゆっくりと振り返った。
柔和な丸顔。細められた目じりの笑い皺。
彼は、手にべっとりとついた「茶色い泥のようなもの」を気にする風でもなく、人懐っこい笑顔を向けた。
「やあ。いらっしゃい。ゴウ君の友達だね?連絡は受けているよ。よく来てくれた。ここは少し蒸し暑いだろう。冷たいお茶でも出そうか」
穏やかな、慈父のような声。
ナラは息を呑んだ。目の前の男の態度と、彼の手元にある光景の乖離に、脳の処理が追いつかない。
作業台の上に横たわっているのは、間違いなく、探していた少女アンナだった。
アンナは、生きていた。
だが、それは「生きている」と呼んでいいのかわからない状態だった。
彼女の四肢は、拘束具ではなく、透明な工業用ラップフィルムで幾重にも巻かれ、台に固定されていた。まるでスーパーマーケットに並ぶ精肉パックのように。
口には、油で汚れたボロ雑巾が詰め込まれ、ガムテープでぐるぐる巻きにされている。
そして、彼女の腹部――へそのあたりから鳩尾にかけてが、ざっくりと切り裂かれていた。
内臓がこぼれ落ちそうなほど深く、大きな裂傷。
しかし、そこから血は流れていなかった。
なぜなら、傷口が「満タン」だったからだ。
「あ……、あ……」
ナラの喉から、ひきつった音が漏れた。
グロッグの手には、床のバケツから掬い上げた「ヘドロの塊」が握られていた。
彼はナラたちに微笑みかけながら、その汚泥を、アンナの腹の裂け目へと押し込んだ。
湿った、粘着質な音が響いた。
冷たい泥が、少女の温かいピンク色の腸の隙間に侵入し、内臓と内臓の間を埋めていく。
異物が体内を侵食する感覚。
「ん、ぐぅ……ッ!!」
アンナの身体がビクンと跳ねた。
ラップに巻かれた手足が痙攣し、台を叩く。
眼球は限界まで見開かれ、毛細血管が切れ、血の涙がこぼれ落ちる。
雑巾の隙間から、ヒューヒューという、空気が漏れるような絶望的な呼吸音が響く。
「な、何をして……!?」
ナラが叫ぶ。声が震えていた。
グロッグは、泥だらけの手で額の汗を拭い、困ったように眉を下げた。
「ああ、驚かせてすまない。少し、中身が足りなくてね。このままだと、焼却炉の重量センサーがエラーを吐くんだ。規定の質量になるまで、充填作業をしているところだよ」
拷問ではなかった。
虐待でも、快楽殺人でも、儀式でもなかった。
グロッグにとって、それは単なる「荷造り」だった。
郵便局員が、箱の隙間に新聞紙を詰めるように。
精肉業者が、ソーセージの皮に肉を詰めるように。
彼は少女の腹に、ゴミを詰めていた。
「……質量、あと800グラムか。まだ隙間があるな」
グロッグは足元の別の容器から、次の「詰め物」を取り出した。
それは、職員食堂から回収された「食べ残しのチキンの骨」と、「腐りかけてドロドロになったレタス」、そして「誰かが捨てたプラスチックのスプーン」だった。
鋭利に割れた鶏の骨。茶色く変色した野菜くず。
「やめて!!」
ナラが駆け寄ろうとする。
だが、エラーラがナラの肩を掴んで制した。
「待てナラ! 下手に刺激すれば、彼はすぐに処理スイッチを押すぞ! まずは交渉だ!」
エラーラの判断は、論理的には正しかった。人質を取られている以上、刺激せずに解放を促すのが定石だ。
だが、相手は論理の外にいた。
グロッグは、ナラの悲鳴をBGMに、鶏の骨をアンナの腹にねじ込んだ。
骨の尖端が、露出したアンナの肝臓を突き刺し、腹膜を内側から切り裂く音が響く。
アンナの喉の奥から、言葉にならない絶叫が漏れる。
激痛。想像を絶する異物感。
腐ったレタスの汁が、傷口から体内へと染み込んでいく。
アンナは白目を剥き、全身を弓なりに反らせ、そして脱力した。失禁した尿が台の上を汚すが、グロッグは気にしない。それもまた「有機物」の一部だからだ。
「グロッグさん! お願い、やめて! その子は生きてるの!ただのゴミじゃないわ! ルルの……ゴウ君の友達の友達なのよ!」
ナラは必死に訴えた。
鉄扇の手触りが腰にある。でも抜けない。抜いたら、アンナが殺される。
ここは「善意」に縋るしかない。ゴウが信じた「優しい叔父さん」という一面に賭けるしかない。
「病院へ連れて行って! まだ間に合う!あなたは優しい人なんでしょう!? ゴウ君が言ってたわ!街を綺麗にする、立派な聖人だって!」
グロッグの手が止まった。
彼は、慈愛に満ちた目でナラを見た。
ナラは希望を持った。通じた、と思った。
「……ああ、ゴウ君か。彼は優しい子だね。君も優しい。こんな廃棄物のことまで、涙を流して心配してくれるなんて」
「廃棄物じゃない! 人間よ!」
「人間?」
グロッグは不思議そうに首を傾げた。
彼は、痙攣するアンナの腹――生ゴミと臓器が混ざり合い、茶色とピンクと緑が渾然一体となった断面――を指差した。
「見てごらん。腐ったレタスも、泥も、彼女の内臓も。全部同じ色、同じ手触り、同じ温度をしているじゃないか。混ざり合って、一つになっている。ここに境界線なんてないんだよ。すべては等しく、処理されるべき有機タンパク質だ」
ナラの心臓が早鐘を打つ。
話が通じない。
彼は狂っているのではない。
彼の認識世界では、人間と生ゴミの区別が、本気で存在しないのだ。
彼にとって、アンナを助けることは「破れたゴミ袋を修復する」程度の意味しかなく、殺すことは「焼却炉へ入れる」という事務処理でしかない。
「さて、お喋りが過ぎたね。業務に戻らないと。次の搬入が詰まっているんだ」
グロッグは、アンナの腹の傷口を手で強引に左右から寄せた。
そして、巨大な工業用ホッチキスを取り出した。
金属の針が、少女の皮膚を無造作に貫通し、傷口を塞いでいく。麻酔などない。
アンナの体は、もう痛みで跳ねることさえできなかった。ただ、涙だけが絶え間なく流れ続けていた。
ナラは限界だった。
対話など不可能だ。力ずくで奪うしかない。
ナラは鉄扇を抜き放った。
「その子から離れろォォォッ!!」
遅かった。
ナラが無駄な説得に費やした数分間。
「ゴウの叔父だから」という甘えで、攻撃を躊躇ったその時間。
それが、アンナの命運を決していた。
グロッグは、ナラの殺気になど気づかないような自然な動作で、足元のペダルを踏んだ。
作業台の底が抜けた。
「あ……」
アンナの体は、ゴミと共に真下の暗黒へと落下した。
ナラが手を伸ばす。
指先が、アンナのほどけた髪の毛を掠めた。
その一瞬、アンナの虚ろな瞳が、ナラを見た気がした。
『助けて』ではなく、『どうして』という絶望の色を宿して。
掴めなかった。
直後、重く湿った粉砕音が響いた。
巨大なミキサーが、肉と骨を咀嚼する音。
バキバキバキ、という硬質な破砕音の後に、ビチャビチャという水音が続く。
断末魔はなかった。
一瞬で、個体は液体へと変換された。
「……処理完了」
グロッグは満足げに計器を確認した。
「うん、重量ピッタリだ。君のおかげで詰め物が馴染んだよ。ありがとう、ナラ君。君はいい助手になれる」
「貴様ぁぁぁッ!!」
ナラの理性が弾け飛んだ。
殺意。純粋な殺意。
探偵としての矜持も、ゴウへの配慮も、すべてが消し飛んだ。
彼女は獣のように咆哮し、グロッグに向かって跳躍した。
この怪物を殺す。八つ裂きにする。それ以外に考えられない。
だが、グロッグは動じなかった。
彼は戦う意思などなかった。
ただ、「作業後の清掃」のために、手元のレバーを引いただけだった。
「配管洗浄」
タンクの排出口から、高圧の液体が噴射された。
それは、数秒前までアンナだったもの。
血液、内臓、皮膚、髪の毛。
そして、詰め込まれた腐ったレタス、泥、チキンの骨、プラスチック片。
それらが分子レベルで攪拌され、ドロドロの茶色いスープになったもの。
ナラは、正面からそれを浴びた。
「ぐっ……!?」
熱い。
火傷しそうなほど生温かい。体温と、機械の摩擦熱を持った温度。
そして、鼻が曲がるような強烈な悪臭。
鉄の臭い、排泄物の臭い、腐敗臭、そして濃厚な「人間の脂」の甘ったるい臭い。
粘着質な液体が、ナラの口に入り、目に入り、気道に張り付く。
生理的な限界を超えた不快感に、ナラの大脳がショートした。
思考よりも先に、生物としての拒絶反応が、喉から言葉を吐き出させた。
「いやぁぁぁっ!汚いッ!何これ、臭いッ!」
ナラは悲鳴を上げ、狂ったように顔を拭った。
コートを脱ぎ捨て、地面に顔を擦り付け、ペッペッと唾を吐いた。
「最悪!気持ち悪い!取れない!誰か拭いて!」
パニックに陥るナラ。
その姿を、グロッグは悲しげに見下ろしていた。
彼はポケットから、清潔で真っ白なハンカチを取り出し、ナラに差し出した。
心底申し訳なさそうな、同情に満ちた声で。
「ああ……すまない。汚してしまったね。本当に汚い。臭いだ。すぐに洗わないと」
その言葉が、ナラの耳に届いた瞬間。
ナラの動きが、凍りついた。
「汚い」。
グロッグは言った。そして、ナラ自身も叫んだ。
このヘドロは、なんだ?
これは、ただの汚物か?
違う。
これは、アンナだ。
ルルが必死に探していた、大切で、綺麗好きで、明日を夢見ていた少女だ。
その少女の最期の姿を、ナラは「汚い」「気持ち悪い」と罵り、地面に唾と共に吐き捨てたのだ。
グロッグと同じ認識で。
彼女を「処理されるべき汚物」として扱ったのだ。
「あ……あ、あ……」
ナラは震える手で、自分の顔についた茶色い液体を見た。
その中に、粉々になった白い骨片が混じっているのが見えた。
そして、キラリと光るものがあった。
それは、アンナが大切にしていた、安物のヘアピンの破片だった。
グロッグは優しくナラの背中をさすった。
その手は温かく、父親のように頼もしかった。
「大丈夫だよ。シャワーを貸そう。こんなゴミ、洗い流してしまえばいい。綺麗になれば、ゴウ君も安心する」
ナラは絶叫した。
それは犯人への怒りではない。
取り返しのつかない罪を犯してしまった自分自身への、魂の崩壊の音だった。
その叫び声は、地下処理場の防音壁に吸い込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。




