第1話:嫌がらせこそが人生!
『王都北区画震災に伴う社会的混乱に関する手記』
筆者:ナラティブ・ヴェリタス
その日、私が目にしたのは「崩壊」ではなかった。
王都北区画、通称「北都」。
豪雪と貧困、そして獣人の居住区として知られるこの地を襲ったのはマグニチュード7.2の直下型地震である。
私が現場に到着したとき、目の前に広がっていた光景は、自然災害の痕跡……というよりは、文明という名の化粧が剥がれ落ちた、老婆の素肌のような無惨さだった。
なぜ、建物はあのように崩れ去ったのか。
答えは、この国が誇る「魔導建築技術」の欺瞞にある。
近年の建設ラッシュを支えていたのは、建材の強度を物理的に確保するのではなく、建設後に「硬化魔法」や「耐震結界」を付与することで強度を担保する、言わば手抜き工法だった。これならば、安価な再生コンクリートや、鉄筋を減らした構造でも、見た目だけは立派な高層建築が建つ。
それは、魔力供給が永遠に続くことを前提とした、傲慢な設計思想だ。
地震と同時に、老朽化した地下魔導炉が臨界停止した。
「魔力停電」。
その瞬間、都市を支えていた魔法という不可視の骨組みが消失した。
魔法による補強を失ったビル群は、自らの重さに耐えきれず、文字通り「砕けた」のだ。
瓦礫の山を見下ろしながら、私は思った。私たちは建物の中に住んでいたのではない。魔力という名の、いつ切れるとも知れない細い糸の上に住んでいたのだと。
なぜ、北都だけがこれほど酷いのか。
中央や西都の高層ビルも揺れたが、倒壊は免れている。あちらには、非常用の独立魔力電源が義務付けられているからだ。
だが、獣人が多く住み、低所得者層が密集する北都には、その予算が回されていなかった。
「あそこは地盤が固いから大丈夫だ」
「予算は来期に回す」
そうやって先送りされてきた「行政の怠惰」が、数万の命を瓦礫の下に押し潰したのだ。
これは天災ではない。緩慢な、そして確信的な行政殺人だった。
私は救援物資を背負い、徒歩で北都に入った。
そこで私が最初に感じた違和感は、「静けさ」だった。
暴動が起きていると聞いていた。
略奪や悲鳴が飛び交っていると想像していた。
だが。
雪の降りしきる避難所は、奇妙なほど静まり返っていた。
人々は、体育館の冷たい床に、整然と並んでいた。
その「秩序」の正体を知った時、私は吐き気を催した。
配給の列に並んでいた時のことだ。
私の前には、中年の男と、若い学生風の男がいた。
配給されたのは、パンが二つずつ。物資は不足しており、それが今日唯一の食事になるかもしれなかった。
若者の盆には、手違いでパンが三つ乗っていた。係員のミスだ。
それに気づいた中年の男は、若者に声をかけるでもなく、係員に報告するでもなく、無言で若者の盆を叩き落とした。
パンが泥水の中に落ちる。
「あ……」
若者が声を上げるより早く、男は革靴でそのパンを三つとも、念入りに踏み潰した。
男は自分の分の二つのパンを受け取ると、泥にまみれたパンの残骸を一瞥もせずに去っていった。
若者は泣きそうな顔で、泥ごとそのパンを拾おうとしていた。
私は戦慄した。
男は、余分なパンを奪って自分のものにしたのではない。
係員に返却させたのでもない。
「あいつが俺より多く得をすることが、許せない」
その一点のみにおいて、食料という絶対的な価値を、この飢餓状態の中で「消滅」させることを選んだのだ。
若者が損をし、パンの『総量が減る』。社会全体で見ればマイナスしかない行為。
だが、男の中では「あいつを引きずり下ろした」という点において、プラスの快感が生まれている。
自腹を切ってでも他人を毀損しないと気が済まないという、この「スパイト行動」こそが、この被災地を支配する空気の正体だった。
暴動が起きないのは、民度が高いからではない。
誰もが、隣人の足を引っ張り合うことに全精力を注ぎ、身動きが取れなくなっているのだ。
「抜け駆けは許さない」
「俺が苦しいのだから、お前も苦しむべきだ」
その相互監視の視線が、吹雪よりも冷たく、この街を凍りつかせていた。
避難所の運営を任されていたのは、王都軍第4支援連隊だった。
彼らは不眠不休で動いていた。魔導アーマーが使えない中、手作業で瓦礫を退け、冷たい泥水を啜りながら人命救助にあたっていた。
だが、彼らに向けられるのは感謝の言葉ではない。
「お客様」となった市民からの、陰湿な虐待だった。
私は、仮設の救護テントの裏で、その光景を目撃した。
若いエルフの兵士が、初老の男に詰め寄られていた。
男の恰幅の良さと、汚れてはいるが質の良いコートから見て、地元の名士か何かだろう。
「おい、いつになったら俺の家の金庫を掘り出すんだ」
「申し訳ありません。現在は人命救助を最優先しておりまして……」
「馬鹿野郎!あの金庫には権利書が入っているんだ!お前らの給料がどこから出ていると思っている!税金泥棒め!」
男は、兵士の胸ぐらを掴み、揺さぶった。
兵士は無抵抗だった。銃を持っている。体術の訓練も受けている。その気になれば、この豚のような男の首をへし折ることなど造作もないはずだ。
だが、彼は直立不動のまま、唾を吐きかけられ、罵倒され続けていた。
「申し訳ありません。順次対応いたします」
壊れたレコードのように繰り返す兵士。
その目には、光がなかった。
彼は知っているのだ。ここで反論すれば、あるいは男の手を振り払えば、周囲で魔導端末を構えている野次馬たちによって「軍の暴行」として拡散されることを。
市民たちは、軍を「助けに来た人間」として見ていない。
「自分たちの不幸や鬱憤を、安全にぶつけられるサンドバッグ」として消費しているのだ。
なぜ、彼らはこれほどまでに増長するのか。
それは、彼らが「無能」だからだ。
平時において、社会のシステムにぶら下がり、誰かに決めてもらわなければ何もできない人間ほど、非常時には「被害者」という最強の『肩書き』を手に入れて暴走する。
彼らにとって、災害は悲劇ではない。
人生で初めて、他者に対して絶対的に優位に立てる、またとない「晴れ舞台」なのだ。
テントの脇では、主婦たちの集団が、炊き出しの鍋に砂を入れていた。
「な、何をしているんですか!?」
私が止めに入ると、彼女たちは悪びれもせずに言った。
「だって、お隣の地区だけお肉が入ってるって聞いたのよ。ズルいじゃない。不公平よ」
「だから砂を?」
「そうよ。あっちが美味しい思いをするくらいなら、みんなで不味いものを食べたほうがマシだわ」
彼女たちは、自分たちの子供も食べるそのスープを、嫉妬のみで汚染した。
「みんなで不幸になれば平等」
その狂った等式が、ここでは正義としてまかり通っていた。
王都政府の対応もまた、狂気の一端を担っていた。
隣国や、魔法技術先進国からの支援申し入れを、王都はすべて拒絶したのである。
「我が国は魔導大国である。自力での復興は可能であり、他国の介入は治安維持の観点から不要である」
ラジオから流れる報道官の声は、空虚なプライドに満ちていた。
実態は違う。
他国の救援隊を入れれば、北都の惨状――魔導建築の欠陥や、インフラの放置――が、国際社会に露見してしまう。
政府は、国民の命よりも「メンツ」を選んだのだ。
そして、その「拒絶」の精神は、末端の市民にも伝染していた。
南都から、民間の有志による支援トラックが到着しようとした時のことだ。
本来なら歓喜して迎えられるはずの物資。
だが、北都の市民たちは、道路にバリケードを築き、トラックを止めた。
「帰れ!南都の偽善者ども!」
「お前らは被害がなかったくせに、俺たちを見下しに来たのか!」
「施しなんて受けないぞ!」
彼らは、トラックの荷台から物資を引きずり下ろし、火をつけた。
毛布が、水が、食料が燃えていく。
南都の運転手が泣きながら「使ってください、お願いします」と土下座しても、彼らは嘲笑いながら火に油を注いだ。
なぜか。
助かりたくないのか。
違う。
「被害を受けていない南都の人間が、善いことをして気持ちよくなる」のが許せないのだ。
自分たちは寒くて惨めなのに、あいつらが「良いことをした」という満足感を得るのが、死ぬほど癪に障るのだ。
だから、自分たちが凍え死んででも、相手の善意を踏みにじる。
「お前の善意など無価値だ」と突きつけることで、精神的な優位に立とうとする。
私は、燃え盛る毛布の前で、呆然と立ち尽くしていた。
寒さで震えているのではない。
人間の底なしの「嫉妬」と「プライド」に、魂が凍りついたのだ。




