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第2話:深夜拘束棺桶(2)

深夜零時。王都第三バスターミナル。

鉛色の雨が、アスファルトに滲んだオイルの虹を叩いている。

エノラは、愛機であり牢獄でもある長距離深夜高速魔導バス『銀の棺桶』の運転席で、三錠目の胃薬を噛み砕いていた。


「……非合理的だ」


エノラはワイパーが刻むリズムに合わせて呟く。

ふと、古傷が痛むように過去がフラッシュバックする。

かつて彼が籍を置いていた、『王立中央魔導アカデミー』。

あの大賢者エラーラ・ヴェリタスも輩出した、この国最高峰の知の殿堂。

白亜の研究室。漂うコーヒーの香り。世界を書き換える数式。

エノラはそこで「空間転移理論」の若き天才と呼ばれていた。協調性が欠如しすぎて、教授陣を論破し続けた結果、追放されるまでは。

今の彼の視界にあるのは、曇ったフロントガラスと、バックミラーに映る地獄の縮図だけだ。

長距離トラックの運転手たちはよく、「俺たちは孤独だ」と嘆く。タイヤに名前をつけて恋人のように語りかける狂気。

だが、エノラに言わせれば、彼らはまだマシだ。

彼らが運ぶのは「物言わぬ荷物」だ。俺が運んでいるのは、「意思を持った汚物」だ。


ドアが開く。王都の掃き溜めから溢れ出した乗客たちが、ゾンビのように乗り込んでくる。


「……お客様?靴を脱いで検札するのはやめてください」


今日のラインナップは、いつも以上に最悪だった。通称「夢の国の住人」。


通路側の席には、靴を片方だけ脱ぎ捨て、自分の足の裏のシワを「いーちン、にーいン、さーンン……」と数え続ける女。彼女はシワが減ると発狂し、増えると歓喜する。


窓際には、読書灯を高速で点滅させながら、天井のシミに向かってモールス信号を送り続ける男。


最前列には、「風との距離が近い! 2ミリだ!」と叫び、見えない何かと戦っている老人。


そして最後尾には、金欠で小さくなっている貧相な女。


だが、このバスにおける「異常」はそれだけではない。

エノラの胃痛の原因は、むしろ「彼ら」への申し訳なさにある。


「……ご乗車ありがとうございます。……あ、頭上にご注意を」


巨体を極限まで丸め、申し訳なさそうに入ってきたのは、身長3メートルのミノタウロスだった。

彼は隣の席の「シワ数え女」に足を踏まれないよう、座席の隅に縮こまり、エノラに向かって何度も頭を下げている。


続いて、3つの頭すべてに自ら口輪を嵌めたキメラ。彼らは喧嘩をしないよう、互いに目を合わせず、借りてきた猫のように大人しい。


さらには、座席を濡らさないよう、自ら厚手のビニール袋に入って乗車したスライム紳士。


魔物たちは、人間よりも遥かに理性的で、腰が低く、マナーが良い。

一方、人間たちは魔界の猿のように騒ぎ散らす。

この逆転現象こそが、エノラの精神を蝕む最大のパラドックスだった。


「……人間こそが害獣だ。証明終了」


バスが発車する。

深夜の魔導ハイウェイは、霧に包まれていた。

エノラはハンドルを握りながら、脳内でいつもの「儀式」を開始する。


(……現在の速度は時速100キロ。今、ここでハンドルを右に90度切れば、バスは横転せず、螺旋回転しながら路肩を飛び出し、50メートル下の谷底へダイブする。乗客は、俺も含めて即死だ)


それは、甘美な誘惑だった。

ハンドルの僅かな動き一つで、この地獄を終わらせることができる。俺は神だ。死神だ。

その全能感だけが、彼を正気に繋ぎ止めていた。

だが、現実はその妄想を許さない。

通信機が鳴る。

表示名は『運行管理本部』。


『あー、エノラ君? 部長だがね』


スピーカーから、脂ぎった声が響く。


「……はい。定刻通り進行中です」


『うんうん。ほんならに、君さぁ、さっきのカーブでちょーーーっつ減速したよね? なんで?』


「雨で視界が悪かったため安全マージンを取りました」


『だーかーらー!マニュアルには「定速走行」って書いてあるだろう!ていそくそおこお!君、マニュアル、読めないの?元アカデミーのくせに読めないんだ?ガハハ!勉強できるやつは仕事できないってほんとだね!』


エノラの眉間に青筋が立つ。

係長が隣から言う。


『エノラさん。今のブレーキでブレーキパッドがだいぶ摩耗しました。始末書ものですよ。あと、給料からパッド代引いときますね』


「……了解しま死た!」


通信を切る。

間髪入れずに、再び通信機が鳴る。

今度は『リウ(変態)』。北都が生んだ災害級の変人画家だ。


『ごきげんようですわーっ! エノラ! わたくしですわー!』


鼓膜を破壊するようなハイトーンボイス。


「……なんだ。今、殺意の沸点が臨界に近い」


『つれない殿方ですわね! 今、王都の裏路地にある「Bar 獣の吐息」におりますの!聞いてくださいまし! ここのバーテンダーさんが虎獣人で、尻尾の太さが尋常ではありませんのよ!直径15センチ! 剛毛かつ柔軟! まさに金棒!エノラも来なさい! 奢りますわよ! 一緒にモフりましょう!』


エノラは無表情で前方を見つめる。


「俺は尻尾に興味はない。あと、今バスには本物のキメラが乗っているが、山羊の頭が『うるさい』という顔をしているぞ」


『まあ! キメラさんの尻尾は蛇ですわよね! 蛇の尻尾の感触、ヌメッとしてて最高ですわ! 今すぐ連れてきなさい! スケッチしますわ!』


「客を画材にするな。切るぞ」


電話を切っても、車内の静寂は戻らない。

むしろ、カオスは加速していく。


「いーちン、にーいン、さーンン……ああっ! シワが一本減った!?」


シワ数え女が絶叫し、自分の足を爪で引っ掻き始める。

隣のミノタウロスが、血が飛ばないようにそっと身を引く。


「風の精霊が怒っておる! お前、風に嫌われてる顔をしてるぞ!」


風の老人が運転席を蹴る。


「私の顔の造形と流体力学に因果関係はありません」


エノラの視野が狭窄していく。

胃の中で、消化液が逆流するのを感じる。

彼は、理性のタガが外れる音を聞いた。


「……ああ。もういいか」


エノラは、どこか達観した境地に至りつつあった。

この世は非合理的すぎる。

アカデミーの論文も、上司のパワハラも、リウのセクハラも、客の奇行も。

全てはノイズだ。

唯一の真実は、質量と速度と、そして死だけだ。

その時。

深夜3時の闇を切り裂いて、一人の男が通路を歩いてきた。

フードを目深に被り、手には赤く発光する魔導ダガー。

その目は血走り、全身から「俺はエリートだ」という、鼻持ちならないオーラを出している。

トドメの客のお出ましだ。


「……おい、運転手」


フードの男が、ドスの利いた声で言った。

彼は魔導ダガーをエノラの首筋に突きつけ、懐から「自爆魔石」を取り出した。


「このバスは俺が乗っ取った。……進路を変えろ。『私立第三魔導カレッジ』へ向かえ」


バスジャック。

それは本来、密室における最大の恐怖であり、支配的な暴力であるはずだった。

だが、この『銀の棺桶号』において、彼の存在感はあまりにも希薄だった。


「……お客様」


エノラは、事務的に答えた。


「そちらのカレッジは、王都の反対方向です。燃料計算上、不可能です」


「あぁ!? ふざけんな! 俺は本気だぞ!俺は選ばれしエリートだったんだ! カレッジを首席で卒業するはずだったのに、教授たちが俺の才能を妬んで退学させやがった!だから俺は、このバスごとカレッジに突っ込んで、自爆してやるんだ!」


犯人は叫び、威嚇のためにダガーを振り回した。

しかし。


「うるさいわねぇ! シワが数えられないじゃない!」


シワ数え女が、犯人に靴下を投げつけた。


「眩しい! お前のナイフ、眩しい!」


点滅男が、犯人の顔に読書灯をカチカチ当てて対抗する。


「馬鹿者! カレッジ方面は向かい風じゃ! 風に逆らうな!」


風の老人が、犯人の足を杖で叩く。

魔物たち――ミノタウロスやキメラは、犯人ではなく、「暴れる人間たち」に怯えて抱き合っていた。


「(人間怖い……ナイフより、あの靴下の女の方が怖い……)」


犯人は呆然とした。


「な……なんだこいつら!? 怖がれよ! 俺はテロリストだぞ!?」


そこへ、追い打ちをかけるように通信機が鳴る。


『エノラさん。今の急ブレーキでタイヤが摩耗しました。あと、GPSログが乱れてます。ちゃんと仕事してます? 監視してますからね』


犯人が叫ぶ。


「無視すんな! 俺を見ろ! 俺はここにいるんだぞ!」


さらに、通信機が割り込み着信で震える。


『エノラァァァ!大変ですわー!わたくしのスケッチブックに!酒をこぼされましたのー!傑作の「尻尾図鑑・保存版」が台無しですわ! 慰めなさい! 今すぐ来なさい!』


そのカオスな状況に、最後尾で息を潜めていた貧相な金欠の女ナラティブ・ヴェリタスがついにブチ切れた。

彼女は座席から立ち上がり、エノラに向かって怒鳴った。


「ちょっと運転手! あんたプロでしょ!?こんな三流の犯人さっさと片付けなさいよ! うるさくて寝れないわよ!」


その声は、通信機のマイクを通じてリウに届いた。


『……あら? その凛としたツッコミボイス……まさか、ナラちゃん!?ナラちゃんですの!? なぜエノラのバスに!?』


ナラが叫び返す。


「金がないから乗ってんのよ! それよりリウ、あんた運転手さんを困らせんじゃないわよ!」


『奇遇ですわー! ナラちゃんも来なさい! 尻尾サミット開催ですわー!!』


完全に蚊帳の外に置かれた犯人が、顔を真っ赤にして絶叫した。


「ふざけんなァァァ!風だの! シワだの! 尻尾だの! わけわかんねぇんだよお前ら!俺の絶望を! 俺の知性を! 誰か理解しろよぉぉぉ!!」


犯人は、エノラの胸ぐらを掴んだ。

そして、言ってはならない一言を放った。


「おい、うだつの上がらない運転手風情が!俺は『私立第三魔導カレッジ』の出身だぞ! エリートなんだよ!お前みたいな底辺の肉体労働者にはわからねぇだろうがな!俺の計算通りにハンドルを切れ!」


その瞬間。

エノラ・ビジの中で、冷たい火がついた。


「ええっ?……エリートさんでござんすかぁ?」


エノラは呟いた。


「『私立第三魔導カレッジ』ねぇ?あそこは、王立アカデミーの入試に落ちたブサイクが、親の金で入る豚小屋でござんすよね?初等魔導理論を3年生で教えるような、お遊戯教室がエリートですかぁ?……お前さん、顔も頭も、履歴書までもがブサイクってわけですね!いやあ、こりゃたまげたわ……ホンモノの気狂い豚の方と会えて光栄ですわ……」


犯人が固まる。


「き、きちがいブタ?なんだと貴様……!」


エノラは、マイクのボリュームを最大にした。

その声は、かつて王立アカデミーで恐れられた「氷の天才」の声だった。


「おい、本部。俺の運転技術に文句があるのか?おい、リウ。尻尾がどうとか喚いてるのか?そして、三流カレッジ崩れのブステロリスト……」


エノラの目が、犯人を射抜く。


「俺は『王立中央魔導アカデミー』の元首席候補だ。エラーラ・ヴェリタスと同じ学び舎で、空間理論を構築していた男だ。貴様ごとき分数の計算もできないクソボケに、エリート面される筋合いはない!」


犯人が後ずさる。


「お、王立……!? まさか、本物……!?」


「貴様の望み通り、物理法則の授業をしてやるよ。テーマは『遠心力によるクソボケの排除』だ!!」


エノラは、ハンドルを右に90度、フルロックした。


「全員、飛びやがれ!」


世界が傾いた。

時速100キロでの直角ターン。

魔導タイヤがアスファルトを削り取り、白煙と火花を撒き散らす。

バスは横転スレスレの角度でスピンし、独楽のように回転しながら路肩のガードレールを粉砕した。

車内は無重力と過重力が交互に襲う洗濯機と化した。


「シワがァァァ!」


シワ女が靴下と共に宙を舞う。


「風が来たァァァ!」


老人が歓喜の声を上げて天井に張り付く。

ミノタウロスは強靭な腕力で座席にしがみつき、スライム紳士を庇っている。

犯人は、物理法則の傀儡となって、無様に空を飛んだ。


「うわぁぁぁ!?」


回転する視界の中、最後尾から黒い影が弾丸のように射出された。

ナラティブ・ヴェリタスだ。

彼女は遠心力を利用して加速し、壁を蹴って犯人の背後に回り込む。


「……ったく、派手好きな運転手ね!あとでチップ弾みなさいよ!」


ナラの手刀が、犯人の延髄に深々と突き刺さる。

同時に、彼女は犯人の手から自爆魔石を奪い取り、エノラの足元へ投げた。

バスは3回転半の芸術的なスピンを経て、路肩の盛り土に乗り上げ、煙を上げて停止した。


静寂。

通信機からは『ギャアアア! GPSが消えた! 事故だ! 始末書だ! 賠償金だ!』という本部の断末魔が聞こえていたが、エノラは無言で通信機を引きちぎり、窓の外へ放り投げた。


「……ふぅ。スッキリした」


エノラは、エアバッグの粉にまみれながら、どこか清々しい顔で呟いた。

乗客たちは気絶するか、腰を抜かしている。

ミノタウロスがヨロヨロと立ち上がり、エノラに向かって深々と頭を下げ、「(素晴らしいドライビングテクニックでした)」とジェスチャーした。キメラの三つの頭も拍手している。スライム紳士も袋の中で親指を立てている。


「……魔物にはわかるか。やはり人間は駄目だな」


エノラはバスを降りた。

ナラが近づいてくる。犯人は縛り上げてある。


「運転手さん。……あんた、バス会社クビ確定よ」


「構わん。退職金代わりに、このバスの魔導炉を売り払ってやる」


そこへ、一台のタクシーが猛スピードで突っ込んできた。

中から、ドレス姿のリウ・ヴァンクロフトが飛び出してくる。


「エノラァァ!ナラちゃァァン!生きてますのー!?」


リウは現場の惨状を見て、目を輝かせた。


「マーベラス! まるで現代アートですわ!あ、ミノタウロスさん! 無事でしたのね! ああ、その筋肉の張り! 恐怖で収縮した大胸筋! 芸術点高いですわよ!」


リウはミノタウロスに抱きつき、スリスリし始めた。ミノタウロスは困惑しつつも、されるがままだ。

エノラは、リウに手を差し出した。


「おい変態。……約束通り、高い酒を奢れ」


リウは振り返り、満面の笑みで答えた。


「もちろんですわ! さあ、魔物の皆さんもご一緒に!北都式宴会コースですわー!」


こうして、エノラ、ナラ、リウ、そして善良な魔物たちの一行は、夜明けの街へと繰り出した。

三流テロリストは放置され、本部はパニックに陥り、シワ数え女たちは救助を待つ。

エノラ・ビジ、42歳。

アカデミーを中退し、ブラック企業を解雇された男。

だが、彼の手にはまだハンドルの感触が残っている。

そして今夜は、変態画家の奢りで美酒にありつける。

彼は、煙を上げる「銀の棺桶」を振り返り、ニヤリと笑った。


「……非合理的だが……悪くない」


朝日が、彼らの背中を照らしていた。

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