第1話:深夜拘束棺桶(1)
深夜23時。王都第三バスターミナル、職員休憩室。
蛍光灯が一本、切れかけて点滅している。壁には「笑顔で接客」「安全第一」という寝ぼけたスローガンが書かれたポスターが貼られている。
エノラ・ビジは、泥水のような味がする社給のコーヒーを啜りながら、胃薬の袋を開けていた。
胃が、痛い。
深夜の魔導ハイウェイを走るプレッシャーのせいではない。
狂った乗客たちのせいでもない。
元凶は、今、目の前でクチャクチャクチャクチャと煎餅を食っている、この男だ。
「おい若いの。茶」
男の名はゴーム。65歳。
先週入社したばかりの「新人」だ。
魔導免許を取得したばかりの未経験者で、本来ならエノラが教育係として指導する立場にある。
だが……この男の脳内では、序列は「職歴」や「能力」ではなく、単なる「生まれた年」で決定されていた。
エノラは無表情で答える。
「……ポットは、あなたの右手にありますよ。自分で入れてください」
ゴームは煎餅を噛む手を止め、信じられないものを見るような目でエノラを睨みつけた。
濁った瞳。無精髭。制服のボタンは掛け違えられ、襟にはフケが積もっている。
「あぁん? あんだその口の利き方ぁ」
ゴームがテーブルを叩く。
「ワシはね、65だぞ。お前かいくつか知らんがね、見たところ30かそこらだろ?偉い人がね、『お茶』と言ったら、若造は黙って頭を下げて注ぐ。それがね!社会の常識!」
エノラは溜息を噛み殺す。
「ここは職場です……私は指導員で、あなたは研修生。業務に関係のない雑用を強要するのは……」
「へっ! これだから最近の若いのはダメなんだよね!いいかね? ワシはね、お前がオムツをしてた頃から社会で揉まれてきたんだ。人生の大先輩に向かって、その態度はなんだね!技術なんぞよりな、まずは『礼儀』だろ、『礼儀』!」
ゴームは唾を飛ばしながら喚き散らす。
出発の時間が迫っていた。
エノラは席を立った。
「……では出発準備がありますので」
「おい待てい!話は終わってないぞ!」
ゴームが立ち上がろうとして、自分の足にもつれてよろけた。
彼は近くにあったゴミ箱を蹴飛ばし、中身をぶちまけた。
「なんだこのゴミ箱は!変な所に置きやがって!おい若いの!片付けとけ!」
エノラは冷ややかに見下ろす。
「あなたが蹴ったんですよ。自分で片付けてください」
「あぁ!?ワシに指図するのか!お前がそこに置いたのが悪いんだろうが!だからお前はいつまでも平社員なんだよ!ワシが若い頃はなぁ、上司の歩く先にある小石すら先回りして退けたもんだぞ!」
(……だからそんな人生で終わったんだろう)
エノラは心の中で毒づき、無視して休憩室を出た。
ロッカールームへ向かう途中、ゴームがしつこくついてくる。
彼はエノラの運転技術や手順について、何も知らないくせに口を出してくるのだ。
「おい、今日のバスはどれだ?」
「『銀の棺桶号』です」
「フン、ボロいバスだな。ワシが昔乗ってた高級車とは大違いだね。ワシが天下の魔導通信社の子会社の代理店にいた頃は、社長のライラック7000の助手席に乗っていたんだぞ!ライラック7000だぞ?お前は一生かかっても買えないだろ!……おい、これどうやって開けるんだ?」
ゴームはバスのドアの前で、魔導キーを鍵穴にガチャガチャと乱暴に突っ込んでいる。
「……逆です。チップがついている方をかざすんです。鍵穴はありません」
「あぁ? 紛らわしいんだよ!最近の機械はいちいち難しくしやがって!作った奴が馬鹿なんだ! ワシは悪くない!」
ゴームはキーを地面に叩きつけた。
カシャン、と乾いた音がする。
エノラの中で、何かが冷たく凍りついた。
彼は無言でキーを拾い上げた。幸い、破損はない。
「……ゴームさん」
「なんだ!」
「あなた、運転手、向いていませんよ」
エノラは、かつてアカデミーで教授を論破した時と同じ、絶対零度の声色で告げた。
「学習能力の欠如、感情制御の不全、そして道具への敬意のなさ。バスは鉄の塊ですが、何十人もの命を乗せて走る棺桶でもあります。あなたのような、自分のミスを環境のせいにする人間がハンドルを握れば、必ず人を殺す。……辞めるべきは、私ではなく、あなただ」
ゴームは顔を真っ赤にして、口をパクパクさせた。
図星を突かれた怒りと、年下に説教された屈辱で、言葉が出ないようだ。
やがて、彼は震える指でエノラを指差した。
「き、き、貴様ぁぁぁ!なんて生意気な! 口答えするな!本部の人間に言ってやる!お前の態度が悪いってな!クビにしてやる!土下座させてやるからなァァ!」
エノラはゴームを無視してバスに乗り込み、ドアを閉めた。
外でゴームがドアを叩き、喚き散らしているのが見えるが、防音ガラスのおかげで声は聞こえない。
エノラは運転席に深く沈み込んだ。
頭痛がする。
胃が焼け付くようだ。
(……限界だ)
エノラは、胸ポケットに入れている手帳を取り出した。
そこには、震える文字で書きかけの『退職願』が挟まれていた。
あんな老人が「同僚」として入ってくる職場。
あんな無能が「人生の先輩」として威張り散らす世界。
魔導アカデミーを追放された時、自分は底辺に落ちたと思った。
だが、ここは底辺ですらない。
ここは、論理も知性も通用しない、腐敗した掃き溜めだ。
「……今日だ」
エノラは魔導キーをスロットに差し込んだ。
エンジンが重低音を響かせて目覚める。
「今日の運行が終わったら、これを叩きつけて辞めてやる。こんな会社、こんな社会、知ったことか。俺はもっとマシな……せめて『言葉が通じる』場所へ行くんだ」
だが、彼には行く当てなどなかった。
貯金もない。家族もいない。友人は変態画家・リウだけ。
辞めたところで、野垂れ死ぬだけかもしれない。
(……それでもいい。あの老人の下で働くくらいなら、餓死した方が論理的に幸福だ)
エノラはギアを入れた。
バスがゆっくりと動き出す。
外ではまだゴームが何かを叫びながら、バスのタイヤを蹴っている。
エノラは、あえてギリギリまで内輪差を詰めてハンドルを切った。
ゴームが慌てて飛び退き、尻餅をついて泥水の中に倒れ込むのがバックミラーに見えた。
「……フン。ざまあみろ」
小さな、本当に小さな復讐。
だが、今のエノラには、それだけが唯一の救いだった。
バスは雨のバスターミナルを出て、乗客の待つプラットホームへと向かう。
そこで待っているのが、本物の魔物たちだとも知らずに。
そして、この運行が、単なる「退職前の最後の仕事」ではなく、彼の人生を決定的に変える「伝説の夜」になることも知らずに。
「……定刻通りだ」
エノラは、死んだ魚のような目で、地獄へのアクセルを踏み込んだ。




