第8話:強盗の権利と、定刻の退社!
「……騒がしいですわね」
ナラティブ・ヴェリタスは、買い物袋を提げながら、眉をひそめた。
大通りが封鎖されている。
黄色い規制線。集まる野次馬。そして、殺気立つ警察官たち。
「立てこもり事件だ!」
「人質がいるぞ! 犯人は凶悪な爆弾魔の残党だ!」
どうやら、先日ナラたちが解決した爆破事件の逃亡犯が、近くの銀行に立てこもっているらしい。
興味はない。早く帰って夕飯の支度をしたい。
そう思って通り過ぎようとした時、一人の男の声が響いた。
「状況報告を」
その声は、あまりにも落ち着き払っていて、戦場の空気には不釣り合いだった。
規制線の最前線。
そこに、一人の刑事が立っていた。
よれたスーツに、無精髭。一見するとくたびれた中年だが、その目は鋭く時計の針を追っていた。
名は、ローキ刑事。王都警察捜査一課のエース……らしい。
「はっ!犯人は銀行内に篭城!人質は10名! 要求は逃走用の魔導車と100,000,000クレストです!」
部下が報告する。
「ふむ。交渉の余地はないな。突入準備」
「了解!」
ローキ刑事の手際は鮮やかだった。
瞬時に配置を指示し、犯人の死角を見抜き、突入ルートを確保する。
その指揮能力は、素人のナラが見ても「一流」だと分かるものだった。
ナラは少し感心して、足を止めた。
これならすぐに解決するだろう。見ていくのも悪くない。
犯人が窓際に出てきた。絶好のチャンスだ。
「警部!今です!」
だが、ローキ刑事は動かない。
時計の長針が、真上を指した。
教会の鐘が、ゴーン、ゴーンと鳴り響く。
午後5時。定時である。
その瞬間。
ローキ刑事は、くるりと背を向けた。
「お疲れ様でした」
「……は?」
部下たちが、そして野次馬たちが、一斉に凍りついた。
ナラも、持っていた買い物袋を取り落としそうになった。
「け、警部!? どこへ行くんですか!?」
「帰る」
ローキ刑事は、ポケットからタイムカードを取り出し、空中で「打刻」のジェスチャーをした。
「定時だ。……また明日」
「バカなこと言わないでください! 犯人は目の前ですよ!?」
「今月、私はすでに残業上限ギリギリだ。これ以上働けば、警察組織がブラック企業であると認めることになる。……私は、組織の健全化を守るために帰るのだ」
「人質がいるんですよ!?」
「人質の命も大事だが、私のワークライフバランスも大事だ。過労死したら誰が責任を取る?」
彼は、捜査資料を部下に押し付け、ネクタイを緩めた。
「あとは夜勤の班に引き継げ。……じゃあな」
彼は本当に、現場を去り始めた。
犯人が銃を乱射し始め、悲鳴が上がっているのに。
背を向けて、駅の方へと歩き出したのだ。
「……イカれてる」
ナラの中で、何かが弾けた。
彼女は、規制線をくぐり抜け、ローキ刑事の前に立ちはだかった。
「お待ちなさい」
「なんだ君は。民間人は下がって……」
「下がりませんわよ!」
ナラは、ローキ刑事のネクタイを掴み、グイッと引き寄せた。
「あんた正気? 人が死にそうになってるのに、時計見て帰るの?」
「君には関係ない。……私は労働者の権利を行使しているだけだ」
「権利? ……そんなもん、義務を果たした人間が言う台詞よ!」
ナラは、ローキ刑事を銀行の方へ投げ飛ばそうとした。
だが、この男、意外と腰が重い。合気道の達人か何かか、ナラの力を柳のように受け流した。
「暴力はいけないな。公務執行妨害だぞ」
「仕事してないくせに公務もクソもありますかッ!!」
その時。
銀行の中から、犯人の怒号が聞こえた。
「おい警察ゥ! いつまで待たせるんだ! 人質を一人殺すぞ!」
威嚇射撃の音が響く。
子供の泣き声。
「……チッ」
ナラは舌打ちをした。
この給料泥棒と問答している暇はない。
「……いいわ。あたしがやる」
ナラはドレスの裾をまくり上げた。
鉄扇を抜き放ち、パチンと開く。
「一流のレディは……警察が役に立たない時、自ら治安を守るものですわ!」
ナラは銀行へと疾走した。
ローキ刑事は、それを呆れたように見送った。
「……民間人の介入か。報告書を書くのが面倒だな。まあ、明日の朝やるか」
彼はあくびをして、本当に帰ってしまった。
銀行のロビーは、恐怖に支配されていた。
覆面をした犯人グループが5人。人質は20人ほど。
その中には、幼い少女もいる。
「動くな! 誰だテメェ!」
犯人が銃を向ける。
「通りすがりの納税者ですわ、」
ナラは優雅に一礼した。
「あんたたち、運が悪かったわね。……あたし、今とっても機嫌が悪いの」
「ああん? 知るかよ! 殺せ!」
銃声。
だが、ナラはそこにいなかった。
彼女は弾丸よりも速く踏み込み、犯人の一人の顎を鉄扇でカチ上げた。
「ごめんあそばせッ!」
男が宙を舞い、天井に激突する。
「な、なんだこの女!?」
ナラは止まらない。
回し蹴りで銃を弾き飛ばし、肘打ちで鳩尾を潰す。
その動きは洗練された暴力の舞踏。
鬱憤を晴らすかのように、彼女は暴れ回った。
あっという間に、犯人たちは制圧された。
残るは、リーダー格の男一人。
彼は、幼い少女を盾にしてナイフを突きつけていた。
「く、来るな! こいつがどうなってもいいのか!」
ナラは動きを止めた。
人質を取られては、手が出せない。
「へへっ、そうだ。武器を捨てろ! 土下座しろ!」
ナラが鉄扇を置こうとした、その時。
銀行の自動ドアが開き、あの男が入ってきた。
ローキ刑事だ。
片手にはビール、もう片手には焼き鳥を持っている。
「……おい。騒がしくて一杯飲めないじゃないか」
「はぁ!? あんた、帰ったんじゃなかったの!?」
ナラが叫ぶ。
「駅前の屋台で飲んでいたら、銃声が聞こえたものでね。……プライベートの妨害は困る」
ローキ刑事は、顔を赤らめていた。
酔っ払っている。
「おい警察!近づくな!殺すぞ!」
犯人が叫ぶ。
「……うるさいなぁ」
ローキ刑事は、千鳥足で犯人に近づいた。
「君ねぇ。……今、何時だと思ってるんだ?」
「は?」
「夜の6時だぞ。……こんな時間まで働いて、残業代は出てるのか?」
「……え?」
犯人が虚を突かれる。
「見ろ、その目の下のクマ。肌荒れ。……過重労働の兆候だ。」
「い、いや……俺たちは強盗団だし……」
「強盗も立派な労働者だ!」
ローキ刑事は、犯人に説教を始めた。
「リスク手当は?深夜割増は?有給休暇は消化できてるのか? ……使い捨てにされるだけだぞ?」
「うっ……確かに、ボスは取り分を独り占めして……」
犯人の心が揺らぐ。
「組合を作れ。ストライキをしろ。……こんなブラックな職場は今すぐ辞めるべきだ」
ローキ刑事の言葉には、妙な説得力があった。
彼は、心底「労働環境」を憂いているのだ。
たとえ相手が犯罪者であっても。
「……俺、辞めます」
犯人はナイフを落とし、泣き崩れた。
「田舎に帰って、家業を手伝います……」
「……は?」
ナラは、開いた口が塞がらなかった。
暴力でも、魔法でもなく。
説法で、凶悪犯を改心させた?
「……嘘でしょ」
「よし。退職届の書き方は私が教えてやろう。……ただし、明日の朝な」
ローキ刑事は、犯人の肩をポンと叩き、その場に座り込んで焼き鳥を食べ始めた。
「……解決、したの?」
人質たちが顔を見合わせる。
ナラは、ため息をついて鉄扇を拾った。
「……一流の解決法とは言えませんけれど。……ま、結果オーライですわね」
ナラは、少女を抱き上げ、母親の元へ返した。
「ありがとう! お姉ちゃん!」
「いいのよ。……礼なら、そこの酔っ払いに言いなさい」
事件後。
ナラは、銀行の外でローキ刑事に声をかけた。
「ねえ。……あんた、わざとやったの?」
「何がだ?」
ローキ刑事は、酔いの冷めた目で空を見上げていた。
「定時に帰るフリをして犯人を油断させたり……労働話で同情を誘ったり」
「まさか!」
彼は鼻で笑った。
「私は、本心から言っただけだ。……ルールを守らない奴が、幸せになれるわけがない。刑事だろうが、強盗だろうが、人間は休まなきゃ壊れる。……それだけだ」
彼は背中を向け、歩き出した。
「明日は8時30分始業だ。遅刻は許されない。……帰るぞ」
その背中は、少し小さく、そして奇妙に大きく見えた。
「……変な男」
ナラは苦笑した。
彼には彼なりの、曲げられない「物語」があるのだろう。
たとえそれが、他人からは滑稽に見えたとしても。
「……ま、悪くはないわね!」
王都の夜に、ナラの元気な声が響いた。
不条理で、滑稽で、でも少しだけ優しい世界。
ナラティブ・ヴェリタスは、今日もまた、たくましく生きていく。




