表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
ナラティブ・ヴェリタス短編集2 正論の悪夢篇
166/201

第7話:契約の書類と、完璧な治療!

王都の天気は、気まぐれだ。

晴れていたかと思えば、突然の土砂降りがアスファルトを叩く。

獣医院の裏口にある洗濯機の中に、またしても不審物が混入していた。


「……脱水しますわよ?」


ナラティブ・ヴェリタスは、洗濯機の中にうずくまるピンク色の古着の塊を冷ややかに見下ろした。

情報屋のルルだ。彼女は雷が怖くて、ここに逃げ込んできたらしい。


「あ、あうぅ……!ご、ごめんなさい……!回転しないでください……!」


「なら出てきなさい。カビが生えますわ」


ナラはルルをつまみ出し、脱衣所の床に転がした。

白衣のマッドサイエンティスト、エラーラ・ヴェリタスが、ドライヤーを持ってやってくる。


「おや、ルル君。湿度が90%を超えているね。乾燥が必要かね?」


「け、結構ですぅ……。あの、それより……情報、持ってきたんです……」


ルルは、濡れたジャージのポケットから、クシャクシャになったチラシを取り出した

『王都中央病院・外科部長 ドクター・ドウイ。神の手を持つ男』と書かれている。


「……この先生、すごい名医なんですけど……。『悪魔』って呼ばれてて……」


「悪魔?治療費が高いとか?」


ナラがタオルでルルの頭を拭いてやる。


「いえ……。『サインしないと助けない』んです。たとえ患者が死にかけていても……」


・・・・・・・・・・


王都中央病院。

最新の魔導医療機器が揃う、この国で最も進んだ医療機関だ。

ナラとエラーラは、ルルの案内で、救急外来を訪れていた。

待合室は、悲痛な空気に包まれていた。

事故や急病で運ばれてきた患者たちと、その家族。

そして、診察室の前で仁王立ちする、一人の医師。

白衣を完璧に着こなし、銀縁眼鏡を光らせる男。

外科部長、ドウイだ。


「……先生! お願いします! 息子が!」


母親が、ぐったりとした少年を抱えて泣き叫ぶ。

少年は魔導車の事故に巻き込まれ、腹部から出血している。一刻を争う状態だ。

だが、ドウイは動かない。

彼の手にはメスではなく、分厚い書類の束とペンが握られていた。


「落ち着いてください、お母さん。……まずは、この『手術同意書』と『免責事項確認書』、それから『個人情報取り扱い同意書』に署名と捺印を」


「そんなことしてる場合じゃ……!」


「場合です。……インフォームド・コンセントは医療の基本。これがないと、私は指一本触れられません」


ドウイは、冷徹に告げた。


「もし手術中に不測の事態が起き、後遺症が残った場合、病院側は一切の責任を負わない……その旨を理解し、納得した上でサインしてください」


「書きます! 書きますから!」


母親は震える手でペンを走らせる。


「あ、そこは実印が必要です。……持っていませんか? では拇印で結構ですが、後日印鑑証明を持ってきてくださいね」


事務的すぎる。

目の前の命よりも、書類の不備を気にしている。


「……気に食いませんわね」


ナラは、待合室の隅で腕組みをした。

漆黒のドレススーツが、病院の白い壁から浮いている。


「リスク管理としては正論だが……。医療の本質を見失っているねぇ」


エラーラもまた、不快げに眉をひそめる。

その時。

病院の入り口が騒がしくなった。

担架に乗せられた血まみれの男が運び込まれてきたのだ。

身なりからして、どこかの国の要人らしい。随行員たちが叫んでいる。


「どけ!大臣だ!大至急手術を!」


大臣は意識不明だ。胸に深い刺し傷がある。

暗殺未遂か。


「先生!脈が弱まっています!今すぐオペを!」


看護師が叫ぶ。

ドウイが、ゆっくりと近づいた。

そして、大臣の顔を覗き込み、脈を確認した。


「……緊急手術が必要です」


「なら早く!」


随行員が叫ぶ。

だが、ドウイは動かなかった。

彼は、懐から新たな書類を取り出した。


「患者本人の意識がありません。……同意書にサインできませんね」


「はぁ!?当たり前だろ!気絶してるんだから!」


「本人の意思確認が取れない以上、手術は行えません。……これは『傷害罪』に問われる可能性があります」


「バカなこと言うな! 私が代理でサインする!」


随行員がペンを奪い取ろうとする。

ドウイは、それを避けた。


「貴方はご親族ですか? ……いいえ、ただの秘書ですね。法的代理権をお持ちですか? 委任状は?」


「い、今は持ってないが……!」


「では無効です。……もし術後に大臣が『勝手に体を傷つけられた』と訴えたら、貴方が全責任を負えますか? 賠償金は数億に上りますよ?」


「そ、それは……」


随行員が怯む。


「……最低な男」


ナラの中で、怒りの導火線に火がついた。

彼女は、ドレスの裾を払って立ち上がった。


「お母様。……あたし、行ってきます」


「止めても無駄だろうね。……暴れすぎないように」


・・・・・・・・・・


「そこをどきなさい、書類男!」


ナラの凛とした声が、緊迫したロビーに響いた。

彼女は、呆然とする随行員たちを押し分け、ドウイの前に立った。


「な、何だ君は? 関係者以外は……」


「通りすがりの……クレーマーですわ!」


ナラは、ドウイの手にある書類をひったくり、真っ二つに破り捨てた。


「なっ……!?」


ドウイが目を見開く。


「書類なんて、後で書き直せばいいでしょうが! ……目の前の人間が死にかけてるのよ! さっさと腹を切りなさい!」


「き、君……!これは公文書毀棄だぞ!手術は契約だ!契約なき施術はただの暴力だ!」


ドウイは、破られた紙片を拾い集めようとした。

患者の血圧が下がっていくアラーム音が響いているのに。


「契約?……そんなに契約が大事?」


ナラは、ドウイの胸ぐらを掴み、壁に押し付けた。


「じゃあ、あたしと契約しましょうか」


ナラは、その美しい顔をドウイに近づけ、ドスの効いた声で囁いた。


「今すぐこの男を助けること。……さもなくば、あんたの病院を物理的に廃業させてあげるわ」


「きょ、脅迫か……? 録音しているぞ……」


「ええ、脅迫よ。……でも、あたしは本気よ」


ナラは、壁を拳で殴った。

コンクリートの壁に、蜘蛛の巣状の亀裂が入る。


「あたしはね、法とかルールとか、どうでもいいの。……あたしの目の前で、救える命を見捨てる奴が一番許せないのよ!」


「ひっ……」


ドウイの顔色が青ざめる。

彼は「訴訟リスク」を恐れるあまり、思考停止していた。

だが、目の前の「物理的リスク」は、訴訟よりも遥かに即効性があり、致命的だった。


「わ、分かった……! やる!やればいいんだろう!」


ドウイは震える手でメスを握った。


「オペ室へ運べ!急げ!」


大臣が運ばれていく。

ナラは、それを見送り、ふぅと息を吐いた。


「……手間のかかる男ですわ」


「ナラ君。……素晴らしい交渉術だ」


エラーラが近づいてきた。


「『恐怖』という最も原始的な動機付けを活用するとはね」


「褒めないでくださいまし。……品性が疑われますわ」


手術は成功した。

ドウイの腕は確かだった。彼は迷いなくメスを振るい、損傷した血管を縫合し、大臣の命を救った。

技術はあるのだ。ただ、心が「保身」に食われていただけ。


術後。

ロビーに出てきたドウイは、疲れ切った顔をしていた。

だが、ナラを見るなり、鬼の形相で詰め寄ってきた。


「君のせいで! ……私は重大なコンプライアンス違反を犯した!」


ドウイは、新たな書類の束をナラに突きつけた。


「念書を書け!『今回の手術はナラティブ・ヴェリタスの強要によるものであり、一切の責任は彼女にある』と! 今すぐだ! 実印を押せ!」


「……はぁ?」


ナラは呆れ果てた。

命を救った感動も、達成感もない。

この男の頭の中は、まだ「自分を守ること」で埋め尽くされている。


「……懲りない男ね」


ナラは、書類を受け取らなかった。

代わりに、ドウイの手を取った。


「え……?」


ナラは、ドウイの手のひらを見た。

繊細で、手入れされた指。

多くの命を救ってきたはずの、医者の手。


「あんたの手は、紙切れをめくるためにあるんじゃないわ」


ナラは、ドウイの目を見据えた。


「温かい血の通った人間に触れて……その鼓動を守るためにあるんでしょう?」


ドウイの手が震えた。

彼は思い出したのかもしれない。

医者を目指した日のことを。

初めて患者を救った時の、手の震えを。


「……私は……」


ドウイは、視線を落とした。


「……怖いんだ」


小さな声だった。


「感謝されることもある。……だが、一度でも失敗すれば、彼らは鬼になる……」


ドウイは、眼鏡を外して顔を覆った。


「私は、人間が怖い。……だから、書類という『盾』がないと、患者に触れられないんだ……」


それが、彼の本音だった。

冷徹な機械のような振る舞いは、傷つくことを恐れた臆病な心が作った鎧だったのだ。


「……そう」


ナラは、優しく微笑んだ。

彼女も知っている。人間という生き物の、醜さと、恐ろしさを。

未来の世界で、嫌というほど見てきたから。


「人間なんて……勝手で、我儘で、すぐに恩を忘れる」


ナラは、ドウイの肩を叩いた。


「でもね。……だからこそ、救う価値があるんじゃない?」


「……え?」


「あたしたちだって、完璧じゃない。……失敗もするし、間違える。でも、それでも手を伸ばして、泥だらけになって生きていく。……それが

『一流』の生き方よ」


ナラは、ドレスのポケットから、一枚のキャンディを取り出した。

スラムの子供から貰った、安っぽい飴玉。


「ほら。……お駄賃よ」


ナラは、ドウイの手に飴を握らせた。


「書類よりも、甘いものでも舐めて落ち着きなさい。……あんたの手術、見事でしたわよ」


ドウイは、飴を見つめた。

小さな、包み紙に入った飴。

契約書でも、免責証書でもない。

ただの、小さな感謝の印。


「……ありがとう」


ドウイは、呟いた。

その顔には、初めて人間らしい、弱々しいけれど温かい表情が浮かんでいた。


・・・・・・・・・・


帰り道。

雨は上がり、星空が広がっていた。


「……やれやれ。医者も大変だねぇ」


エラーラが伸びをする。


「ええ。……命を預かるなんて、あたしには無理ですわ」


ナラは肩をすくめた。


「でも、君は救ったよ。大臣の命と……あの医者の心をね」


「……別に。あたしは、気に入らないものを壊しただけですわ」


ナラは、夜空を見上げた。

自分の手を見る。

何も持たない手。でも、誰かの手を握ることはできる。

二人の笑い声が、夜の街に響く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ