第4話:沈没の客船と、乗客の名簿!
「……最悪ですわ」
ナラティブ・ヴェリタスは、手すりを握りしめ、荒れ狂う海面を見下ろした。
漆黒のドレススーツは、飛沫と雨で重く濡れている。
彼女たちが乗っているのは、王都と大陸を結ぶ超豪華魔導客船『クイーン・エリクシル号』。
……だったものだ。
今は、横っ腹に大穴を開け、船体を45度に傾けながら、冷たい海の底へと沈みゆく鉄の棺桶である。
「お母様! 浮遊魔法の準備は!?」
「無理だ!この海域は『魔力障害』が発生している! 飛行魔法も転移魔法も使用不能だ!」
エラーラ・ヴェリタスが、濡れた白衣を張り付かせながら叫ぶ。
彼女の手には、役立たずになった魔導杖が握られている。
「なら、物理的に脱出するしかありませんわね! ……急ぎましょう、救命ボートへ!」
船内はパニックに陥っていた。
悲鳴、怒号、泣き声。
我先にと出口へ殺到する人々。
ナラはエラーラの手を引き、人波をかき分けてデッキへと出た。
そこには、さらに絶望的な光景が広がっていた。
救命ボートは、まだ一艘も海に降ろされていなかったのだ。
ボート乗り場の前には長蛇の列ができている。だが、列はピクリとも動いていない。
「……何をしてますの?早く乗せないと沈みますわよ!」
ナラが列の先頭へ走ると、そこには一人の乗務員が仁王立ちしていた。
完璧にプレスされた制服。定規で測ったような七三分けの髪。
チーフ・パーサーのテイギだ。
彼は、沈みゆく船の上で、悠然と懐中時計を見ていた。
「並んでください。割り込みは禁止です」
「はぁ!? 何言ってますの! 船が沈んでるんですよ!」
「存じております。だからこそ、秩序が必要です」
テイギは、先頭にいた貴婦人に対し、無表情で告げた。
「次の方。……パスポートと乗船券の提示を」
「そ、そんな!部屋に置いてきてしまいましたわ! 早く乗せて!」
貴婦人が泣きつく。
「ダメです。本人確認が取れません。あなたが正規の乗客であるという証明がない限り、ボートには乗せられません」
「なっ……!」
「規定です。後ろに並び直して、身分証を探してきてください」
テイギは貴婦人を突き飛ばした。
貴婦人は濡れた甲板に転がり、絶望の悲鳴を上げる。
「……正気?」
ナラは耳を疑った。
後ろでは、何百人もの乗客が詰めかけ、恐怖に震えている。
波がデッキを洗い始めている。あと数分で、ここは海の中だ。
「おい! 子供だけでも先に乗せろ!」
一人の男が子供を抱いて叫ぶ。
「海洋法に基づき、女性と子供を優先します。……ですが」
テイギは、男の腕の中にいる赤ん坊を見た。
「その子が本当に『子供』であるか、証明できますか?」
「はああああ!?見ればわかるだろう!」
「見た目では判断できません。小柄な大人かもしれない。あるいは成長を止める魔法をかけられた老人かもしれない。……出生証明書、もしくは戸籍謄本を見せてください」
「こ、こんな時に持ってるわけないだろう!」
「では乗せられません。年齢詐称による不正乗車は、公平性を損ないます」
テイギは、腰の魔導銃を抜いた。
「下がってください。……これ以上、列を乱すようなら『暴徒』とみなし、治安維持法に基づき射殺します」
銃口が、赤ん坊を抱いた父親に向けられる。
「……イカれてるわ」
ナラの中で、何かが切れた。
彼女は、ドレスの裾をまくり上げた。
「お母様。……下がっていて」
「ナラ君。論理的に考えて、彼と議論するのは時間の無駄だ。……彼の脳内では『ルールの遵守』が『生存』よりも上位に来ている」
エラーラがに冷徹に分析する。
「ええ。……だから、議論なんてしませんわ」
ナラは、鉄扇を抜き放った。
「一流のレディは……話の通じない相手には、身体で教えるものですのよ!」
「止まれ! 貴様、乗船券は持っているか!」
テイギがナラに銃を向ける。
「持ってるわけないでしょう! ……あたしは密航者よ!」
ナラは嘘をついた。
正規のチケットは持っていたが、そんなものを提示する気にもなれなかった。
この男のルールに乗ること自体が、生理的に無理だったのだ。
「密航者だと!? ……ならば、即刻排除する!」
テイギが引き金を引く。
魔弾が発射される。
「遅いですわッ!」
ナラは鉄扇を開き、魔弾を弾き返した。
そして、濡れた甲板を滑るように疾走し、テイギの懐に飛び込んだ。
「ここから先は……あたしのルールですわ!」
ナラは、テイギが持っていた「乗客名簿」を奪い取り、海に投げ捨てた。
「ああっ!? 私のリストが!」
「紙切れなんてどうでもいいのよ! 命の数を数えなさい!」
ナラは、テイギの顔面に回し蹴りを叩き込んだ。
テイギが吹き飛び、ウインチに激突する。
「さあ、みんな! 乗って!」
ナラは乗客たちに叫んだ。
「チケットなんていらない! 名前なんてどうでもいい! 生きたい奴から乗りなさい!」
人々が我に返り、ボートに殺到する。
父親が子供を乗せ、貴婦人が這い上がる。
「ま、待て! ……定員オーバーだ! 重心が偏る!」
テイギが血まみれで立ち上がる。
「そのボートの定員は20名だ! 今、22名乗っている! ……降りろ! 2名降りるまで発進は許可しない!」
テイギは、操作レバーにしがみつき、ボートを降ろそうとしない。
「このままでは安全基準を満たさない! 事故が起きたら誰が責任を取るんだ!」
「船が沈んだら全員死ぬのよ! 責任もクソもないわ!」
ナラは、テイギの腕を掴んだ。
「離しなさい!」
「離さん! 私はチーフ・パーサーだ! この船の秩序を守る義務がある!」
テイギの目は、狂気で澄み渡っていた。
彼は本気だ。
たった2名の定員オーバーのために、全員を道連れにするつもりだ。
「安全のために死ぬ」。その矛盾に、彼自身は気づいていない。
「……哀れな男」
ナラは、テイギの腕をへし折った。
「ぎゃあああああ!」
テイギがレバーを離す。
ボートがガクンと下がり、海面へと着水した。
「次! 次のボートよ!」
ナラは次々とボートを降ろしていく。
エラーラも協力し、魔法でウインチを操作する。
「急げ! 船体の傾斜が限界だ!」
テイギは、折れた腕を抱えながら、床を這いずり回っていた。
「ダメだ……。ダメだ……。服装規定が……。救命胴衣の着用手順が……」
彼は、逃げようとしなかった。
目の前に空のボートがあるのに、乗ろうとしなかった。
「……おい、あんたも乗りなさい」
最後のボート。
ナラとエラーラが乗り込む直前、ナラはテイギに声をかけた。
「席は空いてるわよ」
「……断る」
テイギは、崩れ落ちた瓦礫に寄りかかり、乱れた髪を櫛で直していた。
「私は乗務員だ。……乗客が全員避難するまで、船を離れるわけにはいかない」
「全員乗ったわよ! あんたが最後よ!」
「いいえ。……名簿と照合できていない。まだ、点呼が終わっていない……」
テイギは、海に落ちた名簿の方を虚ろな目で見ていた。
「点呼が終わらない限り……避難完了とは認められない。……私は、報告書が書けない……」
「……ッ!」
ナラは、テイギの手を掴んで引きずろうとした。
だが、テイギは強烈な力で手すりにしがみついた。
「触るな! ……規則だ! 私はここに残る!」
「死ぬわよ!?」
「規則を守って死ぬなら、本望だ。……無秩序に生き延びるより、秩序ある死を!」
船が大きく傾いた。
海水が、デッキを飲み込む。
「ナラ! もう無理だ!」
エラーラがナラを引き戻す。
「くっ……!」
ナラは、テイギの手を離した。
彼は、沈みゆく船の上で、制服の襟を正し、誰にともなく敬礼をした。
「……業務、完了」
それが、彼の最期の言葉だった。
彼は波に飲まれ、海の藻屑となった。
最後まで、「正しさ」という名の狂気にしがみついたまま。
夜明けの海。
救命ボートの上で、ナラは毛布にくるまっていた。
「……バカな男」
ナラは、スープを飲みながら呟いた。
「ルールなんて……人が生きるためにあるんじゃないの? なんで、ルールのために死ぬのよ……」
「手段の目的化だね……」
エラーラが、隣で遠くの水平線を見つめていた。
「彼は、思考を放棄していたんだ。『決まりだから』という言葉は、とても楽だからね。自分で考えなくて済む。責任を取らなくて済む。……彼は、死ぬ瞬間まで『自分は正しい』と信じていられた。ある意味、幸せな男さ」
「……理解できないわ」
ナラは、スープのカップを強く握った。
「あたしは生きるわよ。……どんなに汚くても、ルール違反でも。泥水を啜ってでも生きてやるわ」
ナラは、周りを見た。
ボートの上には、定員オーバーでぎゅうぎゅう詰めの人々がいる。
泣いている子供。祈る老人。
みんな、生きている。
ナラが無理やり押し込んだおかげで、生きている。
「……狭いな」
一人の男が文句を言った。
「文句があるなら泳ぎなさい!」
ナラが怒鳴る。
「……ありがとう」
子供を抱いた母親が、ナラの手を握った。
「あなたのおかげで……この子が助かったわ」
ナラは、少し驚き、そして照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……礼には及びませんわ。あたしはただ、自分の美学に従っただけですもの」
ナラは、エラーラの肩に頭を預けた。
疲労が押し寄せてくる。
「お母様。……あたし、間違ってないわよね?」
「ああ。……君が正解だ」
エラーラは、ナラの頭を撫でた。
「君の『物語』は、まだ続く。……あんな冷たい海の底で終わってたまるものか」
「……そうね」
朝陽が昇る。
海面が黄金色に輝く。
その光の中で、ナラティブ・ヴェリタスは強く思った。
ルールも、秩序も、マナーも大事だ。
でも、それらは全て「人間」のためにある。
命の前では、すべての規則はひれ伏すべきなのだ。
ボートは進む。
生きる意志を乗せて。




