第2話:完璧の正義と、永遠の赤!
「……ぬるいわ」
ナラティブ・ヴェリタスは、カップをソーサーに叩きつけるように置いた。
漆黒のドレススーツに身を包み、優雅に足を組むその姿は深窓の令嬢そのものだが、口から出る言葉は……路地裏のドブよりも辛辣だ。
「お母様。コーヒーの温度管理すらまともにできないなんて、三流以下の科学者ですわよ?」
部屋の奥、実験器具の山に埋もれるようにして、白衣の女が背中を向けている。
エラーラ・ヴェリタス。かつてナラを地獄のような未来から救い出した命の恩人であり、世界最強の魔法使いであり、そして生活能力が皆無のポンコツな母親だ。
「んー? なんだいナラ君。私は今、流体解析で忙しいのだがね。温度が気に入らないなら、君の情熱で沸騰させたまえ」
「ふざけないでちょうだい。……まったく、誰のおかげで毎日ご飯が食べられていると思ってるの?」
ナラは溜息をつき、自分で淹れ直そうと立ち上がった。
ナラには学問的な知識も、この時代の常識的な経験も乏しい。だが、この「母親」が天才的な頭脳の反面、庶民感覚が絶望的に欠落していることを知っている。放っておけば、彼女はパンの買い方も分からず餓死するか、釣銭をごまかされて破産するだろう。だから、ナラが守らなければならないのだ。
その時、階下から重々しい足音が響き、ドアがノックされた。
「エラーラ君、いるかね? ……ふぅ、ここに来る階段はいつ登っても急だ」
入ってきたのは、トレンチコートに帽子を目深に被った恰幅の良い男。王都警察のカレル警部だ。
「あら、警部さん。また厄介事?お母様は猫じゃらしに夢中でしてよ」
「いや、今日は緊急だ。……実は、王都騎士団から『特務執行官』が出向してきてな。こいつが……あまりにも優秀すぎて、現場が困り果てている」
「優秀すぎて困る? 贅沢な悩みですこと」
「まあ、会えばわかる。……今、連続爆破予告事件の捜査で現場にいるんだが、私の部下たちが胃に穴を開けそうでね。エラーラ君の知恵を借りたいのだが」
カレルが言いかけたところで、ナラがコートを羽織った。
「お母様は置いていきますわ」
「え? しかし……」
「天才科学者が現場に出たら、また話がややこしくなりますもの。庶民の揉め事は、庶民的な感覚を持ったあたしが見てきますわ」
ナラはウィンクした。
本心は違う。エラーラのような純粋な人間を、警察組織のドロドロとした軋轢に巻き込みたくないだけだ。汚れ仕事は、元・掃き溜めの住人である自分が引き受ければいい。
「行ってきますわ、お母様! 晩御飯までには戻りますからね!」
「ああ、いってらっしゃい。……お土産はドーナツがいいな」
エラーラは振り返りもせずに手を振った。
現場は、王都の商業区にある雑居ビルだった。
爆破予告時間は正午。残り時間は30分を切っている。
野次馬を規制するロープの向こうで、一人の男が直立不動で立っていた。
白銀の鎧に、完璧にプレスされた制服。眼鏡の奥の瞳は、氷のように冷徹だ。
彼こそが、特務執行官レグルス。
「……おい、何をしているんだ?」
ナラが近づくと、奇妙な光景が目に入った。
レグルスの足元で、一人の若い刑事が腹から血を流して倒れている。犯人の一味に刺されたらしい。
刑事は「うぅ……助けて……」と手を伸ばしているが、レグルスは彼を見下ろしたまま、指一本動かそうとしない。
「ちょっと! 何してますの! 仲間が死にそうですわよ!」
ナラが駆け寄ろうとすると、レグルスが手を挙げて制止した。
「止まれ、民間人。……彼に触れてはならない」
「はぁ!? 止血しなきゃ死ぬでしょうが!」
「私は騎士であり、捜査官だ。医師免許は持っていない」
レグルスは、時計を見ながら淡々と言った。
「医療行為は医師のみが行える。私が止血処置を行うことは、無資格医療にあたる。また、下手に動かして容態が悪化した場合、業務上過失致死に問われる可能性がある。したがって、救護班の到着を待つのが『正解』だ」
「……正気?」
ナラは耳を疑った。
目の前で人が死にかけているのに、こいつは法律の条文を詠唱しているのか?
ナラに知識はないが、これが「人として間違っている」ことくらいは本能でわかる。
「どきなさい! あたしがやるわ!」
ナラはレグルスを突き飛ばし、ドレスの裾を破って刑事の腹に押し当てた。
鮮血が白い肌を汚すが、そんなことはどうでもいい。
「記録した。民間人による現場汚染、および無資格医療行為だ」
レグルスは手帳にメモを取っている。
「……あんた、最低ね」
ナラは睨みつけた。だがレグルスは表情一つ変えない。
「私はルールを守っているだけだ。ルールこそが秩序であり、正義だ。感情で動く獣とは違う」
ナラは、こいつの顔面に一発お見舞いしてやりたい衝動を必死に抑えた。
今は爆弾魔を止めるのが先だ。カレル警部が息を切らして追いついてくる。
「で? 犯人のアジトはどこなんですの?」
「このビルの3階、305号室だ。熱源反応と魔力痕跡から特定済みだ」
「なら、さっさと突入しなさいよ! あと10分しかないわよ!」
「できない」
レグルスは、一枚の羊皮紙――捜索令状を広げた。
「裁判所から発行された令状の住所記載に誤りがある。……『王都中央区3番街5-2』とあるが、このビルの登記簿上の住所は『3番街5-3』だ。番地が1つズレている」
「はぁ!? たかが書き間違いでしょうが!」
「たかが、ではない。住所が異なる場所への突入は、不法侵入および職権乱用にあたる。違法捜査で得られた証拠は、法廷では無効になる」
レグルスは眼鏡の位置を直した。
「新しい令状を請求中だ。到着まであと45分かかる」
「あと10分で爆発するって言ってるのよ!?」
カレル警部が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「バカモーン! 緊急避難だ! 人命がかかっとるんだぞ!」
「緊急避難の適用要件を満たしているか検討が必要だ。もし爆弾がフェイクだった場合、ただの住居侵入になる。国家権力が法を犯すリスクは冒せない」
レグルスは、ビルの入り口に仁王立ちし、抜刀した。
「このラインを超える者は、警察官であっても『法を犯す暴徒』として排除する」
「……イカれてるわ」
ナラは、ドレスの袖をまくり上げた。
言葉が通じないなら、物理で分からせるしかない。
これは、ナラが得意とする「調和」のための対話だ。
「どきなさい、この石頭!」
ナラは地面を蹴り、レグルスの懐に飛び込んだ。
愛用の鉄扇を抜き放ち、顎を狙い撃つ。
「速いな。だが、太刀筋が雑だ」
レグルスは、剣の柄で鉄扇を受け止めた。
その動きには、一切の無駄がない。
悔しいけれど、こいつは強い。剣技だけなら、我流のナラより、正規訓練を受けた彼の方が上だ。
「邪魔をするなと言っている!人が死ぬのよ!」
「法が死ぬよりマシだ」
レグルスは、ナラの蹴りを腕でガードし、カウンターで剣の腹を叩き込んできた。
衝撃で吹き飛ばされる。
「くっ……!」
「ナラ君! 無茶だ!」
カレル警部が叫ぶ。
その時。
ビルの3階の窓から、犯人らしき男が顔を出した。
手には起爆装置を持っている。
「揉めてる揉めてる! 警察が仲間割れかよ! 最高だぜ!」
「おい! 起爆装置を捨てろ!」
刑事が銃を向ける。
「撃つな!」
レグルスが叫んだ。
「犯人はまだ何もしていない! 現段階での発砲は過剰防衛だ! 相手が攻撃してくるまでは、こちらも攻撃できない!」
「あんた、どっちの味方なのよ!?」
「私は『法』の味方だ」
犯人はニヤリと笑った。
「いい騎士様だねぇ。……じゃあ、時間だ。バイバイ!」
犯人がスイッチを押した。
閃光。
そして、轟音。
「伏せろォォォッ!!」
ナラはカレル警部を突き飛ばし、瓦礫の陰に飛び込んだ。
爆風が通りを薙ぎ払う。
ビルが内側から崩れ落ち、ガラスの雨が降り注ぐ。
数秒後。
土煙が晴れると、そこには半壊したビルと、瓦礫の下敷きになった数名の警官たちの姿があった。
幸い、住人は避難済みだったが、突入準備をしていた刑事たちは重傷だ。
その惨状の中心で。
レグルスだけが、傷一つ負わずに立っていた。
防御魔法で身を守っていたのだ。
「……なんてこと」
ナラは、瓦礫を押しのけて立ち上がった。
怒りで体が震える。
「満足? ……あんたが令状なんて紙切れにこだわったせいで、ビルは吹っ飛び、犯人は逃げたわよ!」
レグルスは、埃を払って言った。
「私は手順を守った。……違法な捜査で犯人を捕らえても、法治国家の根幹が揺らぐ。今回の爆発は遺憾だが、プロセスは正しかった」
「プロセス……?」
ナラは、レグルスの胸ぐらを掴もうとした。
だが、その手は空を切った。
「触れるな。公務執行妨害で逮捕するぞ」
レグルスは冷たく言い放ち、踵を返した。
「犯人は逃走した。追跡を行う。……ただし、赤信号は守りたまえよ」
その日の夕方。
獣医院のリビングは、お通夜のような雰囲気だった。
「……最悪だわ」
ナラは、ソファに沈み込んでいた。
結局、犯人は取り逃がした。
レグルスは、逃走する犯人を追いかけたが、「私有地の庭を横切るのは不法侵入だ」と言って遠回りをし、まんまと撒かれたのだ。
「ふむ。興味深い精神構造だねぇ」
エラーラが、コーヒーを淹れながら言った。
彼女は現場にはいなかったが、ナラの話を聞いて、いつものように分析を始めた。
「極度のアスペルガー的傾向と、強迫性障害に近い遵法精神。……彼は『正義』を行っているつもりはないのだよ。『規則』というプログラムを実行する人形に近い」
「人間じゃないわよ、あんなの」
ナラは吐き捨てた。
ナラにとって、ルールとは「みんなが幸せになるための約束」だ。
それが人を不幸にするなら、そんなルールは破るべきだ。
だが、レグルスにはそれが通じない。
そこへ、情報屋のルルが窓から入ってきた。
「あ、あの……ナラさん……」
「どうしたの、ルル。玄関から入りなさいって言ってるでしょ」
「そ、それどころじゃなくて……。爆弾魔の居場所、分かりました……」
ルルが震える手で差し出したのは、一枚の地図と、犯行声明文だった。
『今夜0時。王都中央広場で最大の花火を打ち上げる。……ただし、あの堅物の騎士様とゲームがしたい』
声明文には、レグルスへの指名挑戦が書かれていた。
『俺の居場所は、広場の真ん中にある古時計塔の上だ。……だが、塔の周りには半径50メートルの「立ち入り禁止」の結界を張った。解除コードは、塔の前にある横断歩道を、赤信号のまま渡ること。……さあ、ルールを守る騎士様は、信号無視ができるかな?』
「……バカにした罠ね」
ナラは鼻で笑った。
「信号無視なんて、子供でもできるわよ。あいつも命がかかればやるでしょう」
「どうかな」
エラーラが眼鏡を光らせた。
「彼にとって、ルールを破ることは、死ぬことよりも苦痛かもしれないよ?」
深夜0時前。王都中央広場。
時計塔の周りには、魔法の結界が張られ、中には爆弾魔が陣取っている。
そして、塔へと続く一本道の前に、レグルスが立っていた。
目の前には、魔法で作られた信号機がある。
色は、赤。
カウントダウンが表示されているが、その数字は減らない。永遠の赤信号だ。
「……レグルス!」
ナラは、カレル警部と共に駆けつけた。
「何してんのよ!早く渡りなさいよ!信号無視くらい、誰にも迷惑かからないわよ!」
レグルスは、微動だにしなかった。
汗が、頬を伝う。
「信号は赤だ。道路交通法第7条。歩行者は信号に従わなければならない」
「今は非常事態よ! 爆発まであと3分しかないのよ!」
「法に『ただし緊急時は除く』という但し書きはない。……私がここで信号を無視すれば、私は私でなくなる」
彼の顔は、蒼白だった。
脂汗が流れている。
彼もまた、葛藤しているのだ。
目の前の悪を止めたいという騎士としての本能と、骨の髄まで染み付いた「ルール絶対」の強迫観念の間で。
「……バカな男」
ナラは、鉄扇を抜いた。
「だったら、あたしが行くわ。……あたしは元々、品行方正なレディじゃないもの」
ナラが結界に踏み込もうとした時、レグルスが剣を抜いて立ち塞がった。
「ならん!市民を危険な目に合わせるわけにはいかない! 立ち入り禁止区域への侵入は違法だ!」
「どきなさいッ!!」
ナラとレグルスの剣が交差する。
火花が散る。
「あんたねぇ! ……ルールを守って人が死んだら、何の意味があるのよ!」
「秩序だ! 例外を認めれば、社会は崩壊する!」
「社会なんてどうでもいいわ! あたしは、目の前の命を守りたいだけよ!」
ナラは、渾身の力でレグルスを弾き飛ばした。
レグルスが体勢を崩す。
その隙に、ナラは赤信号の横断歩道へ――。
その時。
時計塔の上で、犯人が笑った。
「残念! タイムオーバーだ!」
時計の針が0時を指した。
爆炎が広場を包む。
ナラはとっさに防御魔法を展開し、カレル警部を庇った。
「……ッ!」
熱風が吹き荒れ、衝撃波が内臓を揺らす。
時計塔が崩れ落ち、瓦礫の山となる。
煙が晴れた後。
そこには、瓦礫の下敷きになった犯人の死体と、焼け野原になった広場が残っていた。
そして。
横断歩道の手前で、レグルスが倒れていた。
彼は、爆風を受けながらも、一歩も「赤信号」を越えていなかった。
「……おい! しっかりしろ!」
カレル警部が駆け寄る。
レグルスは、血まみれの顔で、空を見上げていた。
「……警部」
「喋るな! 救護班!」
「……私は……守ったぞ」
レグルスは、血の泡を吐きながら、薄く笑った。
それは、狂気じみた、しかしどこか満足げな笑みだった。
「私は……最後まで……法を……秩序を……守り抜いた……」
彼の瞳から、光が消えた。
死因は、爆風による内臓破裂か、あるいは飛んできた破片か。
いずれにせよ……彼は死んだ。
たった数メートルの「赤信号」を渡らなかったがために。
「……バカな奴」
ナラは、レグルスの死体を見下ろした。
涙は出なかった。
ただ、どうしようもない徒労感と、寒気だけが残った。
「これが……あんたの言う正義なの?」
誰もいない広場で、壊れた信号機だけが、虚しく赤色を点滅させていた。
・・・・・・・・・・
翌日。
獣医院のリビングで、ナラは泥のように濃いコーヒーを飲んでいた。
「……結局、レグルスは『殉職』扱いになったわ」
カレル警部が、疲れた顔で報告に来た。
「上層部は、彼の行動を『遵法精神の鏡』として称賛するつもりらしい。……狂ってるよ」
「ふむ。……彼は、自分自身という『バグ』に殺されたようなものだね」
エラーラが、トーストをかじりながら淡々と言った。
彼女には、感傷はない。ただ現象を分析しているだけだ。
「ルールとは、人間を幸福にするための道具だ。だが、彼にとってはルールそのものが目的になっていた。……手段と目的が入れ替わった時、悲劇は起きる」
「……本当に、三流の生き方だわ」
ナラは、窓の外を見た。
今日も王都は騒がしい。
人々は、小さなルールを破ったり、守ったりしながら、ごちゃごちゃと生きている。
「でも……」
ナラは、思い出す。
死に際に浮かべた、レグルスの満足げな笑顔を。
「あいつにとっては、最期まで遵法に生きたという点では、『一流』だったのかもしれないわね」
ナラは、飲み干したカップを置いた。
苦い味が、口の中に残った。
「さあ、お母様。……口直しに、甘いケーキでも食べに行きましょうか」
「おや、珍しい。奢りかね?」
「ええ。……生きてるうちに、美味しいものを食べておかないとね」
ナラは立ち上がった。
ルールも、正義も、死んでしまえば何の意味もない。
泥にまみれても、ルールを破っても、生きて、食べて、愛する人と笑い合う。
それこそが、ナラが地獄のような未来から持ち帰った、唯一の「真理」なのだから。




