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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 道民Xフォローして
ナラティブ・ヴェリタス短編集2 正論の悪夢篇
161/217

第2話:完璧の正義と、永遠の赤!

「……ぬるいわ」


ナラティブ・ヴェリタスは、カップをソーサーに叩きつけるように置いた。

漆黒のドレススーツに身を包み、優雅に足を組むその姿は深窓の令嬢そのものだが、口から出る言葉は……路地裏のドブよりも辛辣だ。


「お母様。コーヒーの温度管理すらまともにできないなんて、三流以下の科学者ですわよ?」


部屋の奥、実験器具の山に埋もれるようにして、白衣の女が背中を向けている。

エラーラ・ヴェリタス。かつてナラを地獄のような未来から救い出した命の恩人であり、世界最強の魔法使いであり、そして生活能力が皆無のポンコツな母親だ。


「んー? なんだいナラ君。私は今、流体解析で忙しいのだがね。温度が気に入らないなら、君の情熱で沸騰させたまえ」


「ふざけないでちょうだい。……まったく、誰のおかげで毎日ご飯が食べられていると思ってるの?」


ナラは溜息をつき、自分で淹れ直そうと立ち上がった。

ナラには学問的な知識も、この時代の常識的な経験も乏しい。だが、この「母親」が天才的な頭脳の反面、庶民感覚が絶望的に欠落していることを知っている。放っておけば、彼女はパンの買い方も分からず餓死するか、釣銭をごまかされて破産するだろう。だから、ナラが守らなければならないのだ。

その時、階下から重々しい足音が響き、ドアがノックされた。


「エラーラ君、いるかね? ……ふぅ、ここに来る階段はいつ登っても急だ」


入ってきたのは、トレンチコートに帽子を目深に被った恰幅の良い男。王都警察のカレル警部だ。


「あら、警部さん。また厄介事?お母様は猫じゃらしに夢中でしてよ」


「いや、今日は緊急だ。……実は、王都騎士団から『特務執行官』が出向してきてな。こいつが……あまりにも優秀すぎて、現場が困り果てている」


「優秀すぎて困る? 贅沢な悩みですこと」


「まあ、会えばわかる。……今、連続爆破予告事件の捜査で現場にいるんだが、私の部下たちが胃に穴を開けそうでね。エラーラ君の知恵を借りたいのだが」


カレルが言いかけたところで、ナラがコートを羽織った。


「お母様は置いていきますわ」


「え? しかし……」


「天才科学者が現場に出たら、また話がややこしくなりますもの。庶民の揉め事は、庶民的な感覚を持ったあたしが見てきますわ」


ナラはウィンクした。

本心は違う。エラーラのような純粋な人間を、警察組織のドロドロとした軋轢に巻き込みたくないだけだ。汚れ仕事は、元・掃き溜めの住人である自分が引き受ければいい。


「行ってきますわ、お母様! 晩御飯までには戻りますからね!」


「ああ、いってらっしゃい。……お土産はドーナツがいいな」


エラーラは振り返りもせずに手を振った。

現場は、王都の商業区にある雑居ビルだった。

爆破予告時間は正午。残り時間は30分を切っている。

野次馬を規制するロープの向こうで、一人の男が直立不動で立っていた。

白銀の鎧に、完璧にプレスされた制服。眼鏡の奥の瞳は、氷のように冷徹だ。

彼こそが、特務執行官レグルス。


「……おい、何をしているんだ?」


ナラが近づくと、奇妙な光景が目に入った。

レグルスの足元で、一人の若い刑事が腹から血を流して倒れている。犯人の一味に刺されたらしい。

刑事は「うぅ……助けて……」と手を伸ばしているが、レグルスは彼を見下ろしたまま、指一本動かそうとしない。


「ちょっと! 何してますの! 仲間が死にそうですわよ!」


ナラが駆け寄ろうとすると、レグルスが手を挙げて制止した。


「止まれ、民間人。……彼に触れてはならない」


「はぁ!? 止血しなきゃ死ぬでしょうが!」


「私は騎士であり、捜査官だ。医師免許は持っていない」


レグルスは、時計を見ながら淡々と言った。


「医療行為は医師のみが行える。私が止血処置を行うことは、無資格医療にあたる。また、下手に動かして容態が悪化した場合、業務上過失致死に問われる可能性がある。したがって、救護班の到着を待つのが『正解』だ」


「……正気?」


ナラは耳を疑った。

目の前で人が死にかけているのに、こいつは法律の条文を詠唱しているのか?

ナラに知識はないが、これが「人として間違っている」ことくらいは本能でわかる。


「どきなさい! あたしがやるわ!」


ナラはレグルスを突き飛ばし、ドレスの裾を破って刑事の腹に押し当てた。

鮮血が白い肌を汚すが、そんなことはどうでもいい。


「記録した。民間人による現場汚染、および無資格医療行為だ」


レグルスは手帳にメモを取っている。


「……あんた、最低ね」


ナラは睨みつけた。だがレグルスは表情一つ変えない。


「私はルールを守っているだけだ。ルールこそが秩序であり、正義だ。感情で動く獣とは違う」


ナラは、こいつの顔面に一発お見舞いしてやりたい衝動を必死に抑えた。

今は爆弾魔を止めるのが先だ。カレル警部が息を切らして追いついてくる。


「で? 犯人のアジトはどこなんですの?」


「このビルの3階、305号室だ。熱源反応と魔力痕跡から特定済みだ」


「なら、さっさと突入しなさいよ! あと10分しかないわよ!」


「できない」


レグルスは、一枚の羊皮紙――捜索令状を広げた。


「裁判所から発行された令状の住所記載に誤りがある。……『王都中央区3番街5-2』とあるが、このビルの登記簿上の住所は『3番街5-3』だ。番地が1つズレている」


「はぁ!? たかが書き間違いでしょうが!」


「たかが、ではない。住所が異なる場所への突入は、不法侵入および職権乱用にあたる。違法捜査で得られた証拠は、法廷では無効になる」


レグルスは眼鏡の位置を直した。


「新しい令状を請求中だ。到着まであと45分かかる」


「あと10分で爆発するって言ってるのよ!?」


カレル警部が顔を真っ赤にして怒鳴る。


「バカモーン! 緊急避難だ! 人命がかかっとるんだぞ!」


「緊急避難の適用要件を満たしているか検討が必要だ。もし爆弾がフェイクだった場合、ただの住居侵入になる。国家権力が法を犯すリスクは冒せない」


レグルスは、ビルの入り口に仁王立ちし、抜刀した。


「このラインを超える者は、警察官であっても『法を犯す暴徒』として排除する」


「……イカれてるわ」


ナラは、ドレスの袖をまくり上げた。

言葉が通じないなら、物理で分からせるしかない。

これは、ナラが得意とする「調和」のための対話だ。


「どきなさい、この石頭!」


ナラは地面を蹴り、レグルスの懐に飛び込んだ。

愛用の鉄扇を抜き放ち、顎を狙い撃つ。


「速いな。だが、太刀筋が雑だ」


レグルスは、剣の柄で鉄扇を受け止めた。

その動きには、一切の無駄がない。

悔しいけれど、こいつは強い。剣技だけなら、我流のナラより、正規訓練を受けた彼の方が上だ。


「邪魔をするなと言っている!人が死ぬのよ!」


「法が死ぬよりマシだ」


レグルスは、ナラの蹴りを腕でガードし、カウンターで剣の腹を叩き込んできた。

衝撃で吹き飛ばされる。


「くっ……!」


「ナラ君! 無茶だ!」


カレル警部が叫ぶ。

その時。

ビルの3階の窓から、犯人らしき男が顔を出した。

手には起爆装置を持っている。


「揉めてる揉めてる! 警察が仲間割れかよ! 最高だぜ!」


「おい! 起爆装置を捨てろ!」


刑事が銃を向ける。


「撃つな!」


レグルスが叫んだ。


「犯人はまだ何もしていない! 現段階での発砲は過剰防衛だ! 相手が攻撃してくるまでは、こちらも攻撃できない!」


「あんた、どっちの味方なのよ!?」


「私は『法』の味方だ」


犯人はニヤリと笑った。


「いい騎士様だねぇ。……じゃあ、時間だ。バイバイ!」


犯人がスイッチを押した。

閃光。

そして、轟音。


「伏せろォォォッ!!」


ナラはカレル警部を突き飛ばし、瓦礫の陰に飛び込んだ。

爆風が通りを薙ぎ払う。

ビルが内側から崩れ落ち、ガラスの雨が降り注ぐ。

数秒後。

土煙が晴れると、そこには半壊したビルと、瓦礫の下敷きになった数名の警官たちの姿があった。

幸い、住人は避難済みだったが、突入準備をしていた刑事たちは重傷だ。

その惨状の中心で。

レグルスだけが、傷一つ負わずに立っていた。

防御魔法で身を守っていたのだ。


「……なんてこと」


ナラは、瓦礫を押しのけて立ち上がった。

怒りで体が震える。


「満足? ……あんたが令状なんて紙切れにこだわったせいで、ビルは吹っ飛び、犯人は逃げたわよ!」


レグルスは、埃を払って言った。


「私は手順を守った。……違法な捜査で犯人を捕らえても、法治国家の根幹が揺らぐ。今回の爆発は遺憾だが、プロセスは正しかった」


「プロセス……?」


ナラは、レグルスの胸ぐらを掴もうとした。

だが、その手は空を切った。


「触れるな。公務執行妨害で逮捕するぞ」


レグルスは冷たく言い放ち、踵を返した。


「犯人は逃走した。追跡を行う。……ただし、赤信号は守りたまえよ」


その日の夕方。

獣医院のリビングは、お通夜のような雰囲気だった。


「……最悪だわ」


ナラは、ソファに沈み込んでいた。

結局、犯人は取り逃がした。

レグルスは、逃走する犯人を追いかけたが、「私有地の庭を横切るのは不法侵入だ」と言って遠回りをし、まんまと撒かれたのだ。


「ふむ。興味深い精神構造だねぇ」


エラーラが、コーヒーを淹れながら言った。

彼女は現場にはいなかったが、ナラの話を聞いて、いつものように分析を始めた。


「極度のアスペルガー的傾向と、強迫性障害に近い遵法精神。……彼は『正義』を行っているつもりはないのだよ。『規則』というプログラムを実行する人形に近い」


「人間じゃないわよ、あんなの」


ナラは吐き捨てた。

ナラにとって、ルールとは「みんなが幸せになるための約束」だ。

それが人を不幸にするなら、そんなルールは破るべきだ。

だが、レグルスにはそれが通じない。

そこへ、情報屋のルルが窓から入ってきた。


「あ、あの……ナラさん……」


「どうしたの、ルル。玄関から入りなさいって言ってるでしょ」


「そ、それどころじゃなくて……。爆弾魔の居場所、分かりました……」


ルルが震える手で差し出したのは、一枚の地図と、犯行声明文だった。


『今夜0時。王都中央広場で最大の花火を打ち上げる。……ただし、あの堅物の騎士様とゲームがしたい』


声明文には、レグルスへの指名挑戦が書かれていた。


『俺の居場所は、広場の真ん中にある古時計塔の上だ。……だが、塔の周りには半径50メートルの「立ち入り禁止」の結界を張った。解除コードは、塔の前にある横断歩道を、赤信号のまま渡ること。……さあ、ルールを守る騎士様は、信号無視ができるかな?』


「……バカにした罠ね」


ナラは鼻で笑った。


「信号無視なんて、子供でもできるわよ。あいつも命がかかればやるでしょう」


「どうかな」


エラーラが眼鏡を光らせた。


「彼にとって、ルールを破ることは、死ぬことよりも苦痛かもしれないよ?」


深夜0時前。王都中央広場。

時計塔の周りには、魔法の結界が張られ、中には爆弾魔が陣取っている。

そして、塔へと続く一本道の前に、レグルスが立っていた。

目の前には、魔法で作られた信号機がある。

色は、赤。

カウントダウンが表示されているが、その数字は減らない。永遠の赤信号だ。


「……レグルス!」


ナラは、カレル警部と共に駆けつけた。


「何してんのよ!早く渡りなさいよ!信号無視くらい、誰にも迷惑かからないわよ!」


レグルスは、微動だにしなかった。

汗が、頬を伝う。


「信号は赤だ。道路交通法第7条。歩行者は信号に従わなければならない」


「今は非常事態よ! 爆発まであと3分しかないのよ!」


「法に『ただし緊急時は除く』という但し書きはない。……私がここで信号を無視すれば、私は私でなくなる」


彼の顔は、蒼白だった。

脂汗が流れている。

彼もまた、葛藤しているのだ。

目の前の悪を止めたいという騎士としての本能と、骨の髄まで染み付いた「ルール絶対」の強迫観念の間で。


「……バカな男」


ナラは、鉄扇を抜いた。


「だったら、あたしが行くわ。……あたしは元々、品行方正なレディじゃないもの」


ナラが結界に踏み込もうとした時、レグルスが剣を抜いて立ち塞がった。


「ならん!市民を危険な目に合わせるわけにはいかない! 立ち入り禁止区域への侵入は違法だ!」


「どきなさいッ!!」


ナラとレグルスの剣が交差する。

火花が散る。


「あんたねぇ! ……ルールを守って人が死んだら、何の意味があるのよ!」


「秩序だ! 例外を認めれば、社会は崩壊する!」


「社会なんてどうでもいいわ! あたしは、目の前の命を守りたいだけよ!」


ナラは、渾身の力でレグルスを弾き飛ばした。

レグルスが体勢を崩す。

その隙に、ナラは赤信号の横断歩道へ――。

その時。

時計塔の上で、犯人が笑った。


「残念! タイムオーバーだ!」


時計の針が0時を指した。

爆炎が広場を包む。

ナラはとっさに防御魔法を展開し、カレル警部を庇った。


「……ッ!」


熱風が吹き荒れ、衝撃波が内臓を揺らす。

時計塔が崩れ落ち、瓦礫の山となる。

煙が晴れた後。

そこには、瓦礫の下敷きになった犯人の死体と、焼け野原になった広場が残っていた。

そして。

横断歩道の手前で、レグルスが倒れていた。

彼は、爆風を受けながらも、一歩も「赤信号」を越えていなかった。


「……おい! しっかりしろ!」


カレル警部が駆け寄る。

レグルスは、血まみれの顔で、空を見上げていた。


「……警部」


「喋るな! 救護班!」


「……私は……守ったぞ」


レグルスは、血の泡を吐きながら、薄く笑った。

それは、狂気じみた、しかしどこか満足げな笑みだった。


「私は……最後まで……法を……秩序を……守り抜いた……」


彼の瞳から、光が消えた。

死因は、爆風による内臓破裂か、あるいは飛んできた破片か。

いずれにせよ……彼は死んだ。

たった数メートルの「赤信号」を渡らなかったがために。


「……バカな奴」


ナラは、レグルスの死体を見下ろした。

涙は出なかった。

ただ、どうしようもない徒労感と、寒気だけが残った。


「これが……あんたの言う正義なの?」


誰もいない広場で、壊れた信号機だけが、虚しく赤色を点滅させていた。


・・・・・・・・・・


翌日。

獣医院のリビングで、ナラは泥のように濃いコーヒーを飲んでいた。


「……結局、レグルスは『殉職』扱いになったわ」


カレル警部が、疲れた顔で報告に来た。


「上層部は、彼の行動を『遵法精神の鏡』として称賛するつもりらしい。……狂ってるよ」


「ふむ。……彼は、自分自身という『バグ』に殺されたようなものだね」


エラーラが、トーストをかじりながら淡々と言った。

彼女には、感傷はない。ただ現象を分析しているだけだ。


「ルールとは、人間を幸福にするための道具だ。だが、彼にとってはルールそのものが目的になっていた。……手段と目的が入れ替わった時、悲劇は起きる」


「……本当に、三流の生き方だわ」


ナラは、窓の外を見た。

今日も王都は騒がしい。

人々は、小さなルールを破ったり、守ったりしながら、ごちゃごちゃと生きている。


「でも……」


ナラは、思い出す。

死に際に浮かべた、レグルスの満足げな笑顔を。


「あいつにとっては、最期まで遵法に生きたという点では、『一流』だったのかもしれないわね」


ナラは、飲み干したカップを置いた。

苦い味が、口の中に残った。


「さあ、お母様。……口直しに、甘いケーキでも食べに行きましょうか」


「おや、珍しい。奢りかね?」


「ええ。……生きてるうちに、美味しいものを食べておかないとね」


ナラは立ち上がった。

ルールも、正義も、死んでしまえば何の意味もない。

泥にまみれても、ルールを破っても、生きて、食べて、愛する人と笑い合う。

それこそが、ナラが地獄のような未来から持ち帰った、唯一の「真理」なのだから。

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