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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
探偵よさらば
157/201

第3話:Hard Sometimes

主題歌:Hard Sometimes

https://youtu.be/rhIyzhMwvGo?si=zZlUMcWJclW__YAZ

王都の地下深く、轟々と水が流れる巨大な排水区画。

地上では朝日が昇り始めている頃、エラーラ・ヴェリタスは、泥と油にまみれて膝をついていた。

彼女の目の前には、壁一面を覆い尽くすほど複雑怪奇な魔法陣が描かれている。

それは、数千の論理式が絡み合い、一つの答えを導き出すために脈動する、巨大な「論理爆弾」だった。

中央には、レオの筆跡でこう書かれている。


『卒業試験:この術式を解除せよ。制限時間は日の出まで。失敗すれば、王都の地盤は崩壊し、3万人の市民が生き埋めになる』


エラーラは、ひび割れた眼鏡の位置を中指で直し、溜息をついた。


「……まったく。手の掛かる馬鹿弟子だ」


レオは知っていたのだ。

ナラティブを絶望の淵に追い込み、そこから再起させるという彼の「脚本」において、最大にして唯一の不確定要素がエラーラであることを。

エラーラが獣病院にいれば、襲撃者など指先一つで消し飛び、ナラは「守られる側」のまま終わってしまう。

だから、レオは自らの命と引き換えに、エラーラをここに釘付けにする罠を遺した。

エラーラの前には、二つの選択肢があった。

このまま解除を続けて王都を救うか。

それとも、これを無視して獣病院へ戻り、家族を救うか。

レオは嘲笑っているようだった。


『先生は論理の人だ。3万人の命と、たった5人の家族。どちらが重いか、計算できますよね?』


エラーラは、最後のコードを切断した。

魔法陣の光が急速に減衰していく。

解除成功。王都は救われた。

だが、それは同時に、獣病院が孤立無援のまま一夜を過ごしたことを意味する。


「……計算違いだよ、レオ」


エラーラは立ち上がり、泥だらけの白衣を払った。


「私がここに残ったのは、3万人の方が重いからじゃない。ナラたちなら――私の家族なら、お前の用意した『絶望』ごとき、自力で超えられると信じているからだ」


それは、論理を超えた信頼だった。

エラーラは出口へと歩き出した。足取りは重いが、迷いはなかった。


地上に出ると、雨上がりの澄んだ空気が肺を満たした。

王都は静かだった。地下で滅びの危機があったことなど知らず、市民たちは新しい朝を迎えている。

エラーラは獣病院へと急いだ。

信じているとはいえ、不安がないわけではない。

ナラは心が折れていた。ゴウもルルも廃人同然だった。ケンジとアリアも精彩を欠いていた。

もし、自分の計算が間違っていたら?

もし、帰った場所に死体が転がっていたら?

獣病院が見えてきた。

エラーラの足が止まる。

玄関のドアが、無残に破壊されていた。

窓ガラスは割れ、庭には焦げ跡がある。

明らかに、激しい戦闘があった痕跡だ。


「……ッ!」


エラーラは駆け出した。

心臓の鼓動が早くなる。論理的思考がノイズに埋もれそうになる。


(ナラ! ケンジ! 生きていてくれ!)


壊れたドアをくぐり、リビングへと踏み込む。

そこは、まるで台風が通り過ぎた後のように荒れ果てていた。

テーブルはひっくり返り、壁には武器による亀裂が走り、床には血痕と煤がこびりついている。

レオが可愛がっていた観葉植物は鉢ごと砕け、思い出の写真は泥に塗れていた。

最悪の想像が脳裏をよぎる。

だが。

その破壊の跡地には、不釣り合いなほど芳醇な、ある「香り」が漂っていた。

焼けたバターと、トマトケチャップの香り。


リビングの奥、辛うじて無事だったキッチンカウンターの周りに、彼らはいた。


ケンジは、片腕に包帯を巻き、頬に擦り傷を作りながらも、フライパンを振っていた。その背中は、以前の弱々しいものではなく、家族を守り抜いた父親の大きさがあった。


アリアは、椅子に座り、錆びを落とした剣の手入れをしている。服はボロボロだが、その瞳にはかつての騎士団長としての矜持が宿っている。


ゴウは、壁にもたれかかり、砕かれた右手を見つめている。だが、その目は虚ろではない。左手で不器用に包帯を巻き直しながら、何かを考え込んでいる――それは、再起するための思考だ。


ルルは、床に座り込み、まだ震えている。だが、その手には箒が握られていた。泣きながらでも、散らかった床を片付けようとした形跡がある。


そして、ナラ。

彼女は、部屋の中央に立っていた。

身に纏っているのは、死んだレオの黒いコート。

顔には煤がつき、髪は乱れている。

しかし、その立ち姿は、エラーラがよく知る「逃げ出した少女」のものではなかった。

腰には、奪還した鉄扇が差されている。

その背中から立ち上る気配は、鋭利で、強靭で、そしてどこか悲しげだった。


全員、生きている。

ボロボロで、傷だらけで、満身創痍だが。

誰一人として、死んでいない。

エラーラの侵入に気づき、全員が振り返った。


「……あ」


ナラが声を漏らす。

エラーラは、言葉が出なかった。

安堵と、驚きと、そして誇らしさが入り混じり、喉が詰まった。

彼女は、ゆっくりと歩み寄った。


「……ただいま。……遅くなってすまない」


ナラは、エラーラをじっと見つめた。

以前なら、「どうして助けてくれなかったの」と泣きついただろう。

だが、今のナラは違った。

彼女は、少しだけ口角を上げて、静かに言った。


「おかえりなさい、お母様。……随分と、長い『補習』だったわね」


その一言で、全てが通じた。

ナラは理解していたのだ。エラーラが来なかった理由を。そして、自分たちが試されていたことを。


ケンジが、大皿を運んできた。


「ちょうどよかった。エラーラさんの分もあるよ。……少し形が崩れちゃったけどね」


テーブルは壊れていたので、床にクロスを敷いて、車座になって座った。

皿に盛られていたのは、黄色く輝くオムライス。

真っ赤なケチャップがかかっている。

それは、レオが生前、一番好きだったメニューだ。

全員がスプーンを持つ。

だが、誰も食べようとしない。

視線は、誰のものでもない「六つ目の皿」――レオの遺影の前に供えられたオムライスに向けられていた。

遺影の中のレオは、無邪気に笑っている。

その笑顔が、今はひどく遠く、そして痛い。


「……いただきます」


ゴウが、掠れた声で言った。左手でスプーンを口に運ぶ。

ゴウの目から、大粒の涙がこぼれ落ち、オムライスの上に落ちた。

ルルが泣き出した。

アリアがルルの肩を抱く。

ナラは、黙々とオムライスを口に運んでいた。

味などわからなかった。

ただ。

喉を通る熱い塊が、彼女の冷え切った内臓を焼き、生きていることを実感させた。

エラーラは、その光景を見て、汚れた白衣の袖で顔を拭う。


「……ナラ」


エラーラが呼ぶ。


「何?」


ナラはスプーンを止めた。


「……強くなったな」


それは、世界最強の魔導師からの、最大の賛辞だった。

ナラは、少しだけ目を見開き、それからふっと目を伏せた。

レオの黒いコートをぎゅっと握りしめる。


「強くなんかないわ。……失うのが怖かっただけ。もう二度と、あたしの目の前で、皆を、あたし自身を、失いたくない。……ただ、それだけよ。」


その瞳には、かつての怯えはない。

あるのは、地獄を見てきた者だけが宿す、静かなる闘志。


食事が終わる頃、雨雲は完全に去り、眩しいほどの朝日が差し込んできた。

壊れた窓から入る風が、淀んだ空気を入れ替えていく。


ナラは立ち上がった。

黒いコートを翻し、鉄扇を腰に差す。


「ごちそうさま。……行くわよ、お母様」


「どこへ?」


エラーラが尋ねる。


「決まってるでしょ。まだ片付いていない仕事が残ってる。……レオが始めたこの最悪な脚本、あたしが責任を持ってエンドロールにしてやるの」


ナラは玄関へと向かう。

その背中に、ゴウが声をかけた。


「ナラさん!」


ナラが振り返る。

ゴウは、涙を拭い、包帯だらけの手を握りしめていた。


「僕も……すぐに行きます。手は使えなくても、頭は残っています。薬品の知識なら、まだ役に立ちます。……レオに笑われないように、僕も戦います」


ルルも顔を上げた。まだ目は赤いけれど、箒を強く握っている。


「私も……事務所の掃除しとく。ナラが帰ってくる場所、ピカピカにしとくから!」


ナラは、初めて柔らかく笑った。

それは、レオに向けた「癒やし」の笑顔ではなく、戦友たちに向けた「信頼」の笑顔だった。


「ええ。頼りにしてるわ、『家族』たち。」


ナラはドアを開け、光の中へと歩き出した。

その後ろを、泥だらけの白衣をなびかせたエラーラが続く。


「やれやれ。引退撤回早々、大忙しになりそうだね」


「文句言わないでよ。……さあ、行くわよ。」


獣病院に、再び活気が戻る。

それは以前のような穏やかなものではない。

手負いの、修羅たちの家。

レオの遺影が、朝日の中でキラリと光った気がした。

ナラティブ・ヴェリタス。

彼女の物語は、ここから始まる。

硝子の聖域は砕け散ったが、その破片は今、ダイヤモンドのように強く、美しく輝いていた。

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