第3話:Hard Sometimes
主題歌:Hard Sometimes
https://youtu.be/rhIyzhMwvGo?si=zZlUMcWJclW__YAZ
王都の地下深く、轟々と水が流れる巨大な排水区画。
地上では朝日が昇り始めている頃、エラーラ・ヴェリタスは、泥と油にまみれて膝をついていた。
彼女の目の前には、壁一面を覆い尽くすほど複雑怪奇な魔法陣が描かれている。
それは、数千の論理式が絡み合い、一つの答えを導き出すために脈動する、巨大な「論理爆弾」だった。
中央には、レオの筆跡でこう書かれている。
『卒業試験:この術式を解除せよ。制限時間は日の出まで。失敗すれば、王都の地盤は崩壊し、3万人の市民が生き埋めになる』
エラーラは、ひび割れた眼鏡の位置を中指で直し、溜息をついた。
「……まったく。手の掛かる馬鹿弟子だ」
レオは知っていたのだ。
ナラティブを絶望の淵に追い込み、そこから再起させるという彼の「脚本」において、最大にして唯一の不確定要素がエラーラであることを。
エラーラが獣病院にいれば、襲撃者など指先一つで消し飛び、ナラは「守られる側」のまま終わってしまう。
だから、レオは自らの命と引き換えに、エラーラをここに釘付けにする罠を遺した。
エラーラの前には、二つの選択肢があった。
このまま解除を続けて王都を救うか。
それとも、これを無視して獣病院へ戻り、家族を救うか。
レオは嘲笑っているようだった。
『先生は論理の人だ。3万人の命と、たった5人の家族。どちらが重いか、計算できますよね?』
エラーラは、最後のコードを切断した。
魔法陣の光が急速に減衰していく。
解除成功。王都は救われた。
だが、それは同時に、獣病院が孤立無援のまま一夜を過ごしたことを意味する。
「……計算違いだよ、レオ」
エラーラは立ち上がり、泥だらけの白衣を払った。
「私がここに残ったのは、3万人の方が重いからじゃない。ナラたちなら――私の家族なら、お前の用意した『絶望』ごとき、自力で超えられると信じているからだ」
それは、論理を超えた信頼だった。
エラーラは出口へと歩き出した。足取りは重いが、迷いはなかった。
地上に出ると、雨上がりの澄んだ空気が肺を満たした。
王都は静かだった。地下で滅びの危機があったことなど知らず、市民たちは新しい朝を迎えている。
エラーラは獣病院へと急いだ。
信じているとはいえ、不安がないわけではない。
ナラは心が折れていた。ゴウもルルも廃人同然だった。ケンジとアリアも精彩を欠いていた。
もし、自分の計算が間違っていたら?
もし、帰った場所に死体が転がっていたら?
獣病院が見えてきた。
エラーラの足が止まる。
玄関のドアが、無残に破壊されていた。
窓ガラスは割れ、庭には焦げ跡がある。
明らかに、激しい戦闘があった痕跡だ。
「……ッ!」
エラーラは駆け出した。
心臓の鼓動が早くなる。論理的思考がノイズに埋もれそうになる。
(ナラ! ケンジ! 生きていてくれ!)
壊れたドアをくぐり、リビングへと踏み込む。
そこは、まるで台風が通り過ぎた後のように荒れ果てていた。
テーブルはひっくり返り、壁には武器による亀裂が走り、床には血痕と煤がこびりついている。
レオが可愛がっていた観葉植物は鉢ごと砕け、思い出の写真は泥に塗れていた。
最悪の想像が脳裏をよぎる。
だが。
その破壊の跡地には、不釣り合いなほど芳醇な、ある「香り」が漂っていた。
焼けたバターと、トマトケチャップの香り。
リビングの奥、辛うじて無事だったキッチンカウンターの周りに、彼らはいた。
ケンジは、片腕に包帯を巻き、頬に擦り傷を作りながらも、フライパンを振っていた。その背中は、以前の弱々しいものではなく、家族を守り抜いた父親の大きさがあった。
アリアは、椅子に座り、錆びを落とした剣の手入れをしている。服はボロボロだが、その瞳にはかつての騎士団長としての矜持が宿っている。
ゴウは、壁にもたれかかり、砕かれた右手を見つめている。だが、その目は虚ろではない。左手で不器用に包帯を巻き直しながら、何かを考え込んでいる――それは、再起するための思考だ。
ルルは、床に座り込み、まだ震えている。だが、その手には箒が握られていた。泣きながらでも、散らかった床を片付けようとした形跡がある。
そして、ナラ。
彼女は、部屋の中央に立っていた。
身に纏っているのは、死んだレオの黒いコート。
顔には煤がつき、髪は乱れている。
しかし、その立ち姿は、エラーラがよく知る「逃げ出した少女」のものではなかった。
腰には、奪還した鉄扇が差されている。
その背中から立ち上る気配は、鋭利で、強靭で、そしてどこか悲しげだった。
全員、生きている。
ボロボロで、傷だらけで、満身創痍だが。
誰一人として、死んでいない。
エラーラの侵入に気づき、全員が振り返った。
「……あ」
ナラが声を漏らす。
エラーラは、言葉が出なかった。
安堵と、驚きと、そして誇らしさが入り混じり、喉が詰まった。
彼女は、ゆっくりと歩み寄った。
「……ただいま。……遅くなってすまない」
ナラは、エラーラをじっと見つめた。
以前なら、「どうして助けてくれなかったの」と泣きついただろう。
だが、今のナラは違った。
彼女は、少しだけ口角を上げて、静かに言った。
「おかえりなさい、お母様。……随分と、長い『補習』だったわね」
その一言で、全てが通じた。
ナラは理解していたのだ。エラーラが来なかった理由を。そして、自分たちが試されていたことを。
ケンジが、大皿を運んできた。
「ちょうどよかった。エラーラさんの分もあるよ。……少し形が崩れちゃったけどね」
テーブルは壊れていたので、床にクロスを敷いて、車座になって座った。
皿に盛られていたのは、黄色く輝くオムライス。
真っ赤なケチャップがかかっている。
それは、レオが生前、一番好きだったメニューだ。
全員がスプーンを持つ。
だが、誰も食べようとしない。
視線は、誰のものでもない「六つ目の皿」――レオの遺影の前に供えられたオムライスに向けられていた。
遺影の中のレオは、無邪気に笑っている。
その笑顔が、今はひどく遠く、そして痛い。
「……いただきます」
ゴウが、掠れた声で言った。左手でスプーンを口に運ぶ。
ゴウの目から、大粒の涙がこぼれ落ち、オムライスの上に落ちた。
ルルが泣き出した。
アリアがルルの肩を抱く。
ナラは、黙々とオムライスを口に運んでいた。
味などわからなかった。
ただ。
喉を通る熱い塊が、彼女の冷え切った内臓を焼き、生きていることを実感させた。
エラーラは、その光景を見て、汚れた白衣の袖で顔を拭う。
「……ナラ」
エラーラが呼ぶ。
「何?」
ナラはスプーンを止めた。
「……強くなったな」
それは、世界最強の魔導師からの、最大の賛辞だった。
ナラは、少しだけ目を見開き、それからふっと目を伏せた。
レオの黒いコートをぎゅっと握りしめる。
「強くなんかないわ。……失うのが怖かっただけ。もう二度と、あたしの目の前で、皆を、あたし自身を、失いたくない。……ただ、それだけよ。」
その瞳には、かつての怯えはない。
あるのは、地獄を見てきた者だけが宿す、静かなる闘志。
食事が終わる頃、雨雲は完全に去り、眩しいほどの朝日が差し込んできた。
壊れた窓から入る風が、淀んだ空気を入れ替えていく。
ナラは立ち上がった。
黒いコートを翻し、鉄扇を腰に差す。
「ごちそうさま。……行くわよ、お母様」
「どこへ?」
エラーラが尋ねる。
「決まってるでしょ。まだ片付いていない仕事が残ってる。……レオが始めたこの最悪な脚本、あたしが責任を持ってエンドロールにしてやるの」
ナラは玄関へと向かう。
その背中に、ゴウが声をかけた。
「ナラさん!」
ナラが振り返る。
ゴウは、涙を拭い、包帯だらけの手を握りしめていた。
「僕も……すぐに行きます。手は使えなくても、頭は残っています。薬品の知識なら、まだ役に立ちます。……レオに笑われないように、僕も戦います」
ルルも顔を上げた。まだ目は赤いけれど、箒を強く握っている。
「私も……事務所の掃除しとく。ナラが帰ってくる場所、ピカピカにしとくから!」
ナラは、初めて柔らかく笑った。
それは、レオに向けた「癒やし」の笑顔ではなく、戦友たちに向けた「信頼」の笑顔だった。
「ええ。頼りにしてるわ、『家族』たち。」
ナラはドアを開け、光の中へと歩き出した。
その後ろを、泥だらけの白衣をなびかせたエラーラが続く。
「やれやれ。引退撤回早々、大忙しになりそうだね」
「文句言わないでよ。……さあ、行くわよ。」
獣病院に、再び活気が戻る。
それは以前のような穏やかなものではない。
手負いの、修羅たちの家。
レオの遺影が、朝日の中でキラリと光った気がした。
ナラティブ・ヴェリタス。
彼女の物語は、ここから始まる。
硝子の聖域は砕け散ったが、その破片は今、ダイヤモンドのように強く、美しく輝いていた。




