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第2話:罪と罰!

その日の朝、獣病院のドアを叩いたのは、患者でも、郵便屋でもなかった。

ナラがドアを開けると、そこに立っていたのはカレル警部だった。

彼の後ろには、数名の警官が控えている。カレルの顔は、岩のように強張っていた。


「……ナラティブ・ヴェリタス。署まで来てもらおうか」


ナラは息を呑む。


「どうして……」


「今朝、新たな証拠が見つかった。被害者の屋敷の裏口から、お前の指紋がついた手袋と、血のついた鉄扇が発見された」


「嘘よ!あたしの鉄扇はここにある……」


ナラは物置へ走った。だが……箱の中は空だった。

あるはずの鉄扇がない。

カレルが踏み込んでくる。


「ナラ。俺はお前を信じたい。だが、証拠が揃いすぎている。『一度、署で話を聞かせろ』……」


カレルの目は語っていた。『逃げろ』とは言わない。だが、『ここで捕まれば終わりだ』という悲痛な警告が含まれていた。

ナラは震えた。


「……嫌よ」


ナラは後ずさる。


「ナラ!」


「あたしじゃない!絶対にあたしじゃない!」


ナラは窓ガラスを椅子で叩き割り、庭へと飛び出した。

「追え!」という怒号。

ナラは、走った。

平和な隠遁生活は、唐突に、無残に終わりを告げた。


ナラは廃墟となった地下水道に身を潜めていた。

寒さと恐怖で歯の根が合わない。


「どうして……どうしてこんなことに……」


そこに、一つの影が現れる。

レオだった。彼は食料と毛布を持って駆けつけたのだ。


「ナラさん!無事ですか!」


「レオ……!どうしてここが……」


「探しましたよ。……大丈夫、僕だけはナラさんの味方です」


レオの温かい手が、ナラの冷え切った頬に触れる。

ナラはその温もりに縋り付いた。


「レオ、怖い……あたし、何もしてないのに……」


「わかっています。真犯人を見つけましょう。僕が手伝います。……ねえ、ナラさん。もう一度だけ、『探偵』をやりませんか? 自分の命を守るために」


ナラは首を振った。


「嫌だ……やりたくない……」


「でも、やるしかないんです。そうしないと、あなたは処刑されてしまう」


ナラは泣きながら、それでも立ち上がった。

生きるために。この理不尽な悪夢から覚めるために。

彼女は再び、事件の渦中へと足を踏み入れた。

隣で微笑む少年が、この悪夢の脚本家だとは知らずに。


調査は難航した。

行く先々で、ナラを犯人と指し示す証拠ばかりが出てくる。

まるで、誰かがナラの行動を先読みして、罠を張っているかのように。

そして、決定的な絶望が訪れる。

ナラの元に、ゴウとルルからの連絡が途絶えたのだ。

二人は、ナラの無実を証明しようと独自に動いていたはずだった。

夜。王都の中央広場の時計塔。

その大時計の針に、不気味なメッセージが投影された。


『真夜中0時。英雄の帰還を祝う』


ナラは直感した。そこに真犯人がいる。


「レオ、行くわよ」


しかし、レオの姿はどこにもなかった。

書き置きが一枚。


『ナラさん、先に行っています。僕が真犯人を説得してみせます』


「馬鹿!戻ってよレオ!」


ナラは走った。心臓が張り裂けそうだった。

ゴウ、ルル、レオ。あたしの大切な家族たちが、危ない。


真夜中。中央広場。

そこは、悪夢のような「舞台」になっていた。

広場の中央に、巨大な断頭台のような装置が組まれている。

その装置に縛り付けられているのは、ゴウとルルだった。

ゴウは全身傷だらけで、右手の指がすべて逆方向に曲げられていた。目は虚ろで、口からは涎を垂らしている。

ルルは、大量の爆弾を身体に巻き付けられ、白目を剥いてカタカタと震えていた。


「ゴウ! ルル!」


ナラが叫びながら駆け寄ろうとする。


「ストップ! それ以上近づくと……ドカンですよ?」


スポットライトが点灯し、装置の頂上に立つ人影を照らした。

そこには、盗まれた鉄扇を手にした少年が立っていた。

レオだった。


「ようこそ、ヒーロー! 待ちくたびれましたよ!」


ナラは理解できなかった。

脳が処理を拒絶した。


「レオ……? なんで……その格好……」


レオは、無邪気な笑顔で鉄扇を開いた。


「カッコいいでしょう? ずっと憧れていたんです。ナラさんのこの姿に。でも、あなたがこれを捨てて、ただの『優しいお姉さん』になっちゃったから。僕が代わりを務めていたんですよ。……あの連続殺人も、全部ね!」


「嘘……嘘よ……! あんたは、あたしの癒やしだったじゃない!一緒にリンゴ食べて、お茶飲んで……!」


「ええ、幸せでした!幸せでしたよ……でもね、ナラさん。『平和ボケした英雄』なんて、死んでいるのと同じなんです。僕はあなたを愛している。だからこそ、あなたを生き返らせたい!」


レオは、装置のレバーに手をかけた。


「さあ、クライマックスです!このレバーを引けば、ルルは爆発し、ゴウは首を吊られます。止める方法は一つだけ。あなたがここに来て、僕を殺すこと。かつて悪党を葬ったその手で、僕の心臓を止めてください!」


ナラは膝から崩れ落ちた。


「できない……殺せない……。レオ、やめて……帰ろう……?」


レオの表情が、一瞬で冷徹なものに変わった。


「帰る? どこに?獣病院ですか? 硝子の聖域に?……まだ、わかっていないんですね。帰る場所などありませんよ!」


レオは、遠隔操作でゴウの拘束具を締めた。

嫌な音がして、ゴウの悲鳴が上がる。

ルルの爆弾のタイマーがカウントを始める。


「これが現実です! あなたが目を背けている間に、世界はこうやって悲鳴を上げているんです!戦わない善人は、悪人の共犯者だ!さあ、怒れ! 憎め! そして、『ナラティブ・ヴェリタス』になれ!」


ナラの視界が赤く染まった。

癒やし? 安息?

そんなものは最初からなかった。

あたしが逃げたから。あたしが甘えたから。

大切な家族が、こんな目に遭っている。

ナラは立ち上がった。

足元に落ちていた、錆びた鉄パイプを拾う。

瞳から光が消え、底なしの暗闇が宿る。


「……わかったわ。」


ナラは呟いた。


「あんたの望み通り、演じてあげる。……この芝居の、幕引きを。」


ナラが跳んだ。

人間離れした速度。殺意の塊となった突進。

レオは恍惚の表情で迎撃する。


「そう!それだ!その目が好きだったんだ!」


鉄扇と鉄パイプが激突する。

だが、レオは抵抗しなかった。わざと隙を見せた。

ナラの鉄パイプが、レオの胸を貫いた。

肉を裂く感触。温かい血の飛沫。

レオは、ナラの胸に倒れ込み、血を吐きながら笑った。


「……あは……痛いなぁ……。でも……やっと……本物のナラさんに……触れられた……」


「……死になさい!この、親不孝者!」


「へへ……ごめんなさい……。でも……これであなたは……もう、こっち側の住人だ……」


レオの瞳から光が消える。

その顔は、獣病院でナラの愚痴を聞いていた時と同じ、天使のような笑顔だった。

ナラは絶叫した。

勝利の雄叫びではない。魂が引き裂かれる音だった。



事件は終わった。

レオという名の少年が、ナラティブ・ヴェリタスの手によって葬られたことで、王都を震撼させた連続猟奇殺人と爆破テロ未遂は幕を閉じた。

だが、獣病院に残された傷跡は、あまりにも深かった。

窓は割れ、家具はひっくり返ったまま。

薄暗いリビングで、かつての英雄たちは「生ける屍」となっていた。

ゴウは、部屋の隅で膝を抱えていた。

右手の指は包帯でぐるぐる巻きにされ、まだ痙攣している。だが、彼を壊したのは指の痛みではない。「親友だと思っていたレオに、笑いながら拷問された」という事実が、彼の理性を粉砕していた。


「……違う……レオは……僕を……」


彼はうわ言のように化学式と親友の名を繰り返すだけの、壊れたレコードだった。

ルルは、キッチンの隅で小さく震えていた。

料理を作ろうとしても、包丁を見るだけでレオのナイフを思い出し、火をつけるだけで爆弾の導火線を想起して過呼吸になる。


「ごめんなさい……私が運んだの……私がみんなを殺そうとしたの……」


ケンジとアリアは、テーブルに向かい合って座っていた。

二人の目は虚ろだ。彼らにとってレオは、ナラやゴウと同じく「守るべき子供」だった。その子供が怪物になり、別の子供に殺させた。


「……俺たちは、何を育てていたんだ……」


アリアの剣は錆びつき、ケンジの聴診器は埃を被っていた。

そして、ナラ。

彼女もまた、壊れていた。

彼女は一日中、鉄扇を握りしめ、庭のベンチに座っていた。

思考はない。感情もない。

ただ、「癒やし」だった少年を自らの手で殺した感触だけが、永遠に掌に残っていた。


(あたしが殺した。あたしが終わらせた。……もう、何も見たくない。何も聞きたくない)


獣病院は、時が止まった墓標だった。


その静寂を破ったのは、無遠慮な破壊音だった。

玄関のドアが蹴破られ、土足の男たちが雪崩れ込んできた。

彼らは、レオが殺害した裏社会のボスたちの残党――「復讐者」を名乗るゴロツキ集団だった。


「ここが『英雄』様の隠居場所かよ!」


「ボスを殺しやがって! その報復に来てやったぜ!」


彼らは手に手に武器を持ち、無防備な獣病院を蹂躙し始めた。

棚を倒し、薬品を撒き散らし、思い出の詰まった写真を踏みにじる。

ケンジとアリアは立ち上がろうとするが、体が動かない。心神喪失状態の彼らには、抵抗する気力さえ残っていなかった。

ゴロツキの一人が、震えるルルを掴んで引きずり出す。


「おいおい、爆弾魔のお嬢ちゃんじゃねぇか。いい顔で泣くじゃねぇか!」


別の一人が、ゴウの包帯だらけの手を踏みつける。


「これが天才少年の手か? 役立たずのゴミだな!」


ゴウは痛みを感じているのかさえわからない顔で、ただ涙を流している。

ナラは、庭からその光景を見ていた。

まるでスクリーン越しの映画を見ているように、現実感がなかった。


(ああ……終わるんだ。もういい。みんな死んで、あたしも死んで。そうすれば、レオのところに行ける)


彼女は目を閉じた。

諦めという名の、甘美な沼に沈もうとした。


その時。

ゴロツキのリーダー格が、ナラの足元に転がっていた「レオの遺影」を見つけ、汚い唾を吐きかけた。


「ケッ!殺人鬼のガキの写真かよ。こいつのせいで俺たちの商売はあがったりだ。いい気味だぜ!この家ごと燃やしてやるよ!」


リーダーが松明を掲げる。

その炎が、リビングで震えるゴウやルル、絶望しているケンジとアリアを照らし出した。

その光景を見た瞬間。

ナラの脳裏に、レオの最期の言葉がフラッシュバックした。


『平和ボケした英雄なんて、死んでいるのと同じなんです』


『戦わない善人は、悪人の共犯者だ』


ナラの閉じた瞼の裏で、火花が散った。

レオは、あたしを英雄にするために死んだ。

歪んでいたけれど、狂っていたけれど、あの子は命懸けであたしに「物語(ナラティブ)」を託した。

それを、こんな三流の悪党どもに、惨めに終わらせられていいのか?

あたしの大切な家族たちが、あの子が守ろうとしたこの場所が、ゴミのように燃やされていいのか?


(レオ。あんたは間違ってた。絶望だけが人を強くするんじゃない。……守りたいものが残っている限り、人は何度でも立ち上がれるのよ!)


止まっていたナラの心臓が、激しく鼓動を打った。

殺意ではない。義務感でもない。

腹の底から湧き上がる、マグマのような「怒り」と「愛」。


「……どけ!」


炎の爆ぜる音に混じって、地を這うような低い声が響いた。

リーダーが振り返る。「あ? なんだ姉ちゃん、命乞いか?」

ナラは顔を上げた。

その瞳に宿っていた虚無は消え失せていた。

そこにあるのは、獲物を射抜く鷲のような鋭さと、家族を守る母獣のような獰猛な光。

彼女は、レオの形見である黒いコートを翻し、懐から鉄扇を取り出した。


「その汚い足を、あたしの家族から退けろと!言っているのよ!」


鉄扇が一閃。

リーダーが持っていた松明が、空中で真っ二つに切断された。


「なっ……!?」


「こいつ、まだ動けるのか!?」


ナラは一歩も引かなかった。

彼女は背後の家族たち――廃人と化した仲間たちに向かって、裂帛の気合いで叫んだ。


「いつまで寝てるの!ゴウ!ルル!ケンジ!アリア!」


その叫びは、物理的な音量を超えて、彼らの閉ざされた魂を直接叩いた。


「レオは、命懸けで『舞台』を作った!それが、どんなに間違っていても!あの子は本気だった!なのに、残された私たちが、チンピラに殺されてエンドロール!?そんな三文芝居、あたしは認めない!」


ナラは鉄扇を構え、涙を流しながら、それでも不敵に笑ってみせた。


「あたしたちは生き残った!だったら、足掻くのが義務でしょうが!立ちなさい!」


その熱が、伝播した。

ゴウの瞳に、光が戻る。

ゴウはふらりと立ち上がった。

折れた指の激痛を無視し、ポケットに残っていた試験管を歯で噛み砕いて開封する。

彼は即席の爆燃ガスを生成し、敵の密集地帯へ投げつけた。

ルルが顔を上げた。

ルルはキッチンの椅子を掴み、力任せに振り回した。

その一撃が、敵の足を砕く。

そして、ケンジとアリア。

親としての後悔は消えない。だが、目の前で「娘」が戦っている。

アリアの手が、錆びついた剣の柄を握りしめた。

ケンジが、白衣の袖をまくり上げた。

アリアの剣が唸りを上げ、ケンジが的確な急所打撃で敵を無力化する。

かつての「最強の夫婦」が、その牙を剥いた。


形勢は逆転した。

傷だらけで、涙と鼻水にまみれ、それでも「生きる」という執念に燃える修羅の集団。

ナラが舞う。

鉄扇が開くたびに、敵の骨が砕ける音が響く。

だが、その攻撃はレオを殺した時のような冷徹なものではない。

熱く、激しく、そして泥臭い。


「あんたたちにはわからないでしょうね!痛みも、悲しみも、後悔も!全部飲み込んで進む強さが!」


リーダーがナイフを振り回す。


「くそっ、化け物め!」


ナラはそれを紙一重でかわし、懐に飛び込む。


「化け物?上等よ!あたしはナラティブ・ヴェリタス!このふざけた世界で、真実を暴き続ける探偵よ!!」


ナラの鉄扇が、リーダーの顎を打ち抜いた。

リーダーが吹き飛び、壁に激突して失神する。

残りの手下たちも、アリアとゴウによって完全に制圧されていた。


静寂が戻った。

リビングはめちゃくちゃだった。全員、怪我だらけで、服はボロボロだ。

肩で息をするナラたち。

ふと、ルルがへたり込み、泣き出した。


「う……うあぁぁん……怖かったよぉ……」


ゴウが、折れた手でルルの頭を不器用に撫でる。


「……僕もだ。足が震えて、止まらなかった」


アリアが剣を収め、ケンジに寄りかかる。


「……私たち、まだやれるかしら」


「やれるさ。……あの子たちが、まだ僕らを必要としてくれている」


ナラは、レオの遺影が落ちている場所へ歩み寄った。

写真のガラスは割れ、泥で汚れている。

ナラはそれを拾い上げ、袖で丁寧に汚れを拭った。

写真の中のレオは、変わらず無邪気に笑っている。


「……見た? レオ」


ナラは写真に語りかけた。


「あたしたちは、壊れない。あんたが壊そうとしても、世界が壊そうとしても。何度だって直して、生きていくわ」


ナラは振り返った。

ボロボロの仲間たちが、ナラを見ている。

その目には、もう虚無はない。あるのは、明日を生きるための光。


窓の外は、雨が上がっていた。

雲の切れ間から、朝日が差し込み、荒れ果てたリビングを照らす。

それは、決して元通りにはならないけれど、新しく始まる「再生」の光だった。

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