第1話:引退宣言!
その日の朝、王都の空は、青かった。
獣病院の二階、かつて「ヴェリタス探偵事務所」の看板が掲げられていたドアには、今は何もない。看板は外され、物置の奥深くにしまわれている。
キッチンから、トントンという包丁の音が響く。
ナラティブ・ヴェリタスは、エプロンをつけてリンゴの皮を剥いていた。かつて鉄扇を振るい、悪党の骨を砕いていたその手は、今は不器用に果物ナイフを握っている。
「あら、ナラ。手つきが良くなったわね」
アリアが洗濯物を抱えて通りかかる。
「……そう? ケンジさんに教えてもらったのよ」
「ふふ、ケンジらしいわね。でも、いい顔になったわ。半年前とは大違い」
アリアの言葉に、ナラは曖昧に微笑んだ。
あの日。
ナラは、逃げ出したのだ。
「探偵」の名の下に舞い込んでくる依頼は、どれも凄惨すぎた。誘拐された子供の遺体捜索、貴族の裏金工作、スラムでの臓器売買。
解決しても、解決しても、次から次へと人間の汚物が溢れ出してくる。
ある雨の日、路地裏で自分の手が震えて止まらなくなった時、ナラは悟った。
――ああ、これ以上は無理だ。あたしが壊れる。
だから、全部捨てた。
鉄扇も、黒いドレスも、探偵の看板も。
ここはシェルターだ。優しいケンジと、強いアリアと、騒がしいルルと、賢いゴウがいる、硝子でできた聖域。
「ナラさん! おはようございます!」
勝手口から、元気な声が飛び込んできた。
亜麻色の髪をした少年、レオだ。
彼は大きな紙袋を抱えて、太陽のような笑顔で入ってきた。
「レオ、早いのね」
「市場で新鮮なハーブが出てたんです!ナラさんが最近よく眠れないって言ってたから、ケンジ先生に調合を教わろうと思って」
レオ。15歳の少年。
ナラが探偵を始めて間もない頃、人質立てこもり事件から救出した被害者だ。
身寄りのない彼は、それ以来、獣病院に入り浸っている。
彼はナラの「引退」を、誰よりも肯定してくれた存在だった。
「ナラさんはもう、十分戦いましたよ。これからは、僕たちがナラさんを守りますから」
その言葉が、どれだけナラの傷ついた心を救ったかわからない。
ナラは、剥いたばかりのリンゴをレオの口に放り込んだ。
「……ありがと。生意気な弟ね」
「むぐっ……おいひいです!」
平和だ。
この時間が永遠に続けばいい。
ナラは本気でそう願っていた。
その日の午後、平和な空気は一変した。
外出から戻ったエラーラが、珍しく険しい顔でリビングに入ってきた。手には王都新聞が握られている。
「……これを見たまえ」
エラーラがテーブルに新聞を広げる。
一面の見出しには、どす黒い文字が踊っていた。
『闇の処刑人、再臨?悪徳貴族、全身粉砕により死亡』
ナラの心臓が、跳ねた。
「なに、これ……」
「昨夜の事件だ。被害者は裏社会と繋がりのある男爵。屋敷の書斎で殺害された。」
エラーラは淡々と、しかし残酷な事実を告げる。
「死因は、強烈な打撃による全身の複雑骨折。現場には魔法の痕跡がほとんどない。人体の構造的弱点を突いた一点突破の破壊。……つまり。君の『鉄扇術』と酷似している」
空気が凍りついた。
ゴウが青ざめた顔で口を開く。
「ま、まさか。ナラさんはずっとここにいましたよ! 昨日だって、早めに寝たし……」
「でも、夜中のことは誰も証明できないわ」
ルルが震える声で言う。
「ナラ、やってないよね? ね?」
ナラは自分の手を見つめた。
震えている。
まさか。
夢遊病?ストレスのあまり、無意識に抜け出して、昔のように悪人を狩っている?
だって、あの感触は覚えている。骨が砕ける音。肉が潰れる感触。それが指先に染み付いている。だけど……
「ち、違う……あたしじゃない……。あたしはもう、引退したの……」
だが、世間はそう見ない。
新聞には、目撃者の証言としてこう書かれていた。
『黒いコートを着た小柄な人影を見た』
『あれは間違いなく、あの探偵だ』
ナラティブ・ヴェリタスが引退したのは、表向きには「休業」とされている。
人々は噂した。
「探偵業なんてなまぬるいことは辞めて、本職の『殺し屋』に戻ったんだ」
「やっぱりあの女は怪物の類だ」
獣病院の電話が鳴り止まない。
窓の外には、興味本位の野次馬や、疑いの目を向ける記者たちが集まり始めていた。
夜。ナラは自室に引きこもっていた。
カーテンを閉め切り、布団を被って震えていた。
(……あたしじゃない)
だが、心のどこかで囁く声がある。
『お前が殺したも同然だ』
『お前が引退して逃げたから、悪人たちがのさばり、誰かが代わりに手を下したんだ』
『それはお前の影だ。お前が生み出した業だ』
ドアが控えめに叩かれた。
「ナラさん。……レオです」
ナラは、返事ができなかった。
レオに合わせる顔がない。あんなに「平和に暮らしましょう」と言ってくれたのに、あたしのせいで、また血の匂いがこの家に入り込んでしまった。
鍵をかけていなかったドアが開く。
レオが入ってきた。手には、湯気の立つハーブティー。
「……入らないで。あたしは、やっぱり人殺しなのかもしれない」
ナラは布団の中から掠れた声で言った。
レオは何も言わず、ベッドの端に腰掛けた。
そして、布団の上からナラの背中を優しく撫でた。
「違いますよ、ナラさん。ナラさんがやるわけがない。僕が一番よく知っています」
「でも、手口が……あたしと同じなのよ……」
「誰かが真似しただけです。ナラさんの名声を汚そうとする、卑劣な模倣犯です」
レオの声は、甘いシロップのようにナラの耳に溶け込んだ。
「世間なんて、勝手なものです。助けている時は英雄だと持ち上げ、いなくなれば怪物だと罵る。そんな奴らの声なんて、聞く価値はありません」
レオが布団をめくる。
ナラは、怯えた子供のような目でレオを見上げた。
レオは慈愛に満ちた瞳で微笑み、ナラの手を握った。
「ナラさんは、ここにいていいんです。外の世界がどんなに騒いでも、僕たちが守ります。この部屋から出なくていい。ニュースも見なくていい。ただ、僕の淹れたお茶を飲んで、笑っていてください」
それは、「優しさ」という名の「軟禁」の提案だった。
考えることを放棄させ、真実から目を背けさせ、ただ依存させるための甘い毒。
だが、今のナラには、その毒が何よりも必要だった。
「……レオ……」
「はい。僕はずっとそばにいますよ。ゴウも、ルルも、みんなナラさんの味方です。だから、もう『探偵』なんて汚い仕事のこと、思い出さないで」
ナラはレオに縋り付いて泣いた。
レオはナラの頭を撫でながら、窓の外――記者たちが騒ぐ王都の夜景を、冷徹な目で見据えていた。
翌日、ナラへの疑いは、奇妙な形で晴れた。
警察に「真犯人」を名乗る男から犯行声明が届いたのだ。
『ナラティブ・ヴェリタスは偽物だ。俺こそが本物の制裁者だ』
同時に、ナラのアリバイを証明する証言――「昨夜、彼女はずっとレオと庭で星を見ていた」という目撃情報が、複数の近隣住民から寄せられた。
「よかった! これで疑いは晴れたわ!」
ルルが手を取り合って喜ぶ。
ナラは安堵のため息をついた。
「……よかった……」
エラーラだけは、怪訝な顔をしていた。
「……タイミングが良すぎる。それに、あの目撃証言……操作されたような違和感がある」
だが、ナラはエラーラの言葉を遮った。
「もういいの、お母様。終わったことよ。犯人が誰かなんて、警察に任せればいいわ」
ナラは思考を停止することを選んだ。
レオがくれた安息に逃げ込むことを選んだ。
夕暮れ時。
ナラとレオは、病院の庭のベンチに座っていた。
「綺麗な夕焼けですね、ナラさん」
「ええ……。ねえ、レオ。あたし、もう二度とあっち側には戻らないわ」
「はい。約束です」
レオはニッコリと笑い、ナラの小指に自分の小指を絡めた。
「ナラさんは、僕だけのヒーローでいてくださいね。」
その言葉の真意に気づくことなく、ナラは少年の肩に頭を預けた。
穏やかな風が吹く。
それは、嵐の前の静けさなどという、生易しいものではない。
巨大な断頭台の刃が、音もなく吊り上げられていく音だった。




