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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
探偵よさらば
155/238

第1話:引退宣言!

その日の朝、王都の空は、青かった。

獣病院の二階、かつて「ヴェリタス探偵事務所」の看板が掲げられていたドアには、今は何もない。看板は外され、物置の奥深くにしまわれている。

キッチンから、トントンという包丁の音が響く。

ナラティブ・ヴェリタスは、エプロンをつけてリンゴの皮を剥いていた。かつて鉄扇を振るい、悪党の骨を砕いていたその手は、今は不器用に果物ナイフを握っている。


「あら、ナラ。手つきが良くなったわね」


アリアが洗濯物を抱えて通りかかる。


「……そう? ケンジさんに教えてもらったのよ」


「ふふ、ケンジらしいわね。でも、いい顔になったわ。半年前とは大違い」


アリアの言葉に、ナラは曖昧に微笑んだ。

あの日。

ナラは、逃げ出したのだ。

「探偵」の名の下に舞い込んでくる依頼は、どれも凄惨すぎた。誘拐された子供の遺体捜索、貴族の裏金工作、スラムでの臓器売買。

解決しても、解決しても、次から次へと人間の汚物が溢れ出してくる。

ある雨の日、路地裏で自分の手が震えて止まらなくなった時、ナラは悟った。


――ああ、これ以上は無理だ。あたしが壊れる。


だから、全部捨てた。

鉄扇も、黒いドレスも、探偵の看板も。

ここはシェルターだ。優しいケンジと、強いアリアと、騒がしいルルと、賢いゴウがいる、硝子でできた聖域。


「ナラさん! おはようございます!」


勝手口から、元気な声が飛び込んできた。

亜麻色の髪をした少年、レオだ。

彼は大きな紙袋を抱えて、太陽のような笑顔で入ってきた。


「レオ、早いのね」


「市場で新鮮なハーブが出てたんです!ナラさんが最近よく眠れないって言ってたから、ケンジ先生に調合を教わろうと思って」


レオ。15歳の少年。

ナラが探偵を始めて間もない頃、人質立てこもり事件から救出した被害者だ。

身寄りのない彼は、それ以来、獣病院に入り浸っている。

彼はナラの「引退」を、誰よりも肯定してくれた存在だった。


「ナラさんはもう、十分戦いましたよ。これからは、僕たちがナラさんを守りますから」


その言葉が、どれだけナラの傷ついた心を救ったかわからない。

ナラは、剥いたばかりのリンゴをレオの口に放り込んだ。


「……ありがと。生意気な弟ね」


「むぐっ……おいひいです!」


平和だ。

この時間が永遠に続けばいい。

ナラは本気でそう願っていた。


その日の午後、平和な空気は一変した。

外出から戻ったエラーラが、珍しく険しい顔でリビングに入ってきた。手には王都新聞が握られている。


「……これを見たまえ」


エラーラがテーブルに新聞を広げる。

一面の見出しには、どす黒い文字が踊っていた。


『闇の処刑人、再臨?悪徳貴族、全身粉砕により死亡』


ナラの心臓が、跳ねた。


「なに、これ……」


「昨夜の事件だ。被害者は裏社会と繋がりのある男爵。屋敷の書斎で殺害された。」


エラーラは淡々と、しかし残酷な事実を告げる。


「死因は、強烈な打撃による全身の複雑骨折。現場には魔法の痕跡がほとんどない。人体の構造的弱点を突いた一点突破の破壊。……つまり。君の『鉄扇術』と酷似している」


空気が凍りついた。

ゴウが青ざめた顔で口を開く。


「ま、まさか。ナラさんはずっとここにいましたよ! 昨日だって、早めに寝たし……」


「でも、夜中のことは誰も証明できないわ」


ルルが震える声で言う。


「ナラ、やってないよね? ね?」


ナラは自分の手を見つめた。

震えている。

まさか。

夢遊病?ストレスのあまり、無意識に抜け出して、昔のように悪人を狩っている?

だって、あの感触は覚えている。骨が砕ける音。肉が潰れる感触。それが指先に染み付いている。だけど……


「ち、違う……あたしじゃない……。あたしはもう、引退したの……」


だが、世間はそう見ない。

新聞には、目撃者の証言としてこう書かれていた。


『黒いコートを着た小柄な人影を見た』


『あれは間違いなく、あの探偵だ』


ナラティブ・ヴェリタスが引退したのは、表向きには「休業」とされている。

人々は噂した。


「探偵業なんてなまぬるいことは辞めて、本職の『殺し屋』に戻ったんだ」


「やっぱりあの女は怪物の類だ」


獣病院の電話が鳴り止まない。

窓の外には、興味本位の野次馬や、疑いの目を向ける記者たちが集まり始めていた。


夜。ナラは自室に引きこもっていた。

カーテンを閉め切り、布団を被って震えていた。


(……あたしじゃない)


だが、心のどこかで囁く声がある。


『お前が殺したも同然だ』


『お前が引退して逃げたから、悪人たちがのさばり、誰かが代わりに手を下したんだ』


『それはお前の影だ。お前が生み出した業だ』


ドアが控えめに叩かれた。


「ナラさん。……レオです」


ナラは、返事ができなかった。

レオに合わせる顔がない。あんなに「平和に暮らしましょう」と言ってくれたのに、あたしのせいで、また血の匂いがこの家に入り込んでしまった。


鍵をかけていなかったドアが開く。

レオが入ってきた。手には、湯気の立つハーブティー。


「……入らないで。あたしは、やっぱり人殺しなのかもしれない」


ナラは布団の中から掠れた声で言った。

レオは何も言わず、ベッドの端に腰掛けた。

そして、布団の上からナラの背中を優しく撫でた。


「違いますよ、ナラさん。ナラさんがやるわけがない。僕が一番よく知っています」


「でも、手口が……あたしと同じなのよ……」


「誰かが真似しただけです。ナラさんの名声を汚そうとする、卑劣な模倣犯です」


レオの声は、甘いシロップのようにナラの耳に溶け込んだ。


「世間なんて、勝手なものです。助けている時は英雄だと持ち上げ、いなくなれば怪物だと罵る。そんな奴らの声なんて、聞く価値はありません」


レオが布団をめくる。

ナラは、怯えた子供のような目でレオを見上げた。

レオは慈愛に満ちた瞳で微笑み、ナラの手を握った。


「ナラさんは、ここにいていいんです。外の世界がどんなに騒いでも、僕たちが守ります。この部屋から出なくていい。ニュースも見なくていい。ただ、僕の淹れたお茶を飲んで、笑っていてください」


それは、「優しさ」という名の「軟禁」の提案だった。

考えることを放棄させ、真実から目を背けさせ、ただ依存させるための甘い毒。

だが、今のナラには、その毒が何よりも必要だった。


「……レオ……」


「はい。僕はずっとそばにいますよ。ゴウも、ルルも、みんなナラさんの味方です。だから、もう『探偵』なんて汚い仕事のこと、思い出さないで」


ナラはレオに縋り付いて泣いた。

レオはナラの頭を撫でながら、窓の外――記者たちが騒ぐ王都の夜景を、冷徹な目で見据えていた。


翌日、ナラへの疑いは、奇妙な形で晴れた。

警察に「真犯人」を名乗る男から犯行声明が届いたのだ。


『ナラティブ・ヴェリタスは偽物だ。俺こそが本物の制裁者だ』


同時に、ナラのアリバイを証明する証言――「昨夜、彼女はずっとレオと庭で星を見ていた」という目撃情報が、複数の近隣住民から寄せられた。


「よかった! これで疑いは晴れたわ!」


ルルが手を取り合って喜ぶ。

ナラは安堵のため息をついた。


「……よかった……」


エラーラだけは、怪訝な顔をしていた。


「……タイミングが良すぎる。それに、あの目撃証言……操作されたような違和感がある」


だが、ナラはエラーラの言葉を遮った。


「もういいの、お母様。終わったことよ。犯人が誰かなんて、警察に任せればいいわ」


ナラは思考を停止することを選んだ。

レオがくれた安息に逃げ込むことを選んだ。

夕暮れ時。

ナラとレオは、病院の庭のベンチに座っていた。


「綺麗な夕焼けですね、ナラさん」


「ええ……。ねえ、レオ。あたし、もう二度とあっち側には戻らないわ」


「はい。約束です」


レオはニッコリと笑い、ナラの小指に自分の小指を絡めた。


「ナラさんは、僕だけのヒーローでいてくださいね。」


その言葉の真意に気づくことなく、ナラは少年の肩に頭を預けた。

穏やかな風が吹く。

それは、嵐の前の静けさなどという、生易しいものではない。

巨大な断頭台の刃が、音もなく吊り上げられていく音だった。

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