第15話:笑いの絶望と、英雄の喜劇!
王都の夜空に、不気味なファンファーレが響き渡る。
場所は、かつて廃業したはずの古いサーカス小屋「ミッドナイト・サーカス」。
今夜、そこから漏れ出るのは、歓声ではない。
呼吸困難に陥るほどの、狂った「笑い声」だ。
「……アハハ! アハハハハ! 助けて! 止まらないの! ギャハハハ!」
小屋から逃げ出してきた市民たちは、顔を引きつらせ、涙を流しながらも笑い続けていた。
「……趣味が悪いですわね。笑いというのは、心から溢れるものでしてよ?」
漆黒のドレススーツに身を包んだナラティブ・ヴェリタスは、ハンカチで口元を覆いながら、冷徹な眼差しを向けた。
その隣には、巨大な音響解析機を背負った白衣の美女、エラーラ・ヴェリタスが立っている。
「ふむ。空間内の『笑気性マナ濃度』が致死量を超えている……」
エラーラがゴーグルを調整し、深刻な声で告げた。
「強制的な感情操作。……『笑わなければ死ぬ』という強迫観念が、ウイルスとなって伝染しているんだ」
「笑わなければ、死ぬ……?」
「ああ。……そして、その中心にいる怪異は、皮肉なことに『笑うことができない』存在だ」
エラーラはタブレット端末に、サーカス小屋の内部反応を映し出した。
ステージの中央に佇む、一人のピエロ。
「彼の名は、ジョー。……50年前、この国で一番のコメディアンだった男だ」
「コメディアンが、どうしてこんな呪いを?」
「彼は、当時の権力者である市長ギグルスの不正を、風刺ネタにして笑い飛ばしたんだ。民衆は大喝采したが、ギグルスは激怒した」
エラーラの声が、静かな怒りを帯びる。
「ギグルスはジョーを捕らえ、拷問にかけた。『二度と私を笑い者にできないようにしてやる』と……彼の顔の筋肉を切り刻み、笑顔を作れない体にした上で、サーカスの舞台に立たせ続けたんだ」
観客は、無表情で芸をするジョーを見て、最初は戸惑い、やがて「不気味だ」と石を投げた。
ジョーは、心では泣きながら、それでも客を笑わせようと必死に動いた。
だが、届かなかった。
絶望の中で彼は死に、その怨念が今、この「死のサーカス」を開演させている。
「……許せませんわ」
ナラの手の中で、鉄扇がバキリと音を立てた。
「笑いは、人間に許された最高の救いですわ。……それを奪い、あまつさえ恐怖に変えるなんて」
ナラは、エラーラの方を向いた。
その瞳には、これまでのどの事件よりも強く、激しい「正義」の炎が燃えていた。
「お母様。……行きましょう」
「ああ。……最高の笑顔で飾ろうじゃないか」
二人は頷き合い、極彩色のテントの中へと足を踏み入れた。
テントの中は、地獄の遊園地だった。
色とりどりの風船が浮いているが、それは人の生首の形をしている。
玉乗りの玉は髑髏だ。
そして、ステージの中央には、巨大なピエロの怪異――『嘆きの道化師』が立っていた。
『……ワラエ……。ワラッテクレ……。オレハ……オモシロイダロ……?』
怪異がジャグリングのクラブを投げると、それが空中で刃物に変わり、ナラたちに襲いかかる。
「お待ちなさいッ!!」
ナラは鉄扇を開き、舞うように刃を弾き飛ばした。
火花が散る。
「無理やり笑わせようなんて、芸人失格ですわよ! ユーモアの欠片もありませんわ!」
『ウルサイ……! オマエモ……ワラワセテヤル……!』
怪異が巨大化し、触手のような腕でナラを捕らえようとする。
その指先からは、神経を麻痺させる笑気ガスが噴き出している。
「ナラ君! 呼吸を止めろ! 吸い込んだら最後だ!」
エラーラが叫び、魔導送風機を展開してガスを吹き飛ばす。
「ええ! ……でも、懐に入らないと捕まえられませんわ!」
ナラは息を止め、ドレスの裾を翻して突っ込んだ。
触手が迫る。
ナラはスライディングで股下を抜け、怪異の軸足を思い切り蹴り上げた。
「転びなさいッ!」
怪異がバランスを崩し、派手に転倒する。
まるで喜劇のワンシーンのように。
「今だ、お母様!」
「ナイスボケだ、ナラ君!」
エラーラが飛び出し、『因果抽出式・時間逆行注射器』を怪異の背中に突き刺した。
「成分、抽出ッ!」
怪異が悲痛な声を上げ、シリンダーの中に灰色の液体――「笑えない悲しみ」が満たされていく。
怪異の姿が揺らぎ、本来のジョーの姿が一瞬だけ浮かび上がった。
「……解析完了。座標特定!」
エラーラはシリンジを引き抜き、ナラの方へ走った。
だが、怪異はまだ消滅していない。
最後の力を振り絞り、サーカス小屋全体を崩壊させようと暴れ始めたのだ。
「ナラ! 急げ! こいつを止めるには、過去の『オチ』を変えるしかない!」
エラーラはシリンジを構えた。
その手は、震えていなかった。
これから娘を死地へ送り出すというのに、彼女の瞳には絶対的な信頼があった。
「……ナラ」
エラーラは、注入の直前、ナラの手を握った。
「君は、私の誇りだ。……どんな過去も、どんな悲劇も、君ならきっと『ハッピーエンド』に書き換えられる」
エラーラの言葉が、ナラの胸に染み渡る。
かつて、名前もなく、物語もなかったナラ。
そんな彼女が今、世界を救うヒーローとしてここに立っている。
それは、目の前の母が、ずっと信じてくれたからだ。
「……行ってくるわ、お母様」
ナラは、エラーラの手を握り返し、ニカっと笑った。
その笑顔は、どんな宝石よりも眩しかった。
「あたしが、最高に笑える結末にしてきてあげるわ!」
灰色の液体が魔導回路に注入される。
ナラの意識が、50年前の拷問部屋へと飛んだ。
50年前。市長公邸の地下室。
湿ったカビの臭いと、錆びた鉄の臭い。
「……笑えよ、ジョー君」
市長ギグルスが、ニヤニヤと笑いながらナイフを弄んでいた。
椅子に縛り付けられた青年、ジョーは、恐怖で震えている。
「君は私を笑い者にしたんだろう? ……なら、今ここで笑ってみせろ。私が君の顔を切り刻む間も、ずっと笑っていられるようにな」
ギグルスは、ジョーの頬に刃を当てた。
「や、やめて……! 許してくれ……!」
「許さん。権力者を侮辱した罪は、その笑顔で償ってもらおう」
ギグルスが力を込めた、その瞬間。
「――あら、お取り込み中ですの?」
場違いに明るい声が、地下室に響いた。
「な、誰だ!?」
ギグルスが振り返る。
扉が蹴破られ、一人の美女が入ってきた。
漆黒のドレスに身を包んだナラティブ・ヴェリタスだ。
彼女の手には、なぜか「パイ」が乗せられた皿が握られている。
「通りすがりのエンターテイナーですわ」
ナラは優雅に一礼した。
「市長さん。……あなた、笑いのセンスが絶望的ですわね」
「な、なんだと……?」
「人を傷つけて笑うなんて、三流の悪役でもやりませんわよ? ……一流のコメディはね」
ナラは、目にも留まらぬ速さでパイを投げた。
「こういうのを言うんですのよッ!!」
パイが見事にギグルスの顔面に命中した。
生クリームまみれになる市長。
縛られていたジョーが、思わず吹き出した。
「き、貴様ァァァッ! 私の顔に何を!」
ギグルスが激昂し、ナイフを振り回してナラに向かってくる。
「殺してやる! 八つ裂きにしてやる!」
「暴力反対! ……ここは舞台ですわよ!」
ナラは、部屋の隅にあったモップを手に取り、ギグルスの足元に転がした。
ギグルスが派手に転倒する。
ナラは、すかさずテーブルクロスを引き抜き、転んだギグルスの上にふわりとかけた。
そして、手品師のように指を鳴らす。
「消えてなくなれ、悪い政治家!」
ナラがクロスをめくると――ギグルスは消えていなかったが、その上に置いてあった花瓶の水が、彼の頭からバシャリとかかった。
「つめたッ!?」
「あら失敗。……水も滴る汚い男、の完成ですわね」
ナラは、ギグルスを徹底的に「コケ」にした。
殴るのではない。蹴るのでもない。
パイを投げ、足を引っ掛け、水をかけ、バナナの皮で滑らせる。
権威を振りかざす男が、無様に転げ回る姿。
それは、残酷な拷問部屋を、一瞬にして「ドタバタ喜劇」の舞台へと変えた。
「ひぃぃ! や、やめろ! 私は市長だぞ!」
クリームと水と泥にまみれたギグルスが、這いつくばって逃げようとする。
ナラは、その背中を踏みつけた。
そして、冷ややかに見下ろした。
「市長? ……いいえ、今のあんたはただの『ピエロ』よ」
ナラは、ジョーの方を振り返った。
ジョーは、涙を流しながら、腹を抱えて笑っていた。
恐怖が消え、純粋な「おかしさ」が彼を救っていた。
「……笑えた?」
ナラが尋ねる。
「あ、ああ……! 最高だ……! あんた、最高だよ!」
ジョーが答える。
ナラは、ジョーの縄を解いた。
「覚えときなさい。……笑いは、剣よりも強いのよ」
ナラは、ジョーの手を取って立たせた。
「権力なんて、笑い飛ばしてやりなさい。……恐怖に屈して顔を強張らせるんじゃない。あんたの武器は、その『笑顔』なんでしょ?」
「……はいっ!」
ナラは、倒れているギグルスを一瞥した。
「この男はもう、誰も傷つけられない。……一生、今日の恥を背負って生きるのよ」
ナラの体が光に包まれる。
タイムリミットだ。
「さあ、幕引きよ。……最高のオチをつけてきなさい!」
ジョーは、ナラに向かって深くお辞儀をした。
それは、命の恩人へ捧げる、最高の芸人の礼だった。
「……ッは!」
ナラが目を開けると、現代のサーカス小屋だった。
静寂。
先ほどまでの狂気じみた笑い声も、怪異の気配も、きれいに消え失せていた。
「おかえり、ナラ君」
エラーラが、ステージの上で待っていた。
彼女の手には、一枚の古びたポスターが握られている。
「見てごらん」
ポスターには、満面の笑みを浮かべた伝説のコメディアン、ジョーの写真があった。
『伝説の喜劇王ジョー。権力を笑い飛ばし、世界中に笑顔を届けた男』
「彼はあの日から、一度も笑うことをやめなかった。……ギグルス市長は失脚し、ジョーは国民的英雄になったんだ」
「……ふふ。ハッピーエンドね」
ナラは、ポスターのジョーの笑顔を見て、つられて微笑んだ。
奪われた笑顔は戻り、悲劇は喜劇へと書き換えられた。
「終わったね」
エラーラが言った。
「ええ。……全部、終わりましたわ」
ナラは、大きく息を吐いた。
これで、街にはびこる怪異はあらかた片付いたはずだ。
平和が戻る。
でも、それは同時に、一つの「予感」を連れてくる。
「……ねえ、お母様」
ナラは、エラーラの方を向いた。
月明かりが、スポットライトのように二人を照らしている。
「あたしたち……いいコンビだったわよね?」
「何を言うんだ。……『だった』じゃないだろう」
エラーラは、ナラに歩み寄り、その手を取った。
「これからもだ。……世界にはまだ、救われていない物語がたくさんある」
エラーラは、ナラの瞳を覗き込んだ。
その黄金の瞳には、ナラへの信頼と、そしてこれからの未来への希望が満ちていた。
「私の科学と、君の物語。……この二つがあれば、どんなバッドエンドも覆せる」
「……そうね」
ナラは、エラーラの手を強く握り返した。
胸の奥が熱くなる。
この人がいれば、あたしはどこへでも行ける。
どんな敵とも戦える。
「約束よ、お母様。……あたしがおばあちゃんになっても、一緒にバカやってよね」
「もちろんだ。……その頃には、私は不老不死の薬を完成させているかもしれないがね」
「やめてよ! 一緒に年を取りなさい!」
二人は顔を見合わせ、吹き出した。
その笑い声は、かつての呪われたサーカス小屋を、温かい劇場へと変えていく。
「さあ、帰ろうナラ君! ……実は、留守番のケンジ君たちに、特大のピザを頼んでおいたんだ!」
「あら! 気が利きますわね! あたし、チーズ増量がいいわ!」
「了解だ! カロリーなんて概念は、今夜だけは忘却しよう!」
二人は腕を組み、夜の街へと歩き出した。
その背中は、頼もしく、そして何よりも楽しそうだった。




