第1話:消えた老婆!
●今回は完全にエンタメ。細かい話は一切ありません。
王都の外れ。
古いレンガ造りの建物に絡まる蔦が、初夏の風に揺れている。
看板には『獣病院』。だが、その実態は、王都でも指折りの「厄介事」を引き受ける探偵事務所であり、魔導研究施設であり、何より――変人たちの巣窟であった。
「……解せぬ」
2階の事務所。
白衣を纏った銀髪の美女、エラーラ・ヴェリタスが、ビーカーに入った黒い液体を光に透かして唸っていた。
「何がよ、お母様。またコーヒーの抽出実験?」
窓際のソファで、黒いドレスに身を包んだナラティブ・ヴェリタスが、呆れたように足を組み替えた。
彼女の手には赤ワイン……ではなく、最高級のブドウジュース。探偵という仕事柄、昼間から酒を飲むわけにはいかないが、雰囲気だけはハードボイルドを崩さないのが彼女の流儀だ。
「違うよナラ。この『王都限定・激辛コーヒー豆』の成分構造だ。なぜ人類は、安らぎであるべき珈琲に、闘争を求めたのか……。これは哲学的命題だよ」
「ただのゲテモノ商品でしょ……捨てなさいよ」
平和だ。
アシスタントのゴウ・オクトーバーが、床に散らばった文献を片付けながら苦笑している。
窓の外では、野良猫たちが気ままに昼寝をしている。
この穏やかな時間が、薄氷の上に成り立っていることを、ナラはまだ知らなかった。
その氷を割る「ノック」が響いたのは、午後2時のことだった。
弱々しく、遠慮がちなノック音。
「……ど、どうぞー」
ゴウが扉を開けると、そこに立っていたのは、ピンク色の古着を着た大柄な少女、ルル・オーガストだった。
彼女は長い前髪で顔を隠し、全身をガタガタと震わせていた。
「あ、あの……ナラさん……」
「あら、ルルじゃない。どうしたの? またストーカーの報告?」
「ち、ちが……今日は……その……」
ルルは、震える手でポケットから一枚の紙切れを取り出した。
それは、広告の裏紙を破ったような、雑なメモだった。
「……ゆうれいって……手紙、書きますか……?」
「はあ?」
ナラが眉をひそめる。
ルルが差し出した紙切れ。そこには、ミミズがのたうつような、乱れた筆跡で、たった一言だけ書かれていた。
『 た す け て 』
インクが滲んでいる。まるで、涙が落ちたかのように。
ナラの背筋に、冷たいものが走った。
「これ、誰から?」
「……ハンナさん。……三日月商店街の、パン屋の、お婆ちゃん……」
ルルは泣きそうな声で言った。
「でも……ハンナ・ミラーさんは、半年前に、田舎の施設に行って……もう、この街にはいないはずなんです……」
王都の下町エリア、第8区画。
再開発の波から取り残され、かつての賑わいを失った「三日月商店街」。
ナラは、愛用の鉄扇を腰に帯び、そのアーケードの下を歩いていた。
「……変ね」
ナラが呟く。
隣を歩く北都の画家、リウ・ヴァンクロフトが、キセルをふかしながら同意した。
「ああ、変だねぇ。この街、『綺麗すぎる』よ」
シャッター通りだ。ほとんどの店が閉まっている。
普通、こういう場所は荒れるものだ。ゴミが散乱し、落書きが増え、浮浪者が住み着く。
だが、ここは違う。
アスファルトには塵一つ落ちていない。シャッターには錆一つない。街灯のガラスは曇りなく磨かれ、道端の花壇には色とりどりのパンジーが、定規で測ったように整然と植えられている。
「まるで、誰かが毎日、完璧に手入れしているみたいね」
「あるいは、書き割りの舞台セットだね。生活感がしない」
リウが鋭い指摘をする。
すれ違う住民たちも奇妙だった。
八百屋の親父、散歩中の老人、立ち話をする主婦。
彼らはナラたちを見ると、一斉に動きを止め、そして、ニッコリと笑うのだ。
「こんにちは! 良いお天気ですね!」
「ようこそ三日月商店街へ! ゆっくりしていってください!」
明るい声。完璧な笑顔。
だが、その目は笑っていない。まるで、「余計なものを見るな」と拒絶しているかのように、瞳の奥が濁っている。
「……気味が、悪いわ」
ナラは身震いした。
ルルによれば、半年前に失踪したハンナという老婆は、この商店街で50年もパン屋を営んでいた名物店主だったという。
頑固で、口が悪くて、でも焼くパンは絶品だった。
そんな彼女が、ある日突然「田舎で療養する」と言って店を畳んだ。
誰もが「急な話だ」と驚いたが、誰も深く追求しなかった。
なぜなら、「彼」がそう説明したからだ。
「おや? お客様ですか?」
不意に、背後から声をかけられた。
ナラが振り返ると、そこに一台の赤い自転車が止まっていた。
乗っていたのは、初老の男。
使い込まれた制服。帽子を目深に被り、丸眼鏡の奥の糸目は、優しげに細められている。
荷台には、革製の大きな鞄。
この街の郵便配達員。通称、「郵便屋」。
「見かけないお顔ですね。探偵さん……ですね?」
男は、自転車を降りて丁寧に一礼した。
その所作には、長年この街に尽くしてきた者特有の、謙虚な自信が滲んでいる。
「ええ。ナラティブ・ヴェリタスよ。……ちょっと、人を探していてね」
「ほう。どなたでしょう? この街のことなら、何でも知っていますよ。どこの家のお父さんが痛風で、どこの奥さんがへそくりを隠しているかまでね」
郵便屋は冗談めかして笑った。
だが、ナラは笑えなかった。
郵便配達員。
それは、各家庭のポストという「聖域」に、合法的にアクセスできる唯一の職業。
督促状、年金通知、ラブレター、不採用通知。
彼は、この街の住民の「人生」を、その鞄の中に握っているのだ。
「……ハンナ・ミラー。パン屋の元店主よ」
ナラが告げると、郵便屋は悲しげに眉を下げた。
「ああ、ハンナさん……。ええ、よく知っていますよ。僕が、彼女の『最後』を見送りましたから」
「最後?」
「いえ、死んだわけではありませんよ。……ただ、認知症が進んでしまいましてね。火の不始末も増えて、ご近所さんが心配していたんです。身寄りのない方でしたから、僕が遠縁の親戚を探して、施設への入居を手続きしたんです」
完璧な説明だった。
地域に根ざした、心優しい配達員の鑑。
だが、ナラはポケットから、ルルが持ってきた「助けて」のメモを取り出した。
「でも、こんなものが届いたのよ。これ、彼女の筆跡よね?」
郵便屋は、メモを覗き込み、そして困ったように微笑んだ。
「ああ……これですか。ルルさんのところにも届いていましたか」
「にも?」
「ええ。実は、引越しの荷物を整理した際、ハンナさんが昔書いた『書き損じ』が、風で飛んでしまったようなんです。認知症の方特有の……被害妄想といいますか。昔、よくこういうメモを書いては、ゴミ箱に捨てていらしたので」
彼は、鞄から一通の封筒を取り出した。
「ご安心ください。ハンナさんは今、とても幸せに暮らしていますよ。ほら、これが昨日届いたばかりの手紙です」
ナラは封筒を受け取った。
美しい便箋。そこには、流麗な筆記体で、感謝の言葉が綴られていた。
『親愛なる郵便屋さんへ。おかげさまで、毎日楽しく過ごしています。そちらの皆様によろしくお伝えください。もう二度と、あの街には戻りません。探さないでください』
筆跡は、確かにハンナのものに『似ている』。
だが、以前見た彼女の帳簿の字よりも、遥かに整っていて、美しい。
「……随分と、綺麗な字を書くようになったのね」
「リハビリの成果ですよ。向こうの空気が合ったんでしょう」
郵便屋は、ニコリと笑った。
その笑顔に、ナラは違和感を覚えた。
完璧すぎるのだ。
街の風景と同じ。塵一つない、錆一つない、作り物のような笑顔。
「……そ。わかったわ。ありがとう」
ナラはその手紙を「預かる」と言って受け取り、その場を離れた。
背中で、郵便屋の視線を感じる。
粘着質な、それでいて冷徹な観察者の視線を。
夕方。獣病院の研究室。
窓の外は茜色に染まっていたが、室内は冷たい蛍光灯の光に満たされていた。
「……面白いねぇ」
エラーラが、顕微鏡から顔を上げた。
彼女の前には、ナラが持ち帰った「ハンナの手紙」が置かれている。
白衣のポケットからキャンディを取り出し、ガリガリと噛み砕く。
「どうだったの、お母様? ただの感謝状に見えるけど」
ナラが尋ねると、エラーラは冷笑を浮かべた。
「ナラ。この手紙の『行間』に潜む物理的な悲鳴を聞くべきだ」
エラーラは、モニターに拡大された文字の画像を映し出した。
「まず、インクの成分分析だ。……基本は市販の安物インクだが、微量な不純物が混入している」
「不純物?」
「『ヒトの骨髄液』と、『皮下脂肪』だ」
ナラが息を呑む。
リウが、スケッチブックを取り落とした。
「骨髄液……って、骨の中の?」
「ああ。推測だが……指先か手首を深く切傷し、そこから滲み出た体液が、インク壺に混ざった状態でペン先に吸い上げられたのだろう。……相当な出血量の中で書かれたものだ」
エラーラは次に、筆跡の拡大画像を指差した。
「そして、この流麗な文字。一見すると美しいが、筆圧のグラフを見てみたまえ」
グラフは、異常な乱高下を示していた。
「文字の『入り』と『止め』の部分で、異常な力が加わっている。つまりこれは、本人の意思で書いたものではない」
「どういうこと?」
「『ガイド』だよ」
エラーラは、自分の手首を掴んで見せた。
「誰かが、書き手の右手を万力のような力で掴み、無理やりペンを動かして『理想の文字』を書かせたのだ。抵抗しようとする本人の筋肉の動きと、それをねじ伏せる強制力が拮抗し、ノイズとして記録されている」
つまり、この手紙は……
血を流し、泣き叫ぶ老婆の手を、誰かが無理やり握りしめ、操り人形のようにして書かせた、「拷問の記録」だったのだ。
「……吐き気がするわね」
ナラは手紙を睨みつけた。
あの郵便屋の笑顔が脳裏をよぎる。
『リハビリの成果ですよ』
あれは、文字通り、筋肉を破壊し再構築するような「調教」の成果だったのか。
「お母様。この手紙、書かれたのはいつ?」
「インクの酸化具合から見て……三日前だ」
三日前。
半年前に「田舎へ行った」はずの老婆が、三日前に、まだ生々しい体液を流しながら、この手紙を書かされた。
彼女は、まだ近くにいる。
あの、綺麗すぎる商店街の、どこかの闇の中に。
その時。
事務所の電話がけたたましく鳴り響いた。
ゴウが受話器を取る。
「はい、ヴェリタス探偵事務所……えっ? ルルさん!? 落ち着いてください! 何があったんですか!?」
受話器の向こうから、錯乱したルルの悲鳴が漏れ聞こえる。
『ポスト! ポストがあぁぁぁ!!』
ナラは弾かれたように立ち上がった。
「ゴウ、場所は!?」
「ルルさんのアパートです! 今すぐ来てくださいって!」
ナラは窓を開け、手すりを蹴って飛び出した。
屋根を伝い、路地を駆け抜ける。
嫌な予感がする。
あの郵便屋は言っていた。『何でも知っていますよ』と。
彼にとって、ポストは、各家庭への侵入経路であり、支配の象徴なのだ。
ルルの住む、古びた木造アパート。
その一階の集合ポストの前で、ルルが腰を抜かして泣き叫んでいた。
「ナラさん!!」
ナラが駆け寄る。
ルルの視線の先。彼女の部屋番号「103」のポストの蓋が、少しだけ開いていた。
そこから、異様な臭いが漂ってくる。
鉄錆のような、甘ったるい臭い。血の臭いだ。
「開けるわよ?」
ナラは手袋をはめ、ポストの扉を開けた。
中には、可愛らしいピンクのリボンでラッピングされた、小さな小箱が入っていた。
まるで、誕生日プレゼントのように。
ナラは震える手で、リボンを解き、箱を開けた。
「……ッ!」
ナラは咄嗟にルルの目を手で覆った。
「見ちゃダメ!」
箱の中には、白い綿が敷き詰められていた。
その中央に、鎮座していたのは。
一本の、切断された「小指」だった。
老人のものと思われる、しわくちゃな指。
その第一関節には、古びた銀の指輪がはめられている。
そして、指の断面は、まるでインク壺に浸したかのように、黒く変色していた。
箱の底には、一枚のメッセージカード。
あの手紙と同じ、流麗で、完璧な筆跡で、こう書かれていた。
『 余 計 な 詮 索 は 、 あ な た の 大 切 な 人 を 傷 つ け ま す よ 』
「……あ、あぁ……」
ルルが足元から崩れ落ちる。
「これ……ハンナさんの指輪……ずっと、大事にしてた……旦那さんの形見の……」
ナラは、箱を握りしめた。
怒りで、視界が真っ赤に染まる。
これは警告だ。
「お前たちの行動は全て見ているぞ」という、配達人からの死の通知。
ナラは、夕闇に沈む三日月商店街の方角を睨みつけた。
そこには、相変わらず整然とした、死人のように綺麗な街並みがあるはずだ。
「……上等じゃないの」
ナラの赤い瞳が、夜の闇の中で冷たく光った。
「あんたの書いたシナリオ、あたしが全部破り捨ててやるわ。……『編集』の時間よ、クソ野郎」
王都の風が、不穏な音を立てて吹き抜ける。
それは、死体でできた街の秘密が暴かれる、嵐の前の静けさだった。




