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第1話:白い時計を探せ!

●私が白い時計をつけがちなのでそれにちなんだ話を。久々に主張のないエンタメ

これは、私がまだ「探偵ナラティブ・ヴェリタス」としての名を上げる前。

エラーラという偉大な魔導師の庇護を離れ、たった一人で受けた、記念すべき最初の依頼の話だ。そして、黒一色のドレスに身を包む私が、なぜこの「真っ白な腕時計」だけを左手首に巻き続けているのか、その理由でもある。

その頃の私は、世界を単純に捉えていた。

善と悪。強者と弱者。

すべては二択で別けられる。

私の仕事は、虐げられた弱者を救い、隠された真実を暴くことだ。

……そう、無邪気に信じていた。


「……取り返してくれ。あれは、僕の命なんだ」


依頼人の男は、ソファの端で小さくなっていた。

名はセドリック。

長く尖った耳、透き通るような金髪、そして宝石のような瞳。

彼はエルフだった。この世界において、魔力と寿命と美貌に恵まれた、選ばれし特権階級。

だが、今の彼にその面影はない。

絹のシャツは垢と酒で汚れ、自慢の金髪は脂でべたつき、瞳は薬物の禁断症状で小刻みに揺れている。

スラムの掃き溜めに落ちた、元・貴族。


「事情は聞いたわ。……恋人のアリサという女が、あなたの時計を持って逃げた。」


私は、努めて優しく確認した。目の前の男があまりにも脆く見えたからだ。

セドリックは、ガチガチと歯を鳴らしながら頷いた。


「そうだ。アリサは……僕の女神だった。僕が実家を勘当され、財産を使い果たしても、彼女だけは傍にいてくれた。酒場の給仕で稼いだ金を、僕に貢いでくれた……」


「……献身的な女性ね」


「ああ。だが、彼女は変わってしまった。僕が落ちぶれるにつれて、彼女の目から光が消えていった。そして今朝、目が覚めたら……彼女も、時計も消えていたんだ」


セドリックは顔を覆って泣き出した。

私は胸が痛んだ。

愛が貧困によって摩耗し、最後に裏切りで終わる。ありふれているが、あまりに悲しい結末だ。

私は、彼が差し出した写真を見た。

写っているのは、彼が盗まれたという時計だ。


――息を呑んだ。


それは、この薄汚れた部屋には似つかわしくない、異様な存在感を放っていた。

『純白の魔導セラミック』で作られた、艶やかなブレスレットウォッチ。

金属でもプラスチックでもない、永遠に傷つかない焼き物。そのベゼルには、無数のダイヤモンドが埋め込まれ、氷のように冷たく輝いている。

傷つきやすく汚れやすいセドリックとは対照的な、決して汚れない「白」。


「……いい時計ね」


「母の形見だ。……実家を飛び出す時、あれだけは持って出た。我が一族の家紋が裏蓋に刻まれている。あれさえあれば……あれさえあれば、僕はいつか、エルフとしてやり直せる……」


セドリックは、祈るように両手を組んだ。

その時計の市場価値は、スラムの住人が一生遊んで暮らせるほどだ。

彼が今までそれを売らなかったのは、それが「最後の誇り」だったからだろう。

どんなに泥にまみれても、その時計を持っている限り、彼は高潔なエルフでいられたのだ。


「……引き受けるわ。彼女を見つけて、時計を取り返す」


「頼む……! 警察には言えないんだ。僕みたいなのが行っても、門前払いを食らうだけだ……」


彼が差し出したのは、前金代わりの銀食器のセットだった。どこからか盗んできたものだろう。

私はそれを受け取らなかった。


「……成功報酬でいいわ」


私は、この哀れな依頼人に同情していたのだ。


捜査を開始してすぐ、私はこの社会の歪さを目の当たりにした。

アリサの足取りを追って、王都の最下層、スラム街を歩き回った時のことだ。

路地裏で、セドリックが数人の獣人に囲まれていた。

本来、エルフは獣人を見下す立場にある。だが、ここでは違う。


「おい、長耳。ツケ。溜まってんだよ」


「ひぃッ! ま、待ってくれ! 時計が戻れ……!」


豚の獣人が、セドリックの腹を蹴り上げた。

彼は泥水の中に転がり、無様に悲鳴を上げる。

獣人たちは嘲笑う。


「見ろよ、元貴族様が這いつくばってるぜ!」


「その綺麗な顔、靴磨きに使ってやろうか?」


金も力もないエルフは、ここでは「生意気な元支配者」として、最も過酷な差別の対象になる。

セドリックは、靴を舐めるようにして許しを請うていた。

その姿は惨めだった。

だが、私は彼を軽蔑できなかった。

彼は、そこまでして生きようとしている。あの時計を取り戻し、母との絆を守るために、プライドをかなぐり捨てて泥水を啜っているのだ。

そう思うと、彼を裏切ったアリサという女への義憤が湧いてきた。

聞き込みの結果、アリサの居場所が割れた。

港の倉庫街。

彼女は、密航船に乗ろうとしているらしい。

私は走った。この悲劇を、ハッピーエンドに戻すために。


夜の倉庫街。

潮風と重油の臭いが混ざる暗がりで、私はアリサを見つけた。

彼女は、フードを被り、古びた旅行鞄を持っていた。

その手には、あの「純白の時計」が握られている。月光を反射して、魔導セラミックが妖しく光る。


「……待ち合わせ? 残念だけど、船は出ないわよ」


私が声をかけると、アリサはビクリと震え、振り返った。

人間の女。地味な顔立ちだが、どこか儚げな雰囲気を持っている。

彼女の目は真っ赤に充血していた。泣いていたのだ。


「あなたは……?」


「探偵。その時計の持ち主から、依頼されたの」


私は、彼女を追い詰めないように、ゆっくりと近づいた。

彼女は悪人には見えなかった。何かに怯え、迷っている子供のようだ。


「……返せない。これだけは、渡せない」


「換金して逃げるつもり?」


「違う!」


アリサが叫んだ。その声は、悲痛な響きを帯びていた。


「あいつ……セドリックは、これを売ろうとしてたのよ! 薬を買うために!」


私は足を止めた。

薬。その線は濃厚だ。禁断症状が出ていた彼ならやりかねない。


「彼は言ったわ。『もう我慢できない、この時計を売って、楽になりたい』って……。これは彼のお母さんの形見なのよ? これを失くしたら、彼は本当に終わってしまう……!」


アリサは、崩れ落ちるように膝をついた。

時計を、壊れ物を扱うように胸に抱きしめる。


「だから私が盗んだふりをして、隠そうと思ったの。……彼が薬を断ち切るまで、私が悪者になってでも、この時計だけは守りたかった……!」


私は、言葉を失った。

なんと、深い愛だろうか。

彼女は、自分の名誉を捨ててまで、男の誇りを守ろうとしたのだ。

セドリックは「彼女は変わってしまった」と言ったが、それは間違いだった。彼女は最初から最後まで、彼を愛していたのだ。

私は自分の浅はかな推測を恥じた。

泥棒だと思っていた彼女こそが、最も気高い魂を持っていたなんて。

その時、私の背後から足音がした。

セドリックだ。私をつけてきていたらしい。


「ア……アリサ……?」


セドリックは、呆然と立っていた。

アリサの告白を聞いていたのだ。


「……本当なのか? 僕のために……? 君は、僕を見捨てたんじゃなかったのか?」


「馬鹿ね、セドリック。……見捨てるわけないじゃない」


アリサは泣き笑いのような顔で、彼に駆け寄った。

二人は抱き合った。

セドリックは号泣し、アリサも涙を流す。

スラムの吹き溜まりに咲いた、一輪の真実の愛。

私は、その光景を眩しいものとして眺めていた。

疑う余地などなかった。

この涙が、この抱擁が、嘘であるはずがない。

人間は、ここまで誰かを愛せるのだ。


感動の再会が終わると、セドリックは決意の表情で私に向き直った。

そして、アリサから受け取った「純白の時計」を、私に差し出した。


「ナラさん。……この時計、あなたが持っていてくれませんか」


「え?」


私は驚いた。命より大事な時計ではなかったのか。


「アリサの言う通りだ。僕が持っていたら、きっとまた弱さに負けて、これを売って薬に変えてしまう。……僕は弱い男です。母の形見を持つ資格なんて、今の僕にはない」


セドリックは、自分の震える手を見つめた。


「お願いします。僕が薬を断ち切り、胸を張れる自分になるまで……この時計を、預かっていてください。第三者であるあなたなら、情に流されずに管理してくれるはずだ」


それは、どうしようもないクズである彼が見せた、精一杯の誠実さと「弱さへの自覚」だった。

彼は変わろうとしている。アリサの愛に応えるために。

私は、その覚悟を受け止めるべきだと思った。


「……わかったわ。責任を持って預かる」


私は、その白く冷たい時計を受け取った。

ずしりと重い。セラミックの硬質な感触が、掌に伝わる。

それは、二人の愛と未来の重みだ。


「ありがとう……! ありがとう!」


セドリックは何度も頭を下げた。

隣で、アリサが微笑んでいる。


「頑張ろうね、セドリック」


「ああ。君がいれば、僕はやり直せる」


二人は手を取り合って去っていった。

私は、残された時計を見つめた。

ダイヤが月光を浴びてキラキラと光る。

なんて美しい結末だろう。

私は、探偵になって本当によかったと思った。

人の心の美しさに触れ、再生の手助けができたのだから。

私は時計を左手首に巻いた。

少し大きいが、この重みを感じている間は、私もまた彼らの「希望」の一部でいられる気がした。

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