第1話:教え魔の強襲!
王都の昼下がり。陽光が穏やかに差し込む大手書店「アカデメイア」の特設会場は、異様な緊張感と、それを上回る「不快感」に包まれていた。
新進気鋭の若き女性作家、ミリア・クローデルの初出版記念サイン会。
本来ならば、そこは作家と読者が交流する神聖な場所であるはずだった。
だが、その空間はたった一人の男によって、汚泥のごとく冒涜されていた。
列に割り込んだのは、王都の大手魔導新聞「真実の目」の主筆、ジーク・ハルマンだった。
彼は、震えるミリアの手から著書をひったくると、あろうことか、自らの万年筆を取り出した。
「先生、あの……サインは私が……」
「お黙りなさい、お嬢さん。君はまだね、『未完成』だ」
ジークは鼻を鳴らし、ミリアがサインをするはずだった白紙のページに、ドロリとした黒インクで、デカデカと自分のサインを書き殴った。
さらに、その下に『推薦・国民の父ジーク』と添える。
彼は満足げに、その汚された本を、呆然とするファンへと押し付けた。
「ありがたく思いなさい。私がね、『評価してやった』からこそ、この小娘の紙束はね、初めて『商品』としての価値を持つのだ。私のインク(唾液)がついて、初めて作品はね、受胎するのだよ。……さ、感謝は?」
会場が凍りついた。
警備のバイトとして立ち会っていたナラティブ・ヴェリタスは、全身の毛穴が粟立つのを感じた。
怒りではない。生理的な嫌悪だ。
目の前で行われたのは、批評ではない。
他者の聖域に土足で踏み込み、自分の体液をマーキングして「俺のものだ」と主張する、精神的な強姦行為そのものだった。
「……吐き気がするわね」
ナラは鉄扇でジークの手首を叩き、彼を摘み出そうとした。
だが、ジークは喚き散らした。
「若者を、私が正しい方向へ導いてやっているのだ!感謝されこそすれ、排除されるいわれはないね!」
その叫びは、自分の欲望を「愛」という言葉でラッピングする、強姦魔の論理そのものだった。
獣病院の二階。
ナラは、汚いものに触れた手を何度も洗いながら、事の顛末を語った。
それを聞いたルル・オーガストは、珍しく真顔で、核心を突く言葉を漏らした。
「……それって、性欲ですよね?」
ルルは、不快そうに身を震わせた。
「他人の新車に鍵でキズをつけたり、金メダルを噛んで歯型をつけたりするおじさんと同じです。綺麗なもの、自分より未来あるものを見ると、自分の汚れを擦り付けて『俺の支配下にある』って確認しないと気が済まないんです。……見ていて恥ずかしいです」
エラーラが、コーヒーを啜りながら補足する。
「生物学的にはマーキングだね。自分の遺伝子を残せないと悟った老体が、他者の物語に、自分のミームを無理やりねじ込もうとする代償行為だ」
翌日の新聞。
ジークは一面トップで、「暴力的な探偵が、知る権利を阻害した」という捏造記事を掲載した。
さらに社説にはこうあった。
『若者は無知だ。我々メディアが『正しい解釈』という種を植え付け、民衆を導いてやらねばならない』
それは、王都全体を巻き込む、壮絶な「ナラティブ・汚染合戦」の狼煙だった。
ジークの行動は、単なる発端に過ぎなかった。
「他者の物語に自分を混入させたい」という欲望は、感染症のように王都中に広がっていた。
数日後、ナラは人気レストラン『銀の匙』で、その光景を目撃した。
若き天才シェフが、魂を込めて作った「白身魚のヴァプール・特製ハーブソース添え」。
その繊細な一皿が出されたテーブルに、有名なグルメ評論家が座っていた。
評論家は、シェフの意図も、計算された塩加減も無視して、鞄から「ケチャップ」を取り出した。
そして、真っ白な魚料理の上に、ドボドボと赤いケチャップをぶちまけたのだ。
評論家は、赤く汚された料理を口に運び、満足げに頷いた。
「感謝したまえ。私が『完成』させてやったのだ。君の料理には、私という異物が足りなかったのだよ」
ナラは、シェフが厨房の奥で泣き崩れるのを見た。
評論家は、料理を味わわずに店を後にした。
「他人の作品を自分好みに支配した」という優越感を味わっているのだ。
ケチャップの赤色が、まるで鮮血のように皿を汚していた。
ナラは悟った。
これは料理の話ではない。政治も、経済も、芸術も。
あらゆる分野で、「自分のエゴ」を他者に塗りたくりたい者たちが、暴走を始めている。
事態はさらに悪化した。
各メディア、団体、活動家たちが、「自分たちの主張」を他人の出来事にねじ込むために、事実を歪め始めたのだ。
ある日、公園の高い木に、一匹の仔猫が登って降りられなくなっていた。
ただ、それだけの、「可哀想な猫がいる」という目の前の事実。
ナラが助けようと木に登りかけた時、周囲を異様な集団が取り囲んだ。
「待て!その猫を助ける権利は我々にある!」
現れたのは、右翼系メディア、左翼系市民団体、過激環境保護グループ、そして新興宗教の信者たちだった。
彼らは木の下で、互いに罵り合いを始めた。
「この猫は、隣国のスパイ猫に違いない!」
「猫を木から降ろす?それは人間の傲慢による強制連行だ!」
「猫を助けるために枝を一本でも折れば、それは森林破壊だ!」
「あの猫は神の使いだ!降りてこられないのは、我々の信仰が足りないからだ!」
彼らは、カメラを回し、シュプレヒコールを上げ、互いに殴り合いを始めた。
誰も木に登らない。
誰も、上で震えている仔猫を見ていない。
彼らにとって猫は、「主張」を叫ぶための「ダシ(踏み台)」でしかないのだ。
「……ニャー(助けてくれよ)」
仔猫の小さな鳴き声は、怒号と演説にかき消された。
ナラは、木の下で繰り広げられる醜い争いを見下ろし、吐き気を覚えた。
「どいつもこいつも……自分の声が好きすぎるのよ」
ナラは騒ぎを無視して木に登り、仔猫を抱いて降りた。
だが、地上に戻ったナラを待っていたのは、賞賛ではなく、カメラのフラッシュと罵倒だった。
彼らはナラを取り囲み、マイクを突きつけた。
ナラは、彼らのレンズの奥にある、欲望に濁った目を見た。
事実などどうでもいい。
彼らは、「猫を助けた」という現実の結末よりも、「自分たちが勝った」という理想の結末を欲している。そのためなら、猫が餓死しても構わないのだ。
ナラは鉄扇を一閃させ、突きつけられたマイクをなぎ払った。
「あんたたちの物語なんて聞いてない。……この子はただ、お腹が空いていただけよ」
ナラは仔猫を連れて去ったが、翌日の新聞とネットニュースは地獄だった。
『ナラティブ・ヴェリタス、愛国活動を妨害』
『動物虐待か? 探偵が猫を誘拐』
『環境破壊の尖兵、ナラティブ』
事実は汚染され、無数の「汚れた物語」が産み落とされた。
そして、この混乱に乗じて、「新たな怪物」が産声を上げようとしていた。
既存メディアに飽き足らない、「扇動者」たちの台頭である。
彼らは街角で水晶に向かって叫ぶ。
「メディアは嘘だ!俺が真実を教える!」
彼らの言葉に裏付けはない。あるのは「断定」だけだ。
獣病院のリビングで、ルルが吐き気を堪えながら魔導端末を操作していた。
「……見てられません。これは『情報の近親相姦』です」
ルルが指し示した画面には、おぞましいサイクルの図式が映し出されていた。
過激な配信者が、「政府は国民を洗脳している!」と根拠のないデマを叫ぶ。
その発言を切り抜いた「まとめ屋」が、拡散する。
ネタに困った大手新聞が、それを取材もせずに「ネットで話題の疑惑」として記事にする。
最初の配信者がその新聞記事を掲げ、「大手新聞も認めた!」と勝利宣言をする。
それを見た大衆が、「新聞に載っているなら本当だ」と信じ込む。
「外部からの新しい遺伝子(事実)が入ってこないんです。同じコミュニティの中で、同じ嘘を回し飲みして、何度も何度も交配を繰り返している……。その結果、産まれてくるのは『真実』の顔をした奇形児だけです」
エラーラが、冷めたコーヒーを揺らしながら補足する。
「生物学的にも詰んでいるな。自家中毒だ。自分たちの排泄物を『栄養』だと信じ込んで食べ続け、さらに濃縮された毒を垂れ流す」
そして、その「奇形児」は、あまりにも馬鹿げた、しかし致命的な形で産声を上げた。
その日、王都の空は、色とりどりの爆炎と、矛盾したシュプレヒコールによって埋め尽くされていた。
侵略者が来たわけではない。魔王が復活したわけでもない。
ただ、人類が「平和」を希求するあまり、自分自身の喉元を食い破り始めただけのことだ。
ナラは、獣病院の屋根の上で、眼下に広がる地獄絵図を見下ろしていた。
乾いた笑いすら出ない。
そこにあるのは、肉体的な変異ではない。人間の形をしたまま、中身の論理回路だけが完全に焼き切れた、極彩色の狂気だった。
「……何よ、あれ」
東の空では、愛国を掲げる「極右メディア派閥」が、あろうことか王都警察と民間軍事会社の駐屯地を爆撃していた。
彼らが操るグリフォン部隊が、焼夷弾を投下しながら叫んでいる。
『軟弱者め! 貴様らの護国精神はビジネスだ! 金で動く軍隊など国辱だ! 真の愛国者である我々が、貴様らごとき「偽の防人」を排除し、国を浄化する!』
国を守るはずの戦力が、国を守ろうとする過激派によって殲滅されていく。完全なる自家中毒。警察官たちは「なぜ味方に撃たれるんだ!?」と叫びながら焼かれていく。
西の広場では、多様性と寛容を掲げる「極左人権派閥」が、断頭台を設置していた。
処刑されているのは、敵対勢力ではない。同じ左翼団体のメンバーたちだ。
『総括だ! 貴様は5年前、差別的な表現を含む詩を愛読していただろう!』
『違う! 私はポリティカル・コレクトネスを遵守している!』
『甘い! 貴様の寛容さは不純だ! 無自覚な差別主義者は、確信犯的な差別主義者より罪深い! 死ね!』
寛容を説く者たちが、誰よりも不寛容な粛清を行い、広場を血の海に変えている。
北の森林地帯では、環境保護団体が、重機と魔導砲を用いて、他の環境保護団体の自然保護施設を焼き払っていた。
『あの森の管理方法は人間の驕りだ! 手つかずの自然こそが至高!』
『森を守るために、あの間違った管理された森を焼き尽くせ! エコロジーのための焦土作戦だ!』
黒煙が上がり、彼らが守りたかったはずの稀少生物たちが、「自然保護」の名の下に消し炭になっていく。
そして南の教会地区。
「宗教団体」同士が、互いの神殿に自爆テロを仕掛けていた。
『我らの神こそが平和の象徴! 異端の平和など認めない! 平和のために血を流せ! 平和のために殺せ!』
「テロリスト集団」に至っては、「俺のテロの方が芸術的だ」「いや俺の爆破の方がメッセージ性が高い」と、テロリスト同士で爆弾を投げ合い、本来の標的である政府そっちのけでたのしく殺し合っている。
そして路地裏では、「一般市民」が、魔導端末を片手に、隣人を刺していた。
『お前、SNSで俺の意見に「いいね」しなかったな! 敵だ! 晒してやる!』
『違う! 私は中立だ!』
『中立は敵の味方だ! 冷笑主義者め! 殺せ! そして死に顔をアップロードして、俺の正義を証明するんだ!』
全員が「平和」を叫んでいる。
全員が「正しさ」を信じている。
肉体は人間のままだ。誰も怪物にはなっていない。
だが、その行動原理だけが、決定的に壊れていた。
他人の物語を自分の色に染め上げるためには、相手を弱らせ、屈服させ、殺すのが一番手っ取り早い。
それは、社会全体が陥った、壮大な「自傷行為」だった。
屋根に登ってきたエラーラが、冷めたコーヒーを片手に、呆れ果てた声を出した。
「……またこのオチか……学習能力というものが欠落しているのか、この種は」
エラーラは、眼下の惨劇を「興味深い実験失敗例」を見る目で観察した。
「免疫の暴走だね。社会という生体が、異物を排除しようとするあまり、正常な細胞まで攻撃し始め、自ら多臓器不全に陥っている。……『純粋さ』への渇望は、いつだって最も汚らわしい結果を生むものだよ」
隣で、ルルが双眼鏡を覗きながら、珍しく青ざめていた。
「……ナラさん、見てください。人が……混ざり始めています」
「え? 物理的に?」
「いいえ。精神的に、です。……見ていて気持ちが悪いです。あいつら、殺し合いながら……『交尾』しています」
王都の中央広場。かつては憩いの場だったそこは、今や狂った論理が交差する「地獄の社交場」と化していた。
一人の右翼の男と、一人の左翼の女が、互いにナイフを突き立て合い、血を流しながら抱き合っていた。
肉体的な融合ではない。彼らは互いの耳元で、呪いのような言葉を囁き合っている。
『俺は国を守りたい! だから貴様のような売国奴を殺す!』
『私は人権を守りたい! だから貴方のような差別主義者を殺す!』
殺し合っているはずなのに、彼らの表情は恍惚としていた。
彼らは気づいてしまったのだ。
「敵を排除する」という快感において、自分たちが「同じ穴の狢」であることに。
対立していたはずの思想が、暴力という共通言語を通じて、醜悪な結婚を果たそうとしている。
あちこちで、奇妙な同盟――いや、「論理のキメラ化」が起きていた。
環境テロリストと、宗教原理主義者だ。
彼らは手を組み、発電所を爆破しながら叫ぶ。
『科学は悪だ! 文明を捨てろ! 神が創りたもうた原始の森へ還るために、全ての人間を殺して土に還そう! それこそが究極のエコロジーであり、救済だ!』
「自然保護」と「魂の救済」が、「人類絶滅」という一点で合流し、最悪のシナジーを生んでいる。
無政府主義者と、官僚主義者。
彼らはバリケードの中で、奇妙な儀式を行っていた。
『政府を倒せ! ……ただし、そのためのテロ計画書はA4用紙3枚以内にまとめ、上長の決裁印をもらうこと! 無届けの暴動は規律違反として処罰する!』
「混沌」を目指すはずのアナキストが、「秩序」を愛する官僚と混ざり合い、「管理されたカオス」という訳のわからない体制を作り上げている。
肉体は変わらない。
スーツを着た男、作業着の女、学生服の少年。
だが、彼らの口から出る言葉は、継ぎ接ぎだらけの怪文書のようだった。
『自由ヲ強制シロ!』
『平和ノ為ニ虐殺ヲ!』
『愛スルが故ニ殺ス!』
ルルが吐き気を堪えて言う。
「……自分の物語に他人を強引に引きずり込んだ結果、物語の方がバグを起こしたんです。ただ『暴れたい』『支配したい』という欲望だけが、正義の皮を被って交配している……」
エラーラが冷ややかに頷く。
「思想の近親相姦の果てに生まれた、奇形の論理だね。彼らはもう、自分が何のために戦っているのかさえわかっていない。ただ、目の前の他者をレイプ(論破・屈服)し、自分のコピーを増やしたいという、ウイルスのような生存本能だけで動いている」
──そして、その狂乱は、ついに「究極の個体」を生み出した。




