第2話:全滅!
コツ、コツ、コツ。
瓦礫を踏む、乾いた足音。
そこには、一人の女が立っていた。
特徴がない。
地味な服。中肉中背。顔立ちも、美しくもなく醜くもなく、記憶に残らないほど平均的。
彼女は、あまりにも日常的な足取りで、戦場の中心へと歩いてきた。
「なんだお前?」
警備にあたっていた機動隊員が、親切心で彼女を止めようと手を伸ばした。
女の手が動いた。
手には、家庭用の果物ナイフが握られていた。
何の予備動作もなく、ナイフが警官の首筋に吸い込まれた。
赤い霧が舞った。
警官は、何が起きたのか理解できない顔のまま、崩れ落ちた。
即死だった。
「…………え?」
その場にいた全員が――狂人も、ヤクザも、エラーラさえも――動きを止めた。
悪い冗談だと思った。
今まで散々、派手な魔法や爆発やチェーンソーが飛び交っていたのに、誰も死ななかったこの場所で。
こんな、あまりにもあっけない「死」が訪れるなんて。
女は、死体を見下ろしもしなかった。
ナイフについた血を振るうこともせず、そのまま次の標的へと歩み寄る。
「う、うわあ! なんだてめぇ!」
モヒカン男が火炎瓶を投げようとする。
だが、女は歩調を変えなかった。
火炎瓶が投げられる前に、彼女はモヒカンの心臓を一突きにした。
まるで、熟れた桃に串を刺すような、軽い音。
モヒカンが倒れる。
『本物』だ。
ここにいる全員が、瞬時に理解した。
あたしたちの狂気は、ファッションだった。
チラチラと、様子をうかがいながら、「狂ったフリ」をして、この退屈で絶望的な王都の日常を、なんとかエンタメ化してやり過ごそうとしていただけだった。
ロプピの「愛」も、ジークの「革命」も、ガムスの「鳩」も。
すべては、誰かに見てもらうための、正気を保つための「演技」だったのだ。
だが、この女は違う。
彼女には「物語」がない。
主張もない。思想もない。快楽もない。
ただ、事務的に、効率的に、「目の前」を停止させるという「作業」を行っているだけだ。
「……撃てッ!全員で撃て!」
警察隊長が、裏返った声で叫んだ。
警官、ヤクザ、そして狂人たちまでもが、一斉に女に向かって攻撃を開始した。
銃弾、魔法、モップ、包丁。ありとあらゆる暴力が女に殺到する。
しかし。
──当たらない。
女は、高速で動いているわけではなかった。
ただ、彼女の動きには「予兆」がなかった。
人間が動く時に必ず生じる「溜め」や「視線」や「筋肉の収縮」が、一切ない。
だから、誰も彼女の動きを予測できない。
銃弾は彼女が「さっきまでいた場所」を通り抜け、魔法は彼女が「これから行くはずのない場所」に着弾する。
彼女は、散歩をするように弾幕をすり抜け、次々と人を殺していった。
警官が死んだ。
ヤクザが死んだ。
肉体セミナーの男が、スクワットの姿勢のまま絶命した。
「ぽぴーっ!?」
モップ男が、モップごと首を切り落とされた。
「痛い!痛いのは嫌だ!私は自分以外に傷つけられたくない!」
ストーカー女が逃げ惑う背中に、ナイフが突き立った。彼女はゴミのように転がった。
「……お母様!あれは何!」
あたしは鉄扇を構えながら、エラーラに叫んだ。
エラーラは、蒼白な顔で震えていた。彼女の「論理」が、目の前の現象を拒絶している。
「彼女からは魔力も、殺意も検出されない。あれは『人間』という形の『現象』だ。ただの『死』そのものだ!」
エラーラでさえ、手が出せない。
論理が通じない相手には、彼女の魔法は無力だ。
「ハハッ!ゴミだ!でも、あのゴミ、怖いよ!愛がないよ!」
ロプピが、ガタガタと震えながらリュウの後ろに隠れた。
あの狂気そのもののロプピが、本物の虚無を前にして「怖い」と言ったのだ。
リュウがドスを構えた。
彼だけが、まだ戦意を失っていなかった。
「お前ら下がってろ。……俺がやる」
リュウが女に向かって走る。
ドスが女の喉元に迫る。
だが。
女は、リュウを見もしなかった。
彼女は、ただ「つまづいた」かのように膝を折り、リュウの一撃を潜り抜けた。
そして、すれ違いざまに、リュウの首筋にナイフを滑らせた。
リュウの首から、鮮血が噴き出した。
リュウは、ドスを取り落とし、膝から崩れ落ちた。
ロプピが泣き叫んで駆け寄る。
女は、無造作にロプピの心臓を刺した。
金色の狂人は、愛する男の上に倒れ伏し、二度と動かなくなった。
女は、興味なさそうにナイフを振るい、次々と命を刈り取っていく。
ジークが震えながら叫ぶ。
「やめろ!俺はまだ何も成し遂げていない!」
ジークの喉が裂ける。
ココが悲鳴を上げる。
「いや!私はまだローンが!」
ココの胸が貫かれる。
紅茶の男が、最期の矜持でティーカップを投げつける。
「非合理な……!」
ナイフが彼の眉間を捉えた。
全滅していく。
誰も勝てない。
なぜなら、彼らには「目的」があったからだ。
「狂人を演じる」
「愛を貫く」
「紅茶を飲む」
「生き残る」
そんな「付け焼き刃の目的意識」を持った者が、最初から「無」を目的とする真の虚無に勝てるはずがなかった。
その時。
女の身体が、横から弾き飛ばされた。
あの、白塗りの巨大女だ。
「あら、ごめんなさい。私ったらおっちょこちょいで……」
白塗り女は、殺人女に向かってペコペコと頭を下げた。
殺人女は、倒れながらも、白塗り女の頸動脈を断ち切った。
白塗り女は、謝罪の言葉を遺して絶命した。
そして、ガムス。
「貴様!その服は政府のステルス迷彩だな?」
ガムスはパン屑を投げつけた。
だが、女はパン屑の雨の中を無表情で歩き、ガムスの心臓を正確に刺した。
老人は、鳩を追う夢を見ながら死んだ。
最後に残ったのは、あの瞳孔の開いた男だった。
彼は直立不動のまま、迫りくる女を見ていた。
女がナイフを突き出す。
男は、初めて動いた。
彼は、女の目を見た。
そして、ニヤリと、人間らしい笑みを浮かべた。
まるで「お前が正解だ」とでも言うように。
男は抵抗せず、ナイフを受け入れた。
彼だけが、死を恐れていなかった。彼もまた、虚無の住人だったからだ。
全員、死んだ。
広場には、死体の山と、血の海だけが広がっていた。
猫たちだけが、死体の上で毛づくろいをしている。彼らには、人間の死など興味がないのだ。
殺人女は、あたしたちの方を向いた。
その瞳は、濁ったガラス玉のようだった。
あたしとエラーラのことなど、認識さえしていない。ただの背景の一部。
「……ナラ」
エラーラが、あたしの腕を掴んだ。
彼女の手は、氷のように冷たく、そして震えていた。
「走れ!」
あたしたちは、走った。
背中を見せて、全速力で。
鉄扇も、魔法も、プライドも捨てて。
ただの、怯える動物として。
路地裏を抜け、大通りを横切り、心臓が破裂しそうになるまで走った。
誰も追ってこない。
あの女は、あたしたちを殺す価値もないと判断したのか、それとも「たまたま目に入らなかった」だけなのか。
どちらにせよ、あたしたちは逃げた。
たどり着いたのは、王都はずれの、静かな公園だった。
夕暮れの風が、汗ばんだ肌を冷やす。
あたしたちは、王都はずれの静かな公園のベンチに倒れ込み、肩で息をしていた。
夕暮れの風が、冷や汗を乾かしていく。
追手はいない。あの女は、あたしたちを見逃したのではない。最初から「認識」すらしていなかったのだ。
「……死んだわね。みんな」
あたしは、乾いた喉で呟いた。
リュウも、ロプピも、ジークも、ガムスも。
あの騒がしくて、鬱陶しくて、愛すべき馬鹿たちは、もうこの世にいない。
エラーラは、ベンチの背もたれに頭を預け、空を見上げていた。
その瞳は、いつになく鋭く、そして冷徹に事象を解析していた。
「……ああ。全滅だ。……あの『瞳孔の男』も含めてな」
エラーラが、忌々しそうに言った。
「ナラ。君は見たか? 最期にあの男が浮かべた笑みを」
「ええ。……まるで『正解だ』って顔をしてたわ」
「それが、すべての答えだ」
エラーラは、白衣のポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出し、破り捨てた。
「彼もまた、演じていたのだよ。『虚無』という役をな」
「えっ?」
「本当に虚無ならば、死を受け入れる瞬間に『満足』などするはずがない。彼は、自分が『感情のない観察者』であることに感情的に陶酔し、その物語の完結として『無意味な死』を望んでいた。……つまり、彼の虚無さえもが、誰かに見てもらうためのファッションだったのだ」
あたしは、背筋が寒くなった。
あいつが一番怖いと思っていたけれど、あいつも結局は、この王都の病に侵された「かまってちゃん」の一人に過ぎなかったのか。
「……じゃあ、なんであたしたちは生き残ったの?」
あたしは、震える声で聞いた。
「あの殺人女は、嘘つきを殺すシステムみたいなものでしょ? だったら、あたしたちだって……」
「違うな」
エラーラは、きっぱりと否定した。
彼女は身体を起こし、あたしの目をまっすぐに見つめた。
「我々は、ファッションではないからだ」
「……は?」
「私は、真理を知りたい。この世界の理を解き明かしたい。そのためなら、世界がどうなろうと知ったことではない。……これは誰かに見せるためのファッションではない。私の魂の底から湧き上がる、抑えがたい『エゴ』だ」
エラーラは、自分の胸を指差した。
「そして君もだ、ナラ。君は『生きたい』と願っている。私と共に在りたいと、美味しいものを食べたいと、みっともなく足掻いてでも生き延びたいと、本能で叫んでいる。……そこには、他者の視線など介在しない。君の目的は、君自身の内側から発している」
エラーラは、遠くの夕焼けを指差した。
「あの女は、『中身のない器』を割って回っていただけだ。外側を飾り立て、中身が空っぽの連中をな。……だが、我々には中身がある。たとえそれが、醜いエゴや、泥臭い執着であったとしても、確固たる『コア』が存在している」
だから、彼女はあたしたちを殺さなかった。
殺せなかったのではない。
あたしたちが「風景」ではなく、確かな質量を持った「石」としてそこに在ったから、ナイフが素通りしたのだ。
「……そうか」
あたしは、足元を見た。
一匹の猫が寄ってきた。あの広場からついてきたのだろうか。
猫は「ニャア(あたりめえじゃねえか)」と鳴き、あたしの足に身体を擦り付けた。
この猫もまた、ファッションで生きているわけではない。ただ「生きたい」から生きている。だからあの虐殺を生き延びたのだ。
「……あたしたちは、本物なのね」
「ああ。少なくとも、自分の欲望に対しては誠実だ」
あたしは猫を抱き上げた。温かい。重い。
リュウやジークたちが死んだのは、彼らが弱かったからではない。彼らが「何者でもない自分」を直視せず、自分を成長させようとせずに、安易に「自分以外の何者か」のコスプレをして演技をしていたからだ。
狂人のフリ。
革命家のフリ。
虚無のフリ。
そんな借り物の衣装は、本物の「無」の前では紙切れ同然だった。
でも、あたしたちは違う。
あたしはナラティブ・ヴェリタス。元スラムの泥棒で、探偵で、この変人科学者の娘だ。
それは誰に見せるためでもない、あたし自身の物語だ。
「……帰ろう、お母様」
あたしは立ち上がった。
「ピザ頼むんでしょ? あたし、サラミたっぷりのやつがいい」
「フム。カロリー計算上は非推奨だが……今日くらいは、生存本能に従うのも悪くない」
エラーラも立ち上がった。
その背中は、いつもの傲慢さを取り戻していた。
王都は死んでいる。
街は嘘と欺瞞と、死化粧のようなネオンに覆われている。
だが、その腐乱した死体の上を、あたしたちは歩いていく。
誰かのためじゃない。
あたしたちが、あたしたちであるために。
二人の影が、長く伸びていく。
終わりの見えない終末の日常へ向かって、あたしたちは確かな足取りで帰路についた。




