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第2話:旧型機最後の秘策(2)

その通知は、真夜中に届いた。

王都の誰もが寝静まり、ナラティブ・ヴェリタスが、至福のひととき――隠しフォルダに保存された「北方の獣人族・冬毛の換毛期記録映像」を鑑賞しようとした、まさにその瞬間だった。

ナラの左腕にある最高級デバイス『アイ・メイジ』が、清らかな音色と共にホログラムを投影した。


『ユーザーの皆様へ。重要なお知らせ』


「アップデート?機能が増えるのかしら」


ナラはワイングラスを片手に、余裕の笑みで「承諾」をタップしようとした。

だが、表示された規約のタイトルを見て、その指が凍りついた。


『プロジェクト・ホワイト ~子供たちの未来を守るために~』


嫌な予感が、した。

背筋を冷たいものが駆け上がる。ナラは震える指で詳細を開いた。


『オレンジ・テック社は、ブランドイメージの刷新と青少年の健全な育成のため、本日より、当社の倫理規定に抵触する「不適切なコンテンツ」は、自動的に削除されます』


「……」


ナラの思考が停止した。

不適切?削除?

いやいや、まさか。これは個人のストレージにあるデータよ? いくらなんでも……。

ナラは恐る恐る、いつもの動画を再生しようとした。

画面に映ったのは、愛くるしい獣人のお姉さん……にかけられた、強烈な聖なる光だった。


『不健全です!削除しました!』


画面の中で、お姉さんがひとりでに算数の授業を始めた。


「嘘……でしょ……?」


ナラのグラスが手から滑り落ち、床で砕け散った。

慌てて他の動画も確認する。

が……全滅だった。

高額なローンを組んで買った、最新鋭の、超高速の、地球に優しいデバイス。

それが今、ただの「高い算数ドリル」に成り下がったのだ。

たま(毎日)に、エロ・コンテンツを嗜むナラにとっては、一大事だった。


「ふッッッざけるなぁぁぁぁッ!!!」


深夜の獣病院に、ナラの絶叫が響き渡った。

寝ていたエラーラが飛び起きて「敵襲か!?」と杖を構えるほどの悲鳴だった。


「あたしの……あたしの癒やしが!生きがいが! 金返せジョージ・スマイルズ!!健全なんてクソ食らえよ!」


ナラは涙目で『アイ・メイジ』を噛んだ。硬い。味がしない。

絶望。

世界から色が消えた。

だが、その翌朝。

死に体と思われていた敗北者、東亜魔導社から、奇妙なプレスリリースが発表された。


『新OS「マックス・マッド」リリースのお知らせ』


そのキャッチコピーは、王都中の「紳士淑女」たちの心を鷲掴みにした。


『我々は、表現の自由を守ります』


『どんなにニッチなデータも、我々は拒絶しません』


『新開発描画エンジン「レンダリングエンジン・V8」搭載。実物以上に動きます』


ナラは、その広告を食い入るように見つめた。

その瞳に、かつてないほどの捕食者の光が宿った。


異変は、静かに、しかし爆発的に始まった。

王都の電気街。

昨日まで閑古鳥が鳴いていた東亜魔導社のショップの前に、長蛇の列ができていた。

並んでいるのは、スーツを着たビジネスマン、ローブを纏った魔導士、そしてナラのような着飾った貴婦人たち。

全員が、どこか後ろめたそうに、しかし燃えるような目で開店を待っている。

マスコミが取材に来ていた。

レポーターが、列の先頭にいる男性にマイクを向ける。


「すごい行列ですね! 一体なぜ、今さら旧式の『ゴレ・コム』を?」


男性は、一瞬視線を泳がせ、咳払いをして答えた。


「あー……そうですね。やはり、物理、ボタンの手触り、ですかね。はい。タッチパネルにはない、この……クリック感が、仕事の効率を、高める、というか。」


レポーターは首を傾げ、次は女性にマイクを向ける。


「あなたも『ゴレ・コム』への乗り換えですか? あんなに重くて煙が出るのに?」


女性は、帽子を目深に被って答えた。


「……重量です。最近、腕の筋肉が、落ちてしまいまして。日常的なウエイトトレーニングの、ために、あえて、この重い、ゴレ・コムが、必要なのです。」


誰も、言わなかった。

「エロ動画が見たいからだ」とは。

「アイ・メイジでは、光って見えないからだ」とは。

だが、全員が理解していた。

ここにいる全員が「同志」であると。

彼らは無言のうちに頷き合い、連帯感すら生まれていた。

『アイ・メイジ』中古買取価格、大暴落。

『ゴレ・コム』在庫切れ、入荷三ヶ月待ち。

市場は一夜にしてひっくり返った。

経済アナリストたちは困惑した。


「なぜだ?性能もデザインも環境性能も、全てアイ・メイジが上のはずだ。なぜ突然、消費者は『退化』を選んだのだ?」


専門家たちがテレビで激論を交わす。


「これは『レトロ・ブーム』の一種でしょう」


「一種のカウンターカルチャーです」


「集団催眠の可能性も……」


誰も正解にたどり着けない。

いや、たどり着いていても、公共の場で「エロいものが見たいから」とは言えない。

世界は、「言えない真実」を隠したまま、巨大な嘘の熱狂に包まれていった。


ヴェリタス探偵事務所。

エラーラ・ヴェリタスは、ここ数日、頭を抱えていた。


「……非論理的だ。あまりにも非論理的すぎる」


彼女のデスクには、複数のホログラムウィンドウが展開され、株価チャートと市場調査データが表示されている。

オレンジ・テック株の垂直落下。東亜魔導社株の垂直上昇。

垂直。

完全なる異常事態だ。


「なぜだ?ゴレ・コムのスペックはアイ・メイジの十分の一以下だぞ?処理落ちはするし、排ガスは出るし、重いし……人類の脳に未知のウイルスでも感染したというのか?」


エラーラは真剣に「人食いアメーバの侵略説」を検討し始めていた。

そこへ、ナラが帰宅した。


「ただいま、お母様」


ナラの左腕には、あの洗練された『アイ・メイジ』はなかった。

代わりに、無骨で、角張っていて、時折プスンと黒い煙を吐く、鈍色のレンガ――『ゴレ・コム・フューリー』が鎮座していた。


エラーラは目を疑った。


「……ナラ。君まで人食いアメーバに?」


「人食いアメーバ?何のこと?」


「その腕の産業廃棄物だよ!君はあれほど『アイ・メイジ』の美学を語っていただろう!『星型の輝きが私のアイデンティティ』だとか何とか! 一体なぜそんな古臭いゴミを付けている!?」


ナラは、サッと左腕を背中に隠し、顔を真っ赤にして視線を天井に向けた。


「え、ええと……そう!『パンクロック』よ!」


「パンクロック?」


「そう!綺麗すぎる管理社会へのアンチテーゼ! あえて汚くて不便なものを使うことで、人間本来の野性を取り戻す……みたいな?そういう哲学的な理由よ!スチームパンク?……そう!サイバー社会運動?みたいな……」


「……君が哲学を?」


エラーラは眉をひそめた。

ナラの目が泳いでいる。脈拍が上がっている。明らかに嘘をついている兆候だ。

だが、その「嘘の理由」がわからない。


「見せてごらんよ。くまなく解析してやる。もしかしたら、私の知らない『秘密』があるのかもしれない」


エラーラが手を伸ばす。

ナラは悲鳴を上げて後ずさる。


「だ、ダメぇっ!見ちゃダメ!」


「なぜだね?データのチェックをしてやると言っているんだ」


「データのチェックですって!?個人のプライバシーよ!……いや……あと、えっと……そう、この機種は他人の魔力が触れると爆発するの!」


「そんな欠陥品が流通するわけがないだろう!」


押し問答の末、ナラはトイレに逃げ込んだ。

エラーラは扉の前で立ち尽くす。


「……わからん。全くわからん」


天才科学者は、人生で初めて完全な敗北感を味わっていた。

彼女の論理的思考回路には、「エロのために全てを投げ出す」という変数が存在しなかったからだ。


一週間後。

王都は、黒い霧に包まれていた。

市民の9割が『ゴレ・コム』に乗り換えた結果、街中にV8エンジンの排ガスが充満していたのだ。

空はどんよりと曇り、洗濯物は黒くなり、人々はマスクをして歩いている。

環境は最悪だった。文明は50年後退したように見えた。

しかし。

街ゆく人々の表情は、奇妙なほど明るかった。

カフェのテラス席で、ゴレ・コムを見つめる女性が、ニタニタと笑っている。

路地裏で、ゴレ・コムを操作する学生たちが、顔を赤らめて興奮している。

情報屋のルルも、事務所に遊びに来ては、ゴレ・コムの画面を食い入るように見つめ、「ああっ、この毛並みのレンダリング……神です……」と涎を垂らしている。

エラーラは、ガスマスクをつけて街を歩きながら、戦慄していた。


「……狂気だ。集団ヒステリーだ」


エラーラは、道端でゴレ・コムを愛おしそうに磨いているカレル警部に声をかけた。


「警部。君もか。……簡潔に答えてくれたまえ。なぜ、ゴレ・コムを買った?」


カレル警部は、ビクッとしてゴレ・コムを懐に隠した。

そして、ハードボイルドな顔を作って、遠くを見た。


「──エラーラ博士。男にはな、効率よりも──大切なもの──が、あるんだ。」


「それは何だ」


「……『ロマン』──だ。」


「ロマン。」


「そうだ。この無骨な重み──不自由な操作性。そして──時折フリーズする不完全さ。──それが、完璧すぎたアイ・メイジにはない『人間味』を感じさせるのだよ──」


「……『人間味』?」


「い、いや! なんでもない! 失敬、捜査に戻る!」


カレル警部は逃げるように去っていった。

走り去る彼の背後から、ゴレ・コムが「プスン」と黒煙を吐いた。

エラーラは立ち尽くす。


「ロマン……人間味……。それが、スペック表に載らない『最強の機能』だというのか……?」



その夜。

ナラは自室のベッドの中で、布団を頭から被っていた。

左腕の『ゴレ・コム』が、熱を持って唸っている。

排熱が酷く、低温火傷しそうだが、そんなことはどうでもいい。

画面の中では、最新の「レンダリングエンジン・V8」によって描画された、極上の尻尾が揺れていた。

一本一本の毛のきらめき。

風になびく自然な動き。

そして何より、一切の検閲も、謎の光もない、ありのままの姿。


「……はぁ……はぁ……最高……」


ナラは恍惚の溜息を漏らした。

重いし、臭いし、すぐ熱くなるし、電池は一時間しか持たない。

でも、ここには「自由」がある。

企業の都合で奪われた「楽園」が、この汚い箱の中には広がっている。

ドアがノックされた。


「ナラ。起きているかい?」


エラーラの声だ。ナラは慌てて画面を消し、狸寝入りを決め込んだ。

エラーラが入ってくる。

彼女は、ナラの枕元に置かれた、熱を帯びたゴレ・コムを見て、溜息をついた。


「……まったく。あんなに熱くなるまで酷使して。一体何をしているのやら」


エラーラは、ナラの布団を直し、窓を開けて換気をした。

部屋に充満していた排ガスの臭いが、夜風に流されていく。


「市場の動向は理解不能だが……まあいい。君がそれで幸せなら、それも一つの『解』なのだろう」


エラーラは、最後まで「原因」に気づくことはなかった。

彼女はあまりにも理知的で、純粋すぎたため、「人間が性欲のために利便性をドブに捨てる」という可能性を計算に入れられなかったのだ。


エラーラが出ていくと、ナラは再びゴレ・コムを起動した。

暗闇の中で、左腕の『ゴレ・コム』だけが、鈍いバックライトの光を放っている。


「……ふぅ……っ、ん……」


北方の獣人族の、冬毛の極太の尻尾。

それが、画面の向こうで、挑発するように、あるいは誘うように、左右に揺れている。

一本一本の毛のきらめき。重量感のある弾力。

アイ・メイジの「白い光」では決して見ることのできなかった、ありのままの真実。

ナラの呼吸が荒くなる。

ドレススーツは脱ぎ捨てていた。薄いネグリジェ一枚の身体が、汗でシーツに張り付く。


「……あぁ……すごい……これよ……」


ナラは、震える右手をおずおずと伸ばした。

ゴレ・コムを操作するためではない。

画面の中の尻尾が、激しく震える。

それに呼応するように、ナラの背中が弓なりに反った。


「……っ!」


布団が、波打つように小さく揺れた。

ゴレ・コムの排熱が上昇する。

警告音が鳴る。

ナラの右手が、シーツをギュッと握りしめる。


「……ぁ……っ!!」


ナラの喉から、甘く、切羽詰まった声が漏れる。

画面の中の尻尾が、最後に大きく、フワリと広がった瞬間。

ナラの身体がビクリと跳ね、そして脱力した。

限界を迎えたゴレ・コムが、黒い煙を吐いて強制シャットダウンした。

画面が暗転する。

後に残ったのは、真っ暗な部屋と、荒い息を吐くナラと、充満する排ガスの臭い、そして甘美な余韻だけ。


「……はぁ、はぁ……」


ナラは、汗ばんだ髪をかき上げた。

全身が気怠い。部屋は最悪の空気環境だ。

けれど、ナラは暗闇の中で、蕩けるような笑みを浮かべていた。


「……勝った!……エロが、世界を救ったのよ!」


窓の外。

王都の夜空は、数百万台のゴレ・コムが吐き出す黒煙で淀んでいた。

星は見えない。

ナラはゴレ・コムを愛おしそうに抱きしめ、深い眠りへと落ちていった。

その寝顔は、聖女のように無垢で、そしてどうしようもなく堕落していた。

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