第3話:Life
主題歌:ライフ〜壮絶なイジメと闘う少女の物語〜/LIFE
https://youtu.be/7_-Yl4Hbagc?si=W996REy4ObpB-6HJ
翌朝。
王都の空は、暴力的なまでに澄み渡っていた。
エラーラは早朝から出かけており、事務所にはあたしと、昨日拾った「過去の英雄」アルトの二人だけが残されていた。
「……ほら、食べなさい。毒なんて入ってないわよ?」
あたしは皿を差し出した。カリカリに焼いたベーコンと、半熟の目玉焼き。そしてトースト。
アルトはビクつきながら皿を受け取り、フォークを使わずに手でパンを掴んだ。
「……美味い」
アルトが小さく漏らした。
あたしは向かいに座り、ブラックコーヒーを啜った。
「……あんた、変だよね」
唐突に、アルトが言った。
あたしは眉を上げた。
「どういう意味?」
「……俺のこと、怖がらないから。あの銀髪の女の人は、俺を『標本』みたいに見てた。でも、アンタは違う。……アンタからは、俺たちと同じ匂いがする」
アルトは、あたしの目を真っ直ぐに見た。
「泥と、鉄錆と……這いつくばって生きてきた奴の匂いだ」
あたしは苦笑した。
お嬢様言葉を使い、高級ドレスを着ていても、スラムで残飯を漁っていた頃の「染み」は消えないらしい。
「……ご明察ね。あたしは元々、底辺出身よ」
あたしは足を組み替えた。
「だから、わかるのよ。……昨日のあんたの泣き顔、あれは『本当』の顔だったわ」
アルトの表情が、少しだけ緩んだ。
この未来世界で初めて、彼は息ができたような顔をした。
「……ありがとう、ナラさん」
それは、束の間の安らぎだった。
しかし、その静寂は、唐突な電子音によって破られた。
『臨時ニュースを申し上げます!』
部屋のホログラムTVが勝手に起動した。
画面には、興奮したキャスターが大写しになっている。
『昨日、国立歴史博物館付近で観測された異常な魔力反応、解析の結果、それが60年前の英雄、アルト・ヴィンスの生体魔力波長と完全一致することが判明しました!彼は時を超えて、現代に帰還したのです!』
「……は?」
あたしが呆気にとられている間に、窓の外が騒がしくなった。
空飛ぶ報道ドローンが、蜂の群れのように事務所の窓に張り付いている。
地上には、数え切れないほどの魔導車両と、衛兵たちが押し寄せていた。
「アルト様!アルト様万歳!」
ドアが爆破される勢いで開けられた。
雪崩れ込んできたのは、政府の高官たちと、王立アカデミーの学者たち、そしてマスコミだった。
「アルト様!お迎えに上がりました!さあ、王宮へ!」
アルトは恐怖で顔を引きつらせ、あたしの背中に隠れた。
「俺を殺しに来たのか!?」
「違うわアルト、こいつらはあんたを……」
あたしが言いかけるより早く、アルトは熱狂の渦に飲み込まれた。
抵抗する間もなく、彼は豪奢なリムジンに押し込まれ、あたしもその「世話係」として同乗させられた。
そこからの数日間は、悪夢のような狂騒だった。
アルトは王都で一番高級なホテル「クリスタル・パレス」の最上階スイートに軟禁された。
食事は最高級のフルコース。服は王族が着るような絹のローブ。
毎日、ひっきりなしに面会人が訪れた。
「貴方のおかげで、今の社会があります!」
「貴方の『敵を狩れ』という言葉を胸に、軍に入りました!」
「どうか、この魔導銃にサインを!」
アルトは、引きつった笑みを浮かべ、言われるがままに握手し、頷くだけの人形になった。
彼は、怯えていた。
そして何より、自分が最も憎んだ「魔法」によって作られた贅沢を享受しているという自己嫌悪。
夜。
誰もいなくなった広い部屋で、アルトは窓の下を見下ろしていた。
眼下には、宝石箱をひっくり返したような夜景が広がっている。
アルトが、背後に控えていたあたしに言った。
「俺は、地獄に落ちたのかな」
「……ここは天国よ。誰もが憧れる、英雄の座だわ」
「違う。……俺が殺した奴らが、俺を見て笑ってるんだ。『お前だけ生き延びて、嘘で塗り固められた栄光の中で、嘘をつき続けて、幸せな飼い殺しか』って」
アルトは自分の手を強く握りしめた。
「俺は……あいつらに謝りたい。俺は英雄じゃない。ただの、死に損ないだって……」
決定的な破綻は、英雄帰還から三日目に行われた『建国記念式典』で訪れた。
王都スタジアムには、十万人の市民が集まっていた。全土に生中継され、視聴率は90%を超えていた。
アルトは、純白の軍服を着せられ、壇上に立たされた。
隣には首相が立ち、満面の笑みで紹介する。
「市民諸君!奇跡の帰還を果たした、我らが原点!救国の英雄、アルト・ヴィンス氏です!」
地鳴りのような歓声。
アルトは顔面蒼白で、マイクの前に立った。
台本が手渡される。そこにはこう書かれていた。
『魔法こそが力だ。未来永劫、王都の敵を殲滅せよ』
アルトの手が、震えた。
目の前には、十万の、期待の瞳。
彼らはアルトを見ているのではない。「自分たちが信じたい物語」を見ているのだ。
「……さあ、アルト様。あのお言葉を。王都法第3条の精神を、皆様に!」
首相が促す。
アルトは口を開いた。
「……ま」
会場が静まり返る。
「……魔法なんて……」
アルトの声が、マイクを通して響いた。
「……魔法なんて、無くなればいい!」
ざわめきが広がる。
首相が慌てて「ア、アルト様? 台本と違いますぞ」と耳打ちする。
だが、アルトは止まらなかった。
「俺は……俺は戦いたくなんかなかった!魔法なんて大嫌いだ!親を殺した、こんな呪われた力なんて!欲しくなかった!」
アルトは叫んだ。涙で顔をぐちゃぐちゃにして。
「『敵を狩れ』なんて言ってない!俺は……俺は『逃げろ』って言ったんだ!生きててほしかったんだ!幸せになりたかったんだ!仲良くしたかったんだ!戦争なんてクソ食らえだ!俺は生きて帰りたかっただけなんだよぉぉぉ!」
十万人の沈黙。
それは、ただの静けさではない。
信仰が崩れ落ち、その瓦礫の下から、どす黒い「失望」と「怒り」が噴き出してくる予兆の静寂だった。
「……なんだあれ?」
「逃げろだって?」
「英雄じゃないの?」
「国を侮辱したのか?」
ざわめきは、急速にブーイングへと変わった。
物が投げ込まれる。
最初は紙くず。次にペットボトル。そして、石。
「嘘つき!」
「裏切り者!」
「国賊!」
「非国民!」
首相が顔色を変えて叫ぶ。
「放送を切れ!衛兵、彼を連れ出せ!」
アルトは壇上で立ち尽くしていた。
飛んできた石が額に当たり、血が流れる。
だが、彼の顔には、奇妙な安堵が浮かんでいた。
ようやく、本当のことを言えた。
「英雄アルト」の仮面が割れ、ただの「アルト」に戻れたのだ。
その瞬間から、世界は反転した。
アルトは「救国の英雄」から、「歴史修正主義者」へと転落した。
現代の王都において、魔法と王都法はアイデンティティそのものだ。それを否定することは、国民全員の人格を否定するに等しい。
愛は、殺意に変わった。
あたしは混乱に乗じてアルトを連れ出し、ホテルの部屋に戻った。
だが、そこはもう安全地帯ではなかった。
ホテルのロビーには暴徒と化した市民が押し寄せている。
魔導通信上には、アルトへの殺害予告が秒単位で溢れかえる。
政府も、彼を守ることを放棄した。「精神異常をきたした偽物である可能性がある」と発表し、責任を逃れようとしていた。
「……すごいな」
部屋の隅で、アルトが笑った。
額の傷から血を流しながら、彼は憑き物が落ちたような顔をしていた。
「60年前と同じだ。魔力を持ってるってだけで石を投げられ、今度は魔法を否定したってだけで石を投げられる。人間ってのは……」
「感傷に浸ってる場合じゃないわよ?」
あたしは、クローゼットから動きやすい服を引っ張り出し、アルトに投げつけた。
「着替えなさい。ここはもう包囲されてる。殺されるわよ」
「……もういい。俺はもう死んでいるようなもんだ。生きていても、もう、意味はない」
「馬鹿言ってんじゃないわよ!」
あたしはアルトの胸倉を掴み、平手打ちをした。
「あたしは歴史なんか知らない!自分で見たわけじゃあないから知らない!あんたが英雄でも、歴史修正主義者でも、あたしにはどうッッッでもいい!でもね、あたしが拾った『命』を、勝手に他人に捨てられるわけにはいかないのよ!」
あたしは、かつてスラムで培った「生き汚さ」全開で叫んだ。
「あんたの言ったことは、あんたの中では本当だったんでしょ?皆の前で、本当の自分を叫んだ。……それこそが、あたしの知ってる『熱い』生き様よ!」
アルトが目を見開いた。
「……ナラさん」
「……行くわよ!」
あたしたちは、ホテルの業務用エレベーターを使って地下へ降りた。
だが、地下駐車場にはすでに、武装した市民団体と、興奮した衛兵たちが待ち構えていた。
「いたぞ!歴史修正主義者だ!」
「殺せ!王都の誇りを守れ!」
彼らの手には、最新鋭の魔導銃や、攻撃魔法の杖が握られている。
かつてアルトが憎んだ「魔法」が、今まさに彼を殺そうとしている。
「……アルト、後ろに隠れてなさい」
あたしは、懐から鉄扇を取り出した。
魔法なんて使えない。あたしにあるのは、スラムで鍛えた体術と、この鉄塊だけだ。
「ナラさん、無理だ!相手は魔法を使うんだぞ!」
「だから何よ?撃たれたら死ぬ。その前に殴る。……常識でしょ?」
あたしはニヤリと笑い、地面を蹴った。
先頭の男が放った火球を、鉄扇で弾き飛ばす。
そのまま懐に飛び込み、顎をカチ上げる。男が白目を剥いて倒れる。
「なっ……物理攻撃だと!?」
「野蛮人が!」
次々と放たれる魔法の弾幕。
ドレスの裾が裂け、肌に擦り傷ができるが、アドレナリンが痛みを麻痺させている。
「来なさいアルト! 走って!」
あたしはアルトの手を引き、駐車場の出口へ向かう。
だが、出口の前には、巨大な魔導ゴーレムが立ちはだかっていた。
政府が送り込んだ治安維持用兵器だ。
「排除対象。アルト・ヴィンス。国家反逆罪。」
ゴーレムが巨大な腕を振り上げる。
鉄扇では受けきれない質量。
あたしが覚悟を決めたその時。
アルトが前に出た。
「……やめろ」
アルトが右手を突き出した。
その瞳に、60年前の戦場で灯っていた、悲痛な覚悟の光が宿る。
「俺は……魔法は使いたくない。でも、俺を助けてくれたこの人だけは……!」
アルトの身体から、青白い光が溢れ出す。
『マギア・ギフテッド』。現代のエルフ級魔導士さえ凌駕する、原初の魔力。
それが、感情の爆発と共に解き放たれる。
「どけぇぇぇぇッ!!」
アルトの手から放たれた純粋な魔力砲撃が、ゴーレムを直撃した。
最新鋭の装甲が紙のように引き裂かれ、ゴーレムは半身を吹き飛ばされて活動を停止した。
「……は、はは。やっちまった……」
アルトは自身の掌を見て、泣き笑いのような顔をした。
彼を救ったのは、彼が最も憎んだ魔法だった。
「上等じゃない。行くわよ!」
あたしたちは、乗り捨てられていた魔導車を奪い、闇に紛れて走り出した。
・・・・・・・・・・
国境へと続く荒野のハイウェイ。
盗んだ最新鋭の魔導オープンカーが、時速200キロで爆走していた。
「ナラさん! 後ろ! また来たぞ!」
アルトの悲鳴と共に、後方から暴徒と化した市民たちの魔導バイク隊が殺到する。
彼らは昨日の英雄に石を投げ、魔法を放ち、口々に呪詛を吐きかけていた。
「しつこいですわね! 一般人の分際で、このあたくしのドライブについてこようなんて!」
ナラは悪態をつきながら、片手でハンドルを操作し、もう片方の手で鉄扇を振るった。
接近してきたバイクのタイヤを正確に叩き割り、転倒させる。
魔法などいらない。物理こそが最強の拒絶だ。
だが、真の絶望は地上ではなく、空にあった。
上空から、圧倒的な魔力のプレッシャーが降り注ぐ。
ナラが舌打ちをして空を見上げた。
そこに、「彼女」はいた。
重力を無視して宙に浮き、白衣を風になびかせ、腕を組んでこちらを見下ろす銀髪の魔女。
王都最強の魔導科学者にして、ナラの義母。
エラーラ・ヴェリタス。
「……ッ!お母様……!」
ナラは奥歯を噛み締めた。
エラーラが、空を飛んでいる。
上級魔導士なら飛行魔法は使える。理屈ではわかっている。
だが、ナラは猛烈な不快感を覚えた。
(何よ、あの飛び方は……!)
エラーラは、ただ浮いているのではない。
まるで「降臨した女神」かのように、仰々しく、優雅に、そして傲慢に飛んでいた。
それは、「私は魔法使いである」と世界中にアピールしているような、鼻につくパフォーマンスだった。
そして何より、ナラは気づいていた。
エラーラの出力ならば、こんなカーチェイスなどしなくとも、上空からの一撃でこの車ごと二人を消し炭にできるはずだ。
なのに、あえて姿を晒し、追いかけてくる。
まるで、この「断罪劇」を国民に見せつけるかのように。
「……趣味が悪いわよ!」
ナラはアクセルを床まで踏み込んだ。
『投降したまえ、アルト・ヴィンス。そしてナラティブ・ヴェリタス』
エラーラの声が、拡声魔法によって荒野に響き渡る。
その声は冷徹で、いつもの家族に向ける温かさは微塵もない。完全に「国家の代行者」の声だった。
『アルト・ヴィンス。君は国家の象徴としての役割を放棄し、歴史を汚した。その罪は万死に値する』
「うるさい!俺は俺だ!歴史なんか知るか!」
アルトが叫び、空に向かって魔力弾を放つ。
だが、それはエラーラの障壁に触れることすらなく霧散する。
『そしてナラ。私の娘よ。非論理的な感情論で国家の敵を庇うとは嘆かわしい。……その男を差し出しなさい』
「お断りよ!あたしは一度拾ったもんを捨てる趣味はないの!」
ナラは鉄扇で飛来する魔法弾を弾き返した。
構図は明白だった。
エラーラが守ろうとしているのは「王都の歴史」。
捏造されていようと、それが社会の安寧を保っているなら、真実よりも重いとする「大文字の物語」。
対してナラが守ろうとしているのは「アルト個人の物語」。
社会的にどうあれ、一人の人間が感じた痛みや、つきたい嘘や、逃げたいという感情。誰にも記録されない「個人の真実」。
マスコミのドローンが、この「マクロ対ミクロ」の親子喧嘩を空から中継している。
国民は熱狂していた。
アルトへの憎悪と、家族同士が殺し合う悲劇的なエンターテインメントに、酔いしれていた。
エラーラが指を振るう。
正確無比な爆撃魔法が、車の進路前方を抉った。
追い込まれている。
羊飼いが羊を柵に追い込むように、エラーラは二人を国境の断崖絶壁へと誘導していた。
「くそっ、あいつ……性格悪すぎるでしょ!」
ナラが急ハンドルを切る。
タイヤが悲鳴を上げ、車体が横転した。
魔導車は火花を散らしながら地面を転がり、国境のゲート手前で大破した。
煙を上げる車から、ナラとアルトが這い出す。
目の前には、静かに着地したエラーラが立っていた。
白衣一つきれいなままで。圧倒的な強者の佇まいで。
「終わりだね。非論理的な逃避行の末路としては、妥当な結末だ」
エラーラが冷ややかに見下ろす。
アルトがふらふらと立ち上がり、エラーラを睨みつけた。
「……お前らが……お前ら魔導士が、俺の人生を狂わせたんだ!俺を英雄に祭り上げ、用済みになったら殺すのか!結局、人は60年前から何も変わってない!魔法は、人を不幸にするだけだ!」
「それは君の主観に過ぎない。数字を見たまえ。魔法は社会を豊かにした。君一人の犠牲で、一億人が幸福になるなら、その計算式すら『正解』だ」
「ふざけるなッ!」
アルトが突撃しようとする。
だが、それをナラの手が制した。
「下がってなさい、アルト!」
ナラは、ボロボロのドレススーツの埃を払い、鉄扇を構えた。
その瞳は、紅蓮の炎のように燃えていた。
「お母様。……あんたのその、すべてを見透かしたような顔がムカつくのよ!あたしの話も聞かずに、アルトの痛みも無視して、教科書通りの情報を勝手に押し付ける……」
「教育的指導が必要かな、ナラ」
「教育? ……あんたが教育されなさいよ!」
ナラが地面を蹴った。
魔法による加速ではない。純粋な筋力による瞬発力。
その速さは、アルトの目にも止まらぬほどだった。
鉄扇が唸りを上げてエラーラの首を狙う。
エラーラは眉一つ動かさず、障壁を展開する。
金属音と火花。
「物理攻撃のみで私の障壁にヒビを入れるとはね。褒めてあげよう」
「余裕ぶってんじゃないわよ!」
ナラは止まらない。
障壁を足場にして跳躍し、回転しながら踵落としを叩き込む。
連撃。乱舞。
魔法を使えないナラが、世界最強の魔法使いを相手に、一歩も引かずに渡り合っている。
(すげえ……)
アルトは震えた。
魔法が全てのこの時代に、己の肉体だけで「理不尽」に抗う姿。
それは、60年前に彼が憧れ、なれなかった「鉄の戦士」の姿そのものだった。
だが、相手が悪すぎた。
エラーラは、ナラの猛攻をすべて最小限の動きでいなし続けていた。
「……チェックメイトだ」
エラーラが指を鳴らす。
重力魔法。ナラの身体に数トンの負荷がかかる。
「ぐぅっ……!」
ナラは地面に縫い付けられた。骨が軋む音がする。
「がんばったね、ナラ。だが、物理法則には逆らえないよ」
エラーラは動けないナラを一瞥し、アルトの方へと歩み寄った。
手には、収束した魔力の刃が輝いている。
処刑の時だ。
「……やれよ」
アルトは目を閉じた。
エラーラは、魔力の刃を、振り上げた。
「もう、疲れた。……これで、やっと眠れる」
エラーラは、魔力の刃を霧散させた。
「は……?」
エラーラは──懐から、偽造パスポートを出し、肩にかけていたカバンを差し出した。
カバンの中には、大量の現金が入っていた。
「……いま、国が必要としているのは『死んだ英雄』だ。君が生きていては、王都法第3条の正当性が揺らぐ。だから計算したのさ。君を『社会的に抹殺』し、私が『処刑』したことにする。そうすれば、国体は護持され、君は自由になれる……」
エラーラは国境のゲートを指差した。
「この先は、魔法を忌避する隣国だ。君の思想にはうってつけの隠居場所だろう? ……さあ、行きたまえ!」
アルトは震える手でパスポートを受け取った。
この女は、国を守るふりをして、歴史を守るふりをして、たった一人の「敗北者」の命を守るために、世界を騙したのだ。
「……ありがとう……!」
アルトは泣き崩れ、何度も頭を下げてから、国境の向こうへと走り去った。
霧の向こうへ消える背中は、もう怯えていなかった。
・・・・・・・・・・・・
静寂が戻る。
エラーラは「やれやれ」と肩をすくめ、ナラの方を向いた。
「完璧なシナリオだっただろう?これでアルトは助かった!」
エラーラは得意げに微笑んだ。
だが、ナラは立ち上がったまま、俯いていた。
その拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。
「……助かった?」
「ん?なんだいナラ。私の天才的な采配に言葉も出な……」
ナラの右ストレートが、エラーラの顔面に深々と突き刺さった。
無防備だったエラーラは、きりもみ回転して吹き飛び、地面を転がった。
エラーラは鼻を押さえながら起き上がった。鼻血が出ている。
「な、何をするんだ?ナラ!私は彼を助けたんだぞ!感謝されこそすれ、殴られる道理は……!」
「ナメた口きいてんじゃないわよ!クソババア!」
ナラが怒号を上げた。
その目には、涙が溢れていた。
「あんた……アルトの気持ちを、これっぽっちも感じていなかったの!?」
「……?」
ナラはエラーラの胸倉を掴み上げ、激しく揺さぶった。
「あの子はね、60年間ずっと苦しんでたのよ!自分の言葉を捻じ曲げられ、嘘の歴史を押し付けられて、嘘が嘘だったことの責任まで取らされて!……なのにあんたは、その『嘘の歴史』を守ろうとした!」
「それは、それが最も効率的で、彼の物語には根拠もなく、彼が生きのびられれば……」
「効率?……それが間違いだって言ってんのよ!」
ナラの叫びが、荒野に響き渡る。
「なんで一言も『世界の方が間違ってる』って言わなかったのよ!なんで……『こんな嘘っぱちの法律なんてクソ食らえだ』って、世界に向かって反発しなかったのよ!あんたならできたでしょ!ねぇ?最強の魔法使いなんでしょ?ねぇ!」
「非論理的だ……一人の感情のために、社会を崩壊させるリスクは……」
「非論理?データばっか見てんじゃないわよ!」
ナラは、エラーラの言葉を遮った。
「あんたが見てたのは『歴史』っていうデータだけよ!あんたは……目の前で泣いてたアルトの生身の痛みを一切見てなかった!あの子が本当に欲しかったのは、『お前は間違ってない』って、誰かに大声で肯定されることだったのよ!」
ナラは、エラーラを突き放した。
「あんたは賢い。賢すぎて、一番大事な『心』の計算を間違えたのよ。……あの子を逃がしたことで、あの子は一生『日陰者』として生きなきゃいけなくなった!あの子の名誉は?尊厳は?あんたが守ったのは国の文脈だけで、あの子の『魂』は守らなかった!あんたは戦うべき時に戦わなかった!……戦って負けたとしても……戦って負けたほうが、守れるものもあるのよ!」
エラーラは、呆然とナラを見つめた。
鼻血を拭うのも忘れていた。
彼女の脳内で、完璧だったはずの計算式がガラガラと崩れ落ちていく。
効率。最適解。リスク管理。
「全体」を優先するあまり、彼女は、アルトという「一部」を見誤っていた。
命さえあればいいわけではない。人間は、誇りがなければ生きていけない生き物だ。
それを、一番近くにいた「非論理的な娘」に教えられた。
「……あ」
エラーラは、小さく声を漏らした。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……私の、ミスだ」
傲慢な天才科学者の仮面が剥がれ、ただの不器用な母親の顔になる。
「君の言う通りだ、ナラ。私は……歴史という巨大な物語を見るあまり、彼個人の物語を……彼の痛みを、観測できていなかった。」
エラーラは、まっすぐにナラを見た。
「すまなかった……」
短く、しかし混じりっけのない謝罪だった。
ナラは、大きく鼻をすすり、乱暴に涙を拭った。
「……わかればいいのよ。……次は、間違えないでよね。お母様!」
「ああ。」
二人は、荒野の風の中で、しばらく無言で立ち尽くしていた。
アルトはもういない。
だが、彼が残した「問い」は、二人の胸に深く刻み込まれた。
翌朝。
全世界にニュースが駆け巡った。
『速報!最強の魔導士エラーラ・ヴェリタス、国賊アルトを粛正!』
『英雄の威厳を守った鉄の断罪!世界に平和が戻る!』
エラーラは一躍、国の救世主として称えられた。
だが、記者会見での彼女は、いつもの不敵な笑みを浮かべてはいなかった。どこか沈痛で、言葉少なだったという。
・・・・・・・・・・
数ヶ月後。
王都の広場。
かつてのアルトの銅像は撤去され、代わりに新しい銅像が建てられていた。
白衣を翻し、慈愛に満ちた表情で空を見上げる、美しき魔導科学者エラーラの像。
台座には『真実の守護者』と刻まれている。
その銅像の前に、一人の女性が立っていた。
ナラティブ・ヴェリタスだ。
彼女は、銅像を見上げ、ため息をついた。
「……ほんと、世界って……嘘つきね」
彼女はドレスの裾を持ち上げ、綺麗な足で、銅像の脛あたりを思い切り蹴り飛ばした。
「これは、あたしを騙した分!」
もう一発。
「これは、アルトの痛みに気づかなかった分!」
そして、最後にもう一発。軽く、コツンと蹴った。
「……これは、それでもあの子を『生かして』くれた分。……ありがとね」
ナラは踵を返し、歩き出した。
空には、相変わらず魔導飛行船が飛び交い、偽りの平和を謳歌している。
だが、ナラは知っている。
この嘘だらけの世界のどこかで、名もなき青年が、今度こそ誰にも縛られず、自分の足で生きていることを。
そして、家に帰れば、不器用で、論理的すぎて、でも憎めない「お母様」が、冷えた珈琲を温め直して待っていることを。




