第2話:歴史を否定する過去!
王都の昼下がりは、光に満ちていた。
空には反重力魔導機関で浮遊する「上層街区」が白磁のような輝きを放ち、地上では魔導ビジョンが極彩色の広告を垂れ流している。
それは、人類が到達した繁栄の極致であり、魔法科学の勝利の証だった。
その光差す大通りを、二人の女性が歩いていた。
一人は、漆黒のドレススーツに身を包んだ、色白で鋭い目つきの美女、ナラティブ・ヴェリタス。
もう一人は、褐色の肌に白衣を纏い、銀髪を揺らす理知的な魔導科学者、エラーラ・ヴェリタスだ。
「……まったく、退屈な展示だったわね」
ナラが大きな欠伸を噛み殺しながら言った。
二人は、国立歴史博物館で開催されていた『建国60周年記念展』からの帰りだった。
「そうかい?私は興味深かったがねぇ。特に初期型魔導小銃の魔力伝導率についての考察は、実に示唆に富んでいたよ」
「あんた、機械のスペックしか見てないじゃないの。あたしが言ってるのは、あの広場の銅像よ。『英雄アルト』だっけ?なんか、顔がキメ顔すぎて嘘くさいのよ。一流であるあたしの目は誤魔化せないわ!」
「不謹慎だぞ、ナラ。彼は王都法第3条の精神的支柱だ。彼がいなければ、今の魔導文明はなかった。……っと?」
エラーラが突然立ち止まり、何もない空間を見つめて目を丸くした。
「どうしたのよ、お母様」
「……データの揺らぎだ。非論理的な数値が、あそこの路地裏から観測される」
エラーラが指差した先。
昼の日差しさえ届かない路地の陰に、泥のような塊が転がっていた。
「……嘘でしょ?」
ナラがドレスの裾を翻して駆け寄る。
それは、ボロボロの布切れを纏った人間だった。
腹部には生々しい大穴が空いており、赤黒い血液がまだ乾かずに流れている。
「ひどい出血……!お母様、まだ息があるわ!」
エラーラが膝をつき、白衣を翻して即座に診断モードに入る。
「……心肺停止寸前だ。それにこの傷、物理的な刃物による刺突傷だが、細胞の壊死具合が……」
「分析はあと!」
「……ここで蘇生させるには私の魔力だけでは心許ないね。ナラ、担ぎたまえ!」
ナラは言われるがままに、泥だらけの青年を背負い上げた。
驚くほど、軽かった。
それは、長期間の栄養失調と、極限のストレスに晒された人間の、枯れ木のような軽さだった。
王都の外れ、「獣病院」。
その二階にあるヴェリタス探偵事務所に、ナラは青年を運び込んだ。
最新鋭の魔導医療ポッドの中で、青年の傷は瞬く間に塞がっていった。エラーラの膨大な魔力と、現代の超技術による完全蘇生だ。
数時間後。
午後の日差しが傾きかけた頃、ソファに寝かせられた青年が、うっすらと目を開けた。
「……っ!?」
青年は弾かれたように飛び起きた。
周囲を見渡し、猫を見て、そしてナラを見て、激しく後ずさる。
「あ、ああ……俺は……戦線は……? ガイル軍曹は!?」
彼の瞳は、焦点が定まらず、激しく泳いでいた。
極度の錯乱状態。戦場特有のパニックだ。
「落ち着きなさい。ここは病院よ」
ナラが優しく声をかけた。
彼女は、湯気の立つマグカップを差し出した。
「まずは何か飲みなさい。落ち着くわよ。あたしが淹れた最高の一杯だわ」
青年は、震える手でカップを受け取った。
黒い液体。コーヒーだ。香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。
一口啜る。
その瞬間、青年の顔色が土色に変わった。
「……こ、これは……」
「ん? ああ、それね。最近入荷したいい豆なのよ。『帝都産』の最高級品。向こうは土壌がいいから、コクがあって……」
青年がカップを取り落とした。
「帝都……!?ここは……帝都軍の捕虜収容所か……!」
青年はソファの背もたれにへばりつき、ガタガタと震え出した。
その怯え方は尋常ではなかった。まるで、処刑台に引きずり出された死刑囚のような、絶望的な恐怖。
「はあ?何言ってるのよ。帝都なんて田舎の属国じゃない。今は友好条約もあるし……」
ナラが首を傾げていると、奥の実験スペースからエラーラが歩み出てきた。
彼女は、青年が着ていたボロボロの軍服を洗濯し、魔導繊維で修復していた。
その手に持っている軍服の襟章を見て、エラーラの青い目が、発見の喜びと畏怖で輝いていた。
「……第101実験歩兵大隊。階級、二等兵。……そして、このネームタグ」
エラーラは、青年の顔と、博物館のデータベースにある銅像の顔を照合した。
骨格、特徴、全てが一致する。確率的同一性99.99%。
「さては……君の名は、アルト・ヴィンスだね?」
青年――アルトが、ビクリと肩を震わせてエラーラを見た。
「な、なぜ……俺の名を……」
エラーラは、恭しく一礼した。
それは、この不遜な天才科学者が他者に見せる、最大級の敬意だった。
「ああ!……ああ……お会いできて光栄だよ。……まさか、歴史の教科書に載っている『救国の英雄』ご本人にお目にかかれるとはねぇ! 時空転移か、あるいは量子的凍結か……」
「……えい、ゆう……?」
アルトは、口を半開きにして呆然とした。
何を言われているのか、全く理解できないという顔だ。
「そうだとも!貴方は王都法第3条の根拠となったお方。60年前、サクラメントの戦いで、帝都軍から魔導技術を守り抜いた伝説の兵士だ!」
エラーラは興奮気味に、身振り手振りを交えて語った。
「貴方の『命ある限り、敵を狩れ』という遺言は、我々王都国民の魂に刻まれている。貴方の勇気ある撤退拒否と、魔法への献身がなければ、今の私たちの繁栄はなかったのだよ!」
アルトの呼吸が止まった。
彼の脳内で、言葉が反響する。
英雄?
技術を守った?
命ある限り、敵を狩れ?
違う。
違う。
違う違う違う!
俺は、逃げたかった。
俺は、魔法なんて大嫌いだった。
俺は、命乞いをしたかった。
最後の言葉は、「命があるなら、逃げろ」だったはずだ。
「……嘘だ」
アルトは呻いた。
「……ふむ、何か間違ったかね?国内の記録にも、他国の記録にも書き記された、疑いようのない事実だが」
アルトはふらりと立ち上がった。
そして、窓の方へと歩いた。
ナラが慌てて支えようとするが、彼はそれを振り払い、カーテンを開け放った。
窓の外には、アルトの知らない世界が広がっていた。
午後の日差しを浴びて、空を埋め尽くす巨大な浮遊都市の群れ。
地上を高速で滑走する、光のラインを引く魔導車両。
ビルの壁面には、巨大なホログラム広告が浮かび上がり、魔法薬や魔導具の宣伝を煌びやかに垂れ流している。
空気そのものが、濃厚な魔素の臭いで充満していた。
「……あ、あ……!」
アルトは腰を抜かした。
そこは、彼が最も忌み嫌い、両親を殺した原因である「魔法」が、世界を完全に支配している光景だった。
鉄と蒸気の時代は終わっていた。
魔法が、勝利したのだ。
そしてそれは、自分が「守った」ことにされている技術の成れの果てだった。
「なんだここは!……み、未来、なのか……」
アルトの目から、光が消えた。
彼は放心状態で床に座り込んだ。
ナラは状況が飲み込めないまま、とりあえずクローゼットから毛布を取り出し、アルトの肩にかけた。
「……まあ、よくわかんないけど、寒いでしょ。温まりなさい。あんた、あたしが拾ったんだから、勝手に絶望しないでちょうだい」
ナラの不器用な優しさが、アルトの冷え切った心を少しだけ揺らした。
だが、エラーラは科学者としての好奇心と、歴史的敬意が先行し、語り続けた。
「素晴らしいだろう、アルト二等兵!これが貴方が守り抜いた未来だ!王都は帝都に勝利し、今や世界最大の魔導大国となった。帝都は敗北し、今は我々の技術支援なしでは立ち行かない属国だよ!」
エラーラは誇らしげに言った。
「貴方が命を懸けて、悪逆非道な帝都から魔法を奪い返したおかげさ!」
アルトは、虚ろな目でエラーラを見上げた。
「……奪い、返した……?」
「ああ!帝都は我が国の優れた魔法技術を独占しようと侵略してきた。しかし貴方は、それを阻止した!」
「……違う」
アルトは首を振った。
「逆だ……侵略したのは王都だ……それに、帝都は魔法なんて欲しがっていなかった。あいつらは、魔法を『汚らわしい』と言っていた。あいつらが信じていたのは、鉄と筋肉だけだった……」
「おや?それは完全なる誤解だねぇ」
エラーラは首を傾げた。彼女にとって、教科書の歴史こそが「正史」であり、データだ。
「記録によれば、帝都は魔導コアの奪取に執着していたはずだよ?」
「記録……違う……あいつらは……魔法を潰すために来たんだ。俺たちのような『魔法使い』を、根絶やしにするために……」
噛み合わない。
決定的に、認識がズレている。
同じ王都国民でありながら、勝者の歴史を学んだ天才科学者と、敗者の現実を生きた一兵卒。
「少し、外の空気を吸おうか。貴方の銅像もお見せしたいしね。……ナラ、エスコートを頼むよ」
三人は午後の街に出た。
街ゆく人々は、誰もが小さな杖や魔導端末を持ち、魔法を当たり前のように使っている。
火を点けるのも、荷物を運ぶのも、すべて魔法だ。
アルトにとっては、全員が「魔女」に見えた。全員が、かつて両親を殺した暴徒たちが憎んだ対象そのものだった。
やがて、彼らは広場にたどり着いた。
そこには、陽光を浴びて輝く巨大なアルトの銅像があった。
勇ましく、敵を睨みつける英雄の像。
「見たまえ。あれが貴方だ」
エラーラが指差す。
「毎日、多くの子供たちがここを訪れ、貴方に感謝を捧げる。『僕たちもアルト様のように、魔法のために戦います』とね」
アルトは、自分の像を見上げた。
吐き気がした。
誰だ、こいつは。
誰なんだ。
俺か。
俺は、こんな顔をしていない。
あの日、俺は泣いていた。土下座していた。
「生きろ」と言ったんだ。「死ね」なんて一言も言っていない。
「……やめろ」
アルトが呟いた。
「この像は、貴方の不屈の精神を象徴している。魔法こそが正義であり、それを否定する野蛮な帝都こそが悪であると……」
「やめろと言っているッッッ!」
アルトが絶叫した。
彼は広場の真ん中で、頭を抱えて叫んだ。
「俺は英雄なんかじゃない!俺は、俺はただの臆病者だ!魔法なんて大ッ嫌いだ!親を殺し、俺の人生を狂わせた、こんな呪われた力なんて……!」
ナラが驚いてアルトの肩に手を置こうとする。
「ちょっと、どうしたのよ急に。……お母様、やっぱり、まだ錯乱してるわ」
アルトはナラの手を振り払った。
そして、憎悪の籠もった目で、目の前の「魔女」――エラーラを睨みつけた。
そして──
「お前らが……お前らみたいな都合しか考えない奴らが勝手に歴史を書き換えたんだ!俺の言葉を、俺の死を、勝手に都合よく利用して!俺は帝都が正しかったと思ってる!ああ!思ってるさ!帝都は正しかったんだ!だって……だって!魔法が使えたから、俺の両親は殺されたんだぞッッッ!」
「アルト二等兵。いったい、何の話をしているんだい。魔法によって経済発展した王都が、なぜ、魔法使いを迫害する必要があるんだい?……非論理的だ。記録にも、「王都市民が魔法使いを迫害した」という記述はどこにもないよ?」
「記述?きじゅつぅぅぅ?シリウスは餓死したんだぞ!ルーデウスおじさんも、リルも、みんな!セドリックおじさんのとこのアイシャなんか……魔法なんかこれっぽっちも使えないのに、ただ、ただ、着ていた服が白かっただけで殺されたんだぞ!白は医者の色だからって!医者は魔法が使えるかもしれないって!アイシャは!学校!でてないんだぞ!なんで医者と間違えられるんだよッッッ!昨日までいたんだよ!生きてたんだよ!西のライン川の大橋で、明日は王都の郵便局の前のカフェに行こうって約束していたのに!」
「……ふむ?」
「……アイシャはカフェに来なかった……日が暮れても来なかった……心配になってセドリックおじさんの時計屋に行ったら……一階の階段の前で倒れて、死んでいたんだよ!血は固まっていた。俺と別れたその後すぐに刺されていたんだろう。……もう。もう!わけわかんないんだよ!わけわかんないよな!わけわかんないんだよ!」
「……?」
「……だから!魔法が!人を!俺の友達を!殺したんだよッッッ!」
エラーラは、冷静に眉をひそめた。
「……何を言っているのかね?アルト二等兵。貴方はかなり混乱しているようだね。魔法が人を殺す?データが否定しているよ。魔法により平均寿命は伸び、飢餓は根絶された。むしろ、帝都の精神論こそが、非効率の極みであり……」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れッ!理屈なんてどうでもいい!!」
アルトの中で、何かが切れた。
60年分の恐怖と、理不尽への怒りと、そしてこの世界への絶望が、彼の「マギア・ギフテッド」としての才能を暴走させた。
「あんたは人の心がない!消えろ……!魔法ごと一緒に、消えてなくなれぇぇッ!!」
アルトが右手を突き出した。
そこに、膨大な魔力が収束する。
詠唱も、術式もない。感情だけで編み上げられた、純粋な破壊の光。
青白い閃光が、エラーラに向けて放たれた。
だが。
エラーラは動かなかった。
彼女は、まるでハエでも払うかのように、左手を軽く振った。
軽い音がして、アルトの渾身の砲撃は、エラーラの掌の数センチ手前で霧散した。
「魔力拡散障壁」
現代の魔導士なら基礎中の基礎だが、エラーラのそれは桁外れに精密だった。
「やれやれ。まったく……非論理的だねぇ」
エラーラは、煙を払う仕草をした。
傷一つない。白衣の裾さえ焦げていない。
「出力は高いが、収束率が甘い。感情に任せた魔力放出など、現代の防性魔法の前ではそよ風に等しいよ」
アルトは、自分の手と、無傷のエラーラを交互に見た。
驚愕で、膝が震える。
「……な、ぜ……」
アルトが驚いたのは、自分の魔法が防がれたことではなかった。
彼が驚愕したのは、その「光景」だった。
街ゆく人々が、今の爆発を見て足を止めていた。
だが、彼らの目に「恐怖」や「憎悪」はなかった。
「あ、すごい魔法」「喧嘩か?」「大道芸かな」
そんな、好奇心や日常の延長としての反応しかなかった。
そして何より、目の前の銀髪の女――エラーラだ。
彼女は、あれだけの魔法を使っても、誰からも石を投げられていない。
「魔女だ!」「殺せ!」と叫ぶ暴徒がいない。
警邏中の衛兵が駆けつけてきても、彼女を「化け物」としてではなく、「市民」として扱おうとしている。
「……なんで……」
アルトは、乾いた唇を震わせた。
「なんで、お前は……石を投げられないんだ……?」
「はい?」
エラーラが首を傾げた。
「魔法を使って……『魔法使い』だとバレているのに……なんで、誰も殺そうとしないんだ……?」
アルトの脳裏に、かつての光景が蘇る。
パンを焼いただけで殺された両親。
魔法を使っただけで「卑怯者」と罵られた戦場。
魔力を持つ者は、隠れて生きるか、軍の道具になるしかなかったあの時代。
しかし、目の前の女は、堂々と魔法を使い、堂々と胸を張っている。
そして世界は、それを受け入れている。
「石? 殺す?」
エラーラはようやく、アルトの言葉の意味を理解しようとし、そして呆れたように笑った。
「何を言っているんだい?魔法が使えることは、現代ではステータスこそあれ、差別の対象にはならないよ!」
「……」
「私が魔法を使ったからといって、いったい誰が私を責めるんだい?貴方のいた時代は知らないがね、今は『魔法使い』は、子供たちの憧れの職業ランキング1位なんだよ。これは君にとっても、嬉しいことじゃないか!」
アルトは、その場にへたり込んだ。
腰の力が完全に抜けてしまった。
ああ、そうか。
俺たちが泥の中を這いずり回り、罵られ、殺し合ったあの地獄は。
あの、魔法が呪いだった時代は。
本当に、終わったんだ。
俺が守りたかったわけでもない、むしろ憎んでいたこの技術が。
結果として、俺のような「呪われた子供たち」が、石を投げられずに生きていける世界を作ったのか。
俺の苦しみは、俺の死は、この平和のための礎石として、勝手に消費されたのか。
「……は、はは……」
アルトは乾いた笑い声を漏らした。
涙が溢れて止まらなかった。
それは、安堵なのか、悔しさなのか、わからなかった。
ただ、自分の人生の全てが、知らぬ間に踏み台にされたことだけは、理解できた。
「……アルト君?」
ナラが心配そうに顔を覗き込み、再び毛布をかけた。
温かかった。
60年前の泥濘にはなかった、清潔で、柔らかな温もり。
彼女の赤い瞳には、英雄に対する畏怖ではなく、ただの迷子に向けられた純粋な哀れみがあった。
「……う……うう……かあさん……」
アルトは、子供のように泣きじゃくりながら、ナラの胸で呟いた。
「……たすけてよ……俺は…ただ……かあさんの焼いたパンが……食べたかっただけなんだ……誰か……たすけてよ……帰りたい……」
エラーラは、泣き崩れる「英雄」を見下ろし、少しだけ困った顔をして、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
知識と、現実との間に生じた、埋めがたい矛盾。
その矛盾こそが、彼女が初めて触れた「本物の歴史」の感触だったのかもしれない。




