第1話:極道の魔女たち(1)
その日、ナラティブ・ヴェリタスは、獣病院の二階の事務所で、窓ガラスを叩く雨音を聞いていた。
「ナラさん、コーヒーを淹れました。少し休みませんか?」
差し出されたマグカップから、柔らかな湯気が立ち上る。
声の主はラミタス・クライン。二十代半ばの青年で、ここ数ヶ月、ナラの「捜査の相棒」を務めている男だ。彼はカレル警部の甥であり、警部譲りの実直さと、警部にはない繊細な配慮を併せ持っていた。
ナラは彼を好ましく思っていた。エラーラの「論理」は冷たすぎ、カレルの「情熱」は熱すぎる。ラミタスは丁度その中間にいた。
「ありがとう、ラミタス。……お母様と二人きりだと、会話が数式みたいで息が詰まるもの」
「はは、エラーラ先生は合理的ですからね。でも、ナラさんの直感も、僕はすごいと思っていますよ」
ラミタスは照れくさそうに笑った。
そして、彼は昼食の買い出しに行くと言って、事務所を出た。
異変は、彼が戻るはずの時間を一時間過ぎた頃に起きた。
事務所の電話が鳴った。無機質なベルの音。
『……ナラ、さん……』
掠れた声。ラミタスだった。
「ラミタス?今どこに――」
『助けて、くれ……。痛い、痛いんだ……。逆らわないでくれ……要求に従ってくれ……』
背後で男の含み笑いが聞こえ、何かが砕けるような鈍い音が響いた。ラミタスの悲鳴。
「誰!? ラミタスに何をしたの!」
『聞け、魔女の娘』
電話の相手が代わった。加工された、金属的な男の声。
『取引だ。お前の相棒の命が惜しければ、王都銀行中央支店、地下貸金庫の303番。そこにある「赤い小箱」を持ってこい』
「銀行強盗をしろって言うの!?」
『余計な真似をすれば首を送る。制限時間は30分』
通話が切れた。
ナラは受話器を持ったまま凍りついた。
背後で、ページを捲る音がした。
「発信源特定。王都西地区、第4公園横の廃アパート、201号室」
エラーラだった。彼女はナラが電話を取った瞬間から、手元の端末で逆探知を行っていたのだ。その表情には焦りも怒りもない。
「お母様!すぐにカレル警部に……!」
「駄目だ。カレルが動けば、警察無線の傍受で犯人に気付かれる」
「じゃあどうすればいいの!?」
「選択肢は二つ。一つは、犯人の要求を無視して突入する。ただし、彼が無傷で済む保証はない。もう一つは……」
エラーラは青い瞳でナラを見据えた。
「要求通りにするか、だ」
ナラの迷いは一瞬だった。彼女はドレスの裾を翻し、鉄扇を掴んだ。
「行ってくる。……場所の監視をお願い」
ナラは窓から飛び出した。雨の中に身を投じ、屋根から屋根へと疾走する。
彼女の心は燃えていた。恐怖よりも、怒りよりも、相棒を救い出すという使命感が彼女を突き動かしていた。
王都銀行襲撃は、わずか5分で終わった。
正面から突入したナラは、警備員を鉄扇の一撃で無力化し、防護壁を蹴り破り、地下へ直行した。
彼女は指定された貸金庫を、物理的な破壊によってこじ開けた。中には、血のように赤い魔導石が入った小箱があった。
『ナラ、強盗完了を確認。警察の包囲網が形成されるまであと120秒』
耳元のインカムからエラーラの声が響く。
「逃げるわ。場所は?」
『公園のベンチだと言っていたが……犯人の行動パターンを解析。……アパートへ直行しろ』
ナラは銀行を飛び出し、雨に濡れた石畳を駆けた。
街の人々が彼女を見る。美しいドレスの女が、銀行を襲い、逃げていく。それは劇的な光景だった。だが、彼女は観客の視線などどうでもよかった。
あの電話の声。助けを求める声。あれがある限り、彼は生きている。
私が間に合いさえすれば、ハッピーエンドに書き換えられる。
廃アパートに到着したのは、電話から20分後だった。
ナラは呼吸を整えることもなく、階段を駆け上がった。
201号室の前。
ドアが開き、フードを被った男が出てきた。
犯人だ。
「逃がすかッ!」
ナラは風のように間合いを詰め、鉄扇の柄を男の鳩尾に叩き込んだ。
男は短い声を漏らして崩れ落ちた。あまりにあっけない。
ナラは男の腕を捻り上げ、拘束した。
「ラミタスはどこ!?」
男は苦痛に顔を歪めながら、部屋の中を目で示した。
ナラは男を引きずりながら、開け放たれたドアの中へと足を踏み入れた。
「ラミタス!助けに来たわよ、もう大丈……」
言葉は、途切れた。
ナラの思考も、呼吸も、心臓の鼓動さえも、一瞬、停止した。
そこは、部屋ではなかった。
そこは、屠畜場だった。
中央に置かれた椅子。
そして、その周囲に散らばる、かつてラミタス・クラインという名の人間を構成していた「部品」。
赤。
赤。
赤。
壁も床も、天井さえもが、鮮血で塗りつぶされていた。
ナラの視界がぐらりと揺れた。
理解できなかった。理解することを脳が拒絶した。
だって、10分前まで。
ついさっきまで、電話で話していたのだ。
痛いと言っていた。助けてと言っていた。
人間をここまで解体し、あまつさえ臓器を分類して並べるなど、数十分でできる作業ではない。
数時間、いや、半日はかかるはずだ。
……半日?
「……あ……」
ナラの視線が、部屋の隅にある小さなテーブルに吸い寄せられた。
そこには、一台の魔導レコーダーが置かれていた。
再生ランプが点滅している。
ナラは震える手で、再生ボタンを押した。
『……ナラ、さん……』
『助けて、くれ……。痛い、痛いんだ……』
『逆らわないでくれ……要求に従ってくれ……』
先ほど電話で聞いた声。
全く同じ抑揚。全く同じノイズ。
次のトラックが再生される。
『ありがとう、宝石を置いてくれ』
『愛していると言ってくれ』
『早く、早くしてくれ』
数パターンの「セリフ」。
それは、この部屋で、生きたまま解体される直前に録音された、ラミタスの最期の言葉だった。
ナラは膝から崩れ落ちた。
彼女が命懸けで走り、銀行を襲い、すべてを捨てて守ろうとしたものは──
すでに、この世のどこにも存在しなかったのだ。
彼女は、死体の「音」と会話をし、死体を救うために、犯罪者になったのだ。
足元で、拘束された犯人が笑った。
「傑作だな」
ナラの中で、何かが完全に断裂する音がした。
彼女が鉄扇を振り上げ、犯人の頭蓋を砕こうとした、その時。
ドカドカと足音が響き、部屋に新たな人物が飛び込んできた。
カレル警部だった。
カレル・オータム警部の目に映った光景は、地獄そのものだった。
解体された甥の死体。
血の海の中に立ち尽くす、返り血を浴びた女――ナラティブ・ヴェリタス。
そして彼女の足元に転がる、拘束された男。
男はカレルを見るなり、悲鳴のような声で叫んだ。
「た、助けてくれ警部!この女だ!この女がいきなり入ってきて、俺を殴って……ちくしょう!あいつを、あいつをあんな風にしやがったんだ!」
見え透いた嘘だった。
だが、カレル警部という人間は、論理で動く男ではなかった。
「……ナラァァァァァァッ!!」
カレルが咆哮した。
彼は、肉体そのものを弾丸としてナラに突っ込んだ。
「違う!カレル、これは!」
ナラは叫ぼうとした。だが、カレルの拳は殺意を纏って迫っていた。
ナラティブ・ヴェリタスは戦士ではない。だが、彼女の身体は思考よりも先に「最適解」を選んでしまった。
カレルの拳を紙一重で躱す。
と、同時に、鉄扇を持った手で裏拳を放つ。
狙ったわけではない。ただ、襲ってくる「殺気」を無力化するための、反射的なカウンターだった。
音が響いた。
鉄扇の硬い先端が、カレルの喉仏を正確に打ち砕いた音だった。
カレルは声にならない呻き声を上げ、白目を剥いてその場に倒れ込んだ。痙攣する体。喉を押さえて悶絶するかつての味方。
「あ……カ、レル……?」
ナラは血の気の引いた顔で後ずさった。
やってしまった。
銀行強盗だけではない。警官への、しかもカレルへの致命的な傷害。
そして足元には、ラミタスの死体と、ニヤニヤと笑う真犯人。
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
ここで捕まれば、終わりだ。
ラミタス殺しの罪も、全てなすりつけられる。真実は闇に葬られる。
ナラは決断した。
彼女は倒れている犯人の襟首を掴み、強引に引きずり起こした。
「来い!」
犯人を連れて行くこと。それが、自分の無実を証明する唯一の手段だ。こいつが生きて証言しなければ、ラミタスの死亡時刻の証明ができない。
ナラは窓を蹴破り、犯人を抱えて雨の路地裏へと飛び降りた。
翌日。王都は前代未聞のニュースに揺れていた。
だが、その揺れ方は、ナラの予想を遥かに超えていた。
『聖女か?悪女か?腐敗の警察に鉄槌下すナラティブ・ヴェリタス』
新聞の見出しが踊る。
警察発表では、ナラは「快楽殺人鬼であり、強盗犯」とされていた。
だが、大衆はそれを信じなかった。
なぜなら、ナラが奪った宝石が「ヤクザの裏金」であったことがリークされ、さらに犯人が撮影していた「ラミタスの解体写真」が、何者かによってアングラな魔導ネットに流出したからだ。
その写真は、あまりにも猟奇的で、そして背徳的なまでに美しかった。
大衆の狂気が発動した。
「ラミタスは、ヤクザと癒着していた汚職警官に違いない」
「ナラティブ様は、それを浄化するために儀式を行ったのだ」
「ナラティブ様の強盗の手際。あれこそが体制への反逆だ」
事実無根の妄想が、魔導通信という拡声器を通して「真実」へと書き換えられていく。
警察の信頼は失墜していた。カレル警部が倒されたことも、「無能な警察の敗北」と拍手喝采で迎えられた。
ナラは、潜伏先の安宿で、その新聞を震える手で握りつぶした。
「……私はラミタスを助けたかっただけなのに……!」
彼女は殺人犯として追われることよりも、ラミタスの死が「正義の鉄槌」として消費され、汚染されることに耐えられなかった。
彼女の隣には、犯人が転がっている。今すぐこいつを殺せば、心は晴れる。楽になれる。だが……こいつがいなければ、真実は証明できない。
一方、獣病院では、もう一つの異常事態が進行していた。
エラーラ・ヴェリタスは、警察からの協力要請を拒絶し、独自に動いていた。
彼女の前には、黒いスーツを着た強面の男たちが座っている。
宝石の持ち主、広域暴力団「黒鉄会」の幹部たちだ。
「……俺達が、あんたと手を組めと?」
幹部の一人が葉巻を燻らせながら言った。
「そうだ。私の娘を『確保』するために、貴公らのリソースを使用する。対価として、娘が奪った宝石は必ず返却する。さらに、今後の警察の動きに関する全情報を、私の解析付きで提供しよう」
エラーラは表情一つ変えずに言った。
彼女にとって、ナラの確保は最優先事項だ。だが、機能不全に陥った警察は、ナラを射殺しかねない。
ならば、より実利的で、規律の取れた組織を使う。それがヤクザであっても、論理的には「最適解」だ。
「警察は信用できない。彼らは間違いなくナラを殺すだろう。だが、貴公らは違う。メンツのために、宝石と、犯人の生け捕りを望んでいるはずだ」
幹部はニヤリと笑った。
警察が無能扱いされている今、ヤクザが先に犯人を捕らえれば、彼らは「街の守護者」としての地位を確立できる。
「いいだろう、エラーラさんよ。黒鉄会は、あんたの指揮下に入る」
こうして、最悪の同盟が結成された。
警察と、ヤクザと、母親。
全方位から追われるナラの逃避行は、王都の闇を深く潜っていくこととなる。
逃亡から三日目。ナラの精神は限界に達していた。
食料は尽き、眠ることもできない。
犯人の男は、隙あらば逃げ出そうとし、時にはナラを嘲笑った。
「俺を殺して、名実ともに殺人鬼になればいい。そうすればあんたは、楽になるぜ?」
ナラは男の首に鉄扇を突きつけた。
殺したい。今すぐこいつを殺したい。
こいつの喉を掻き切れば、ラミタスの無念は少しは……晴れるかもしれない。
だが、それはラミタスが望んだ「正義」ではない。
「私は、貴方を法で裁く。それが、ラミタスへの手向けよ」
「法?警察は俺らを殺りに来るし、ヤクザも俺らを殺りにきてる。一体どこに法ってもんがあるんだよ」
男の言う通りだった。
街中には黒いスーツの男たちが溢れている。彼らは警察よりも効率的に、網を絞ってきていた。
おそらくエラーラの指示だろう。ナラにはわかる。自分が次にどこへ向かうか、母親には全て読まれているのだ。
「……一つだけ、場所があるわ」
ナラは呟いた。
それは、犯人の隠れ家だった。
男の所持品から見つけた鍵と住所。そこに、決定的な証拠があるはずだ。
そこへ行って証拠を回収し、そして――。
「警察本部へ突っ込むわ」
「はぁ!?自殺か?」
「ヤクザに捕まれば貴方は消される。警察に捕まれば私が消される。……でも、マスコミと野次馬が集まる本部の正面玄関なら。衆人環視の中でなら、彼らも引き金を引けないはず」
それは、イチかバチかの賭けだった。
ナラティブ・ヴェリタス、一世一代の大芝居。
「さあ、行くわよ。最期のカーテンコールまで、付き合ってもらうわ」
ナラは犯人を引きずり、雨上がりの夜へと走り出した。




