第2話:統合失調症の通り魔(2)
私たちは、彼の一日の行動を「逆再生」することにした。
彼の狂った論理の回路図を、一つずつ辿るために。
まず、男の自宅へ向かった。
玄関には、折りたたみ傘が置かれていた。
「家を出る時、心に雨が降っていたんです。だから、濡れないように傘を差しました」
男は言った。
物理的な雨ではなく、精神的な雨。
彼は傘を差して、快晴の街を歩き出したのだ。
「でも、傘を持っていると、どこかに置き忘れるかもしれません。僕は、忘れっぽいので」
ここまでは、ギリギリ理解できる。
不安神経症的な思考だ。
「だから、家から少し歩いたところにある、花屋の軒先に傘を置きました。あそこなら屋根があるし、花も傘も似たような棒状のものだから、馴染むと思って」
論理が、歪み始めた。
花と傘。形状の類似性だけでカテゴライズし、他人の店先に私物を放置する。
私たちはその花屋へ向かった。
店主に話を聞くと、彼は顔を真っ赤にして怒り出した。
「ああ!変な男だったよ!快晴なのに傘を差してて、いきなりウチの商品棚に傘を突っ込みやがったんだ!『不法投棄するな!』って怒鳴りつけて、箒で叩き出してやったよ!」
事実確認。
男は花屋で怒られた。
男の言い分はこうだ。
「僕は傘を忘れないように預けただけなのに、凄く怒られました。だから、僕は被害者です」
被害妄想。
自分の行動の異常性を認識できず、相手の反応だけを「攻撃」と捉える。
「だから、ムカついたので、花屋に石を投げようと、思いました」
攻撃性の転嫁。
私たちは、花屋の近くの路地裏へ移動した。
そこには、手頃な大きさの石が転がっていた。
男は、この石を拾い、握りしめたのだという。
「……でも、投げませんでした」
「なぜ?」
「その時、可愛い犬が通りかかったんです。散歩中のレトリバーでした」
男の目が、優しく細められた。
「犬は生き物です。可愛いです。……それを見たら、花も生き物だと思い出しました。生き物に石を投げるのは、悪いことです」
ここだけ切り取れば、道徳的だ。
だが、「花屋」への怒りは消えていない。ただ、「生き物」というカテゴリへの配慮で、一時停止しただけだ。
「だから、石はポケットに入れました。……まだ、怒りは収まっていなかったので」
男はポケットから、拳大の石を取り出した。
もし、これが投げられていたら。
あるいは、あの時、タックルではなく、この石で私の頭を殴っていたら。
背筋が粟立つ。
男は、行き場のない怒りをポケットに入れたまま、彷徨い続けた。
そして、公園にたどり着く。
「公園には、鳩がたくさんいました。……鳩も生き物です。平和の象徴です」
男は語る。
「僕は、犬を見て優しい気持ちになっていました。だから、鳩にも優しくしようと思いました。癒やされたいと、思ったんです」
男は、ベンチに座る鳩の群れに近づいた。
両手を広げ、「おいで」と心の中で呼びかけながら。
だが。
「鳩は、パタパタと逃げました。……一斉に、僕から逃げたんです」
男の表情が、一瞬で凍りついた。
それは、絶望の色だった。
「僕は、石も投げなかった。犬も可愛がった。花も守った。……僕は『いい人』のはずです。なのに、花屋には怒られ、鳩には逃げられた」
彼の中で、世界が裏返った瞬間だ。
善意が拒絶された。
自分が否定された。
世界中が、自分を避けている。自分を馬鹿にしている。
「許せなかった。……僕から逃げるなんて、許せなかった」
ここが、分岐点だった。
被害者意識が極限まで膨れ上がり、どす黒い「正義の執行」へと変質する瞬間。
男は公園を出た。
そして、大通りへ向かった。
そこで、私たち――ナラとエラーラを見かけたのだ。
私たちは、事件現場である大通りに戻ってきた。
男は、あの日と同じ場所に立ち、私の方を向いた。
「……そこで、あなたたちを見ました」
男の瞳が、暗く濁る。
「黒い服のあなたと、白い服のお連れの方」
それは、客観的事実だ。
だが、男の脳内フィルターを通すと、その光景は全く別の意味を持つ。
「あなたたちも、生き物です」
男の声が震え出す。
「ふと、思いました。……鳩が逃げたように、あなたも、僕を見たら逃げるに違いない、と」
論理の飛躍。
妄想による予断。
「鳩=生き物」「ナラ=生き物」。ゆえに、「鳩が逃げたなら、ナラも逃げる」。
狂った三段論法が、カチリと音を立てて噛み合った。
「僕は何も!悪いことをしていないのに!花屋には怒られ!鳩には逃げられ!……その上!その時に僕は未来であなたにも逃げられるなんて!そんな謂れはありません!許せない!」
男は叫んだ。
見えない敵と戦っている戦士のように。
「逃がしてなるものか!……僕を無視して僕を置いて!幸せな世界へ逃げるなんて!絶対に許さない!」
「……だから」
私は、渇いた喉で問いかけた。
「だから、何をしたの?」
男は、真理に到達した哲学者のような、澄み切った顔で答えた。
「──だから、『逃げる』の反対をしました。」
「……反対?」
「『逃がさない』。つまり、ぶつかることです」
世界が歪んだ。
逃げるを否定するために、物理的に接触し、その場に縫い留める。
それが、あのタックルの正体だった。
殺意ですらない。
「確認」であり、「訂正」であり、「否定」だったのだ。
彼にとって、『私が歩いていること自体』が『彼からの逃走』であり、それを阻止することは『正義』だった。
雨(妄想)→傘(不安)→花屋(被害妄想)→石(抑圧された暴力)→犬(歪んだ自己肯定)→鳩(拒絶への絶望)→ナラ(幸福への嫉妬と、逃走の否定)
雨のゴールが、私だった。
何一つ、私には関係のない物語。
バタフライ・エフェクト。
彼の脳内で羽ばたいた蝶が、嵐となって私を吹き飛ばしたのだ。
私は、震えが止まらなかった。
怒りではない。恐怖だ。
こんな理屈で、人は人を襲えるのだ。
もし、彼のポケットに入っていたのが、石ではなく、ナイフだったら?
もし、彼が「逃がさない」手段として、「刺す」ことを選んでいたら?
私は、間違いなく、死んでいた。
何の理由もなく。何の予兆もなく。
ただ、天気が良かったと、いうだけで。
「……連れてって」
私は、エラーラに言った。
男を見るのが、もう、限界だった。
「こいつ。獣病院じゃなくて、専門の病院へ。」
「ああ。手配しよう。脳の神経伝達物質が、不可逆的なショートを起こしているようだ」
エラーラが通信機で警察と医療班を呼ぶ。
男は、抵抗しなかった。
彼は満足そうだった。「逃げる人」を捕まえ、自分の正しさを証明できたと思っているからだ。
やがて、サイレンと共に男は連行されていった。
去り際、彼は私に向かって、優しく微笑んで言った。
「雨、止んでよかったですね」
私は、何も言えなかった。
彼の世界では、まだ、雨が降っていたのだ。そして、私にぶつかったことで、ようやく晴れたのだ。
夕暮れの大通り。
私とエラーラは、並んで歩いていた。
私の腹部はまだ痛み、頭はズキズキとする。
「……ねえ、お母様」
「なんだ」
「私、あの時、あいつから逃げようなんて、これっぽっちも思ってなかったわよ。認識してなかったもん」
私は、新しいキャンディの包み紙を剥いた。
手が震えて、うまく剥けない。
「ああ。知っている。君は『狩る』側の人間だ」
世界は、私たちが思っているよりもずっと脆く、薄氷の上に成り立っている。
隣を歩く誰かが、突然、自分だけの論理で襲いかかってくるかもしれない。
そこには、話し合いも、理解も、共感も存在しない。
私は空を見上げた。
憎らしいほどの、快晴。
だが、私の心には、冷たい雨が降り始めていた。
それは、きっと一生止まない雨だ。
他者への恐怖という名の、冷たい雨。
「……帰りましょう」
私はドレスの襟を立てた。
見えない傘を差すように。
ナラティブ・ヴェリタスは、痛む体を抱え、雑踏の中へと消えていく。
すれ違う人々が、全員、見えないナイフを持っているように見えた。
その恐怖を、甘いキャンディと共に飲み込みながら。




