第1話:統合失調症の通り魔(1)
王都の空は一点の曇りもなく、午後の陽光が石畳を白く焼き付けていた。
私、ナラティブ・ヴェリタスは、相棒のエラーラ・ヴェリタスと共に、休日で賑わう大通りを歩いていた。
「……平和すぎて退屈ね。空が青すぎて目が痛いわ」
「君は文句が多いな……ビタミンDの生成には最適な日照量だぞ」
エラーラが新しいフラスコが入った紙袋を抱えながら、呆れたように言う。
私たちは、ショーウィンドウの前を通り過ぎた。
ガラスに映る私たちの姿。黒いドレスの私と、白衣の魔女。
その背後から、一人の男が歩いてくるのが見えた。
どこにでもいる、中年男だった。
よれたジャケットに、猫背の姿勢。手ぶらで、うつむき加減に歩いている。
殺気はなかった。
敵意も、害意も、視線すら感じなかった。
彼はただの風景の一部であり、路傍の石と同じ、無害なモブのはずだった。
だから、私は反応できなかった。
男が私とすれ違う、その刹那。
何の前触れもなく。
予備動作も、掛け声も、表情の変化すらなく。
男は、火薬が爆発したかのような速さで、真横に跳んだ。
鈍く、重い衝撃音が、私の鳩尾の奥で響いた。
男の肩が、全体重を乗せた質量弾となって、私の内臓を突き上げたのだ。
呼吸が止まる。
視界が白く弾ける。
受け身を取る暇などなかった。私は木の葉のように弾き飛ばされ、数メートル先のアスファルトに叩きつけられた。
後頭部を打つ感触。
なぜ?
怨恨?
組織の刺客?
違う。男は私を「見ていなかった」。今も、倒れた私を見ようともせず、ただそこに立っている。
まるで、壁にぶつかった人形のように。
薄れゆく意識の中で、私は男の顔を見た。
彼は、無表情だった。
怒りも、喜びも、焦りもない。
ただ、仕事を一つ終えた事務員のような、極めて平坦な顔で、虚空を見つめていた。
それが、どうしようもなく恐ろしかった。
言葉が通じない。理屈が通じない。
人間ではない何かに触れてしまったような、根源的な恐怖。
エラーラの叫び声が遠く聞こえる。
私の意識は、そこで、途絶えた。
目が覚めた時、私は獣病院の二階、自宅兼事務所のソファに寝かされていた。
消毒液の臭い。
頭には氷嚢が乗せられ、腹部には湿布が貼られている。
「……っう、く……」
身じろぎすると、全身に激痛が走った。
「目覚めたか。……軽度の脳震盪と、肋骨にヒビが入っている」
デスクでカルテを書いていたエラーラが、椅子を回転させてこちらを見た。
その顔には珍しく、焦燥の色が見て取れた。
「……あいつは?」
私の第一声は、掠れた声だった。
「私にぶつかった、あの男は!?」
「……逃げられた」
エラーラは悔しそうに唇を噛んだ。
「犯人の確保より、気道の確保と救護を優先した。……人混みに紛れて、姿を消してしまった」
「……そう」
私は、ゆっくりと体を起こした。
恐怖が、怒りに変わっていく。
理不尽だ。あまりにも理不尽だ。
意味が、わからない。
私は何もしていない。ただ、歩いていただけだ。
それなのに、なぜあんな暴力を受けなければならなかったのか。
もし。
もしあの時、男が手に「ナイフ」を持っていたら?
あのタックルの勢いで、刃物が腹に突き刺さっていたら?
私は……今頃死体安置所にいたはずだ。
防げなかった。絶対に、防げなかった。
日常という安全な膜が、あまりにも薄いことに気づかされ、吐き気がした。
「……許さない」
「理由を知らなきゃ、眠れないわ。……何があいつを突き動かしたのか。その脳みそを徹底的に解剖してやる」
私は痛む体を引きずり、立ち上がった。
探偵の仕事だ。
犯人を見つけ出し、その「動機」を暴く。たとえそれが、どれほど理解不能な深淵だとしても。
エラーラの記憶と、現場付近の防犯魔導カメラの映像を解析し、男の足取りを追った。
男の特徴は平凡だったが、一つだけ奇妙な点があった。
彼は犯行後、逃げるでもなく、隠れるでもなく、ただ、散歩を続けるように、ふらふらと街中を歩き回っていたのだ。
捜索開始から1時間後。
私たちは、現場から2キロほど離れた公園のベンチに座っている男を発見した。
彼は、虚空を見つめながら、何かをブツブツと呟いていた。
私は背後から忍び寄り、男の腕を捻り上げてベンチに押し付けた。
「あ、痛い……痛いです……」
男は、驚くほど弱々しい声を出した。
あのタックルのごとき暴力性はどこにもない。ただの、気弱そうなおじさんだ。
「答えなさい!さっき大通りで私にぶつかったわよね!殺す気だったの?」
私が怒鳴りつけると、男はキョトンとした顔で私を見た。
そして──まるで、当たり前の口調で、答えた。
「……雨が降っていたからですよ」
時が、止まった。
私は空を見上げた。
雲ひとつない快晴。地面はカラカラに乾いている。
あの時も、今も、雨など一滴も降っていない。
「……雨?何を言ってるの?」
「降っていましたよ。冷たい雨」
男は、真顔だった。
嘘をついている目ではない。彼の中では、本当に雨が降っていたのだ。
幻覚か、妄想か。
彼の認識している世界は、私たちのそれとは「根本的」にズレている。
エラーラが、男の前にしゃがみ込み、静かに問うた。
「仮に雨が降っていたとしよう。それがなぜ、彼女への攻撃に繋がる?……最初から、話してごらん」
雨が降るから、体当たりする。
この間には、論理の飛躍がある。
男は少し考え込み、そして、パズルのピースを並べるように語り始めた。
「雨が降っていたから……僕は、傘を差したんです……」




