第2話:Checkmate
主題歌:バトル・ロワイアル3D/CHECKMATE mash up ANTY the 紅乃壱, VOLTA MASTERS
https://youtu.be/R_RpsuFiKmY?si=Si_Bwrb_xnGB9R0W
その時。
路地の奥から、水たまりを踏む足音が聞こえた。
ジーナは刑事の顔に戻った。
コートの懐から、大型の魔導拳銃を引き抜く。
現れたのは、黒いロングコートを着た男だった。
手には、ボストンバッグ。
「掃除屋」。
彼は路地裏のドラム缶に、何かを放り込んでいた。
人の腕だ。
裏切り者を始末し、薬品で溶かしているのだ。鼻歌交じりに。まるで生ゴミを処理するように。
「……動くな。王都警察だ」
ジーナは銃を構え、雨の中に踏み出した。
掃除屋は手を止め、ゆっくりと振り返った。
その目には、殺意すらなく、ただ「面倒な仕事が増えた」という倦怠感だけがあった。
「刑事さんか。……見逃してくれよ。俺はただ、街を綺麗にしてるだけだぜ?」
「そのバッグの中身。『裏帳簿』ね。それを渡しなさい」
掃除屋は、肩をすくめた。
そして、懐から一冊の黒い手帳を取り出した。
今回のヤマの決定的な証拠。数多くの政治家や貴族の首が飛ぶ、爆弾だ。
「これか? ……欲しけりゃやるよ。命と引き換えにな」
掃除屋は手帳を差し出すふりをして――コートの裏から短機関銃を抜いた。
銃声が雨音を切り裂く。
マズルフラッシュが暗闇を照らす。
ジーナはゴミ箱の陰に飛び込んだ。弾丸が鉄板を貫き、火花を散らす。
頬を熱いものが掠めた。血だ。
「死ねよ。残業は嫌いなんだ」
掃除屋は無表情で撃ち続ける。彼にとって、人の命を奪うことは、呼吸と同じ事務作業でしかない。
ジーナは、遮蔽物の隙間から応戦した。
魔導弾が掃除屋の足元をえぐる。だが、掃除屋は動じない。彼は魔力障壁を展開しながら、機械のように前進してくる。
「くっ……!」
ジーナは走った。
距離を取るためではない。詰めるためだ。
このままではジリ貧だ。相手の障壁を抜くには、ゼロ距離で魔力を込めた弾丸を叩き込むしかない。
弾幕の中を、死神に向かって一直線に。
肩を撃たれた。熱い鉄を押し当てられたような激痛。
太腿を撃たれた。肉が弾け、足がもつれる。
だが、止まらない。
止まれば、思考が戻ってくる。夫のこと、未来のこと、絶望的な日常のこと。
戦っている間だけが、彼女は「自分」でいられた。
「……終わりよ!!」
距離、5メートル。
掃除屋が弾倉を交換しようとした、一瞬の隙。
ジーナは残った全魔力を銃に込め、引き金を引いた。
同時に、掃除屋も予備の拳銃を抜いて発砲した。
二つの銃声が重なり、一つの轟音となった。
掃除屋の眉間に、風穴が開く。
彼は驚いたような顔をして、背中から泥水の中に崩れ落ちた。
手帳が宙を舞う。
ジーナは、薄れゆく意識の中で、その手帳を空中で掴み取った。
そして、彼女もまた、その場に倒れ込んだ。
腹部に、熱い鉛の塊が埋まっていた。
内臓が焼ける感覚。口からゴボリと血が溢れる。
致命傷だった。
ジーナは震える手で、手帳を懐の奥――コートの内ポケットにねじ込んだ。
自分の血で汚れないように。
これが、彼女の生きた証だから。
誰にも評価されず、誰にも愛されなかった人生の、最後の成果物だから。
サイレンの音が近づいてくる。
パトカーの赤色灯が、路地裏の壁を血のように染める。
カレル警部とナラが率いる警官たちが駆けつけてきた。
「……確保! 容疑者は死亡!」
「こちらA班! 現場制圧!」
警官たちが、倒れているジーナを取り囲んだ。
彼女の腹からは、どす黒い血が止めどなく溢れ出し、水たまりを赤く染めている。顔色は白蝋のように青ざめ、唇は紫色に変わっていた。
誰が見ても、助からないとわかる。
警官の一人が、ジーナの顔を覗き込んだ。
心配そうに? いいや。
彼は、事務的に、報告を求めたのだ。
「おい、ジーナ。……ブツはどうした」
ジーナは、虚ろな目で同僚を見た。
「大丈夫か?」「しっかりしろ」という言葉はない。
彼らにとって、ジーナは「証拠運搬用の車両」が故障した程度の認識でしかない。
女がどれだけ傷つき、どれだけ血を流しても、それは「業務上の損耗」として処理される。
警官は無造作に彼女のコートを探り、血まみれの手帳を抜き取った。
乱暴な手つき。傷口に響く。
だが、警官は気にも留めない。
「あったぞ。証拠確保」
「よし、本部に連絡だ」
警官たちは手帳を持って、行ってしまった。
「……ごめんなさいッ!……間に合わなかった……!」
ナラが、援護に遅れたことを懺悔しながら、ただ、立ち尽くしている。
瀕死のジーナは、雨の中に放置された。
冷たい雨粒が、開いたままの瞳を打つ。
誰も、彼女の手を握らない。
誰も、彼女の痛みに寄り添わない。
彼女の「機能」は果たされた。用済みの部品は、そこに転がっているだけだ。
(……ああ。これでいい)
ジーナは思った。
期待などしていなかった。
夫にも、同僚にも、世界にも。
ただ、仕事は全うした。それだけが、彼女の誇りだった。
視界が暗くなっていく。
雨の冷たさも、傷の痛みも、遠ざかっていく。
意識が泥の中に沈んでいくような、安らかな感覚。
やっと、眠れる。
もう、誰にも文句を言われず、誰かのために動かなくていい。
そう思った時。
懐で、魔導端末が震えた。
無機質な着信音が、静寂を破る。
無視しようとした。
だが、長年染み付いた「応答しなければならない」という呪いのような習慣が、彼女の指を動かした。
ジーナは、最後の力を振り絞って、血まみれの手で端末を取り出した。
通話ボタンを押す。
耳元に当てる。
『おい、ジーナ。……ブツはどうした!』
スピーカーから、怒声が響いた。
夫の声だ。
彼は、妻が今、腹に風穴を開けられ、雨と血の泥濘の中で死にかけていることなど、露ほども想像していない。
『早くゲーム買ってこいよ!』
ゲーム。
たかが、ゲームソフト一本のこと。
『お前、俺の言ったこと聞いてたか?今すぐ買ってこい!この役立たず!俺の楽しみを台無しにしやがって!』
役立たず。
命を懸けて働き、撃たれ、国の治安を守り、そして死にかけている妻に対して、この男が放つ最期の言葉が、それか。
『おい、なんか言えよ!帰ったらただじゃおかねえぞ!明日からのナラちゃんとのゲーム、間に合わなかったらどうするんだよ!ナラちゃんに謝るか?さあさあ!ごめんなさいは?』
ナラちゃん。
ああ、そうだ。彼はネットの中では「レンレン」という、気さくで楽しい男を演じているのだった。
現実の妻を食い物にして、画面の向こうの女と笑い合っている。
ジーナの口元が、微かに動いた。
笑ったのだ。
あまりの滑稽さに。あまりの空虚さに。
そして、あまりの「愛のなさ」に。
彼女の目から、一筋の涙が流れた。
悲しみの涙ではない。
自分を縛り付けていた鎖が、あまりにも錆びついて脆いものだったと気づいた、虚脱の涙。
彼女は、口の中に溜まった血を飲み込んだ。
肺に残った最後の空気を、声帯に送る。
それは、愛の言葉でも、謝罪でも、助けを求める言葉でもない。
彼女の人生を搾取し続けた、全ての「他者からの要求」に対する、最初で最後の拒絶。
「……うるせぇ」
掠れた、しかしはっきりとした声。
『あ?今なんて……』
「うるせぇって言ってんだよ!クソ野郎!」
ジーナは通話ボタンを押し、通信を切った。
端末が手から滑り落ち、水たまりに沈む。
画面の光が消える。
静寂が戻った。
夫の怒鳴り声も、雨音に消された。
ジーナは、雨空を見上げたまま、ゆっくりと息を吐ききった。
その瞳からは光が消えていたが、口元には、誰にも邪魔されない、皮肉で、どこか満足げな笑みが浮かんでいた。
王都の片隅。
路地裏のゴミ溜め。
一人の女刑事が、その生涯を閉じた。
雨は、全ての血と涙を洗い流すように、ただ無関心に降り続いていた。
ナラの、動きが止まった。
レンレン。
そして、彼が言っていた言葉が、ナラの脳裏に蘇る。
『同居人がうるさくてさ』
『役立たずだよ』
『ゲームを買ってこねえんだ』
ナラは、戦慄した。
背筋に、氷柱を突き立てられたような寒気が走る。
彼女の視線が、物言わぬジーナの顔に向けられる。
疲れ切った、中年の女性の顔。
この人が、レンレン(あいかた)の、奥さん(あいかた)?
あの明るく頼れるゲーム仲間の正体は、現実では妻をここまで追い詰め、死に際すら罵倒する、冷酷な寄生虫だったのか。
端末の画面が、プツンと消えた。
バッテリーが切れたのだ。
それは、ジーナという女性と、世界を繋いでいた最後の線が、永遠に断ち切られた瞬間だった。
ナラは、端末をそっとジーナの胸元に戻した。
かける言葉は……見つからなかった。
ただ、吐き気を堪えて、立ち尽くすしかなかった。
雨は止まない。
王都の闇は深く、モニターの向こう側の真実は、誰にも知られることなく泥に埋もれていく。
ゲーム・オーバー。




