第1話:最後の出撃!
「――右から来るわよ! カバー頼む!」
ナラティブ・ヴェリタスがインカムに向かって鋭く叫ぶ。
画面の中では、彼女のアバター『ホワイト・ヴェリタス』が、敵の弾幕を紙一重で回避していた。
スピーカーから、ノイズ混じりの男の声が響く。
『任せろナラちゃん! 俺の魔導ライフルが火を噴くぜ!これで!チェックメイトだ!』
画面の奥から、重装甲のアバターが援護射撃を行う。
正確無比なエイム。絶妙なタイミングでの回復支援。
彼のハンドルネームは『レンレン』。ナラがこのゲーム『マジック・バレット・アリーナ(MBA)』の家庭用移植版で組んでいる、相方だ。
顔も本名も知らない。だが、その腕前と気さくな人柄は信頼していた。
画面に勝利の文字が躍る。
ナラはヘッドセットを外し、ふぅ、と息を吐いてエールを煽った。
『いやー、ナラちゃんの特攻はいつ見ても肝が冷えるわ。最高だったぜ』
「あんたの援護があったからよ。……ナイスゲーム」
『へへ、ありがとよ』
ボイスチャットの向こうで、レンレンが何かを咀嚼する音が聞こえる。
『ああ、でも参ったな。……また「同居人」がうるさくてさ』
「同居人さん?喧嘩でもしたの?」
『いやぁ、新作のゲームソフトの限定版、まだ買ってこねえんだよ。ソフトが無かったら、明日から新作に移行するナラちゃんと遊べないじゃん』
レンレンの声に、苛立ちが混じる。
『仕事仕事って家空けてばかりで、家事もしねえし。本当『役立たず』だよ、まったく!』
ナラは苦笑いした。
ゲームの中では頼れる相棒だが、私生活では随分と横柄らしい。あるいは、ただの愚痴か。
ナラにとって、それは画面の向こう側の、実体のない些細なエピソードに過ぎなかった。
「まあまあ。仕方ないんじゃない?同居人さんにも優しくしてあげなさいよ」
『優しく?勘弁してくれよ。あいつ、可愛げもねえんだ。……っと、悪い。じゃあな、ナラちゃん!』
通話が切れる。
ナラは肩をすくめ、残ったエールを飲み干した。
外は雨が降り出していた。
・・・・・・・・・・・
王都の夜は、冷たい雨に沈んでいた。
アスファルトを叩く雨音が、街の喧騒を塗りつぶしていく。
路地裏の暗がり。ゴミ箱の影に、一人の女が身を潜めていた。
ジーナ。
王都警察組織犯罪対策課の刑事。
くたびれたトレンチコートは雨を吸って重く、濡れた髪が頬に張り付いている。
彼女は震える手で、安物の紙巻きタバコを取り出し、口にくわえた。湿気ったマッチを擦るが、火はつかない。
彼女は無造作にタバコを捨て、泥水に沈むそれを見つめた。
(……寒い)
張り込みを開始してから、すでに6時間が経過していた。
ターゲットは「掃除屋」と呼ばれる、組織の殺し屋。
奴は今日、組織の裏金を記録した「黒い手帳」を持って高飛びする予定だ。
このヤマを逃せば、組織の中枢には二度と迫れない。
ジーナの体は悲鳴を上げていた。
連日の残業。不規則な食事。そして、家に帰れば待っている、冷え切った空気。
彼女の人生には、休息という文字が欠落していた。
懐で、魔導端末が震えた。
署からではない。
着信画面に表示された文字は――『夫』。
ジーナは、無表情のまま通話ボタンを押した。
『おい、ジーナ。まだか?』
夫の声だ。
開口一番、心配の言葉などない。不機嫌さと、苛立ちだけが受話器越しに伝わってくる。
「……今、張り込み中よ。仕事なの」
ジーナの声は、枯れ木のように乾いていた。
『ふーん。で、まだ?』
「まだよ。行く暇なんて……」
ジーナは、唇を噛んだ。
夫は、ここ数年働いていない。
「自分に合う仕事がない」「社会が俺を理解しない」と言い訳を重ね、家に引きこもっている。
ジーナが命を削って稼いだ金は、彼の交遊費に消える。
彼にとってジーナは、妻ではない。
便利なATMであり、サンドバッグであり、家政婦でしかなかった。
『おい、聞いてんのか?本当、使えねぇな。……誰のおかげで結婚できたと思ってんだ?お前みたいな可愛げのない女を貰ってやったのは俺だぞ』
「……切るわよ。ターゲットが来るかもしれない」
『あ?正論言われたから逃げんのか?帰ってきたら説教だからな。……チッ』
一方的に切られた通信。
ジーナは端末を握りしめ、深く、重い溜息をついた。
雨音だけが、彼女の周りを取り囲む。
愛なんて、とっくになかった。
あるのは「責任」と「惰性」だけ。
別れればいい。誰もがそう言うだろう。
だが、長年の精神的な摩耗は、彼女から「逃げる」という気力さえ奪っていた。
彼女はただ、毎日を機械のように処理し、死ぬのを待っているだけのように思えた。




