第2話:時間旅行者(2)
それから毎日、夕暮れ時になると、あたしは屋根裏部屋の鏡の前に立った。
鏡は、必ずしも繋がるわけではなかった。
その不確定さが、逆に待ち遠しかった。
『やあ、ユリカ。……今日も泥だらけだね』
「うるさいわね。……今日は野良犬と喧嘩して勝ったのよ」
『野蛮だねぇ。……私は今日、新しい定理を発見したんだ。教授たちは「子供の妄想だ」って破り捨てたけど』
「……そいつら、あたしがいつか殴りに行ってやるわ」
『ふふ。頼もしいボディーガードだ』
あたしたちは、色んなことを話した。
ユリカは、スラムでのサバイバル術や、今日見つけた綺麗な石の話を。
エルは、難解な魔法理論や、貴族社会の窮屈な愚痴を。
住む世界も、時代も違う。
ユリカは文字も読めない無学な孤児。
エルは王都随一の天才令嬢。
共通点は何もない。
ただ、「世界に絶望している」という一点を除いて。
『ねえ、ユリカ』
ある日、エルが言った。
彼女の黒髪が、夕陽に透けて輝いている。
『君は……将来、何になりたい?』
「……将来?」
ユリカは、カビたパンをかじりながら考えた。
そんなこと、考えたこともなかった。
明日生きているかどうかも分からないのに。
「……お腹いっぱいご飯が食べたい。……あと、誰にも殴られない、強い人になりたい」
『強い人か。……いい目標だ』
エルは微笑んだ。
『私はね……この世界を解き明かしたい。全ての理不尽を、数式で説明できるような……そんな「真理」に到達したい』
「……難しそうね」
『ああ。……でも、もし私が世界の謎を解けたら……。君が泥水を啜らなくていい世界も、作れるかもしれない』
ユリカの手が止まった。
あたしのために?
この天才が?
「……期待しないで待ってるわ」
ユリカはそっぽを向いた。
でも、胸の奥が熱くなった。
自分を必要としてくれる人がいる。
自分のために、世界を変えようとしてくれる人がいる。
『約束だ。……私が世界を変えるまで、君は生き延びろ』
「……命令すんな。……でも、分かったわ」
二人の間に、奇妙な共犯関係が生まれた。
互いが互いの「生きる理由」になる関係。
鏡越しの逢瀬は、灰色だった二人の世界に、鮮やかな色彩を与えていった。
だが。
終わりは唐突に訪れた。
夏が終わる頃。
鏡の向こうのエルの姿が、ノイズのように揺らぎ始めたのだ。
ユリカのいる未来世界が崩壊に向かっている影響か、それとも過去のエルの身に何かが起きたのか。
『……ユリカ。……聞こえるかい?』
エルの声が遠い。
映像が乱れる。
「エル!……消えないで!」
ユリカは鏡を叩いた。
嫌だ。
やっと見つけたのに。
あたしの、たった一人の友達なのに。
『……論理的に考えて……この接続は限界だ』
エルの姿が、霞んでいく。
彼女は、泣きそうな顔をしていた。
いつも冷静な彼女が、初めて見せる弱さ。
『怖いんだ、ユリカ。……君がいなくなったら、私はまた一人だ』
「……あたしもよ! あんたがいなきゃ……!」
ユリカは叫んだ。
「あんたがいてくれたから……! あたし、生きてこれたのよ!」
「ゴミだって言われても、泥だらけになっても……!明日あんたに会えると思ったら、耐えられたのよ!」
涙が溢れて止まらない。
汚れた手で、鏡を撫でる。
「……行かないで……」
エルは、揺らぐ向こう側で、そっと手を伸ばした。
鏡の表面に、彼女の白い手が重なる。
『……ありがとう、ユリカ』
エルの声が、優しく響いた。
『君がいてくれて、よかった。……私、もう少しだけ、頑張ってみるよ』
『君のような子が……理不尽に泣かなくていい世界を、私が必ず作る』
『だから……』
エルは、最後に、力強く言った。
『生きて』
「……!」
『どんなに辛くても、どんなに汚れても。……生き抜いて、未来で待っていてくれ』
『私が……必ず、君を見つけ出すから』
「……エル……」
ユリカも、鏡に手を重ねた。
冷たいガラスの奥に、確かな「命の熱」を感じた。
「……分かった」
ユリカは、涙を拭った。
泥だらけの顔で、精一杯の笑顔を作った。
「待ってるわ。……絶対よ」
「あんたが迎えに来るまで……。あたし、絶対に死なないから!」
『ああ。……約束だ』
光が弾けた。
鏡の輝きが消え、ただの薄汚れたガラスに戻る。
そこには、涙で顔をぐしゃぐしゃにした、自分の姿だけが映っていた。
でも、その瞳には。
かつての絶望の色はなかった。
小さく、けれど決して消えない「希望」の火が灯っていた。
「……生きる」
ユリカは、屋根裏部屋を出た。
そして、スラムの雑踏へと戻っていった。
強く、気高く、生き抜くために。
いつか巡り会う、運命の人のために。
・・・・・・・・・・
「……ッ!」
ナラは、弾かれたように顔を上げた。
陽だまり獣医院のリビング。
窓の外では、夕陽が沈もうとしている。
「……夢?」
ナラは、自分の頬に触れた。
涙で濡れていた。
そして、手元には、あの古い研究日誌と、一枚の写真。
写真の中の黒髪の少女。
そして、泥だらけの少女。
「……そうだったの」
記憶の封印が解けた。
あの日、屋根裏部屋で出会った「黒髪の少女」は、若き日のエラーラだった。
そして、あの「泥だらけの少女」は、幼き日の自分だった。
ナラは震えた。
エラーラは、約束を守ったのだ。
彼女は賢者になり、未来の技術を研究し、そして時空を超えて……。
スラムで死にかけていた大人になったあたしを、見つけ出してくれたのだ。
だが、エラーラは気づいていない。
なぜなら、あの日出会った「ユリカ」は野蛮な口調の泥だらけの子供であり、今目の前にいる「ナラ」は、洗練されたレディだからだ。
そして何より、エラーラ自身が……。
「……髪の色」
ナラは、目の前で作業をしているエラを見た。
今の彼女の髪は、美しい白銀色だ。
あの日、鏡の向こうにいた黒髪の少女は、もういない。
そして、泥だらけだったユリカも、今はもういない。
互いに姿を変え、名前を変え、記憶さえ曖昧になって。
それでも、二人は出会った。
魂の引力に導かれるように。
「……バカね、お母様」
ナラは、写真を日誌に挟み、そっと閉じた。
涙が、こみ上げてくる。
あんたを救ったのは……未来のあたしだったのよ。
あたしが生きたから、あんたは死ななかった。
あんたが生きたから、あたしは救われた。
二人は、時を超えて、互いの命を救い合っていたのだ。
これは、偶然じゃない。
必然の、愛の円環。
「……ナラ君? どうしたんだい、泣いて」
エラーラが、心配そうに顔を覗き込む。
「埃が目に入ったのかね?」
「……ええ。そうみたいですわ」
ナラは、涙を拭い、立ち上がった。
そして、エラーラの背後から、優しく抱きついた。
「……なんだい、急に。甘えん坊だねぇ」
エラーラは驚いたが、拒絶はしなかった。
その背中の温もり。
薬品と、珈琲の匂い。
「……お母様」
ナラは、エラーラの耳元で囁いた。
「……見つけてくれて、ありがとう」
「……ん?」
「そして……生きていてくれて、ありがとう」
エラーラは、不思議そうな顔をした。
彼女には、あの夏の日の記憶はないのかもしれない。
あるいは、遠い夢として忘れてしまっているのかもしれない。
でも、それでいい。
約束は果たされたのだから。
「……よく分からんが、感謝されるのは悪い気はしないな」
ナラは、エラーラの銀髪にキスをした。
かつて黒かったその髪は、今は雪のように白く、そして誰よりも美しい。
「……愛してるわ。……あたしの、最初の友達」
「ん? 今何か言ったかい?」
「いいえ。……夕飯はハンバーグにしましょうと言ったのです」
「賛成だ!肉汁の流体力学を検証しよう!」
二人は笑い合った。
窓の外、一番星が輝き始める。
鏡はもう、何も映さない。
けれど、今のナラには必要ない。
鏡の向こうの幻影ではなく、ここに実体のある温かい手が、強く握り返してくれるのだから。




