第1話:時間旅行者(1)
王都の夏は、記憶の蓋をこじ開けるような暴力的な暑さを伴ってやってくる。
ジリジリと鳴く蝉の声。アスファルトから立ち昇る陽炎。
それは、平和な獣医院の二階にいても、肌にまとわりついて離れない。
「……暑いですわ」
ナラティブ・ヴェリタスは、氷を浮かべたグラスを額に押し当て、気だるげに溜息をついた。
いつもの漆黒のドレススーツではなく、今日は薄手の黒いワンピースを着ているが、それでもこの熱気は一流のレディの精神を蝕むのに十分だった。
「お母様。……冷房の出力、あと2レベル上げられまして?」
「無理だね、ナラ君。これ以上魔力冷却を強めると、階下のケンジ君たちが凍死する」
部屋の奥、書物の山に埋もれるようにして、エラーラ・ヴェリタスが答えた。
彼女は白衣の袖をまくり上げ、古い文献の整理に没頭している。銀色の髪が、扇風機の風にさらさらと揺れていた。
「……暇ですわ」
ナラは手持ち無沙汰に立ち上がった。
事件もない。怪異も出ない。
あまりに平和すぎて、過去の古傷が疼き出しそうな午後だった。
「なら、そこの片付けを手伝ってくれたまえ。昔の研究日誌が出てきてね。分類が必要なんだ」
「人使いが荒いですわね……」
ナラは文句を言いながらも、エラの足元に積み上げられたダンボール箱に手を伸ばした。
埃っぽい匂い。カビた紙の感触。
それは、エラーラがまだ「大賢者」と呼ばれる前、若き日の記録の数々だった。
「……ずいぶんと古いですわね」
ナラは、一冊の革表紙のノートを手に取った。
何気なくページをめくる。難解な数式、幾何学模様、そして──走り書きのメモ。
『世界はバグだらけだ』
『誰も私を理解しない』
『消えたい』
ナラの手が止まった。
今の飄々としたエラからは想像もつかない、悲痛で、寂しい言葉の羅列。
これは、彼女がまだ孤独な天才少女だった頃の日記なのだろうか。
その時。
ノートの間から、一枚の写真が滑り落ちた。
「あら?」
ナラはそれを拾い上げた。
色褪せた、モノクロームの魔導写真。
そこに写っていたのは、奇妙な二人組だった。
一人は、白衣を着た少女。
不機嫌そうな顔で、分厚い本を抱えている。
だが、その髪は銀色ではなかった。
濡羽色のような、艶やかな「黒髪」だった。
そして、もう一人。
その黒髪の少女の隣に、鏡越しに映り込んでいるかのような、ボロボロの少女がいた。
泥だらけのワンピース。伸び放題の髪。
野生動物のように鋭く、そして死んだように虚ろな目。
「……誰かしら、この汚い子は」
ナラは眉をひそめた。
見覚えがない。
なのに、その少女の目を見た瞬間、心臓がドクンと嫌な音を立てた。
『……死にたい』
脳裏に、ノイズのような声が響く。
暑さが遠のく。
視界が歪み、獣医院のリビングが、色あせたセピア色の景色へと溶けていく。
(……ああ。思い出した)
これは、夢だ。
あたしが、「ナラティブ・ヴェリタス」という名前も、「一流のレディ」という誇りも持っていなかった頃の。
ただの「ユリカ」と呼ばれていた時代の夢。
・・・・・・・・・・
未来の王都。スラム街。
空は常に鉛色で、酸性雨が降り注いでいた。
「……クソが」
幼いあたし――ユリカは、廃ビルの屋根裏部屋にいた。
手には、一本のロープ。
今日、あたしは死ぬつもりだった。
親はいない。守ってくれる人もいない。
大人たちはあたしを殴り、パンを奪い、時には「商品」として売り飛ばそうとする。
逃げて、隠れて、泥水を啜って。
そんな毎日に、もう疲れてしまったのだ。
「……誰も、あたしのことなんて必要としてない」
ユリカは、梁にロープをかけた。
ぐらつく木箱の上に立つ。
これで終わりだ。
痛みも、空腹も、恐怖も、全部なくなる。
その時。
部屋の隅に放置されていた、割れた大きな「姿見」が目に入った。
埃を被り、蜘蛛の巣が張った鏡。
ふと、鏡の表面が水面のように揺らいだ気がした。
ユリカは、吸い寄せられるように鏡を見た。
そこに映っていたのは、自分の顔ではなかった。
黒い髪の、綺麗な服を着た少女。
白衣を羽織り、手には毒薬の瓶を持っていた。
彼女もまた、絶望的な目で、死を選ぼうとしていた。
時空を超えた、視線の交錯。
未来の掃き溜めにいるあたしと、過去の豊かな部屋にいる彼女。
境遇は正反対。
けれど、その瞳の底にある「孤独」の色だけは、鏡写しのように同じだった。
「……待って!」
ユリカは、衝動的に叫んでいた。
自分の死はいい。でも、鏡の向こうのあの子が死ぬのは、なぜか……許せなかった。
鏡の中の黒髪の少女が、ビクリと肩を震わせた。
そして、虚ろな黄金の瞳で、こちらを捉えた。
『……誰?』
声が、頭の中に直接響いてきた。
凛とした、でも震えている声。
「……あんたこそ、誰よ」
ユリカは、ロープから手を離し、鏡に歩み寄った。
『……私は、エル』
少女は言った。
『世界の……探求者だ』
「エル……」
ユリカは、その名前を口の中で転がした。
不思議な響きだった。
「あたしは……ユリカ。……ただの、ゴミよ」
『ゴミ……?』
エルと名乗った黒髪の少女は、毒薬の瓶を下ろした。
そして、興味深そうに、少しだけ身を乗り出した。
『君のその場所……。ひどく汚れているね。……君の顔も、泥だらけだ』
「うっさいわね! ……ここは吹き溜まりなのよ。あんたみたいな綺麗なお嬢様には分からないわよ!」
ユリカは吠えた。
野良犬のような、威嚇の声。
今のナラのような優雅さなど欠片もない、粗野で乱暴な口調。
だが、エルは怒らなかった。
むしろ、少しだけ安堵したように、口元を緩めた。
『……ふふ。元気な『ゴミ』だこと』
「なっ……!」
『ねえ、ユリカ。……君は、なぜ死のうとしたんだい?』
「……腹が減って、寒くて、痛いからよ。……生きてても、いいことなんて一つもないからよ」
ユリカは、鏡を睨みつけた。
「あんたは? ……いい服着て、雨風もしのげる部屋にいて……なんで死にたいのよ」
エルは、膝を抱えた。
『……誰も、私を理解しないからだ』
彼女は、静かに語り始めた。
天才ゆえの孤独。
大人たちからの嫉妬と恐怖。
「バケモノ」と呼ばれる疎外感。
『論理的に考えて……私がいない方が、世界は平穏なんだ』
「……バカじゃないの」
ユリカは、鼻で笑った。
「腹一杯食えて、寝る場所があって……それで不幸ぶるなんて、贅沢な悩みさね」
『……君には分からないさ!』
「分からないわよ! ……でも」
ユリカは、鏡に手を触れた。
冷たいガラスの感触。
「……あんたが死んだら、なんか……あたしは気分が悪いわ」
『なぜ?』
「……あたしより恵まれてる奴が、勝手に絶望して死ぬなんて……負けた気がするからよ!」
めちゃくちゃな理屈だった。
でも、それがユリカの精一杯の「引き止め」だった。
エルは、きょとんとして、それから吹き出した。
『あはは! ……変な理屈だ。論理性のかけらもない』
彼女は、毒薬の瓶を床に置いた。
『……いいだろう。今日のところは、死ぬのを延期してやる』
「……あたしもよ。……腹が減りすぎて、首吊る力もないわ」
ユリカも、木箱から降りた。
『……また、会えるかな?』
エルが、不安げに尋ねた。
鏡の向こうの孤独な少女。
「……さあね。あたしが生きてたらね」
『なら、生き延びたまえ。……君のその汚い顔、もう少し見ていたい気がする』
「……ふん。あんたこそ」
鏡の光が消える。
薄暗い屋根裏部屋に、ユリカ一人残された。
だが、その心臓は、さっきまでとは違うリズムで脈打っていた。




