第3話:姫の遊戯(3)
思い出シリーズ
大会の喧騒は、まるで幻だったかのように遠のいていた。ナラは、路地裏の静寂の中で、目の前に立つ謎の女と対峙していた。
女は、獣人だった。艶やかな銀色の毛並みを持つ、雪豹の獣人。しなやかな肢体を包むタイトなスリットドレスからは、太く、長く、そして恐ろしく毛並みの良い尻尾が覗いている。
「……単刀直入に言います」
女は、琥珀色の瞳でナラをじっと見つめ、艶のある声で言った。
「貴女に、モデルになっていただきたいのです。……『成人向け』の」
「……はあ?」
ナラは、優雅に扇子を開こうとして、止めた。 聞き間違いだろうか。いや、彼女の聴覚は正常だ。
「……あたしがぁ?」
「ええ。先ほどの試合、拝見しました。貴女の機体『ホワイト・ヴェリタス』……。全身白の装甲に、あえて『尻尾』をつけていましたね?」
女は一歩、距離を詰めた。
「あれを見て、確信しました。……貴女には『素質』があると」
「素質……?」
「映画『狼の惑星』に出てくる女戦士、フェリス。……彼女のコスプレをして、私と……その、濃密な映像作品を撮らせていただきたいのです」
ナラは呆れ果てた。映画のキャラのコスプレをして、アダルトなビデオを撮れと言うのか。この初対面の女は。
「……『アダルト』はお断りですわ。」
ナラは冷ややかに言った。
「獣人のキャラなら、その辺の本物の獣人さんに頼めばよろしくて? 王都にはいくらでもいますわよ。……造形美で言えば、あたしより本物の方がリアルでしょうに」
「分かっていませんね。」
女は、心底残念そうに首を横に振った。
「本物ではダメなのです。……『人間が、獣人の格好をする』。その倒錯、その背徳感、その滑稽さと愛らしさの狭間にあるエロス……。それこそが、私の求めている芸術なのです!」
女の瞳が、怪しく光った。 特殊性癖だ。それも、かなり拗らせたタイプの。
「……理解不能ですわ」
ナラは踵を返そうとした。だが、女の次の言葉が、ナラの足を縫い付けた。
「……貴女、否定しませんでしたよね?」
「え?」
「貴女は、『アダルト』を否定しました。しかし、『獣人の格好をすること』自体は、否定しなかった」
女は、ナラの耳元に顔を寄せた。獣特有の、甘く危険な匂いがする。
「貴女……。本当は、『好き』なんでしょう? ……獣人の女の子……」
「……ッ!」
ナラは、息を呑んだ。図星だった。ナラは獣人好きだ。そして、かなりの女好きだ。普段は「一流のレディ」として振る舞っているが、その本性は、美しい獣人の女性に目がない。ゲームのアバターに尻尾をつけたのも、無意識の願望の表れだったのだ。
「……な、何をっ……!」
「誤魔化せませんよ。……同類は、『匂い』で分かるんです」
女は、ナラを見透かすように微笑んだ。肯定はしない。だが、否定もできない。沈黙が落ちる。それは、ナラにとって「完全敗北」を意味する沈黙だった。
「……場所を。変えましょうか。」
女が言った。ナラは、拒めなかった。この女の底知れない引力に、抗うことができなかったのだ。
連れて行かれたのは、「小洒落よう」とするオタクたちが集まるチェーン店のバーだった。 照明はそこそこに落とされ、適当な音楽がやかましく流れている。紫煙と、安い酒の香り。
二人はカウンターの端に並んで座った。会話はない。女はバーボンを、ナラは……普段飲まないビールを巨大なメスシリンダーに入れて、静かに飲んでいた。
ナラは、動揺していた。
(……気まずいですわ)
ナラはシリンダーの縁を指でなぞった。 だが、不思議と不快ではなかった。 むしろ、この沈黙が心地よい。 言葉を交わさなくても、互いの中に渦巻く「熱」を感じ取れるような、濃密な空気。
(この女……。あたしをどうするつもり?)
ナラは、横目で女を盗み見た。美しい横顔。グラスを持つ指先。そして、スツールから垂れ下がる、あの立派な尻尾。触りたい。モフモフしたい。ナラの理性が、本能と激しくせめぎ合う。
その沈黙こそが、ナラを興奮させていた。言葉という理性のフィルターを通さない、剥き出しの存在感。
「……失礼」
女が席を立った。化粧室だろうか。ナラは、ふぅと息を吐いた。緊張で喉が渇く。ビールを一気に飲み干す。
数分後。 女が戻ってきた。
ヒールの音が近づく。
ナラは、メスシリンダーに視線を落としていた。 女が、ナラの後ろを通る。 通路は狭い。
その時。
ぐにゅ。
「……ッ!?」
ナラの背中、そして二の腕に、柔らかく、そして圧倒的な弾力を持つ物体が押し当てられた。 女の豊満な胸だ。「あら。ごめんなさい、狭くて」……という素振りもなく、女はナラの体に自分の体を擦り付けるようにして通り過ぎていく。
そして。
ふさァ……。
ナラの耳元を、何かが撫でた。極太の、毛並みの良い尻尾だ。それが、ナラの敏感な耳を、優しく、しかし執拗にくすぐるように絡みつき、そして抜けていった。
ナラの心臓が、破裂しそうになった。 これは事故ではない。 トラックが左折する際、内輪差で歩行者を巻き込むような、回避不能な大事故だ。あるいは、飼い猫が飼い主の足元にわざと頭をぶつけながら通り過ぎていくような、所有権を主張する親愛の情。
(……やりやがりましたわね、このアマ……!)
ナラは、カウンターの下で拳を握りしめた。顔が熱い。耳が熱い。あの一瞬の接触で、ナラの「女好き」の回路がショート寸前まで追い込まれた。
女は、何食わぬ顔で席に戻り、グラスを手に取った。 だが、その尻尾だけが、ゆらゆらと、意味ありげに揺れている。
このままでは、空気に飲まれる。 ナラは、必死に理性を総動員した。何か話さなければ。この湿っぽい空気を変えなければ、あたしは今日、帰れなくなる。
「……そ、そういえば」
ナラは、唐突に口を開いた。 声が上ずらないように、細心の注意を払って。
「さっき仰っていた映画……『狼の惑星』でしたっけ?」
女が、グラスを止めた。
「……ええ。ご存知で?」
「監督はミラ・アンシー。主演女優の降板騒動で、脚本が二転三転した曰く付きの怪作ですわね。……特に、ラストシーンの解釈については、批評家の間でも意見が割れていますけれど」
ナラは、早口でまくし立てた。彼女は多趣味だ。映画も、小説も、ゲームも、一通り嗜んでいる。 知識の鎧で、動揺を隠す。
「あらあら」
女が、初めて楽しそうに笑った。獲物を前にした獣の目から、同じ趣味を持つ同志の目へ。
「貴女……。あっちの趣味もおありなのね?」
「……嗜み程度ですわ」
「ラストシーンの解釈……。私は、あれはハッピーエンドだと思っていますの。主人公は死にましたけれど、彼女の遺伝子は獣人たちの中に受け継がれたのですから」
「異議ありですわ。あれはバッドエンドよ。……個としての尊厳を失い、種としての存続を選ばざるを得なかった悲劇。監督の虚無感が滲み出ていますわ」
「ふふ。……面白い視点ね」
女は、グラスをナラの方へ傾けた。
「朝まで語り合えそうですわね。……『私の部屋』で。」
「……バーで十分ですわ」
ナラは、きっぱりと断った。だが、その頬は緩んでいた。
「……マスター。ビール、あと1リットルおかわりを。」
「……飲み過ぎじゃなくて……?」
ナラのオーダーが、夜の静寂に溶けていった。
・・・・・・・・・・
「……はっ!?」
気づけば、そこはバーのカウンターではなかった。 毛足の長い絨毯。間接照明に照らされた豪奢な調度品。そして、部屋中に充満する甘く危険な獣の香り。
ナラは、ソファの上で弾かれたように身を起こした。目の前には、バスローブ一枚を羽織り、優雅にワインを揺らす雪豹の獣人――あの女が座っている。
「ようこそ、私の部屋へ」
「な、なぜあたしがこんな所に……! バーで飲み明かして、解散するはずでしたのに!」
ナラは混乱した。記憶がないわけではない。映画論議に花を咲かせ、酒が進み、女が「もっといい酒がある」と囁き、ナラは「見るだけなら」とついてきたのだ。そう、まんまと誘い込まれたのである。
「映画も、撮影も、コスプレも……。すべては貴女を釣るための撒き餌に過ぎませんわ」
女は、太く長い尻尾をゆらりと揺らした。
「私は最初から分かっていたのです。……貴女が、極度の『尻尾吸い』の素質をお持ちだということを」
「……ッ!!」
ナラは顔を真っ赤にして否定した。
「ああああああたしはただの動物好き……いいえ、生物学的な興味があるだけですわ!尻尾を吸うだなんて、そんな赤ちゃんみたいなこと……!」
「隠しても無駄です。……ゲームセンターで、既に貴女の本性は露呈していましたから」
「ゲームセンター……?」
ナラは眉をひそめた。あの時、女はあたしのプレイを見ていたと言った。やはり、あのアバターのせいか? 白一色の機体に、獣耳と尻尾をつけたあのデザインが、あたしの性癖を暴露していたというのか?
「……『ホワイト・ヴェリタス』のデザインのことかしら? あれは機能美を追求した結果……」
「いいえ。ゲーム画面など見ていません」
女は、ナラの言葉を遮った。
「私が注目したのは……貴女が待機中、カウンターに置いてあった『ハンディモップ』をいじっていた時の手つきです」
「モップ?」
ナラは記憶を辿る。そういえば、手持ち無沙汰で、掃除用のふわふわした埃取りモップを触っていた気がする。
「普通の人間は、モップの柄を持つ時、人差し指と親指、あるいは掌全体で握ります。……ですが、貴女は違いました」
女は、ナラの右手を指差した。
「貴女は……『小指』から巻き込むように柄を握り、モップのふわふわの部分を、指の腹を使って、一定のリズムで『しごいて』いましたね?」
「……あ?」
「ギュッ、スゥ……。ギュッ、スゥ……。……根元を抑え、毛並みに逆らわず、かつ適度な刺激を与えるあの手つき」
女の瞳が、肉食獣のように細められた。
「あれは……獣人がパートナーに『尻尾の付け根のマッサージ』をする時の動き。……いいえ、もっと直接的に言えば、『尻尾を口に含んで愛でる時』の、理想的なホールドの形です」
ナラの全身から、湯気が出た。無意識だった。 あのモップの毛並みがあまりにも良かったので、手癖でつい、脳内で理想の尻尾をシミュレーションしながら、最高の手触りを再現しようとしていたのだ。
「獣人があの動きをするなら、思春期の暴走か、ただの変態で済みます。……ですが、人間があの動きを無意識にするなど、ありえません」
女は断言した。
「貴女は……重度の『尻尾中毒』です」
沈黙。 ナラの顔は、熟れたトマトのように赤い。 言い逃れできない。物理的な証拠を突きつけられてしまった。
だが、ナラはナラティブ・ヴェリタス。 一流のレディは、どんな時でも屁理屈をこねるものだ。
「ち、違いますわ!!」
ナラは立ち上がり、必死に弁解を始めた。
「あ、あれは!……そう!鉄扇のグリップ力を高めるための指のトレーニングですの! 小指の締め付けは武術の基本!武道の極意はモップの中にあり!ですわ!」
「ほう?」
「それにリズムをつけていたのは……そう!魔力伝導率の確認です!フワフワした物体における静電気の発生と魔力の相関関係を調査していただけで……決してなにも尻尾の感触を妄想していたとかそういうわけではありませんことよ!!」
支離滅裂だった。 説得力ゼロの、ただの動揺した……オタクの早口だった。
女は、くすりと笑った。そして、バスローブの帯を緩めた。はらり、と布が落ちる。その下には、銀色の毛並みが美しい、完璧な獣人の肢体があった。そして、そのお尻からは、極太で、ふさふさで、最高に手入れの行き届いた雪豹の尻尾が伸びている。
「……もう。──理屈は結構です」
女は、ソファの上に四つん這いになった。 そして、その立派な尻尾を、ナラの目の前に突き出した。
「貴女のその手つき……。私の尻尾で、試してみたくは、ありませんか?」
「……ッ!」
ナラの目が、尻尾に釘付けになる。太い。長い。毛並みが良すぎる。あのモップとは比較にならない、本物の「生命」の輝き。
「許可します──。」
女は、誘うように尻尾を振った。 ナラの鼻先を、毛先がくすぐる。
「『尻尾』……していいですよ?」
ナラの理性が、音を立てて崩壊した。 武術も、魔力も、一流の矜持も、目の前のモフモフの前では無力だった。
「……し、仕方ありませんわね……!」
ナラは、震える手で尻尾へと手を伸ばした。 小指から、そっと握り込む。 あのモップの時と同じ、完璧なフォームで。
「じ、実証実験ですわ……。あくまで、手触りの確認のための……」
「ふふ。……どうぞ、存分に」
ナラは、顔を埋めた。 銀色の毛並みの中へ。
獣の匂い。体温。弾力。 最高だった。 お母様とは違う、野生の、しかし洗練された極上の快楽。
ナラは、夢中で尻尾を愛でた。 吸い、撫で、頬ずりをした。 それは、彼女が長年隠し続けてきた「物語」が、ついに解放された瞬間だった。
獣医院に帰れば、エラーラからのお仕置きが待っているだろう。だが、今はこの銀色の密林の中で、迷子になることを選んだ。
「……さ、最高ですわ……」
ナラの漏らした本音が、夜の部屋に溶けていった。正義の探偵は、今宵、ただの「尻尾好き」として、幸せな堕落を味わうのであった。




