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第1話:初めての平和な日!

事の発端は、昨日だった。

王都警察の犯罪統計課が、震える手で一枚の日報を提出したのだ。


『傷害件数:0』

『殺人件数:0』

『強盗件数:0』

『交通事故:0』


それは、犯罪と欲望と魔力が渦巻くこの王都において、実に10年ぶりに観測された「完全なる平和な一日」だった。

素晴らしいことだ。誰も死なず、誰も泣かず、誰も盗まなかった。太陽は穏やかに照り、猫はあくびをした。

だが、ひねくれ者揃いの王都市民は、そうは受け取らなかった。

「何も起きない」ということは、「水面下でとんでもないことが起きている」と同義だからだ。

酒場では男たちが囁き合った。


「政府が情報を隠蔽しているのではないか?」


「嵐の前の静けさか? 明日、魔王が復活するのか?」


「巨大犯罪組織が、一斉蜂起のために力を溜めているに違いない」


疑念は恐怖を呼び、恐怖は過剰な防衛本能を刺激し、防衛本能は「やられる前にやる」という先制攻撃へと変換された。

その結果。

翌日である今日は、王都の歴史上、最も通り魔と暴動と爆破テロが多い一日となった。


ドッゴォォォォォォン!!!!!


夕暮れ迫る、王都の大通り。

カフェ『青い鳥』のテラス席。

優雅にコーヒーを啜っていたナラティブ・ヴェリタスは、隣のビルが吹き飛ぶのと同時に、椅子ごと空へ打ち上げられた。


「……コーヒーのおかわりは、結構よォォォッ!!」


ナラは空中で回転し、飛来する瓦礫を鉄扇で弾きながら、放物線を描いて落下した。

着地地点は、大通りの交差点に差し掛かった二階建て魔導バスの屋根の上。

華麗に着地を決めた、その瞬間。


カッッッ!!!!


バスの下に仕掛けられていた対戦車魔導地雷が起爆した。


「嘘でしょォォォォッ!?」


バスが真っ二つに折れ、ナラは炎の柱と共に再び上空に打ち上げられた。

眼下では、制御を失った魔導車がキリモミ回転をしながらオフィスビルに突っ込み、動物園から脱走して野生化したグリフォンの群れが、通行人に向かって爆撃魔法と糞を雨あられと投下している。

地獄絵図。

破壊の連鎖。

ナラは落下しながら、マンホールの蓋が開いているのを見つけた。


「地下なら!」


ナラは身を細めてマンホールに飛び込んだ。

だが、そこはテロリストが密造していた「違法ガスプラント」の貯蔵庫だった。ナラの突入の衝撃で、ガス管に亀裂が入る。


ズドォォォォォォォォン!!!!


地下水道が大爆発を起こし、ナラはマンホールからコルク栓のようにポンッと射出された。

三度目のフライト。

ナラは黒焦げになりながら、王都中央公園の植え込みへと墜落した。


ドサッ。


静寂。

小鳥がさえずり、遠くでパトカーと消防車のサイレンがオーケストラのように鳴り響いている。

ナラはむくりと起き上がり、焦げた髪から小枝を払った。

奇跡的に、軽傷で済んでいた。


「……絶体絶命じゃないの……」


ナラはドレスの裾をパンパンと叩き、ベンチに座った。


「……やってられないわ」


その公園の片隅、滑り台の下の暗がりに、一人の少女がうずくまっていた。

ライラ、12歳。

彼女は、ベンチに座るナラを見ていた。

全身から煙を上げ、服はボロボロ、顔は真っ黒。それなのに、優雅に足を組んでくつろいでいる女。

あまりにも異様で、あまりにもシュールな光景。

だからこそ、ライラは声をかけた。自分の絶望を一瞬だけ忘れて。


「……お姉さん。頭から煙が出てるよ。大丈夫?」


ナラは、ゆっくりと首を回して少女を見た。

ナラの目は、煤で縁取られているが、深紅の瞳だけが異様に鋭く輝いている。

対する少女は、痩せ細っていた。

季節外れの長袖。サイズの合わないスカート。そして、前髪の隙間から見える額と頬には、ファンデーションで隠しきれない青紫色の痣があった。


「あたしの心配? ……あんたの方こそ、還る場所がなさそうだけど」


ライラは、曖昧に笑った。

それは、感情を殺すことに慣れすぎた子供特有の、能面のような微笑みだった。


「うん。……場所はあるけど、居場所はないの」


ライラは、今日、学校と役所、そして親の知人たちを回ってきた帰りだった。

家で行われている「躾」という名の拷問に耐えかねて、助けを求めたのだ。

だが、返ってきたのは、大人の事情と偏見で塗り固められた「拒絶」の壁だけだった。


ライラは、担任の教師に痣を見せた。

教師は、眉をひそめ、そしてあろうことか頬を赤らめて言った。


『ライラさん。……君は、虐待を、受けたかった、のでしょう?』


『は?』


『君は、父親の、気を引くために、無意識に、誘惑したに、違いないんだ。君のね、その目つき、スカートの、丈、男をね、狂わせる、魔性がある。……お父さんは、被害者だ。君がね、彼を、そうさせたんだよ。ほら、脱いでみて。おいでよ……』


性的倒錯と責任転嫁。被害者を有罪にする、教育者の皮を被った獣。


ライラは、児童保護局へ行った。

担当官は、書類から目を離さずに言った。


『健康診断の結果。骨折はしていないね。栄養状態も。まあ。死ぬほどではない。』


『でも、殴られて……ご飯も……』


『本当に辛かったら。死んでいるはずだよ。生きているということは。それは虐待の範疇に入らない「厳格な躾」、だということだ。死体になってから来てくれれば。我々としても動けるんだけどね。』


生存バイアスによる、極限の事なかれ主義。役所の論理。


帰り道、父の取引先の社長に会った。

彼はライラの痣を見て、ニヤリと笑った。


『お父さんは──優秀な取引先だ。個人的に──虐待をするような人には見えないし──もしそうだとしても──私のビジネスに支障が出るから「虐待はない」と証言するよ。これは社会的な正義だ。──君も、パパの仕事を邪魔したくないだろう?』


金と保身。利益の前では、子供の涙などノイズでしかない。

親の友人、親戚、近所の人々。

誰もが口を揃えて言った。


『産んでもらった恩を忘れるな。感謝しろ。』


『お前が悪い。お前が愛されないような子供だからだ。謝罪しろ。』


『ありがとうか、ごめんなさいを言え。』


ライラの世界は、そんな卑劣漢たちの吐く「正論」という名の毒ガスで埋め尽くされていた。

逃げ場はない。

王都は燃えているが、ライラの心はそれ以上に冷たく凍りついていた。


「……今日は、世界中が怒ってるみたい」


ライラは、フェンスの向こうで燃え上がるビルを見ながら呟いた

「そうね。平和すぎた反動よ。人間は、適度に不幸で、適度に誰かを憎んでいないと、安心できない生き物なの」


ナラは淡々と答えた。

二人の会話は、核心を避けて漂った。

「痛い?」とは聞かない。「助けて」とは言わない。

だが、言葉の端々で、互いの魂の形を探り合っていた。

ナラは、この少女が「境界線」に立っていることに気づいていた。

生きるか、死ぬか。

あるいは、心を殺して「物」になるか。


「お姉さんは、何してる人?」


「ホームレス。……嘘よ。揉め事を解決するのが仕事」


「ふふ。変なの」


ライラが小さく笑った。


「……解決したい?」


「え?」


「解決したいかって聞いてるのよ。あんたの抱えてる爆弾。……解決したいの?それとも、このまま世界と一緒に爆発するのを待ってる?勝手にしやがれってんなら、あたしはこのまま……」


ライラの視線が、足元の砂場に落ちる。

彼女の小さな拳が、震えている。


「……爆発すればいいのに」


彼女は、吐き出すように言った。


「家も、学校も、役所も……全部、あのビルみたいに燃えてなくなればいいのに」


それは、純粋な破壊衝動。

善悪を超えた、魂の叫び。


「そう」


ナラは立ち上がった。

ボロボロのドレスを払い、ススだらけの顔で、ニカっと笑った。

その笑顔は、聖女のようでもあり、悪魔のようでもあった。


「……いい度胸ね。気に入ったわ」


ナラは、ライラの手を取った。


「案内しなさい。……その爆発、手伝ってあげる」

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