第3話:液体の豚(3)
アトリエを出た瞬間、私たちは世界から拒絶された。
風速40メートル。気温マイナス30度。
北都の夜は、生物の生存を許さない「死の領域」と化していた。
「ナラ!座標を確認しろ!このままでは遭難するぞ!」
エラーラが叫ぶが、風切り音にかき消されて聞こえない。
私たちは腰にロープを巻き、互いの体を繋ぎ止めていた。だが、そのロープさえもが凍りつき、鉄の鎖のように重くのしかかる。
たかが、ラーメン。
されど、ラーメン。
その一杯を食べるためだけに、私たちは命をチップとしてテーブルに叩きつけた。
馬鹿げている。狂っている。
だが、この馬鹿げた行軍こそが、私の凍りついた日常を溶かす唯一の儀式なのだ。
その時。
白い闇の向こうから、巨大な影が躍り出た。
咆哮。
現れたのは、北都の深奥に生息する魔獣だった。
全身を氷の装甲で覆い、角からは冷気を噴出する、雪山の王者。
普段なら人里には降りてこないはずの魔獣が、猛吹雪に乗じて餌を求めて徘徊していたのだ。
「チッ、こんな時に!」
私は懐に手を伸ばした。
だが、指がかじかんで動かない。
魔獣の巨大な腕が振り下ろされる。
「危ない!」
エラーラが私の前に躍り出た。
彼女は杖を掲げ、即座に防御結界を展開する。
だが、相手が悪かった。魔獣の爪は「魔力破砕」の特性を持っている。
エラーラの結界がガラス細工のように砕け散った。
「ぐっ……!?」
エラーラの体が、ボールのように吹き飛ばされた。
雪の中に埋もれる白衣。
「お母様ッ!」
私は叫んだ。
駆け寄ろうとするが、足が雪に取られて動かない。
魔獣が、今度は私に狙いを定めた。
赤い瞳が、私を「凍った肉」として認識している。
(……死ぬ?)
ラーメンを食べに来て?
こんな、雪山で?
スープの一口も啜らずに?
魔獣の突進が、私を捉えた。
鉄扇でガードしたが、内臓が揺さぶられるほどの衝撃。
私は吹き飛び、レンガ造りの壁に激突した。
背骨が軋む。肺の中の空気が強制的に排出される。
視界が明滅する。
寒い。
熱いラーメンが、食べたい。
脂が欲しい。ニンニクが欲しい。
豚が……欲しい。
身体が、カロリーを求めて悲鳴を上げている。
魔獣が、トドメの氷塊を口元に生成し始めた。
動けない。
指一本、動かない。
私の物語は、ここで、『豚』不在のまま、終わるのか。
その時。
「どきなさいましィィィッ!!!!」
極彩色の閃光が、夜の闇を切り裂いた。
魔獣の横っ面に、巨大な絵筆の形をした魔力弾が直撃した。
魔獣がよろめく。
吹雪を割って現れたのは、赤毛の画家――リウだった。
「リ、リウ……?」
彼女は、巨大な筆を大剣のように構え、仁王立ちしていた。
その全身からは、殺意と、それ以上に熱苦しい「情熱」のオーラが立ち昇っている。
「私の大事な『豚仲間』に、何をしてくださいますの!? この無粋な氷塊が!」
リウは叫び、筆を振るった。
空中に、光の絵の具で「爆発」という文字が描かれる。
次の瞬間、その文字が物理現象となって炸裂した。
魔獣が悲鳴を上げて後退する。
リウは私に駆け寄り、襟首を掴んで強引に引き起こした。
「立ちなさい、ナラ様!寝ている場合ですの!?」
「……無理よ。もう、力が入らない……」
私は弱音を吐いた。
寒さとダメージで、身体の芯まで凍えている。
「甘ったれるんじゃありませんわッ!!」
リウが、私の頬を張った。
熱い痛み。
彼女は、私の胸ぐらを掴んだまま、鬼の形相で吼えた。
「いいですか!? ラーメンとは『戦い』なのですわ!」
「……は?」
「我々は今、極限状態にあります!寒さ!飢え! 疲労!……それら全てが、これから摂取する一杯の『豚』を、至高の芸術へと昇華させるための『スパイス』なのですわよ!」
リウの瞳が、狂気じみた輝きを放つ。
「死にかけ?最高じゃありませんの!空腹?極上の調味料ですわ!……ここで死んだら、貴女の胃袋は、永遠に満たされない!『豚』の海に溺れる快楽を知らずに、ただの冷たい肉塊になって終わるんですのよ!?」
「……っ」
「悔しくないんですの!?あの店主が、血反吐を吐いて完成させた『豚』を!貴女のために用意された、熱々の『豚』を!……啜らずに死ぬなんて、生物としての、最大の敗北ですわッ!」
リウの言葉は、支離滅裂だった。
だが、その熱量は、凍りついた私の心臓を無理やり再起動させた。
そうだ。
私は、食べたい。
高尚な理由なんてない。世界平和も、正義も関係ない。
ただ。ただ、あの茶色い山脈を崩し、脂まみれのスープを飲み干し、「生きてる」って実感したいだけだ。
その欲望こそが、私を動かす燃料。
「……そうね。悔しいわね」
私は、震える足に力を入れた。
胃袋の奥底から、熱いものがこみ上げてくる。
「食べずに死ねるか……!私の食欲を、舐めるんじゃないわよ!」
私は立ち上がった。
雪の中から、エラーラも這い出してきた。
「……同意する。カロリー摂取前の死亡は、エネルギー効率的に最大の損失だ」
私たちは並び立った。
目の前には、怒り狂う魔獣。
「行きますわよ、皆様!邪魔な氷は砕いて、道を作るのですわ!」
リウが筆を振るう。
エラーラが術式を展開する。
そして私は、鉄扇を最大出力で展開した。
「どけェェェッ!私は今、猛烈に腹が減ってるのよォォォッ!!」
三位一体の攻撃が、魔獣を粉砕した。
氷の怪物は光の粒子となって霧散し、その向こうに――
『豚』
吹雪の中に浮かぶ、ネオンサインが、見えた。
ボロボロの体で、ついに、私たちは店の前にたどり着いた。
重厚な鉄の扉。
その取っ手は、天国への鍵のように見えた。
扉を開ける。
瞬間、極寒の世界が遮断され、ムッとするような熱気と湿気が私たちを包み込んだ。
鼻孔をくすぐる、強烈な豚骨の香り。
「らっしゃい!!」
店主の声。
彼は、雪まみれで血を流している私たちを見ても、動じなかった。
ただ、ニカっと笑い、無言で麺を鍋に放り込んだ。
わかっているのだ。私たちが何を求めて、ここに来たのかを。
私たちはカウンターに座った。
リウも並んで座る。
「……豚、全員、全マシ。」
私が代表して注文した。
数分後。
カウンターが揺れる。
目の前に現れたのは、湯気を上げる茶色い巨塔。
分厚いチャーシューの断崖。背脂の雪崩。刻みニンニクの森林。
私は、震える手でレンゲを持った。
これが、私たちが命を賭けて手に入れた「豚」だ。
スープを一口、啜る。
――ドクン。
心臓が、跳ねた。
脳髄が、痺れた。
美味い、とか、そういう、次元じゃない。
暴力的な塩分が、枯渇した身体に電流のように走り抜ける。
濃厚な豚の脂が、冷え切った内臓を内側からコーティングし、熱を逃さない。
化学調味料の旨味が、生存本能を直接キックする。
「……っ、ぁ……」
声にならない吐息が漏れた。
隣で、リウが泣きながら麺を啜っている。
「めっちゃうめぇですわ……! 生きててよかった……!」
エラーラも、無言で、しかし猛烈な勢いで山を崩している。
麺を、食らう。
極太の、ワシワシとした麺。
噛みしめるたびに、小麦の甘みとスープの塩気が混ざり合い、爆発的なカロリーとなって全身に供給される。
わかった。
なぜ、人はラーメンを食べるのか。
なぜ、寿命を縮めるとわかっていて、この毒々しい液体を飲み干すのか。
それは、「生」の確認だ。
理不尽で、寒くて、辛い世界に対抗するための、唯一の武器。
腹の底から熱くなること。
満たされること。
その一瞬の快楽のために、人はまた、嵐の中を歩き出すことができるのだ。
「……最高よ」
私は、『豚』にかぶりついた。
脂身が、溶ける。
生きてる。
生きている。
私は今、最高に生きている。
「ごちそうさま!!!」
三つの空っぽの丼が、カウンターに並んだ。
完飲。
店主は、満足げに頷き、「また来てください」と頭を下げた。
私たちは、店を出た。
鉄の扉を開ける。
そこには、奇跡が広がっていた。
吹雪が──止んでいた。
雲が切れ、満天の星空が広がっている。
そして、東の空が白み始め、美しいオーロラのカーテンが揺らめいていた。
「……あら」
私は、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
もう、寒くない。
腹の中にある熱源が、私を内側から温めている。
「晴れましたわね」
リウが、伸びをしながら笑った。
その顔は、絵の具と脂で汚れていたが、どんな名画よりも美しかった。
「ああ。……いい夜明けだ」
エラーラも、眼鏡を拭きながら空を見上げる。
私たちは、雪原に並んで立った。
探偵と、魔導師と、画家。
職業も、生き方も違うけれど、今は同じ「満腹感」を共有する戦友だ。
「ねえ、リウ」
「なんですの?」
「……アンタの、ラーメンの絵、悪くなかったわよ」
私は、素直に認めた。
彼女の語った「調和」は、嘘じゃなかった。
命がけで確認する価値のある、本物の芸術だった。
「おほほ!当然ですわ!私は天才ですもの!」
リウは高笑いし、私の肩をバンと叩いた。
「さあ、帰りましょう! そして、また腹が減ったら戦うのですわ!」
私たちは歩き出した。
雪を踏む音が、心地よく響く。
北都の空には、まだ星が残っている。
その下で、私たちは笑い合い、下らない冗談を言い合いながら、それぞれの日常へと帰っていく。
生きることは、腹が減ること。
そして、それを満たすために戦うこと。
そんな単純で、愛おしい真理を、豚骨の香りと共に胸に刻んで。
ナラティブ・ヴェリタスの北都紀行は、最高の満腹感と共に、幕を閉じた。




