第2話:液体の豚(2)
それから一ヶ月。
私とエラーラは、本来の目的である「遺跡の回廊」の調査に没頭した。
北都の寒さは、日を追うごとに厳しくなっていった。
調査キャンプでの食事は、保存食のビスケットや、凍りかけたスープばかり。
私たちは、身体の芯まで冷え切る生活の中で、カロリーと熱を、渇望するようになっていた。
上品な味はいらない。
もっと、暴力的で、ドロドロした、命の燃料になるような熱源が必要だ。
北都滞在、二十八日目。
私とエラーラは、帰りの荷造りを終え、暇を持て余していた。
窓の外は白一色。世界の終わりのような猛吹雪が吹き荒れている。
そんな中、私たちは唯一の友人――現地の画家であるリウのアトリエを訪ねていた。
「ごきげんよう!首を長くして待っておりましたわ!」
ドアを開けた瞬間、極彩色のカオス空間から、元気すぎる大声が響き渡った。
床には描きかけのキャンバス、天井からは奇妙なオブジェ。空気中には油絵具と、甘い香水、そして安ワインの臭いが充満している。
その中心で、ペンキまみれの作業用オーバーオールを着た女が、突進してきた。
リウ・ヴァンクロフト。30代半ば。
燃えるような赤毛をポニーテールにし、意志の強そうな瞳を輝かせている。
彼女はこの極寒の地で活動する画家であり、そして――北都でも指折りの「変人」だ。
「んん~っ!エラーラ様のその冷徹な眼鏡!ゾクゾクしますわ!ナラ様のそのアンニュイな鎖骨も、噛み砕きたいほど素敵ですわよ!」
リウは熊のような力強さでハグを迫ってくる。
私はそれを華麗なステップでかわし、ソファに座った。
「離れなさい。……相変わらず騒々しいわね」
「つれないですわねぇ!ま、それこそがナラ様の魅力ですけれど!」
リウは高笑いしながら、ニヤリと笑って一枚のスケッチブックを取り出した。
「ま、よいですわ。今日は貴女たちにお見せしたい『極上のネタ』がございますの!」
「ネタ? ……どうせまた『素手で白熊を倒した』とかじゃないでしょうね」
「違いますわ!もっと素晴らしい、芸術的なものですわ!……さ、ご覧あそばせ!」
リウが勢いよく開いたページ。
そこには、雪原に佇む「狼の獣人」のデッサンが描かれていた。
だが、その構図は、異常だった。
顔や体はラフな線で描かれているのに、「尻尾」だけが、異常な執着を持って、毛の一本一本まで緻密に、力強く描かれていたのだ。
「……ッ!」
私は息を呑んだ。グラスを持つ手が止まる。
「……どうですの?ナラ様。この溢れんばかりの生命力!」
リウが、握り拳を作って熱弁を振るう。
「この付け根の盛り上がりから来る、爆発的な曲線!そして!先端にかけてのフサフサ感!冬毛に生え変わったばかりの、極上のモフモフですわ!……触りたくなりませんこと?顔を埋めて、深呼吸したくなりませんこと?」
私は、ゴクリと喉を鳴らした。
悔しいが、わかってしまう。
私、ナラティブ・ヴェリタスには、誰にも言えない性癖がある。
獣人の、太くて立派な尻尾が好きなのだ──。
「……いい仕事ね」
私は素直に認めた。
探偵としての冷静な観察眼が、欲望によって曇る。
「特にこの、尾てい骨から尻尾へと繋がるラインの『しなり』……。獣人にしか出せない野生の色気と、触れた時の弾力を完璧に表現しているわ」
「でしょう!?さすがナラ様!わかってらっしゃいますわ!」
リウが私の手を取ってブンブンと振る。
私たちは手を取り合い、熱く語り合った。
「キツネの尻尾も捨てがたいですが、やはり狼の剛毛混じりの手触りが最高ですわよね!」
「わかる!あの『ガシッ』とした硬さの中に潜む温もりが……たまらないのよ!」
「昨夜の酒場で見た虎の獣人なんて、尻尾だけで私をなぎ倒せそうでしたわ……!」
盛り上がる変態二人。
隣で、エラーラが能面のような顔で彫刻を磨いている。
「……帰っていいか?空間のエロ濃度で呼吸困難だ」
「まあまあまあまあ!待ちなさいよお母様。芸術の話をしているのよ!芸術!」
「そうですわよエラーラ様!……でね、ここからが本題なんですの!」
リウは、急に真顔になった。
スケッチブックをめくる。
「この素晴らしい『肉感』と『厚み』……。それを追求しておりましたら、わたくし、ある一つの『答え』にたどり着いてしまいましたのよ!」
「答え?」
私は身を乗り出した。
さらに凄い尻尾の絵が出てくるのか? 幻の雪豹の尻尾か?
だが、次のページに描かれていたのは……
──丼に盛られた、ラーメンの絵だった。
私の表情が、スッと冷めた。
さっきまでの熱狂が嘘のように、脳内が氷点下まで冷却される。
「……はあ?」
描かれているのは、あの店だ。
『豚』
一ヶ月前、私たちが命がけで行って、絶望的な不味さを味わわされた、あの店。
「……行きましたわよね?あの店」
リウが、上目遣いで私を見る。
その目は、先ほどまでの「暴走お嬢様」の目ではなかった。
獲物の喉笛を狙う、狩人の目だ。
「……ええ、行ったわよ。最悪だったわ」
私は吐き捨てるように言った。
尻尾の話から、急に不快な記憶を呼び起こされ、私は警戒モードに入った。
(……何が狙い? 私をまたあそこに行かせて、笑い者にしたいわけ?)
リウはお調子者だ。
以前も「幻の光るキノコ」と称してただの発光苔を見せられたり、「絶世の美女が経営するバー」と言われて行ったらヒグマみたいな大男たちがいるバーだったりした。
彼女の言葉は、常に話半分で聞くのが鉄則だ。
「味のバランスは崩壊してるし、麺はゴムみたいだし。あれは料理じゃないわ、ただの『カロリーの暴力』よ。……まさか、あそこに行けって言うんじゃないでしょうね?」
私は探りを入れる。
エラーラも、彫刻から顔を上げて援護射撃をする。
「同感だ。あの店は、人体実験場だ。二度と足を踏み入れるつもりはない。」
私たちの拒絶は完璧だ。
だが、リウはニヤニヤと笑いながら、スケッチブックの絵を指先でなぞった。
その指先には、微かに力がこもっており、紙が破れそうだ。
「ですわよねぇ。わたくしも『最初』はそう思いましたわ。あんなの、味覚の壊れた労働者の餌だって!」
リウは、私の目をじっと見つめた。
「ですがナラ様! ……芸術も料理も、そして『イイ女』も、化ける時は一瞬なのですわ!」
リウが拳を握りしめる。
ここから、私とリウの心理戦が始まった。
リウは笑顔を崩さない。だが、私の目は誤魔化せない。
彼女の指先には、微かな絵の具の汚れがついている。そして、その指が、ラーメンの絵の「スープ」の部分を、愛おしそうに撫でている。
それは、彼女がさっき「獣人の尻尾」を語った時と同じ、本能的な渇望の仕草だ。
「……化け、る?」
私は、あえて冷淡に聞き返した。
「そうですわ!……あそこの店主、若い男の子でしょう?毎日毎日、吹雪の中で、客の食べ残した丼を睨みつけているのですわ。悔しそうに、泣きそうな顔で!」
「……努力を評価しろってこと?」
「違いますわッ!」
リウは立ち上がり、窓辺へと歩いた。
外は猛吹雪。
彼女は背中を向けたまま、語る。
「努力なんて誰でもしますわ!問題は、それが『美しさ』になったかどうかですの!」
リウが、ゆっくりと振り返った。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
いつもの、騒がしい笑顔がない。
「お嬢様」という仮面が剥がれ落ち、そこには「美」を追求する求道者としての、真剣で、どこか狂気じみた「批評家」の顔があった。
「……ナラ様。味が……変わりましたの」
その一言。
抑揚のない、だが芯の通った声。
冗談めかした誇張表現ではない。
事実を、そのまま切り取って提示するような、冷徹な、報告。
「変わったって、どうせ『塩を減らした』とか『調味料を変えた』とか、その程度でしょ?」
私は挑発した。
リウが演技をしている可能性を探る。
だが──リウは首を横に振った。
その動作は、あまりにも静かだった。
「違いますわ。……『調和』したのです!」
リウは、自分の胸の谷間に手を当てた。
「以前のあれは、キャンバスに絵の具をぶちまけただけの『騒音』でしたわ。……でも昨日のあれは、全ての色彩が混ざり合い、一つの強烈な『意味』を持っておりましたの!」
リウの瞳が、熱っぽく潤む。
それは、素晴らしい「尻尾」に出会った時の、感動と独占欲がないまぜになった目だ。
「スープの乳化!脂の甘み!麺のコシ! ……それらが、この『北都の寒さ』という背景と完璧に噛み合って、殴りかかってきましたの!……芸術ですわ。あれはもう、ただの食事ではありません!」
リウは、私をビシッと指差した。
「ナラ様?貴女は『文脈』を読む探偵でしょう?……だったら、見逃してはいけませんわ!一人の男が、泥と脂にまみれながらたどり着いた、この一ヶ月の『物語』の結末を!!」
部屋に、重苦しい沈黙が落ちた。
エラーラは彫刻を磨く手を止めている。
私は、リウの目をじっと見つめ返した。
探る。
瞳孔の開き。呼吸のリズム。フェロモンの質。
こいつは、嘘をついているのか?
私を担いで、笑い者にしようとしているのか?
……いいえ。
嘘の兆候がない。
彼女は、本気だ。
あのお調子者のリウが、私に「共有」しようとしている。
自分が見つけた「美」を。
私の脳裏に、一ヶ月前の記憶が蘇る。
あの店主の目。
私たちが残した丼を下げ、スープを舐め、メモを取っていた、あの真剣な眼差し。
(……まさか、本当に?)
たった、一ヶ月で?
あの不味かった泥水が、芸術と呼べるまでに昇華されたというの?
論理的には、ありえない。
だが、リウのこの態度は、「獣人の尻尾」について語る時の熱量と、同じだ。
つまり、彼女にとって、あのラーメンは「本物」になったということだ。
私の心臓が、トクリと跳ねた。
『食べてみたい』
その欲求が、理性の底から鎌首をもたげる。
尻尾への萌えと同じ、抗いがたい本能。
もし、リウの言うことが本当なら。
私は、何かとてつもないものを見逃したまま、王都へ帰ることになる。
それは、探偵としての、そして何より「美食家」としてのプライドが許さない。
「……お母様」
私は、隣の母に声をかけた。
「……確率論で言えば、彼女が嘘をついている可能性は10%。味覚音痴である可能性が60%。……だが、残りの30%は……」
エラーラが眼鏡を押し上げる。
「『突然変異』だ。……極限の環境が、生物の進化を加速させた可能性は……否定できない」
私たちの意見は一致した。
これは、賭けだ。
この猛吹雪の中、遭難覚悟で店に向かうリスクと、リウの言葉の真偽。
天秤にかける。
リウが、笑った。
いつもの、豪快なお嬢様笑いに戻っていた。
「ま、信じるか信じないかは貴女たち次第ですわよん! ……ただ、もし行かないなら、貴女たちは一生『北都の味』を知らないままだってことだけは、言っておきますわ!」
煽り。
だが、その煽りは私の琴線に触れた。
知らないまま?
私が?
……冗談じゃない。
私は立ち上がった。
コートを掴む。
「……行くわよ、お母様」
「はあ?」
「リウの世迷い言が本当か嘘か、この舌で裁判してやるわ。……それに」
私は、ニヤリと笑った。
それは、事件の臭いを嗅ぎつけた時の、肉食獣の笑み。
「もし不味かったら、リウ。……あんたのこのアトリエの『尻尾のエロ本』、全部焚き火にくべてやるから覚悟しなさい!」
リウは、肩をすくめた。
だが、その目は「やってみなさいまし!」と言わんばかりに輝いていた。
「行ってらっしゃいませ、お姫様たち!……火傷しないようにご注意あそばせ!」
私たちはアトリエを出た。
獣人の尻尾よりも熱く、そして濃い夜が、私たちを待っていた。




