第1話:液体の豚(1)
王都の冬は、退屈だった。
獣病院の二階。ここが、私の部屋。
私は、ナラティブ・ヴェリタス。この街で起きる有象無象の事件を、「文脈」という糸口から解きほぐす探偵だ。
私の生活は洗練されている。朝は挽きたてのコーヒー、昼は行きつけのカフェのガレット、夜は熟成肉とワイン。
無駄なカロリーは摂らない。無意味な汗は流さない。それが私の美学であり、この王都での「正しい」生き方だ。
……だというのに。
最近、私の平穏な日常に、微細な、しかし無視できない奇妙なノイズが混じり始めていた。
きっかけは、風の噂だった。
ここから北へ2000キロ。万年雪に閉ざされた極寒の地、『北都』。
その街の片隅に、奇妙な料理を出す店ができたという。
なんでも、丼の上に茶色い山脈を築き、暴力的なまでのニンニクと脂で客の胃袋を殴打する、「豚」の料理だとか。
「……野蛮ね」
最初に聞いた時、私は鼻で笑って記憶の彼方に追いやった。
美食の都に住む私が、なぜ、わざわざそんなゲテモノに興味を持たねばならない?
だが、人間の脳というのは厄介なもので、「考えるな」と言われたことほど、思考の沼の底の底からじわりじわりと浮き上がってくる。
ある風の強い日。私は依頼の調査で大通りを歩いていた。
突風が吹き、一枚の薄汚れたチラシが、私の顔にペタリと張り付いた。
苛立ちながら顔から剥がし、捨てようとして――手が止まった。
そこには、荒々しい、筆圧の強すぎる文字で、ただ一言。
『豚』
……とだけ書かれていた。
キャッチコピーも、値段も、メニューもない。
ただ、黒々とした墨で書かれたその一文字が、紙面から飛び出し、私の網膜に焼き付いた。
裏面には、北都の地図。
「……何よ、これ……」
私はそれをくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に投げ捨てた。
デザインセンスの欠片もない。
だが、捨てた後も、その「豚」の残像が消えなかった。
あの文字の勢いから、私は勝手に想像してしまったのだ。
煮えたぎる寸胴。白濁したスープ。空中に舞う油滴。
それは、私が普段口にしている洗練された料理にはない、「生々しい生命力」の塊のように思えた。
その夜。行きつけの酒場でのことだ。
隣の席で、北都帰りの冒険者たちが飲んでいた。彼らは顔色が悪く、どこかやつれていたが、その瞳だけは異様にギラついていた。
「……あそこのラーメンは、やばかったぜ」
悪口だ。当然だろう。
私はワインを傾けながら、内心で同意した。
だが、彼らの会話はそこで終わらなかった。
「でもよぉ……なんか、夢に出るんだよな。あの臭いが」
「わかる。……ふとした瞬間に、口の中があの塩辛さを求めて震えるんだ」
「禁断症状かよ。……また、行くか?」
「ああ。……次は『野菜マシ』で頼むわ」
彼らは不満をこぼしながら、まるで恋する麻薬中毒者のような目で北の方角を見ていた。
苦痛なのに、求めてしまう?
私の探偵としての理性が警鐘を鳴らすと同時に、本能が、鎌首をもたげた。
そこには、論理を超えた「何か」がある。
人間の理性を破壊し、獣の本能を呼び覚ますような、恐るべき「豚」が。
それからの私は、徐々におかしくなっていった。
エラーラが積み上げた研究資料の山を見ると、それが「茹でられたモヤシ」に見えた。
実験用のホルマリン漬けの標本を見ると、それが「スープに浸かった角煮」に見えた。
街でニンニクの匂いがすると、無意識に北の方角を向いて深呼吸している自分がいた。
「……ナラ君?最近……様子がおかしいぞ」
ある日の夕食時。エラーラがナイフを置き、私を訝しげに見た。
私は、目の前のステーキを見つめたまま、上の空で答えた。
「……足りないのよ」
「肉がか?」
「豚よ……」
「……はあ?」
私はステーキを切った。
柔らかい。美味しい。でも、違う。
私が求めているのは、これじゃない。
もっと暴力的で、下品で、食べた瞬間に「身体に悪いな」と脳が警報を鳴らすような、背徳的な豚。
まだ見ぬ『豚』。
食べたこともないのに、私の舌は、その架空の味をシミュレートし、勝手に渇望していた。
極太の麺をワシワシと噛み砕き、濃すぎるスープで流し込む快感。
想像するだけで、奥歯が浮き、唾液が溢れてくる。
(……認めるわ。私は、狂っている)
私は、王都の洗練された空気に窒息しかけていた。
綺麗すぎる。正しすぎる。
私は今、泥にまみれたい。
極寒の地で、熱々のカロリーを摂取して、生きている実感を噛み締めたい。
そんな極限状態の私の元に、エラーラが旅行鞄を持って現れた。
「ナラ。来週から一ヶ月、北都へ出張だ。古代遺跡の調査依頼が来た」
その言葉を聞いた瞬間、私の世界から色が消え、ただ一点、北の方角だけが赤く輝きだした。
「……北都?」
「ああ。マイナス15度の極寒の地だ。調査は過酷を極めるだろう。留守番を頼む」
私は、グラスの中のブランデーを一気に飲み干した。
喉が焼ける。だが、この熱さでは、足りない。
「……私も行くわ。」
私は立ち上がった。
その声は、震えていた。恐怖ではない。獲物を見つけた豚の武者震いだ。
「ほう?君が寒冷地任務を志願するとは。珍しいな」
「勘違いしないで、お母様」
私は、窓の外、北の空を睨みつけた。
そこには、私を狂わせた「見えざる豚」が待っている。
「……ちょっと、確認したい『豚』ができただけよ。……私の平穏を乱した落とし前、きっちり胃袋につけさせてやるわ」
「……はあ?」
こうして私は、全く興味がなかったはずのその店へ、自らの意志で、というよりは何かに憑かれたように向かうことになったのだ。
北都への旅路は、最新鋭の魔導飛行艇を使っても3時間を要した。
窓の外は一面の銀世界。いや、白すぎて地面と空の境界すらわからない。
着陸した瞬間、機体は猛烈なブリザードに包まれた。
外気温マイナス15度。体感温度はマイナス30度近い。
私たちは市街地のホテルに荷物を置いた。本来なら、温かい暖炉の前でスープでも飲んで、翌日の調査に備えるべきだ。
「さて、お母様。……仕事の前に、豚よ」
私は防寒コートの襟を立て、ゴーグルを装着した。
「豚?」
「腹ごしらえよ。……あそこに行かなきゃ」
「……」
私は地図を広げた。
『豚』の店は、ここから徒歩20分。
たった、20分。王都なら軽い散歩だ。だが、この視界ゼロの吹雪の中では、それは「死の行軍」を意味していた。
「正気か?この天候だぞ?あまりにも非論理的だ!」
「ダメよ!……今、行かなきゃ、私の『豚』が死ぬの!」
私はエラーラの手を引き、ホテルのロビーを飛び出した。
風が、ハンマーのように体を叩く。
雪が、礫のように顔に当たる。
一歩進むごとに、体力が削り取られていく。
「ナラ!方向感覚が狂うぞ!方位磁石を見ろ!」
「うるさいわね!豚の匂いを辿れば着くわよ!」
私は、幻覚の中の『豚』を頼りに、雪をかき分けて進んだ。
遭難寸前。指先の感覚がない。
なぜ、ここまでするのか。
自分でも、わからない。ただ、あの「茶色い山」を登頂しなければ、私は私に戻れない気がしたのだ。
永遠にも思える時間の果てに、私たちはついに、その店にたどり着いた。
潜水艦のハッチのように重厚な鉄扉。
その横で、雪に埋もれながらも、禍々しいネオンがチカチカと点滅している。
『豚』
やっと会えた。私の恋人、そして、私の敵。
扉を開ける。
熱気。湿気。そして、夢にまで見た濃厚な獣臭が、冷え切った顔面を直撃した。
「らっしゃい!」
厨房から響く野太い声。
店主は、若い男だった。半袖一枚で、汗を流しながら寸胴と格闘している。
私たちは、震える手で食券を買い、カウンターの隅に座った。
「……豚」
「私は……少なめで頼む」
数分後。
カウンターが揺れるほどの衝撃と共に、それは現れた。
丼の上に築かれた、茶色い山脈。
想像していた通りの、いや、想像以上の暴力的なビジュアル。
「……ほう?これは、遭難対策の備蓄食料かね?」
エラーラが目を丸くする。
私は、震える手で割り箸を割った。
ついに。
ついにこの時が来た。私の妄想が、いよいよ現実に上書きされる瞬間。
私はスープを一口、啜った。
「……っ」
私は、動きを止めた。
舌の上に広がる味。
それは……。
不味かった。
いや、腐っているわけではない。
バランスが、崩壊していた。
醤油の塩分が尖りすぎていて、舌が痺れる。豚骨の旨味よりも、焦げ付いたような苦味と臭みが前面に出ている。
麺を引っ張り出す。硬い。コシがあるというよりは、ただ茹で時間が足りないだけのような、粉っぽい芯が残っている。
そして何より、大量に乗せられた冷たい野菜が、スープの温度を奪い、全体をぬるく、ぼやけた味にしていた。
苦い。
全体的に、苦い。
私は、深く落胆した。
この一杯は、ただ、叫び声のような塩辛さと、気負いすぎた暴力性が空回りしているだけの「未熟な豚」だった。
私が夢見ていた、脳を溶かすような背徳的な旨味は、そこにはなかった。
「……これは、塩化ナトリウムの致死量実験か何かかね?」
隣のエラーラも、一口食べて箸を止めていた。
私は、はっきりと、がっかりした。
王都からの飛行、雪山の行軍、そして数ヶ月の妄想。
その報酬が、これか。
私は残そうとして、ふと厨房の中を見た。
店主は、客が残した丼を見て、舌打ちをしたり、怒ったり……していなかった。
彼は、私たちが残した丼を下げると、そのスープを指で舐め、首を傾げ、眉間に皺を寄せていた。
そして、ボロボロのメモ帳を取り出し、何かを必死に書き殴っていた。
その目は、真剣だった。
自分の未熟さを認め、何が悪いのか、どうすれば届くのかを必死に探ろうとする、「学ぶ者」の目。
(……へえ)
私は、席を立った。
不味かった。二度と来ないレベルだ。
でも、あの目を見たら、罵倒して帰る気にはなれなかった。
彼はまだ、旅の途中なのだ。私たちが「遺跡の回廊」を目指すように、彼もまた「豚の頂」を目指している。
「……ごちそうさま」
「ありがとうございました!」
店主の声は、吹雪に負けないくらい大きかった。
私たちは店を出て、再び極寒の世界へと戻っていった。
私の胃袋は満たされなかったけれど、胸の奥に刺さっていた「豚」は、少しだけ抜けた気がした。




