第3話:Rising
主題歌:真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ/RISING
https://youtu.be/bCRelEkQjw0?si=dQEpq9V5VQdbsQpU
時計塔の内部は、巨大な歯車と振り子が飛び交う迷宮だった。私たちは螺旋階段を駆け上がる。
「遅いわよ!」
ナラが前を走る。彼女も息が上がっているはずなのに、その背筋は伸びたままだ。時折、影から飛び出す小さな歯車の怪物を、彼女は踊るように蹴り飛ばす。
「あんた……なんで……そんなに……戦えるの……?」
私は途切れ途切れに聞いた。
「怖く……ないの……?」
「怖い?」
ナラは階段の手すりを飛び越えながら笑った。
「怖いわよ。いつだって死ぬのは怖い。……でもね、恐怖に屈して立ち止まるのは、もっと怖いのよ」
彼女は言った。
「あたしは一度、社会の掃き溜めで死んだようなものだった。……だから、二度とあんな場所には戻らない。前に進むことだけが、あたしのプライドなの」
彼女の過去に何があったのかは知らない。 でも、その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
私もそうだ。夢を諦め、ただ死ぬのを待つだけの毎日。それは「生きている」と言えるのか? 恐怖に屈して、挑戦することをやめた私は、もう何十年も前に死んでいたのではないか?
「……そうね」
私は歯を食いしばった。
「私も……戻りたくない……!あの灰色の店には……戻りたくない!!」
私は残った力を振り絞り、駆け出した。老朽化した魂から、錆びついた殻が剥がれ落ちていく音が聞こえた気がした。
ついに最上階へたどり着いた。そこは屋根がなく、直接夜空と繋がっていた。三つの月が、不気味な光で私たちを照らしている。
行き止まりだ。
「……ナラさん、道がないわ!」
私は絶望して叫んだ。
「道ならあるわ」
ナラは塔の縁に立ち、遥か下の――あるいは遥か上の空を指差した。
「飛ぶのよ!」
「はぁ!?」
「重力係数が反転してるポイントがある。そこへ飛び込めば、元の世界へ戻れる……はず」
「はずって何よ!失敗したらどうなるの!」
「その時はその時よ。」
ナラは私に向かって手を差し伸べた。
「さ、手を出して。おばさん」
「……マーサよ」
私は言った。
「マーサ。……かつて一番の踊り子になりそこねた女よ」
「そう。いい名前ね、マーサ」
ナラは初めて、心からの笑顔を見せた。
「あたしはナラ。……ナラティブ・ヴェリタス。お母様の自慢の娘よ」
私たちは手を握り合った。彼女の手は、驚くほど熱かった。
背後から怪物が迫る。私たちは目を見合わせ、頷いた。
「せー……のっ!!」
私たちは、夜空に向かって跳んだ。重力が消える。内臓が浮き上がるような感覚。視界いっぱいに広がる星空と、歪んだ時計の文字盤。
気がつくと、私たちは世界の「裏側」に浮いていた。上も下もない。重力も空気抵抗もない。あるのは、目が痛くなるほどの極彩色と、鼓膜を震わせる轟音だけ。
「……なに、これ……」
私の声は、真空の中に吸い込まれて消えた。目の前に広がっていたのは、言葉で表現するなら「万華鏡の暴走」だった。幾何学模様の光が渦を巻き、明滅し、形を変えながら私たちに襲いかかってくる。それは、生き物というよりは、巨大な「現象」そのものだった。
「おばさん、瞬き厳禁よ?」
ナラの声だけが、鮮明に脳内に響いた。彼女は私の手を離し、光の渦の中心へと躍り出た。黒いドレスが、極彩色の空間の中で唯一の「影」となり、鮮烈なコントラストを描く。
「さあ、フィナーレよ!アンタたちが食らい尽くそうとしているこの世界はね、確かに退屈で、どうしようもない掃き溜めかもしれない!」
ナラが鉄扇を開く。その一振りで、襲いかかる光の波が物理的に「斬り裂かれ」た。
「でも!そこには美味しいコーヒーがあって、ふてぶてしい猫がいて、そして……必死にシミ抜きをしているマーサがいるのよ!」
「……えっ?」
私のこと?今、この世界の命運をかけた戦いの中で、私の話をした?
「そんな愛すべき混沌を、アンタたちみたいな無味乾燥な『秩序』に塗りつぶさせてたまるもんですか!」
ナラが舞う。それは、戦闘ではなかった。演舞だった。彼女がステップを踏むたびに、空間に赤い花が咲き乱れる。敵が放つレーザーのような閃光を、彼女は紙一重でかわし、あるいは鉄扇で受け流し、そのエネルギーを利用してさらに加速する。
私はただ、漂いながらそれを見ていた。 美しい。 理屈抜きに、そう思った。敵が何なのかわからない。なぜ戦っているのかもわからない。私たちがどうやって呼吸しているのかさえわからない。伏線?論理?因果関係?そんなものは、この圧倒的な「美」の前では無意味だった。
私の灰色の人生において、こんなにも、鮮烈な色彩を見たことがあっただろうか。 アイロンの蒸気の向こう側には、こんな景色が広がっていたのか。
「見なさい、マーサ!これが『生きる』ってことよ!」
ナラが叫んだ。彼女は敵の中枢に向かって、一直線に突っ込んでいく。
「一流のレディはね、幕引きのタイミングさえも支配するのよぉッ!」
閃光。
視界が白く染まる。私は目を閉じることさえ忘れて、その光に焼かれた。熱い。でも、痛くない。それは、凍りついていた私の魂を解凍する、生命の熱波だった。
・・・・・・・・・・
「……さん。……ーサさん!」
誰かに肩を揺すられて、私は目を開けた。そこは、王都の中央公園だった。朝日が昇り始めている。芝生は朝露に濡れ、小鳥がさえずっていた。
「あ……れ……?」
私は自分の身体を確かめた。 手足はある。血も出ていない。服はボロボロで泥だらけだが、怪我一つしていなかった。
「無事かね、マーサさん!」
目の前に、茶色のコートを着た中年の刑事が立っていた。カレル・オータム刑事だ。彼は私の手を取り、感極まったように何度も上下に振った。
「素晴らしい!実に素晴らしい活躍だったよ! 君たちが『事象の地平線』で特異点として観測されなければ、王都は丸ごと亜空間に消滅していたところだ!」
「は、はぁ……」
何を言っているのかさっぱりだった。
特異点?亜空間?
私はただ、悲鳴を上げて逃げ回っていただけなのに。
「特に、あの最後の『共振』だ!君の持つ平凡な日常への執着心が、ナラ君の魔力と化学反応を起こし、敵の演算処理をオーバーフローさせたんだ!いやはや、お手柄だよ!」
カレル刑事は満面の笑みで、私の背中をバンバンと叩いた。 周りを見渡すと、警備隊の人々が私たちに向かって拍手を送っていた。 遠くでは、早起きの市民たちが「何事か」とこちらを見ている。
私は隣を見た。 ナラが立っていた。 彼女もまた、無傷だった。黒いドレスには埃一つついておらず、涼しい顔で鉄扇をあおいでいる。
「……ふん。当然の結果ね」
ナラはカレルの賛辞を軽く受け流した。
「あたしとマーサのコンビにかかれば、世界の危機なんて朝飯前よ」
「……コンビ?」
私が聞き返すと、ナラはニヤリと笑った。
「そうよ。一夜限りの、最悪で最高のコンビ。……悪くなかったわよ?」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。胸の奥から、こみ上げてくるものがあった。それは……「達成感」なんて言葉では足りない。わけがわからないけれど、私たちは勝ったのだ。あの灰色の怪物に。退屈な日常に。そして、諦めていた私自身に。
「う……うぅ……」
涙が溢れてきた。
怖いからじゃない。痛いからでもない。
ただ、嬉しかった。
この歳になって、泥だらけになって、誰かに「悪くなかった」と認められたことが。
カレル刑事が事後処理のために部下の元へ去った後、ナラもまた、踵を返した。
「さて、帰らなきゃ!お母様が朝食を作って待ってるはずだから」
彼女は何事もなかったように、日常へ戻ろうとしている。まるで、通り雨が止んだ後のように。
「ま、待って!」
私は呼び止めた。
ナラが振り返る。朝日に照らされたその姿は、神々しいほど美しかった。赤い瞳。透き通るような肌。傲慢で、優しくて、力強いその立ち姿。
私の心臓が、大きく跳ねた。
これは何?吊り橋効果?それとも恐怖の余韻?
いいえ、違う。
私は彼女を見つめたまま、立ち尽くした。私は、彼女になりたいわけじゃない。あんなふうに強く生きたいとは思うけれど、彼女そのものになり代わりたいわけじゃない。彼女を独占したいわけでもない。彼女には彼女の世界があり、私には私の世界がある。母親のように世話を焼きたいわけでもない。性的な意味で触れたいわけでもない。
ただ。
ただ、彼女がこの世界に存在しているという事実が、どうしようもなく嬉しい。彼女が笑うと、私の世界が色づく。彼女が歩くと、その足跡さえも愛おしい。
ああ、そうか。
これが「恋」か。
48歳にして、私は初めて知った。
恋とは、相手をどうこうしたいという欲望ではない。「心が震える」という現象そのものの名前なのだ。
性別も、年齢も、立場も関係ない。私は、ナラ・ナラティブ・ヴェリタスという圧倒的な光に焦がれ、その光に照らされた自分の影さえも……愛おしく思えるようになったのだ。
「……なに?まだ何か用?」
ナラが首を傾げる。
私は涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。
かつて夢見た踊り子のように、背筋を伸ばして。
「ありがとう、ナラさん!あなたのおかげで、素敵な週末だったわ!」
ナラは一瞬、きょとんとした顔をした。 それから、ふっと優しく微笑んだ。
「……またね、マーサ!シミ抜き、頑張りなさいよ!」
彼女は片手を上げ、朝靄の中へと歩き去っていった。私はその背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。胸のドキドキは、まだ止まらない。 この鼓動がある限り、私はもう大丈夫だと思った。
・・・・・・・・・
翌日の月曜日。
「白鳥舎」のドアベルが鳴った。
「ちょっと!どうなってるのよこれ!」
婦人が、またあの大声で怒鳴り込んできた。カウンターに叩きつけられたシルクのブラウス。そこには、赤ワインのシミが、うっすらと残っていた。
「約束したわよね?夕方までに落とすって!これじゃ……もーっ!着られないじゃない!」
婦人の顔は怒りで真っ赤だ。いつもなら、私は縮こまって謝罪し、言い訳を考えただろう。
でも、今日の私は違った。
「奥様。そのシミは、昨夜のパーティが楽しかった証、でしょう?」
「はあ……?」
婦人が口を開けて固まる。
「どんなに強力な薬品でも、消えない思い出、というものがあります。……世界に一つだけの、あなたの人生の、色ですよ──!」
私の言葉に、婦人はパクパクと口を動かし、やがて毒気を抜かれたようにため息をついた。
「あんた……なんか、変なこと言うようになったわね。まあいいわ、普段着にするから、少し安くしなさいよ」
「ええ喜んで。サービスしておきます」
婦人が帰った後、私は作業台に戻った。窓の外を見る。空は相変わらずどんよりとした曇り空だ。 でも、私の目には、雲の隙間から差す一筋の光が見えていた。
現実は何も変わっていない。けれど、私の心の中には、あの夜の極彩色の光景と、黒いドレスの少女が焼き付いている。
私はアイロンを握った。
私の恋は、誰にも言わない。 叶うこともないし、叶えるつもりもない。ただ、この胸のポケットにしまっておくだけで、私は残りの人生を、背筋を伸ばして生きていける気がした。
「さて……!」
私は鼻歌を歌いながら、次のシャツをプレスした。それは、ナラが戦っていた時に流れていた、あの美しい金属音のリズムに、少しだけ似ていた。




