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ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
青春は嵐のように
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第2話:灰色の日常に迫る危機(2)

「走って! おばさん、足が止まってるわよ!」


夜の裏路地。黒いドレスの女――ナラと名乗った彼女が、私の手首を掴み、ぐいぐいと引っ張っていく。私の足はもつれ、ハイヒールの片方はとっくにどこかへ飛んでいった。泥水がストッキングに染み込み、冷たさと不快感が這い上がってくる。


「まっ……待って……もう、無理……!」


私は喘ぎながら、ゴミ箱に手をついた。心臓が早鐘を打つどころか、肋骨を蹴破って飛び出しそうだ。


「無理?一流のレディが弱音を吐くなんて見苦しいわね」


「私は……レディじゃ……ない……クリーニング……屋……」


「そ。じゃあ、ここで『シミ』になる?あの屑鉄たちに踏み潰されて、道路の汚れになりたいなら置いていくけれど」


ナラが顎で示した後方。路地裏の闇が、ザワザワと波打っていた。先ほどの銀色の怪物だけではない。街灯、郵便ポスト、捨てられた雨傘――そういった「日常」の物体が、次々と手足を生やし、ギチギチと不快な音を立てて、「非日常」の怪物になって、私たちを追いかけてきているのだ。


「な、なんなのよアレ……!私が何をしたっていうの!?」


「何もしてないわよ?ただ『運が悪かった』。それだけ」


ナラは涼しい顔で言い放った。運が悪かった。たったそれだけの理由で、私の人生が終わるのか。


「この一帯の『空間』がズレたのよ。アンタ、『裂け目』の空気を吸い込んだでしょう? だから奴らはアンタを『餌』だと認識してる」


「い、意味が、わからない……!」


「わからなくていいわ。あたしも詳しくは知らないもの」


彼女は悪びれもせず言った。詳しくは知らない。なのに、彼女はこの異常事態の中を、まるで庭の散歩でもするように迷いなく進んでいく。


「さあ、行くわよ」


彼女が再び私の腕を引く。私はよろめきながら、その背中を追った。恐怖で足がすくむ。けれど、不思議なことに、私の身体の奥底で、何かが熱く疼いていた。それは、恐怖によるアドレナリンだけではない。「わからないもの」に巻き込まれ、「わけのわからないまま」走らされている。明日の仕事のことや、腰痛のことや、老後の貯蓄のことなんて、考える暇もない。


「この瞬間」、私はただ「生きる」ためだけに、全神経を研ぎ澄ませている。


それはまるで、泥にまみれた洗濯物が、激しい水流の中で揉みくちゃにされながら、汚れを落としていくような感覚だった。

王都の大通りに出たはずだった。しかし、私の知っている大通りではなかった。


「……空が……」


見上げた夜空には、月が三つ浮かんでいた。 いや、違う。それは巨大な時計の文字盤のようにも見えるし、誰かの瞳のようにも見えた。建物は歪み、石畳の道はねじれ、空へと続いていた。


「見ないで。酔うわよ」


ナラが私の目を手で覆う。


「『結界』の中に入り込んだみたいね。……チッ、面倒なこと」


風を切る音がして、街灯の怪物たちが襲いかかってきた。ナラは私の目を覆ったまま、もう片方の手の鉄扇でそれを弾き返す。金属音が音楽のようにリズミカルに響く。


「おばさん、頭を下げて!」 


言われるがままにしゃがみ込むと、私の頭上数センチを、鋭利な刃物と化した看板が通り過ぎていった。髪の毛が数本、削ぎ落とされる。


「ひっ!?」


「いい悲鳴ね。生存本能が刺激されている証拠よ」


ナラは楽しそうに笑った。この状況で笑えるなんて、どうかしている。でも、その横顔は、スポットライトを浴びた女優のように美しかった。


「ねえ、あなた……どうして私を助けるの?」


走りながら、私は問うた。


「私はただのおばさんよ……お金もないし、コネもない。助けたって一銭の得にもならないわ」


ナラは一瞬、足を止めたわけではないが、視線を私に向けた。その赤い瞳が、私の薄汚れたコートと、疲れた顔を射抜く。


「あたしの『お母様』がね、よく言うのよ」


「お母様?」


「よくわからないけど、『全ての事象には観測者が必要だ』ってね。……アンタみたいな、平凡な人間が、こういう非日常を目撃する。それが世界にとって必要な『揺らぎ』になるらしいわ」


「……バカにしてる?」


「いいえ。褒めてるのよ。アンタのその『日常』が、今は役に立つの」


意味不明な理屈だった。

でも、彼女の言葉には、不思議な説得力があった。私は「空っぽ」だ。毎日同じ時間に起き、同じ仕事をし、同じスープを飲む。中身のない、灰色の容器。 だからこそ、今、この強烈な「色彩」が、私の中にドボドボと注ぎ込まれているのを感じる。


「それにね」


ナラはふと、優しく囁いた。


「泥の中に沈んで死ぬのは、あたしの美学に反するの。……死ぬなら、もっとマシな場所で死になさい」


その言葉に、私は不覚にも──胸を打たれた。マシな場所。そうね。裏路地のゴミ箱の横なんて、御免だわ。どうせ死ぬなら、舞台の上で死にたい。かつて夢見た、あの煌びやかな舞台の上で。


「……わかったわよ。走ればいいんでしょ、走れば!」


私は脱げかけていたもう片方のハイヒールを脱ぎ捨て、裸足になった。石畳の冷たさが、ダイレクトに、足裏に伝わる。痛い。でも、その痛みが私を現実に繋ぎ止める。私は地面を蹴った。48歳、裸足の逃走劇。これが私の「青春」だなんて、笑い話にもならないけれど。


その時、空間がバリバリと音を立てて裂けた。 前方の空間に、突然「ドア」が現れたのだ。何もない空中に、白いドアが。


「おやぁ?座標計算にズレが生じたか。……ここはまだ第三層じゃないか」


ドアが開き、中から白衣を着た女性が顔を出した。 銀色のボサボサ髪に、青い瞳。片手には試験管、もう片手には猫のぬいぐるみを抱えている。 年齢不詳だが、その立ち居振る舞いには、ナラとはまた違った種類の「圧」があった。


「エラーラさん!早く閉めてください!後ろから『アレ』が来てますよ!」


女性の後ろから、中学生くらいの少年が悲鳴を上げながら飛び出してきた。彼はなぜか、学校の掃除用具入れにあるようなモップとバケツで武装していた。


「な、なんなの……今度は何!?」


私が叫ぶと、ナラが嫌そうな顔をした。


「……ゲッ。お母様」


「おや?ナラ君じゃないか。奇遇だねぇ。ピクニックかい?」


白衣の女――ナラが「お母様」と呼んだ人物――は、この異常な風景を見ても眉一つ動かさなかった。 それどころか、私のことを見て目を輝かせた。


「ほう!また見事な『モブキャラ』だねぇ!その疲れ切った表情、生活感あふれる服装、そして騒動に巻き込まれたことへの困惑!素晴らしいサンプルだねぇ!」


「さ、サンプルって……」


「失礼ですよエラーラさん!あ、すみませんおばさん!大丈夫ですか!?」


モップを持った少年が、私を気遣ってくれる。このカオスの中で、唯一の常識人に見えた。


「ナラ君、そこの一般市民を守りたまえよ?彼女の観測データは、この結界を解除する『鍵』になるかもしれん」 


「言われなくてもやってるわよ!お母様こそ、余計な実験で世界を壊さないでよね!」


「失敬な。私は修理しているんだよ。……おっと、来たようだね?」


白衣の女が指差した方向から、先ほどの食器の怪物たちが、今度は壁のように押し寄せてきた。 数百、いや数千のフォークやスプーンの波。


「ひぃぃぃッ!」


私は腰を抜かしそうになった。


「ゴウ君、カバンから『KR‐13』か『K‐16』を出したまえ!」


「えっ、あの爆発するやつですか!?」


「爆発はしない!……多分な!」


白衣の女が、少年の差し出した紫色の瓶を受け取り、怪物たちの群れに向かって放り投げた。瓶が割れた瞬間、空間が紫色に染まり、甘ったるい匂いが爆発した。

押し寄せていた怪物たちが、一瞬にして巨大な紫色のスライムの中に閉じ込められ、動きを止めた。


「……すごい」


私は呆然と呟いた。魔法?科学?それとも悪夢?


「粘着力には自信があってね!さて、長居は無用だ!ナラ君、出口は『一番高い場所』だ。重力に逆らって走りたまえ!」


白衣の女はそう言い残すと、少年と共に、再び空中のドアへと戻っていった。


「あ、あの!頑張ってくださいねー!」


少年の声と共に、ドアは消滅した。

嵐のように現れ、嵐のように去っていった二人。 名前も知らない。何者かもわからない。 けれど、彼らが開いてくれた道は、確かにそこにあった。


「……相変わらず、人使いが荒いんだから」


ナラはため息をつき、鉄扇で肩を叩いた。


「聞いたわね!目指すは『一番高い場所』よ」


「一番高い場所って……」


私は周囲を見回した。 歪んだ街の中で、一つだけ天を突くようにそびえ立つ建物があった。王都の時計塔だ。しかし、今のそれは螺旋状にねじれ、雲を突き抜けて遥か上空へと伸びていた。


「登るの?…無理よ!私の膝が爆発するわ!」


「爆発したら治してあげるわよ!……私じゃなくて、お母様が。……行くわよ!」


ナラが走り出す。私は……。一瞬、ためらった。紫色のスライムの中でもがく怪物たちを見る。後ろに戻れば、日常に戻れるのだろうか?いや、帰る場所なんてない。だったら、前へ進むしかない。わからないものの正体を知るために。そして、この奇妙な夜の結末を見届けるために。


「……くそっ!待ちなさいよ!」


私は叫び、裸足で地面を蹴った。泥が跳ねる。息が切れる。心臓が痛い。 でも、不思議だ。 何十年も感じていなかった「若さ」のようなものが、血管の中を駆け巡っていた。それは肌のハリとか、体力の話ではない。


「明日がどうなるかわからない」というスリル。


「自分が何者かになれるかもしれない」という予感。


それが青春というものなら、48歳の私にも、まだその資格はあるのかもしれない。

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