第1話:灰色の日常に迫る危機(1)
私の人生は、使い古した洗濯槽の底に溜まった水のようだと思った。濁っていて、少し泡立っていて、どこか、カビ臭い。そして、回転を止めた後は、ただ、排水溝へと吸い込まれていくだけの、意味のない液体。
「ちょっと?聞いてんの?ここよここ!このシミ、まだ落ちてないじゃない!」
カウンター越しに突きつけられたシルクのブラウス。その胸元に咲いた赤紫色の花を、私は老眼鏡の縁越しに見つめた。客はどこかの町工場の社長婦人だ。こういう人は、着るものだけは貴族の真似事をしたがる。
「奥様、これはもう繊維の奥まで色素が食いついています、これ以上強い薬剤を使うと……」
「あらやだ言い訳?高ッかい料金を取っておいて?それじゃ詐欺だわ!」
私は喉まで出かかった言葉を、唾と一緒に飲み込んだ。
『昨夜、学生たちの飲み会に乱入して飲みすぎたあなたが、悪いんでしょう。だいたいその年齢で……』
そんな正論は、私の時給には含まれていない。
「申し訳ありません。もう一度処理してみます」
「最初からそうおっしゃいな。明日の夕方までによ。夫との観劇があるんだから」
ドアベルが鳴り、婦人が出ていく。後に残ったのは、静寂と、湿った蒸気の匂いと、私の腰を這い回る鈍い痛みだけ。
私は48歳。王都の下町にあるクリーニング店「白鳥舎」の雇われ店員。独身。特技は……頑固な脂汚れを落とすこと。趣味は、痛む腰をさすりながら、安売りのスープ用野菜を選ぶこと。かつて、本当に「白鳥」になりたかった頃の夢は、もう……思い出せないほど遠い。
「……ふぅ」
ため息をつくと、幸せが逃げるという。私の幸せは、もうとっくに逃げ出して、どこか別の国へ亡命してしまったに違いない。私は作業台に戻り、重たい業務用のアイロンを握った。
世界が滅びようが、魔王が復活しようが、明日の夕方までにこのワインのシミが消えていなければ、私は婦人から怒鳴られる。それが私の世界の全てなのだから。
作業場のラジオから、ノイズ混じりのニュースが流れている。
『――昨夜未明、第七地区の地下水路にて爆発音が確認され……警備隊は……』
私は周波数を変えた。軽快な流行歌が流れる。若い歌手が愛だの恋だのを歌っている。
「愛してる」
……なんて言葉、最後に聞いたのはいつだっただろう。そうだわ。三年前、近所の犬が私に吠えた時、飼い主が「ごめんね、ポチは人が大好きなのよ」と言った時だ。
犬は言った。
「ワン」
ワン。
……あれは愛の告白に含まれるのだろうか。
夕方5時。店主が欠伸をしながら顔を出した。
「マーサさん、あとは頼むよ。俺、ちょっと寄合、あるから」
「はいお疲れ様です」
寄合というのは建前で、裏通りの賭博場に行くのを私は知っている。でも、何も言わない。波風を立てるエネルギーが、私にはもう、残っていないから。
日が暮れると、雨が降り出した。予報通りの冷たい雨だ。私は店の看板をしまい、傘を開いて石畳の道を歩き出した。
通り過ぎるショーウィンドウに、猫背の女が映る。顔のシワは年々深くなり、目尻は下がっている。昔、劇場の踊り子を目指していた頃の私は、鏡を見るのが好きだった。スポットライトを浴びて、華やかに舞う自分を想像していた。でも、足を壊して、夢を諦めて、気付けばこのザマだ。
「……何か、起きないかしら」
独り言が、口をついて出た。それは、少女のような夢見がちな願いではない。もっと破滅的で、投げやりな願いだ。隕石でも落ちてきて、この退屈な日常を、シミだらけの私の人生を、跡形もなく消し飛ばしてくれれば、それでいいのに。そうすれば、明日のシミ抜きも、腰痛も、孤独な老後への不安も、全部、チャラになる。
路地裏に入った。ゴミ箱の陰で、野良猫が何かを漁っている音がする。ゴミ箱が、奇妙なリズムで揺れていた。
「……猫ちゃん?」
返事はない。ただ、湿った空気が、急に生臭くなった気がした。鉄の錆びた匂いと、腐った肉の匂いを混ぜて、香水を振りかけたような、不快な甘ったるさ。
私は傘を握り直した。これは、関わってはいけない。長年の勘がそう告げている。私は踵を返し、早足でその場を去ろうとした。
その時だ。
私のすぐ横の建物の壁から、何かが噴き出した。 爆風が、私の身体を木の葉のように吹き飛ばす。 視界がぐるりと回転し、私は泥水の中に叩きつけられた。
「……ぅ、あ……」
耳鳴りがする。キーンという高い音が、思考を白く塗りつぶしていく。痛い。腰が、膝が、全部が痛い。何?ガス爆発?テロ?
埃と雨が混じり合う煙の向こうで、瓦礫がガラガラと崩れる音がした。私は霞む目で、その光景を見た。
私のいつもの帰り道である、何の変哲もないレンガ造りの倉庫。その壁に、巨大な風穴が開いている。そして、その穴から「何か」が這い出そうとしていた。
それは、巨大な……食器だった。いや、違う。銀色の金属でできた、蜘蛛のような、でも手足がフォークやナイフのように鋭利な、わけのわからないオブジェのような怪物。大きさは馬車ほどもある。関節がありえない方向に曲がり、ギチギチと不快な音を立てていた。
「な……なに……?」
理解が追いつかない。夢を見ているのだろうか。それとも、私が吸い込んだアイロンの蒸気が幻覚を見せているのか。怪物の「顔」らしき部分にある赤い光が、泥にまみれた私を捉えた。
殺される。
直感した瞬間、身体が凍りついた。声も出ない。 私の「何も起きない人生」は、こんなわけのわからない銀色の化け物に串刺しにされて終わるのか。まあ、それもまた、私らしい惨めな最期かもしれない。
怪物が鎌のような前足を振り上げた。 私は目を閉じた。
カァァァァンッ!!
硬質な、美しい音が響いた。肉が裂ける音ではない。鉄と鉄がぶつかり合い、火花を散らす音だ。
私は恐る恐る目を開けた。
怪物の振り下ろした刃を受け止めていたのは、一本の「鉄扇」だった。そして、それを優雅に構えて立っているのは、一人の若い女性だった。
黒いドレス。雨に濡れて艶めく黒髪。泥だらけの路地裏にはあまりにも不釣り合いな、夜会にでも出るような装い。彼女の背中は、私の震える視線の前で、驚くほど凛と張り詰めていた。
「……まったく。一流のレディの通り道を塞ぐなんて、無粋な屑鉄ね」
透き通るような声。彼女は手首を軽く返すと、私の体重ほどもありそうな怪物の腕を、いともたやすく弾き飛ばした。
怪物がたたらを踏む。黒いドレスの女は、私の方をちらりと振り返った。
赤い瞳。その目は、燃えるようなルビーの色をしていた。私を見て、彼女はふっと口元を緩めた。安心させるような笑みではない。これから始まる舞踏会を楽しむような、好戦的で、傲慢で、とてつもなく──美しい笑みだった。
「おばさん。特等席で観劇なんて、いい趣味してるじゃない?」
彼女は鉄扇をパチリと閉じた。その仕草が、私の記憶の底にある「踊り子」のイメージと重なった。いや、違う。私がなりたかったのは、こんなに強くて、気高い生き物……だったか?
「……さ。ダンスの時間よ」
彼女が地を蹴った。泥水が跳ね、黒いドレスが夜の闇に溶けるように舞う。私の灰色の日常が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。




