第2話:売買差益で国を売れ(2)
『損益分岐点』
ミラーの言葉の意味を、ナラは瞬時には理解できなかった。
ミラーは立ち上がり、ポケットから何かを取り出した。
それは、殺されたテオが持っていたと思われる、金の懐中時計だった。
「経済の話をしましょう、探偵さん」
ミラーは時計を揺らしてみせた。
「ヴァルガスの攻撃でクレストが崩壊した時、政府は『預金封鎖』を行った。僕の口座にあった退職金も、娘の手術費のための貯金も、全て凍結された。引き出せたとしても、インフレで紙屑だ」
ミラーの娘は、重い心臓病を患っていたという。
特効薬は海外製で、購入には安定通貨の「ヴァルク」が必要だった。
だが、クレストしか持たないミラーには、薬を買う術がなかった。
「僕はあらゆるものを売った。……でも、インフレの速度には勝てなかった。今朝のパンの値段が、夕方には倍になる世界だ。僕の資産は、毎秒ごとに、あっという間に蒸発していった」
ミラーは、暗い目でナラを見据えた。
「そこへ、あのお坊ちゃんが現れたんだ」
テオ・ヴァルガス。
父の罪を償うように、スラム街で炊き出しを行っていた聖人。
彼はミラーにも、パンとスープを恵んだという。
「彼は優しかったよ。『困ったことがあれば言ってください』とね。……でもね、探偵さん。極限のインフレ下において、善意には『資産価値』がないんだ」
ナラは背筋が寒くなるのを感じた。
目の前の男は、狂っているのではない。
あまりにも、「経済的」になりすぎているのだ。
「僕は彼を見た。……いや、彼を構成している『資産構成』を見たんだ」
ミラーが語り始めたのは、殺人の告白ではなく、冷徹な「資産査定」だった。
「彼が着ていたコート。あれは北国製の最高級羊毛だ。闇市に流せば、それだけで食料一ヶ月分の『ヴァルク』になる」
ミラーは指を折りながら、淡々と語る。
「彼がしていた懐中時計。純金製だ。インフレ下における最強のリスクヘッジ。あれがあれば、娘の薬が3本は買える」
「……それで、強盗殺人を?」
ナラが睨みつける。だが、ミラーは首を横に振った。
「いや?それだけなら、身ぐるみ剥がして返せばいい。……問題は、彼自身の『資産価値』だった」
ミラーは自分の胸のあたりを指差した。
「彼はハーフだ。獣人の強靭な肉体と、人間の適合性を併せ持つ。……知っていますか?海外の富裕層の間で、今一番高値で取引されている『移植用臓器』のトレンドを」
ナラの呼吸が止まる。
臓器売買。究極の貧困が生み出す、人間市場。
「適合率が高く、拒絶反応が少ないハーフの心臓、肝臓、角膜。……闇ルートのバイヤーリストによれば、彼の体は、生きたままの人間としての人質としての価値より、解体してパーツごとに分割して国外に売却した方が、およそ5000倍の『資産価値』があった」
ミラーは、まるで今日の株価を語るように続けた。
「僕は計算したんだ……彼が生きて僕にくれるパンの現在価値と、彼を人質にした時の売却価値と、彼を分割販売した場合の将来価値。……インフレ率と娘の余命をリスク係数として計算式に当てはめた結果、殺害という選択肢が『合理的』だった」
「……っ!」
ナラは耐えきれず、鉄扇を一閃させた。
ミラーの頬が裂け、彼が吹き飛ぶ。
だが、ミラーは痛みを感じていないかのように、ふらりと立ち上がった。
「怒りますか? ……でも、これこそが、ヴァルガスが作った世界のルールでしょう?」
ミラーは血を拭いもせずに笑った。乾いた、虚無の笑いだった。
「価値のないものを切り捨て、利益に変える。ヴァルガスは国に対してそれをやった。僕は、彼の息子に対してそれをやっただけだ。……壊れた世界では、万物はただの『物』に戻る。肉と骨と皮は在庫になる。人間は、在庫の積まれた倉庫になる」
「……娘さんは?そんなお金で助かって、喜ぶと思ったの?」
ナラが問うと、ミラーの表情が初めて曇った。
彼は、部屋の隅にある小さな木箱に視線をやった。
粗末な木箱。それは、子供用の棺だった。
「……間に合わなかったよ」
ミラーは力なく呟いた。
「『解体』と『売却』の手続きに手間取っている間に、娘の容態が悪化したんだ。薬を買って戻った時には、もう……冷たくなっていた」
彼は、換金したヴァルク札の束を、焚き火にくべていたのだ。
ナラが最初に見かけた時に燃やしていた「何か」。それは、テオの命の代価であり、娘を救うはずだった聖鉄貨の束だった。
「結局、僕の手元には何も残らなかった。……ロスカットのタイミングを誤ったな。」
ミラーは自嘲気味に笑い、両手を差し出した。
「さあ、逮捕してくれ。……刑務所なら、少なくとも毎日スープが出るだろうからね。経済的に見て、今の僕にはそれが一番『お得』だ」
ナラは、鉄扇を握る手に力を込めたが、それを振り下ろすことが、できなかった。
目の前の男は怪物ではない。
経済という巨大な流れに翻弄され、適応していくうちに心という機能を失った、哀れな、残骸だった。
王都警察にミラーを引き渡した後、ナラはヴァルガスの屋敷を訪れた。
かつての王族の離宮を買い取ったというその屋敷は、ヴァルクと金と宝石で溢れかえっていたが、墓場のように静まり返っていた。
「……犯人を捕らえたそうだな」
ヴァルガスは、暖炉の前で椅子に深く沈み込んでいた。
ナラは無言で、テオの遺品である懐中時計をテーブルに置いた。
「犯人は、元銀行員のミラーという男よ。動機は……聞きたい?」
「言え。どんな恨み言を吐いていた?私への復讐か?獣人への嫉妬か?」
「いいえ」
ナラは冷徹に告げた。
「彼は貴方を恨んでなんかいなかった。テオ君を憎んでもいなかった。……彼はただ、『計算』しただけよ」
ナラは、ミラーが語った「資産査定」の話を、一言一句漏らさずに伝えた。
テオの命よりも、テオを解体して得られるヴァルクの方が価値があったこと。
それが、究極のインフレ下における合理的な判断であったこと。
「……そ、そんな……」
ヴァルガスの顔から血の気が引いていく。
震える手が、ワイングラスを取り落とす。ガシャン、と赤い液体が絨毯に広がる。
「そんな馬鹿な……。テオは、私の息子だぞ……?『無駄』な者の命じゃないんだぞ?それを……肉の塊のように、値踏みしたというのか?……なんだそれは!…わ、わからない……」
「わからない?」
ナラはヴァルガスを見下ろした。
「貴方がこの国に教えたことでしょう?『信用』という、目に見えない価値に『無駄』を突きつけて全て否定し、数字だけの世界に変えたのは貴方よ」
ナラは窓の外、荒廃した王都を指差した。
「みな、貴方が作ったルールの通りに動いただけよ……」
「あ……あぁ……ああああぁぁぁッ!!」
ヴァルガスは頭を抱え、獣の咆哮のような絶叫を上げた。
彼が復讐のために積み上げた莫大な富。
ヴァルク、金塊、権利書。
それら全てが、息子の命を守る役には立たず、むしろ息子を「資産価値」に変えて殺す原因になったという、皮肉。
彼が市場に放った怪物は、回り回って、彼の一番大切なものを喰らい尽くしたのだ。
ナラは、泣き崩れる億万長者に背を向け、屋敷を出た。
外は、夕暮れだった。
風が、強く吹いている。
王都の大通りには、今日も、価値のない『クレスト』紙幣たちが舞い上がっていた。




