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第1話:売買差益で国を売れ(1)

地面は、雪が積もったように白かった。

いや、白だけではない。王家の深紅、騎士団の碧、貴族の紫。色とりどりの紙片が、石畳を埋め尽くしていた。

それは、ゴミではない。

かつて人々が汗水を垂らして求め、争い、崇めたもの――『王都クレスト』と呼ばれた、この国の紙幣だった。


「お姉ちゃん、見て! お城ができたよ!」


路地裏で、子供たちが歓声を上げている。

彼らはレンガの代わりに、分厚い札束を積み上げて遊んでいた。一束で百万クレスト。かつてなら家が一軒買えた金額だ。今は、小さなキャンディ一つ買うのに、この札束が三つ必要になる。

風が吹く。一億クレスト分の紙屑が舞い上がり、ドブ川へと流れていく。誰も拾おうとはしない。拾うためのカロリーを補給するパン代の方が、拾った金より高くつくからだ。


この地獄のようなインフレの震源地である王都の外れ、獣病院の二階。

ナラティブ・ヴェリタスは、窓からその光景を見下ろしながら、薄すぎる珈琲を啜っていた。


「……狂ってるわね。珈琲豆一袋の値段が、昨日の倍になっているわ」


背後で、重厚な扉が開く音がした。

現れたのは、この荒廃した王都で唯一、豪奢な毛皮のコートを纏った獣人の男だった。

ヴァルガス。狼の獣人であり、今この国で最も忌み嫌われている投資家。

彼は無言で、ソファに「ヴァルク箱」を置いた。中に入っているのは紙屑ではない。輝く延べ棒――「金」だ。

今の王都において、クレスト以外の価値あるもの、すなわち貴金属か、大陸共通通貨である『聖鉄貨ヴァルク』しか、取引には使えない。


「……依頼だ、エラーラ・ヴェリタス」


ヴァルガスの声は、凍えるように低かった。

奥のデスクで実験器具を弄っていたエラーラが、手を止めて振り返る。


「ほう?国を買い取った男が、我々のような探偵に何の用かね?私兵団でも雇えばいいだろう」


「警察も軍も動かん。奴らは私が『獣人』だというだけで、捜査を放棄した」


ヴァルガスは拳を握りしめた。その爪が、自身の掌に食い込み、血が滲む。


「息子が、殺された」


彼の息子、テオは二十歳だった。

ヴァルガスの妻は人間である。テオは、獣人と人間、双方の血を引くハーフだった。

獣人街では「英雄ヴァルガスのトロフィー」から生まれた子として称賛され、人間社会からは「金に魂を売った売女の息子」として蔑まれる、歪な存在。

だが、テオ自身は父の汚いビジネスを嫌い、ボランティア活動に精を出す心優しい青年だったという。


「テオは……スラム街で死体となって発見された。衣服は剥ぎ取られ、ゴミ捨て場に打ち捨てられていた」


ヴァルガスは金塊を指差した。


「全財産を払ってもいい。犯人を見つけ出し、私の前に連れてこい」


エラーラは金塊を一瞥し、肩をすくめた。


「復讐の手伝いは専門外だが……」


エラーラが承諾しようとした、その時。

ナラが音もなくヴァルガスの前に立った。


「ねえ、ミスター・ヴァルガス」


ナラは鉄扇でヴァルガスの胸元を突いた。


「あんたが為替を操作して、この国の経済を殺した張本人よね?多くの人間が職を失い、首を吊ったわ。……そんな男が、自分の息子が殺された時だけ、『正義』を求めるの?」


「……何が言いたい?」


「興味があるのよ。金ですべてを支配した男が、金で買えない『命』を奪われた時、どうなるのか」


ナラは不敵に笑い、金塊の一つを掴み上げた。


「お母様。この依頼、あたしが預かるわ。犯人はあたしが見つけてあげる。……ただし、覚悟なさい。あたしが暴くのは犯人だけじゃない。あんたが作ったこの『狂った世界の文脈』そのものよ」


ヴァルガスはナラを睨みつけ、そして短く「構わん」と吐き捨てて去っていった。

部屋には、重苦しい沈黙と、金の冷たい輝きだけが残された。

窓の外では、また風が吹き、数千万クレストが虚しく空を舞っていた。

それはまるで、これから始まる悲劇への、安っぽい紙吹雪のようだった。



ナラティブ・ヴェリタスは、死臭の漂う王都の大通りを歩いていた。

かつては高級ブティックが並んでいたショーウィンドウは全て叩き割られ、中は空っぽだ。代わりに、その前で憔悴した人々が座り込み、自身の家財道具や、時には「自分の体」を売るための札を掲げている。


『時計を売ります。パン2個で』


『労働力を売ります。スープ1杯で』


『私を売ります。ヴァルク払いで』


この国は、死んだのだ。

戦争も起きず、疫病も流行っていない。ただ、「数字」の暴力によって殺された。


「……酷い有様ね。これが『経済戦争』の跡地か」


ナラは通信機越しに、自宅にいるエラーラに問いかけた。

 

「ねえお母様。ヴァルガスはどうやって、たった数ヶ月でこの国をここまで破壊したの?」


『単純な理屈だよ、ナラ。彼は『信用』を売り飛ばしたんだ』


エラーラの冷徹な解説が始まる。


『手順はこうだ。まずヴァルガスは、海外の機関投資家と結託し、王都の銀行から大量の『王都クレスト』を借り入れた』


「借金をしたの?」


『そうだ。そして借りた数兆クレストを、即座に外国通貨『ヴァルク』に両替して市場で売り払った。どうなるか、想像してごらんよ……』


ナラは想像する。流行りの本も、ブランドのバッグも、最新の魔導水晶(スマホ)も、大量に中古屋に売られまくれば、価値は下がる。誰もがクレストを手放し、安定したヴァルクを欲しがる。

当然、クレストの価値は暴落する。


『そこで彼は、メディアを使って『価値がないよ』と、噂を流した。するとだ。不安になった市民は銀行に殺到し、預金を引き出そうとする。だが、銀行には現金がない。こうして信用不安はパニックに変わり、クレストの価値は垂直落下した』


「……で、どうやって儲けるの?」


『仕上げだ。彼は手元に残しておいた『ヴァルク』を使って、暴落した『クレスト』を買い戻すんだ。最初に1ヴァルクは1クレストで買えていた。だが、クレストの価値がなくなり、1ヴァルクを買うためには、今や100000クレストが必要となった。ということは、最初に1クレスト=1ヴァルクで借りていた彼は、1クレスト=0.00001ヴァルクまで暴落した時に買い戻せば、借金は実質タダとなり、簡単に返済できるだけでなく、手元には、クレストの100000倍の価値のあるヴァルクが丸々残った……というわけだ』


それが「空売り」のメカニズム。

国一つを担保にした、錬金術。


『さらに彼は、暴落の最中に国の『資産』、つまり、倒産寸前の王都の企業、土地、工場、さらには王宮の一部までも二束三文で買い占めた。……王都国民は勤勉だから、『資産』の質自体は下落しなかった。ヴァルガスは、クレストの価値が更に下がった際に、国の『資産』を外国へ売り飛ばしたんだ」


「……国を、売ったのね……」


「そうだ。今やこの国はヴァルガスと外国の所有物だ。……彼は、焦土の王となったのだよ』


ナラは、ヴァルガスの工場と思われる建物の前を通り過ぎた。

そこでは、かつての中流階級だったであろう人間たちが、ボロボロの服を着て、虚ろな目で働いていた。ヴァルガスの元でしか、まともな「価値のある金」を得る手段がないからだ。


「……獣人への差別に対する、人間に対する、究極の復讐ってわけね」


ナラは呟いた。

ヴァルガスの過去の記録を見た。

彼はかつて、勤勉で裕福な獣人地区の顔役だった。獣人たちはそこで独自の経済圏を作り、平和に暮らしていた。

だが、それを妬んだ人間たちが暴動を起こし、地区を焼き討ちにしたのだ。

警察は動かず、消防も来なかった。ヴァルガスは燃える家と、殺された同胞の前で誓ったのだろう。

――暴力は弱い。金こそが力だ。人間たちを、経済という鎖で家畜にしてやると。


「でも……その結果、自分の息子が殺されたんじゃ、世話ないわね」


ナラはスラム街の奥深くへと足を踏み入れた。

目撃証言によれば、犯人は「ミラー」という人間の男だ。

彼は元々、王都銀行のエリート行員だった。だが、ヴァルガスの仕掛けた金融崩壊により銀行は破綻。職を失い、家を失い、ここへ流れ着いた。

犯人の潜伏先は、かつての銀行の地下金庫――今は水浸しの廃墟となっている場所だった。

ナラが鉄製の重い扉をこじ開けると、そこには一人の男がいた。

ミラーだ。

痩せこけ、目が落ち窪み、かつての高級スーツは脂と泥で汚れている。

彼は逃げようともせず、焚き火で「何か」を焼いていた。


「……いらっしゃい。探偵さんかな? それとも借金取り?」


ミラーの声は、枯れ木のように乾いていた。

ナラは鉄扇を構え、ゆっくりと近づく。


「ヴァルガスの依頼で来たわ。……テオ・ヴァルガスを殺したわね?」


ミラーの手が止まる。

彼はゆっくりと振り返った。その顔には、殺人の罪悪感も、復讐を遂げた高揚感もなかった。

あるのは、事務処理を終えた後のような、無機質な疲労感だけ。


「ああ。僕がやった」


「抵抗しないの?」


「抵抗? ……無駄なコストだ。僕にはもう、戦うためのカロリーも残っていない」


ナラは、拍子抜けした。

もっと憎悪にまみれた獣人差別主義者か、狂乱した暴徒を想像していた。

だが、目の前の男は、あまりに理性的で、静かすぎた。


「動機を聞かせなさい。自分を失業に追いやったヴァルガスへの復讐?それとも、獣人が贅沢をしているのが許せなかった?」


ナラが問うと、ミラーは焚き火に視線を戻し、淡々と言った。


「復讐……?まさか。そんな感情的な理由で、リスクを冒すわけがないでしょう。僕は元銀行員ですよ?」


「じゃあ、なぜ」


「『損益分岐点』を超えたからだ」

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