第3話:世界からの不採用通知(3)
「……いいか、ゴウ君」
カレル・オータムは、瓦礫の陰で『受取拒否の手紙』が詰まった鞄をゴウに渡しながら、早口で説明した。
周囲では、ドロドロに溶けた人間たちの融合体が、楽しげな歌を歌いながら徘徊している。
「この世界は今、『肯定』のエネルギーで飽和している。……過剰な肯定が、個体の壁を溶かしているんだ」
カレルは、一通の手紙を抜き出し、その封蝋に刻まれた赤い「拒絶」の印を指差した。
「だが、この手紙には『拒絶』という概念が焼き付いている。……これは、この世界にとって猛毒であり、唯一の解毒剤だ」
「……つまり」
ゴウは、鞄を抱きしめながら、カレルの言葉を継いだ。
「この手紙を……この世界を溶かしている『中心』……あの『正義と悪の塔』の心臓部に、直接叩き込めば……」
「ああ。……『拒絶』の概念が循環し、世界に『冷たい他人行儀』が戻る。……結合が解け、個体に戻れるはずだ」
カレルは、ゴウの頭に手を置いた。
無意識の行動だった。
「……君は、賢いな」
「えへへ……。エラーラさんたちの受け売りですけど」
ゴウが照れくさそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間。
カレルの胸の奥で、ドクン、と奇妙な鼓動が鳴った。
(……なんだ、今の?)
胸が温かい。
冷え切っていたはずの心臓に、熱い血が通うような感覚。
この少年を守りたい。無事に帰したい。
そんな、人間らしい「情」が、湧き上がってくる。
カレルは、自分の手を慌てて引っ込めた。
冷や汗が出る。
この世界で「情」を持つことは、「融合」への招待状だ。
自分は、枯れた刑事でなければならない。執着のない、乾いた男でなければ。
二人は、融合した裁判所とアジトの中心部にたどり着いた。
そこには、巨大な心臓が脈打っていた。
「……あれが、コアだ」
カレルは、脈動する肉塊を指差した。
周囲には、融合した護衛たちがうごめいている。
「ゴウ君。私が道を開く。君はあの心臓に、手紙を全てぶちまけろ」
「はい!」
二人は飛び出した。
カレルが発砲する。
「どけ! 邪魔だ!」
銃弾が融合体たちを怯ませる。
だが、敵は無限に湧いてくる。
その時。
コアの背後から、音もなく影が現れた。
それは、かつて街で一番「献身的」と言われた看護師と、彼女が愛した患者が融合した怪物、『包帯の天使』だった。
天使は、ゴウの背後に忍び寄っていた。
ゴウは、コアに向かって走っていて気づかない。
『……治シテアゲル……。私ノ中デ……永遠ニ……』
天使が、ゴウを包み込もうと、巨大な包帯の翼を広げた。
それは物理的な攻撃ではない。「治癒」という名の捕食だ。
触れられた瞬間、ゴウは溶かされ、取り込まれる。
「ゴウッ!!」
カレルは、叫んだ。
思考する時間はなかった。
彼は、ゴウを突き飛ばした。
「……っ!」
ゴウが転がる。
その代わり、カレルの左半身が、天使の翼に触れた。
「あぁぁぁぁぁッ!!!」
カレルの左腕と左足が、瞬時に溶解を始めた。
天使の「慈愛」が、カレルの細胞を強制的に愛で満たし、個の境界を溶かしていく。
強烈な快楽と、自我が消滅する恐怖。
「け、警部!?」
ゴウが駆け寄ろうとする。
「来るなッ!!!」
カレルは、右手のリボルバーをゴウに向けた。
その形相は、鬼のように凄まじかった。
「……離れろ……!近づくんじゃない!」
「でも……!」
「いいから行けェェェッ!世界を戻せッ!」
カレルは、溶けかける左腕を、自らの右手で引きちぎろうとしていた。
汚染を止めるために。
いや、それ以上に……自分の中に芽生えた「猛毒」に気づいてしまったからだ。
(……なぜ、庇った?)
カレルは、激痛の中で自問した。
俺は、枯れた刑事だ。
他人になど興味がない。生きようが死のうが知ったことではない。
そうやって、心を殺して生きてきたはずだ。
なのに。
なぜ、俺はこの少年のために、体を投げ出した?
(……ああ。そうか)
カレルは、ゴウの涙に濡れた顔を見た。
必死で、健気で、弱いくせに懸命なその姿。
(……愛おしい)
亡くした妻との間に、もし子供がいたら、こんな年頃だっただろうか。
あるいは、かつて失った相棒の面影か。
カレルは、この地獄のような旅の中で、ゴウに対して……「父性」にも似た、強烈な「愛」という「執着」を抱いてしまっていたのだ。
それが、致命傷だった。
「愛」はこの世界において、融合のトリガーだ。
カレルがゴウを「愛して」しまった瞬間、彼はこの世界のルールに取り込まれたのだ。
「……う、あ……あぁ……」
カレルの左半身が、急速にピンク色に変色していく。
天使が、嬉しそうに笑う。
『……受ケ入レテ……。一緒ニナロウ……』
「断るッ!」
カレルは、リボルバーを天使の顔面に突きつけ、連射した。
天使が怯む。
「……ここは通さん。……俺の『家族』には、指一本触れさせんぞ……!」
彼は、口走ってしまった。
「家族」と。
その言葉が、彼の溶解を加速させる。
涙が流れる。それは透明な涙ではなく、溶けた肉体の一部だった。
「……う、あああああっ!!!」
カレル・オータムの絶叫が、肉の壁に反響した。
彼の左半身は、すでにピンク色の粘液と化していた。
目の前には、『包帯の天使』――かつての看護師と患者が融合した怪物が、慈愛に満ちた笑顔で迫っている。
その背後からは、数千、数万の融合体たちが、津波のように押し寄せていた。
「混ざろう」「一つになろう」「愛し合おう」。
地獄の合唱。
カレルは、残った右手だけでリボルバーを連射した。
狙いは定まらない。だが、関係ない。
目の前全てが敵だ。
彼の放つ弾丸は、物理的な鉛玉だが、そこには「個」としての最後の意地が込められていた。
「俺は……カレル・オータムだ! 誰の一部でもない! 俺は俺だァッ!」
天使の顔が弾ける。だが、すぐに再生し、カレルを包み込もうとする。
カレルの足が崩れる。
視界が溶ける。
思考が、甘い幸福感に塗りつぶされそうになる。
(ああ……楽になりたい……)
その時。
背後から、少年の声が聞こえた。
「……誰も、いらないッ!!!」
ゴウ・オクトーバーの叫びだった。
カレルは、溶けかけた首を無理やり回した。
ゴウは、脈動する巨大な心臓の前に立っていた。
彼は、鞄を逆さにし、中身をぶちまけていた。
舞い散る数百通の手紙。
『受取拒否』『絶縁状』『不採用通知』。
世界で一番冷たく、悲しい言葉たち。
「僕は一人だ!……一つになんかなりたくない! 寂しくても、辛くても……!」
ゴウは、手紙の山を、コアの裂け目にねじ込んだ。
「僕は……『僕』でいたいんだァァァッ!!」
手紙が、コアの内部に吸い込まれた。
異物混入。
「愛」と「結合」のエネルギーで満たされた炉心に、「拒絶」と「孤独」という猛毒が投下されたのだ。
コアが、大きく痙攣した。
世界中の融合体たちの動きが止まる。
悲鳴。
だが、それは断末魔ではない。
産声だ。
個々人が、再び「自分」という殻を取り戻すための、分離の痛み。
「……やったか……」
カレルは、膝をついた。
彼の左半身の溶解が止まる。
目の前の天使が、苦悶の表情を浮かべ、二人の人間に分裂しようと藻掻き始めた。
「……警部!」
ゴウが駆け寄ってくる。
カレルは、ゴウを見た。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。
世界一、情けなくて、勇敢な少年の顔。
「……よくやった、相棒」
カレルは、溶けかけた手で、親指を立てようとした。
だが、指は動かなかった。
世界が、白く染まっていく。
コアが臨界点を超え、因果律の修正崩壊が始まったのだ。
粘着質な愛の世界が弾け飛び、冷たく乾いた「他人行儀な世界」が上書きされていく。
「……あ」
カレルは、光の中で目を閉じた。
怖くはなかった。
最後に見たのが、あの少年の無事な姿だったから。
(……秋風が、吹いているな)
意識が、白光に溶けて消えた。
・・・・・・・・・・
「……ッ、は!」
カレル・オータムは、公園のベンチで弾かれたように目を覚ました。
心臓が早鐘を打っている。
全身に、あの粘着質な肉塊の感触と、世界が崩壊する轟音の記憶が焼き付いている。
「……夢、か?」
カレルは、荒い息を整えながら周囲を見回した。
夕暮れの公園。
乾いた風が枯れ葉を巻き上げている。
子供たちが遊び、恋人たちがベンチで語らっている。
誰も溶けていない。誰も融合していない。
そこにあるのは、あまりにも「正常」な、退屈な日常だった。
「……夢だ。悪い夢を見た」
カレルは、額の汗を拭おうとして――手が止まった。
彼の手は、震えていた。
そして、その爪の間には、微かに「ピンク色の何か」がこびりついていた。
さらに、コートのポケットには、くしゃくしゃになった封筒が一枚、ねじ込まれていた。
『受取拒否』のスタンプが押された、あの手紙だ。
「……夢じゃ、ない」
カレルは、戦慄と共に顔を上げた。
世界は戻った。
だが、その過程にあった地獄を、俺は覚えている。
「……カレルさん……」
隣のベンチから、震える声がした。
ゴウ・オクトーバーが、膝を抱えて座っていた。
彼は、真っ青な顔で、自分の手を見つめていた。
「……覚えてますよね?」
ゴウは、カレルを見た。
その瞳は、恐怖と、そして「確認したい」という懇願に揺れていた。
「……ああ」
カレルは、短く答えた。
「……どうやら、世界は元に戻ったようだ。……あの狂った『融合』の記憶を、きれいに忘れてな」
カレルは、通り過ぎる人々を見た。
彼らは、自分たちが数分前まで怪物になっていたことなど、露とも知らない顔で歩いている。
「……僕たちだけですか?覚えているのは」
「おそらく、な」
カレルは、ポケットの手紙を握りしめた。
「俺たちが、『拒絶』したからだ。……世界と混ざり合うことを拒み、個として残り続けた。だから、世界が修復された時も、俺たちの記憶だけは『個』の中に保存されたんだ」
それは、孤独な特権だった。
世界の命運をかけた戦いを、たった二人だけが知っている。
称賛もない。共感もない。
ただ、この重たい記憶を、二人で背負っていくしかない。
ゴウは、泣きそうな顔をした。
「……怖いです。……みんな、何もなかった顔をして……僕だけが、おかしくなったみたいで」
「一人じゃない」
カレルは、ゴウの隣に座り、その肩を強く抱いた。
「俺がいる。……俺だけは、知っている」
カレルは、ゴウの目を見た。
ゴウの瞳から、涙が溢れた。
安堵の涙だ。
共有できる誰かがいる。それだけで、地獄の記憶は「二人の秘密」に変わる。
「……はい。……僕も、忘れません……」
二人は、夕暮れの公園で、肩を並べて座っていた。
秋風が吹く。
「……そういえば、ゴウ君」
カレルは、空を見上げながら言った。
「君の誕生月は、いつだ?」
「え? 10月ですけど」
「そうか。俺も10月……秋だ」
カレルは、ニヤリと笑った。
それは、刑事としての顔ではなく、一人の男としての、共犯者のような笑みだった。
「……似た者同士だな。……枯れ葉の季節の、はぐれ者だ」
「……ええっ?名前だけじゃないですか!」
ゴウは涙を拭って、吹き出した。
カレルも、声を上げて笑った。
世界は、何も知らずに回っていく。
ナラも、エラーラも、アリアもケンジも、何も覚えていないだろう。
それでいい。
この重荷を背負うのは、愛に溶けなかった「寂しい二人」だけで十分だ。
二人は、立ち上がり、並んで歩き出した。
街の灯りが灯り始める。
その光の一つ一つが、今は愛おしく、そして少しだけ遠く感じられた。
彼らは戻っていく。
たった二人だけの「秘密」という絆を、ポケットに隠し持って。




