第2話:世界からの不採用通知(2)
空は、光と闇が互いに執着し合い、溶け合った結果、永遠に明けない「夕暮れ」の色で固定されている。
心地よい涼風が吹いている。だが、その風は暑さと寒さが互いを求め合い、混ざり合った結果生じた、『死ぬほど』快適な「秋」の風だった。
カレル・オータムとゴウ・オクトーバーは、その中を歩いていた。
彼らは、まるで透明人間のように、周囲の惨劇から浮いていた。
執着を持たない彼らは、この世界において「味のしない異物」であり、誰からも、何からも愛されず、憎まれもしない。
「……見てください、警部」
ゴウが指差した先。
街路樹の上で、三匹の猫と、一羽の鳥が喧嘩をしていたはずの場所。
そこには、三つの猫の頭と、鳥の翼、そして無数の爪が混ざり合った『猫鳥ケルベロス』が鎮座していた。
三つの頭は互いに食らいつき、愛し合いながら、一つの胃袋に餌を詰め込んでいる。
足元では、地面に落ちたパンに蟻が群がっていた。
だが、蟻はパンを食べ尽くすのではなく、パンと融合していた。
『パン蟲』。
焼き立ての香ばしい匂いを放つ蟲の群れが、カサカサと這い回り、アスファルトを浸食している。
「……助けて……誰か……」
路地から這い出してきた女がいた。かつてナラに助けを求めた女だ。
彼女の背中には、彼女を追い回していたストーカー男が、背後霊のように融合していた。
さらに、そのストーカー男を憎悪し、執着していた別の男が、正面から突撃して融合していた。
『女ストーカー男』。
三人は一つの肉塊となり、「愛してる」「殺す」「助けて」と叫びながら、三つ巴の永久機関となって転がり続けている。
そして、広場の噴水。
そこでは、「殺し」に執着していた殺人鬼が、自分自身を撃ち続けていた。
銃弾が頭を吹き飛ばすが、吹き飛んだ肉片がすぐに戻り、銃弾と愛し合って融合する。
『自殺の永久運動』。
彼は恍惚の表情で、死という快楽を永遠に貪り続けている。
「……地獄だ。」
カレルは、リボルバーの撃鉄を起こしたが、すぐに戻した。
撃つ相手が、いない。全員が被害者であり、加害者であり、そして幸福なのだから。
王立図書館。
知識に執着した学者たちが、書物と融合していた。
彼らの皮膚は紙となり、血管にはインクが流れている。
「知りたい……もっと……」
彼らは互いのページを破り合い、食べ合い、情報を共有する巨大なパルプの怪物となり、図書館そのものを消化しようとしていた。
美容室の大鏡の前。
自分の美貌に執着した女が、鏡にキスをしようとして、そのまま鏡面と融合していた。
ガラスと肉が混ざり合い、彼女の顔は無数の破片となって増殖し、あらゆる角度から自分を見つめ続けている。
「……私が一番……」
近づく者を鏡の中に引きずり込み、自分の「観客」としてガラスに閉じ込めていく。
三ツ星レストラン。
美食家たちが、互いを調理し合っていた。
「君の腕は最高だ」「君の舌は極上だ」
シェフと客が融合し、自らの体を切り刻んでソテーにし、自らの口で食べる。
究極の自給自足。減ることのない肉と、満たされない食欲の無限ループ。
骨董品店。
アンティーク人形を愛した男が、数百体の人形と融合していた。
彼の体からは無数のプラスチックの手足が生え、まぶたはガラス玉になり、関節は球体関節になっている。
「寂しくないよ……みんな一緒だ……」
彼は、動けない人形たちに自らの神経を接続し、永遠のおままごとを続けている。
公園の砂場。
過保護な母親たちが、子供たちと融合していた。
「ママが守ってあげる」
子供たちは母親の腹の肉に埋め込まれ、顔だけを出して呼吸している。
母親たちは巨大な肉の揺り籠となり、近づく他者を「外敵」として酸の母乳で溶かしていく。
ゴウは、胃液のこみ上げる口を押さえた。
愛、知識、美、食欲、母性。
人間が持つあらゆる感情が、度を越した執着によって、醜悪な怪物へと変貌している。
だが、それら全てを凌駕する怪異が、王都の上空に顕現していた。
空を見上げると、そこには太陽も月もなかった。
あるのは、巨大な「二つの概念」の融合体。
『正義』と『悪』。
王都の裁判所と、犯罪組織のアジト。
対極にあるはずの二つの建物が、空中に伸びてねじれ合い、融合していた。
「裁くこと」への執着と、「犯すこと」への執着。
その二つが混ざり合い、空から「他者を裁くという罪を犯すための罪」を同時に降らせている。
善人も悪人も、その雨を浴びて溶けていく。
「正義も悪も、突き詰めれば『他者への干渉』という欲望、か」
そう嘲笑うかのように、世界は矛盾を孕んだまま、ドロドロに溶け落ちていく。
「……終わりだよ。何もかも。」
カレルは、道路の真ん中に座り込んだ。
ナラも、エラーラも、もういない。
この世界には「解決」という概念すら存在しない。
ただ、幸せな崩壊があるだけだ。
「……警部」
ゴウが、瓦礫の山――かつてゴミ捨て場だった場所――を指差した。
そこには、奇妙なものが落ちていた。
「……あれ、何ですか?」
カレルが見ると、それは一つの「古びた鞄」だった。
周りの景色は全て溶け合い、融合しているのに。
その鞄だけが、ポツンと、何とも混ざらずに存在していた。
「……誰の鞄だ?」
カレルは近づき、警戒しながら鞄を開けた。
中に入っていたのは、宝石でも、魔導書でもなかった。
大量の、「未開封の手紙」だった。
宛名はバラバラ。差出人もバラバラ。
だが、全ての手紙に共通して、赤いスタンプが押されていた。
『受取拒否』
「……これは」
カレルは、一通の手紙を拾い上げた。
それは、ある男が別れた恋人に送り続けた、執着に満ちた復縁の手紙だった。
だが、恋人はそれを読まずに拒絶し、送り返したのだ。
カレルは気づいた。
この鞄の周りだけ、空気が乾いている。
スライム化した地面も、ここだけは乾いたアスファルトのままだ。
「……拒絶?」
カレルは呟いた。
「この世界は今、『執着』によって融合している。だが……」
だが。
この手紙は違う。
「いらない」「関わりたくない」「他人でいたい」という、強烈な「拒絶」の意志が込められている。
「……これ、だ」
カレルの目に、刑事の光が戻った。
「この地獄を止める薬は……愛でも正義でもない」
カレルは、鞄をひっくり返した。
数百通の「受取拒否」の手紙が散らばる。
「絶縁状」「辞表」「不採用通知」「契約解除通知」。
誰かが誰かを、社会が個人を、冷徹に切り捨てた証。
「……やはりな」
この世界に必要なのは、熱い抱擁ではない。
「お前はお前、俺は俺」と突き放す、冷たい断絶だ。
「ゴウ君!手伝え!」
カレルが叫ぶ。
「こいつを……この『拒絶の塊』を、あいつらの口にねじ込んでやるんだ!」
ゴウは、一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「はい!」
二人は、誰も欲しがらなかった「拒絶の手紙」をかき集めた。
それは、愛に溺れて溶けていく世界に対する、最後にして唯一の、冷ややかなる反撃の弾丸だった。
「……行くぞ。世界に『他人行儀』を取り戻すんだ」
カレルとゴウは、地獄のまっただ中へと走り出した。
手には、誰も読みたくなかった悲しい手紙を握りしめて。




