第1話:世界からの不採用通知(1)
獣医院の二階。いつものリビング。
「……暑いですわね」
ナラティブ・ヴェリタスは、漆黒のドレススーツの襟元をパタパタと扇いだ。
季節は秋だというのに、室温が異常に高い。いや、気温ではない。湿度が、粘度が、空間そのものがドロドロとしているような不快感。
「お母様。空調の調節、間違えてませんこと?」
「む? ……設定は適正だ。だが……ふむ?空気中の『執着係数』が……」
白衣のエラーラ・ヴェリタスが、汗ばんだ額を拭いながら計器を覗き込む。
「執着係数?」
「ああ。愛とか、欲とか、そういう『結びつき』を求めるエネルギーが、物理的な結合力に変換され始めているようだ」
「い、意味が分かりませんわ……アリアさん、冷たいお水を……」
ナラがキッチンの方を向いた時、彼女は奇妙な光景を目撃した。
「あらあら、ケンジさん。今日は離れたくない気分ねぇ」
「ははは、僕もだよアリア」
院長のケンジと妻のアリアが、キッチンで抱き合っていた。
いつもの仲睦まじい夫婦の光景。……のはずだった。
ナラは目を疑った。
二人の体が、接している部分から「溶けて」いたのだ。
アリアのエプロンとケンジの白衣がドロドロに混ざり合い、皮膚が融合し、境界線が消えていく。
「ちょ、ちょっと! イチャつくにしても限度がありますわよ!」
ナラが叫ぶ。
だが、二人は幸せそうに微笑んだまま、さらに深く溶け合っていく。
二つの頭部が、一つの巨大な肉塊に沈んでいく。
それは、スライム状になった夫婦の「愛の融合体」だった。
「ヒィッ!? な、何ですのこれ!」
「ナラさん……ナラさん……」
背後から、湿っぽい声がした。
情報屋のルルだ。彼女はいつものピンクジャージ姿で、部屋の隅からナラを凝視していた。
その目つきは、いつも以上にトロンとして、焦点が合っていない。
「ルル?あんたも暑いの?」
「ナラさん……好き……大好き……」
ルルが、ナラに抱きついてきた。
「暑苦しいわね!離れなさい!」
ナラはルルを引き剥がそうとした。
だが、離れない。
ルルの古着が、水飴のように伸びて、ナラの黒いドレスに絡みついた。
「なッ……!?と、取れない!?」
「一緒……ずっと一緒……」
ルルの体が、ゲル状に崩れ、ナラの体に覆いかぶさってくる。
「いやぁぁぁっ!溶けてる!あんた溶けてるわよ!汚い!」
ナラは必死に抵抗するが、ルルの「愛」は強烈だった。
ナラの右半身が、ルルのピンク色の肉体に取り込まれていく。
「お母様!助けて!ルルが!ルルがぁぁぁ!」
「ふむ。……分子間結合が崩壊し、精神的な指向性に従って再構築されているのか。興味深い現象だ!」
エラーラが呑気に分析している。
「分析してる場合ですかッ!!」
ナラは、半身をルルに乗っ取られたまま、エラーラの方へ這っていった。
「お母様……! あたしを……助けて……!」
ナラの意識が、ルルの強烈な「執着」と混ざり合う。
『ナラさん大好き』『ナラさんの一部になりたい』。
その思考が、ナラの脳内に流れ込んでくる。
そして、ナラの中にある「お母様への愛」もまた、暴走を始めた。
「……そうよ。お母様?」
ナラ+ルル融合体は、異形化した腕を伸ばした。
黒とピンクが混ざり合った、巨大なスライムのような腕。
「あたしたちも……一つになりましょう?」
「……へ?」
エラーラが後ずさる。
「家族ですもの。……愛してますもの。……物理的に、永遠に一緒になりましょう?」
ナラとルルの融合体は、エラーラに向かって飛びかかった。
「待て!待て待て待て待て!私は個としての自我を確立して……う、うわぁぁぁぁ!」
エラーラが飲み込まれた。
獣医院の二階は、愛と執着が煮詰まった、ピンクと黒と白の肉塊によって埋め尽くされた。
混濁した声が響く中、誰もが「これはまた、エラーラの発明の失敗か何かで、すぐに元に戻るだろう」と、心のどこかで思っていた。
これはコメディだと。
日常の一コマだと。
・・・・・・・・・・
王都のメインストリート。
そこは、地獄の美術館と化していた。
カレル警部と、ゴウ少年は、パトカーの中で、言葉を失っていた。
彼らは、たまたま郊外への出張から戻ってきたところだった。
そして、目の前に広がる「世界の終わり」を目撃した。
「……警部。これ、夢、ですよね?」
ゴウが震える声で聞く。
「……夢なら、どれほどマシか」
カレルが、リボルバーを握りしめる。だが、撃つべき敵が分からない。
街行く人々が、溶けていた。
いや、正確には「愛するものと融合」していた。
交差点の真ん中。
高級スポーツカーを愛してやまなかった男がいた。
彼は今、車のボンネットから上半身を生やし、下半身はエンジンとタイヤと同化していた。
「見てくれ!俺の最高のマシンだ!俺がマシンだ!」
男の血管にはガソリンが流れ、排気管が背骨を貫通している。彼は笑いながら、自分の体を暴走させ、歩行者を轢き殺していく。
ブティックの前。
服とバッグを買い漁っていた貴婦人がいた。
彼女は今、無数のドレスと革バッグに飲み込まれ、巨大な布の繭のようになっていた。
「綺麗でしょう? 私は流行そのものよ……」
彼女は、通りがかる人々をリボンで捕獲し、自分の「柄」として取り込んでいく。
レストランのテラス席。
美食家の男が、テーブルと融合していた。
彼の胃袋はテーブルクロスのように広がり、皿やカトラリーを巻き込んでいる。
「もっと……もっとだ……」
彼は、自分の体を切り取って調理し、自分で食べていた。
再生と捕食の無限ループ。彼の体からは、極上のソースの香りと、腐臭が同時に漂っていた。
銀行の前。
守銭奴の銀行家が、巨大な金庫と溶け合っていた。
彼の皮膚は硬貨で覆われ、血の代わりに溶けた金が流れている。
「渡さん……誰にも渡さんぞ……」
彼は、近づく者を「資産」として取り込み、黄金像に変えてコレクションしていく。
武器屋の主人。
彼は、店中の剣や銃と融合し、全身が刃物と銃口のヤマアラシのような姿になっていた。
「俺が最強だ! 近づくものは斬る! 撃つ!」
彼は動くたびに自分自身を切り刻みながら、周囲に無差別に弾丸を撒き散らしている。
誰もが、自分の「執着」に食い殺されていた。
愛した対象と一体化し、境界を失い、異形の怪物へと成り果てていく。
そして、彼らは皆、一様に「幸せそう」だった。
恍惚の表情で笑い、溶け、混ざり合っていく。
「……狂ってる」
ゴウが口元を抑える。
「……ああ。これが、欲望の終着点か」
カレルが呟く。
二人は、車を捨てて歩き出した。
車内にいると、車と融合してしまう危険性を感じたからだ。
街は、粘着質の音で満ちていた。
人間が人間でなくなる音。
個が消滅し、全体が巨大な「欲望のスープ」へと還元されていく過程。
なぜ、カレルとゴウだけが無事なのか。
カレル・オータム。
枯れた中年刑事。彼は、妻を亡くし、仕事に疲れ、世の中に期待することをやめていた。
彼には、身を焦がすような執着がない。
愛車も、美食も、権力も、彼にとっては「どうでもいいもの」だった。
彼の心にあるのは、乾いた諦念と、わずかな職務意識だけ。
その「渇き」が、彼を溶解から守っていた。
ゴウ・オクトーバー。
13歳の少年。
彼はまだ、何者でもなかった。
獣医になりたいという夢はあるが、それはまだ淡い憧れだ。
誰かを狂おしいほど愛したこともなければ、何かに執着して身を滅ぼしたこともない。
彼の魂は、未分化で、透明だった。
だから、何とも混ざり合わなかった。
「……僕たち、どうなるんですか?」
ゴウが、カレルのコートの裾を掴む。
「分からん。だが……獣医院へ行こう。エラーラ君なら、何か知っているかもしれん」
二人は、地獄と化した王都を進んだ。
足元には、誰かの顔が浮かんだ道路。
空には、鳥と融合した人々が、悲鳴のようなさえずりを上げて飛んでいる。
獣医院にたどり着いた時、そこは「世界の終わりの中心」になっていた。
建物は、ピンクと黒と白の、脈動する肉塊に覆われていた。
それは、かつて家だったものと、中にいた住人と、多数の動物たちがめちゃくちゃに融合した、巨大な臓器のような姿をしていた。
肉塊から、ナラと、ルルと、エラーラの声が混ざり合って響いてくる。
アリアとケンジの、穏やかな笑い声も聞こえる。
「……遅かったか!」
カレルが帽子を取る。
「ナラさん!エラーラさん!」
ゴウが叫ぶ。
肉塊の一部が盛り上がり、ナラの顔のようなものが浮かび上がった。
その瞳は、とろりと濁り、恍惚に満ちている。
『……ゴウ……カレル……』
ナラの融合体が、触手を伸ばしてきた。
『……サミシイデショウ?……オイデ……』
甘い誘惑。
個を捨てて、みんなと一つになる安らぎ。
拒絶も、孤独も、喪失もない世界。
「……来るなッ!」
カレルが発砲する。
弾丸が肉塊にめり込むが、すぐに吸収される。
『……ナンデ……?拒絶スルノ……?』
肉塊が波打ち、怒りと悲しみの色を帯びる。
『……分カラズ屋……』
肉塊が膨張し、二人を飲み込もうと迫る。
逃げ場はない。
世界中が、この「融合」へと向かっているのだから。
ゴウは、震えながらカレルを見た。
「警部……。僕たちも、混ざるん、ですか?」
カレルは、タバコを取り出し、火をつけた。
震える手で。
「……ゴウ君。君は、何が好きだ?」
「え?」
「一番、好きなものはなんだ?」
「……分かりません。まだ、見つかってないから」
「そうか。……なら、多分、君は大丈夫だ」
カレルは、煙を吐き出した。
秋の風が、煙をさらっていく。
「おそらく、執着のない人間は、混ざれない。……私たちは、この溶け合った世界で、永遠に『異物』として漂うしかないんだよ」
肉塊が、二人を覆う。
だが、二人は溶けなかった。
ドロドロとした愛の海の中で、カレルとゴウだけが、固形物として残された。
ナラの融合体が、悲しそうに二人を見つめる。
『……可哀想ナ人タチ……』
肉塊は、二人を飲み込むのを諦め、天へと伸びていった。
やがて、王都中の融合体たちが集まり、一つの巨大な「塔」となって、空を突き抜けていく。
カレルとゴウは、瓦礫の上に残された。
周りには、誰もいない。
静寂。
風の音だけが聞こえる。
「……終わったな」
カレルが呟く。
「……はい」
ゴウが答える。
世界は平和になった。
争いも、差別も、貧困もない。
全員が一つになり、愛し合い、溶け合ったのだから。
ただ、二人だけを除いて。




