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石化と病

作者: kurobusi

俺は今、窮地に立たされている。


楽な“仕事”だと思っていた。いつも通り手筈を整えて、いつも通り音を立てずに忍び込み、いつも通り金目の物を頂戴する。


忍び込んだ先で、作りの良い、間違いなく美術品として金貨に変えられる価値があるだろう石像を見つけ、持ち帰る方法についてほんの少し考えこんでいた。


ほんの少し、ほんの少しの間だけだったんだ。


なのに何故、家を空けていた筈のエルフが今俺の目の前にいる!?

計画は完璧だったはずなのに!


────────

─────



事は、前の仕事で盗ってきた魔導書やら分厚い歴史書やらを流す為に立ち寄った街で“街外れの小屋に一人で住んでいるエルフ”の噂を耳にしたことから始まった。


件のエルフは何やら最近越してきた様子で、時々街にやってきては薬を売ったり、医者の様なことをして銭を稼いでいる、風変わりな奴だという話。

その話を聞いた時は「しめた!良い稼ぎ口を見つけたぞ!」と心が浮き立った。


エルフというのは自分が知っている限りでは、部族の様な集団を森の中で作り、そしてそこから出てくることは無い。その地で余所者を積極的に歓迎することも無い。そんな閉鎖的な連中だ。

だが、時折ふらふらと群れから逸れた野良犬の様に人里へやってくるエルフがいる。噂の街外れにいるエルフとやらもそのクチだろう。


好奇心が風習を上回ったのか、何かをしでかして群れにいられなくなったのか、それは知らん。

俺が興味を持っているのは、そういったエルフが自分の里から持ち出した滅多にお目にかかれない貴重な品々だ。


人間では到達できない領域の付呪が施された指輪や首飾り、エルフ達の森にしか生えない世界樹を切り出して作られた弓矢。

そして、エルフの秘術を書き記した魔導書や今や失われた国の貴重で高く売れる歴史書。


何を隠そう、今、自分の背負い鞄に入っている魔導書や歴史書もそういったエルフからこっそりと頂戴したものだ。

里から出てきたばかりで、人間のことを本でしか知らないようなエルフは仕事がし易く、実入りも大きい。

まさに自分にとって絶好の獲物。


今回も“いつもの手口”が使えるだろう。この分厚い本を“釣り餌”にしてやろう。


善は急げ。早速町の連中から聞き出した場所へと向かう。人の血を吸う小虫が耳元で五月蠅く羽音を立てる、鬱蒼とした人気のない森を潜り抜ける。

こんな所の奥に住んでいるのか。全く、何が良くてここに決めたのか。エルフの感覚というものは本当に分からない。


進路を塞ぐ小枝を片手で叩き落としたその時、すっと視界が広がった。

どうやら此処らしい。広がった場所にポツンと小屋が見える。


いつの間にか日が落ち始めていたようだ。小屋の窓から光が漏れているのが分かる。


家主に来客を伝える為に、扉を力強く叩く。


……ボロ小屋に見えたが割としっかりとした作りだ。“仕事”の時は無理に扉を破るようなやり方は控えるべきだな。


〈……ᛗᚪᛏᛏᛖᛏᛖᚴᚢᛞᚪᛋᚪᛁᚾᛖ. ᚪᚾᚪᛏᚪ. ᛟᚴᚤᚪᚴᚢᛋᚪᛗᚪᚵᚪᛁᚱᚪᛋᛁᛏᚪᛗᛁᛏᚪᛁᛞᛖᛋᚢ〉


…………鍵穴を観察していると、扉越しに何か聞こえた。

家主の声だろうが、何と言っている?


とりあえず、扉の方へ近づいてくる足音が聞こえたので鍵穴を覗き込んでいたことがバレない様に姿勢を正す。

ほぼ同時に、ぎぎ、と蝶番が音を立てて扉が開く。


開いた扉の先にいたのは、長く尖った形の耳を持つ非常に整った顔立ちの女性のエルフ。


古代に生きた人を思わせる様な、一枚の大きな布をぐるぐると体に巻き付けたような服装に、干し草か何かで編まれた風変わりな靴に普段なら目が移っただろう。

だが、その時代にそぐわない奇妙さを彼方に弾き飛ばすほど、目の前のエルフは美しかった。


日に当たったことが無いような白い肌に、すん、と筋が通った鼻。そよ風に靡く絹糸と見紛う銀色の髪。

そしてその長く尖った耳に引っ張られているかのように鋭い眼は、胸元で揺らめく首飾りに嵌められた宝石と同じく、凪いだ海を思わせる程青く美しい。


その美貌は、最早恐怖を覚える程だった。


〈……妾に何用か?〉


たじろいていると、目の前のエルフが痺れを切らしたように自分に話しかけてきた。


〈見たところ、怪我をしている様子は無い。病を患っておるわけでもなかろう〉


そもそも、そのような者は此処まで来まいが。と話を括るエルフを見て、そういえばコイツは薬売りだか何かをしているんだったなと噂話を思い出した。


急いで気を引き締め直し、顔に“仕事用”の人懐っこそうな笑みを浮かべる。慣れたものだ。


「いやぁ不躾に失礼致します。実は私、行商を生業としている者なのですが」


〈……このような場所まで足を運んだ苦労には報いたいが……異国の珍味だの、珍奇な像だのを売りたいなら相手を間違えておるぞ〉


溜息こそ吐かれなかったが、目を細め、呆れたような口調で冷たい台詞を返される。

若干苛立ちを覚えるが……まぁそれは大目に見てやることにしよう。


それに、俺の“釣り餌”を見れば、その細くなった眼は再び大きく開かれることだろう。


「いえいえ!私がお持ち致しました品はそんなものではなくてですね……」


笑顔を顔に張り付けたまま大きな背負い鞄をどすり、と地面に降ろし手早く留め金を外す。

そして、表紙の古めかしい、分厚い一冊の本を見せつける様に取り出した。


「……こちらの書物になります!貴重な…今は失われた歴史を綴った非常に貴重な一品ですよ!」


エルフの青い眼が取り出された本を捉えた瞬間、瞼が裏返るような勢いで大きく開かれた。


しめた!引っかかったぞ!と心の中で拳を握りしめる。

更に、本命のもう一冊を取り出す。


「そしてもう一冊!とある部族のエルフの秘術を記した魔導書でございます!」


目の前に立つエルフの大きく開かれた眼は再び細まる様子は無く、俺が掲げた本を食い入るように見つめている。

思わず顔に張り付けた笑顔が変になってしまいそうな程良い流れだ。


〈……尋ねたいのだが、此れは何処で手に入れた?〉


「二冊とも市場で偶々流れているのを拾い上げまして。商人としては珍しい物に手を付けずにいられないのです」


嘘だ。出所について突っ込まれても曖昧にする為の決まり文句だ。


〈……そうか。成程〉


エルフは短くそう返すと、目尻がぴんと上がった鋭い眼を本から俺に向け直す。


〈幾らで売る?二冊ともだ〉


餌に食いついた。


「一冊銀貨八枚……いえ、魔導書の方は銀貨八枚で、歴史書の方は銀貨六枚と銅貨十枚で如何でしょう?」


〈……随分と値を抑えるな?特に歴史書の方はかなり〉


「いやぁ、お恥ずかしい話なのですが…それなりに訳がございまして。実は両方とも非常に内容が難解と言いますか」


「魔導書の術式は勿論、歴史書の方も知り合いに翻訳を頼んでも、精々遥か昔に流行り病で滅んだ国の物というのが分かる程度でして。解読は其方でお願いしたい、ということで値段を絞らせて頂いております」


半分嘘だが、半分本当だ。盗品商に翻訳の伝手をあたっても結局内容はほぼ分からなかった。


だが、品物の貴重さに対して安い値を付けているのはそんな理由じゃない。


“手筈”を整える為には、品を持って帰らせないといけないからだ。


「如何でしょう?もう少し値は下げられますよ。この難解な書物に相応しく、きっと読み解けるエルフの方にお引き渡しできるこの機会を逃したくないんですよ」


〈…………いや、よい。その値で買う〉


長い銀髪のエルフの指は、いつの間にかチャリチャリと音を立てる革袋の紐を摘まみ上げ、ぶら下げていた。


……いつ、財布を取り出した?…まぁどうでもいいか。

後は釣り竿を振り上げる様に合わせるだけ。


「毎度ありがとうございます!この本が貴女様の長い人生の糧になりますよう!」


大嘘だ。すぐにこの本は俺の手に戻ってくるだろう。いや、“戻ってこさせる”か。


白い手に差し出された代金を恭しく受け取ると、押し付けるように分厚く古臭い二冊の本を渡す。

そしてすぐに荷物を纏め、そそくさとその場を後にし、自分の姿を鬱蒼と茂る森の中へ晦ませる。


多少不自然でも構わない。今はとにかく、あのエルフに“あの行商人は何処かへ消えた”と思い込ませることが重要なんだ。


さぁ、小屋から見えなくなる位置まで戻ってきた。ここからが“仕事”の本番だ。


すぐに手を突っ込んで引き出せるように、小型の腰掛け鞄に折り畳んで入れておいた“仕事道具”を引っ張り出す。

強く引っ張り出したその勢いで、強い風に靡く旗の様に広がったそれを素早く身体に巻き付ける。


身体全体をこの布で包む前に、確認の為、頭だけすぽりと出して自分の首から下を見る。

きちんと、草と小石に覆われた地面が透けて見えた。いつも通り完璧だ。


[不可視の外套]を再び頭まで被り直す。これを上手く扱える者として俺の右に出る者はいないだろう。


足跡や音までは消してくれないことに気を付けながら、素早く件の小屋まで戻る。早く“釣り餌”をどこにしまい込んだか調べないといけない。

そうして小枝を踏まないように注意を払いながらも早足で、小屋を見つけた場所まで帰ってきた。扉はすでに締まっており、窓から明かりが漏れている。


先程も同じような光景を見たせいで妙な錯覚を覚えるが、とにかく奴は家に戻ったようだ。


今度は扉を叩かず、窓側の壁にぴたりと張り付き、中を覗く。


すると視界の左端に、中の暖炉の火に照らされて、銀色の長い髪が浮かび上がるのが見えた。


しゃがみこんで、此方側に対して顔を背けて半分背を向けているような姿勢だったが、その白い肌が光を跳ね返しているおかげで手元はよく見えた。


丁度、先程渡してやった本を手に持って………此処からでは端しか見えないがあれは恐らくベッドだろうか。その頭元の横にある小棚にしまい込んだ。


ばたん、と小棚を閉じる音で若干だが窓が揺れる。成程。あそこが貴重品入れか。

やはり“この手”は素晴らしい。時間を掛けて家を荒らし回らなくても一番の獲物が隠されている場所が分かるなんて!


〈ᛁᛏᛟᛋᛁᛁᚪᚾᚪᛏᚪ. ᚪᚾᚪᛏᚪᚾᛟᛁᚴᛁᛞᚢᚴᚪᛁᚥᛟᛗᛟᚢᛁᛏᛁᛞᛟᚺᚪᛞᚪᛞᛖᚴᚪᚾᛣᛁᛏᚪᚴᚢᛏᛖᛋᛁᚴᚪᛏᚪᚵᚪᚪᚱᛁᛗᚪᛋᛖᚾ〉


自分の手法に惚れ惚れとしていると、家主の声が聞こえてきた。

……何と言っている?あのエルフが喋っているのは間違いないが……エルフにも田舎者の方言みたいなものがあるのか?


訳の分からない言葉を呟くエルフの口の動きを観察しようと目を凝らすと、ある不自然なことに気づいた。

やけに奴の表情が柔らかい。先程、行商人として向かい合った時とは別人のようだ。


小棚の横にあるベッドに身体を預けるようにもたれかかるエルフの顔は、ぴんと張っていた目尻が穏やかに下がり、固く結ばれていた口元は緩んでいる。

そして、此方側、窓の外からは確認できないがベッドの奥に右手を回して、何かを撫でまわしているような……………


ちょっと待て。一人暮らしだと聞いていたぞ?誰かいるのか?


外套越しに耳を窓に張り付ける。中の音……暖炉の薪が爆ぜる音、衣擦れの音、中にいる生き物の音を全身全霊で耳の中に取り込む。


……………いや、やはり一人だ。中にいる生き物はあの妙な言葉を使うエルフだけだ。

他の生き物は、人間どころか猫や犬さえいない。精々鼠の足音が聞こえた程度。


〈……ᛒᚪᚱᛖᛏᛖᛁᚾᚪᛁᛏᛟᛟᛗᛟᛁᚴᛟᚾᛞᛖᛁᚱᚢ, ᛗᚪᛞᛟᚴᚪᚱᚪᚾᛟᛣᛟᚴᚢᛋᛁᛏᚢᚱᛖᛁᚾᚪᚺᛁᛏᛟᚥᛟᛏᚢᚴᚪᛖᛒᚪᚺᚢᛏᚪᛏᚪᛒᛁᚪᚾᚪᛏᚪᚾᛁᚪᛖᚱᚢᚺᛁᚵᚪᛏᛁᚴᚪᛞᚢᚴᛁᛋᛟᚢᛞᛖᛋᚢᚾᛖ〉


また訳の分からないことを呟くと同時に、エルフは右手をゆっくりとベッドから引いてするりと立ち上がる。


〈ᛗᚪᛏᛏᛖᛁᛏᛖᚴᚢᛞᚪᛋᚪᛁᚾᛖ. ᚪᚾᚪᛏᚪ. ᚴᛖᛋᛁᛏᛖᚺᚢᚱᛖᛋᚪᛋᛖᛗᚪᛋᛖᚾᚴᚪᚱᚪ, ᛋᚢᚴᛟᛋᛁᛞᚪᚴᛖᚳᚺᚪᛒᚪᚾᚾᛁᛏᚢᚴᛁᚪᛏᛏᛖᚴᚢᛞᚪᛋᚪᛁ〉


例の大きな布のような衣服を軽く直すと、暖炉に向かって軽くその白い手を振った。

すると、不自然なことに瞬く間に火が消える。


暗闇にまだ慣れていない眼は銀髪のエルフを見失う。慌てるな。今度は足音に注意を払って────


ぎぎ、と先程も聞いた、蝶番の軋む音が耳に入った。


即座に息を止め、呼吸音も僅かな衣擦れの音も出さないよう、玄関の扉から出てきたエルフに自分の存在を悟らせないように体の筋一本一本の動きを止める。


エルフは自分のいる方には目もくれず、草と小石を踏みしめて森の中へ入ってゆく。

俺が入ってきた道とはまた別の方角だが、確かあの先には…………湖があったな。


あそこに向かったということは……水浴びか!素晴らしい!あの長い髪を手入れするには時間が掛かるだろう……絶好の機会が巡ってきた!


エルフの姿が森の中に消えると、素早く外套を脱ぎ背負い鞄に押し込んで、扉の前で早速“仕事”に取り掛かる。

さぁまずは鍵を………


いや待て。これは………


違和感に気付き、鍵穴に針を差し込む前にそのまま扉を軽く押す。


なんと、何の抵抗もなく扉は開き、俺は小屋に迎え入れられた!

掛け忘れか、そもそもこんな所に住んでいるから戸締りの習慣が無くなっているのか、なんにせよ僥倖!


そのまま小屋に踏み入り、暗闇に慣れた眼で辺りを軽く見回す。

獲物の位置は“釣り絵”のおかげで目星はついているが、それはそれとして無造作に置かれた財布の一つでも見つかれば儲けもの。


………残念ながらそれらしいものは見当たらない。ならさっさと獲物を“釣り餌”ごと回収してしまおう。あのエルフが戻ってこないとも限らない。


そう考え、部屋の中で一つしかない、シーツが膨らんだベッドの傍へ──


シーツが?膨らんでいる?


思わず後ろに飛びのく。そんな馬鹿な!他には誰もいない筈じゃ……


………いや……待て。確かに不自然に、人の大きさ程に膨らんでいるが………全く動かない。

突然の侵入者に驚いて起きるどころか、呼吸に合わせて白いシーツが上下する様子も無い。


そもそも誰かいるならわざわざ暖炉の火を消すか?


………意を決して、恐る恐る、シーツを捲る。


するとそこには、少し痩せた身体を真っ直ぐに伸ばし、腹の上で指を組み合わせるように握り、眼を瞑り、まるでこれから棺桶に入るかのような姿勢を模られた若い男の石像が横たわっていた。


(なんだよ、像か)という安堵が胸にやってくる。


そして同時に(………なんでベッドにこんなでかい石像を?)という疑問がやってくる。

とりあえず、窓から覗いたあの時、例のエルフが撫でまわしていたのはこれだろう。


一人暮らしに倦んだ寂しさからこんな物を人の代わりにしているのか、端にあのエルフが持つ異様な癖なのか……もしかして自分で作ったのか?


……しかしなんにせよ、作りが素晴らしい。様々な品を“仕事”で扱ってきた俺には分かる。これは一級品だ。


当然、男性の衣服は石から切り出されたものであるにも関わらず、身体の線を浮かび上がらせる布の質感が見事に再現されている。

これは並大抵の技術ではない。

間違いなく多くの金貨に換えられる一品だ。……自分の背丈程あるが、どうにかして持ち帰れないか?


……しかし、どうなっている?よく見れば髪の毛の一本一本まで丁寧に……………


像を舐め回すように見る。そして……あることに気づいた。


この石像が目に入った瞬間から、心の隅に芽生えた微妙な違和感。その正体に。


…………肝が氷の塊を飲み込んだように急激に冷えた。まさか……


思わず、石像の方へ手が伸びる──────


〈触れれば骨も残らぬと思え。賊〉


心臓が跳ね上がる。声がした方へ全力で身体を切り返し、短剣を抜き放ち、構える。


あのエルフだ。先程出て行った筈のエルフが俺の目の前にいる。暗闇と逆光になった月明かりのせいで、その表情は分からない。

ただ、声色には確かに怒りの色が混ざっていた。


何故だ、出て失せた筈だろ、そもそも戻ってきたのなら俺なら足音で気づけた筈なのに。

何故、どうして。


駄目だ、思考を落ち着かせる時間を作らないと………


「………何でバレた?」


〈あの歴史書だ〉


「………歴史書?」


〈解読できなかったというのは本当なのであろうな。なにせ、私に売りつけたのだから〉


〈盗られたという話は聞いておったが、妾が資金の為に古馴染みに譲り渡した、妾が書き記した書物を再びこの手に持つことになろうとは〉


嘘だろ。


運が悪いとかそんな段階じゃないぞ。


自分の動揺を知ってか知らずか、エルフが此方に向かって歩を進める。風も無いのにあの長い髪が何かに吹き上げられるように不自然に揺れている。


まずい。俺が冷静じゃないのもまずいが、相手の手の内が何も分からない───


……いや!一つだけ分かっていることがある!


「近づくんじゃねぇ!!それ以上こっちに来たら俺は窓から……街に逃げるぞ!」


〈……逃げてどうなる?そうなれば妾は憲兵に貴様のことを…〉


「はっ、大っぴらに憲兵に頼れる立場かぁ!?人間を石にして可愛がる異常者が!」


エルフの歩みが、止まった。


〈ふむ、よく気づけたものだ〉


「モノを見る目には自信あるもんでな……」


必死に逃走経路を頭の中で組み立てる。


まだだ、まだ時間が欲しい。


「……あの歴史書を書いたとか言ってたなオイ。そんな古代から生きてるお偉いエルフサマが落ちたもんだなぁ。ええ?嫌がる短命種を無理矢理石にするのは楽しかったか?」


エルフはその場で止まったまま動かない。相変わらず暗闇が顔を隠すおかげで表情はさっぱりだ。


〈物を見る眼は知らないが、観察眼は無いようだな〉


「ああ…………?」


〈貴様はその男の恰好が、妾の“石化の魔術”に抗ったように見えるのか?〉


……………


………言われてみれば、おかしい。

今からお前を石に変える、と言われて抵抗しない奴はいない。だから、そういった魔術の被害者は相手に掴みかかろうとする格好で固まっていたり、逃げ出す為に走り出そうとした格好で固まる。後は怯えて丸まった格好で固まったり…………


なのに、こいつは非常に穏やかな様子で、まるで何かに祈りを捧げるように手を組んで石になっている。どういうことだ?


〈その男は妾の魔術を受け入れてくれたのだよ。自分の人生を取り戻す為に、妻である妾にその身を預ける為にな〉


「……………ああ?」


〈石化には時間が掛かる。自分の身体がゆっくりと石に変わる感覚には恐怖を覚えたろうに、身じろぎ一つせなんだ。………惚れ直したよ〉


声色が少しだが、柔らかくなった。


……これだ。ここを突っついて時間を稼ぐ。


「…人生を取り戻すってどういうことだ」


〈[ᚴᚢᚱᛟᚾᛖᛣᚢᛗᛁᚾᛟᚤᚪᛗᚪᛁ]ᛞᛖᛋᚢᚤᛟ.〉


「は?」


〈[黒鼠の病]と言ったのだ。かつてあった、妾の国を滅ぼした病。人間の間で流行った病だ〉


「……聞いたことねぇぞ、そんな病気」


〈それはそうであろう。お主らにとって遥か昔に根を切られ、今はもうどの医者も話の種にしない、調べることも無くなった病であるからな〉


「……全員治って、病気そのものが消えたんなら当たり前だろうが」


〈逆だ。罹った者は、誰一人として治らなかった〉


「あ……?」


〈病としてあまりに“優秀”であった為に、瞬く間に病魔は侵した者共を死に至らしめた〉


〈病を患った者を運び手としてその魔の手を他所へ伸ばす、その前にな〉


〈皮肉なものだのう。あまりに毒性が強く凄まじい早さで病に侵された者が死に絶える為に、逆に病は広がれなかった。[黒鼠の病]は罹った者達と運命を共にしたのだ〉


〈…たった一人を除いてな〉


……名前も聞いたことが無い昔の病気。その時代から生きてやがるエルフ。その夫だという、ベッドに横たわる石になった男。


…………そういうことか。


「身体を石に変えて、病気の進みを無理矢理止めやがったのか!」


〈……今はもう、誰もこの病を調べ上げん。名前すらほぼ残っておらん。精々、貴様が手にした妾の歴史書に記されている位か〉


〈だから妾がやるのだよ。万年の月日を重ねようとも、必ずな〉


〈彼の人生を取り戻し、また共に暮らす為に〉


やっと合点がいった……………そして、同時に逃げ道を考え付いた。

…こいつをどうするのかという算段を!


「そりゃ御大層なことで……でもよ、気付いてるか?」


〈何にだ?賊よ〉


「あんたが連れまわしているのは、国を一つ滅ぼせる流行り病を抱えた人間なんだぜ?」


「石化はともかく、その病気のことを俺が触れ回ったらあんたと“それ”はどうなるか想像つくだろ?」


〈……〉


「“それ”は取り上げられる!きっと粉々にされるぜ!大昔に無くなった筈の、治療法が無い病気なんて死んでも流行らせるわけにはいかねぇからな……」


「分かるか?俺はお前の弱みを握ったんだ!!だから」


〈ᚾᛁᚥᚪᛏᛟᚱᛁᚾᛟᚤᛟᚢᚾᛁᛟᚱᛟᚴᚪᛞᛖᚺᚪᚾᚪᛁᚴᛖᚱᛖᛞᛟ, ᚺᚢᚴᚢᚱᛟᚢᚾᛟᚤᛟᚢᚾᛁᛋᚪᚴᚪᛋᛁᚴᚢᛗᛟᚾᚪᛁ. ᚪᚥᚪᚱᛖᚾᚪᚴᚪᛏᚪᛞᛖᛋᚢᚾᛖ〉


「……………あ?」


〈半端者が、と言うたのだ〉


ざり、と音を立ててエルフは再び動き出した。


〈ただ愚かであれば憲兵に捕らえられるだけで済んだかもしれぬのに〉


ざり、ざり、とエルフが此方に近づいてくる。


〈もっと賢しければ弱みとやらを握ったお前を妾がどうするか、何故貴様を長話に付き合わせたか想像がついたであろうに〉


ざり、ざり、ざり。


エルフが近づいてくる。


なのに何故、なんで、俺の足は動かない?


足が、足がまるで、


〈“石化には時間が掛かる”と教えてやったのに〉


〈まぁ、しかし助かるぞ。貴様は薬の研究に役立つ。安心しろ。“いつか”この研究が終わった日には開放してやろう〉


エルフがその顔に浮かんだ表情が見える位置まで近づいてきた。

その眼に、最初に見た時の優し気な青さは、何処にもなく、ただただ血の様に赤く染まって、


〈丁度、鼠以外の“実験動物”が欲しかったのだ〉



翻訳


〈〉


家主に来客を伝える為に、扉を力強く叩く。


……ボロ小屋に見えたが割としっかりとした作りだ。“仕事”の時は無理に扉を破るようなやり方は控えるべきだな。


〈ᛗᚪᛏᛏᛖᛏᛖᚴᚢᛞᚪᛋᚪᛁᚾᛖ. ᚪᚾᚪᛏᚪ. ᛟᚴᚤᚪᚴᚢᛋᚪᛗᚪᚵᚪᛁᚱᚪᛋᛁᛏᚪᛗᛁᛏᚪᛁᛞᛖᛋᚢ〉

(待っててくださいね。貴方。お客様がいらしたみたいです)


…………鍵穴を観察していると、扉越しに何か聞こえた。

家主の声だろうが、何と言っている?



〈〉


ばたん、と小棚を閉じる音で若干だが窓が揺れる。成程。あそこが貴重品入れか。

やはり“この手”は素晴らしい。時間を掛けて家を荒らし回らなくても一番の獲物が隠されている場所が分かるなんて!



〈ᛁᛏᛟᛋᛁᛁᚪᚾᚪᛏᚪ. ᚪᚾᚪᛏᚪᚾᛟᛁᚴᛁᛞᚢᚴᚪᛁᚥᛟᛗᛟᚢᛁᛏᛁᛞᛟᚺᚪᛞᚪᛞᛖᚴᚪᚾᛣᛁᛏᚪᚴᚢᛏᛖᛋᛁᚴᚪᛏᚪᚵᚪᚪᚱᛁᛗᚪᛋᛖᚾ〉

(愛しい貴方。貴方の息遣いをもう一度肌で感じたくて仕方がありません)


自分の手法に惚れ惚れとしていると、家主の声が聞こえてきた。

……何と言っている?あのエルフが喋っているのは間違いないが……エルフにも田舎者の方言みたいなものがあるのか?


訳の分からない言葉を呟くエルフの口の動きを観察しようと目を凝らすと、ある不自然なことに気づいた。

やけに奴の表情が柔らかい。先程、行商人として向かい合った時とは別人のようだ。


小棚の横にあるベッドに身体を預けるようにもたれかかるエルフの顔は、ぴんと張っていた目尻が穏やかに下がり、固く結ばれていた口元は緩んでいる。

そして、此方側、窓の外からは確認できないがベッドの奥に右手を回して、何かを撫でまわしているような……………


ちょっと待て。一人暮らしだと聞いていたぞ?誰かいるのか?


外套越しに耳を窓に張り付ける。中の音……暖炉の薪が爆ぜる音、衣擦れの音、中にいる生き物の音を全身全霊で耳の中に取り込む。


……………いや、やはり一人だ。中にいる生き物はあの妙な言葉を使うエルフだけだ。

他の生き物は、人間どころか猫や犬さえいない。精々鼠の足音が聞こえた程度。


〈……ᛒᚪᚱᛖᛏᛖᛁᚾᚪᛁᛏᛟᛟᛗᛟᛁᚴᛟᚾᛞᛖᛁᚱᚢ, ᛗᚪᛞᛟᚴᚪᚱᚪᚾᛟᛣᛟᚴᚢᛋᛁᛏᚢᚱᛖᛁᚾᚪᚺᛁᛏᛟᚥᛟᛏᚢᚴᚪᛖᛒᚪᚺᚢᛏᚪᛏᚪᛒᛁᚪᚾᚪᛏᚪᚾᛁᚪᛖᚱᚢᚺᛁᚵᚪᛏᛁᚴᚪᛞᚢᚴᛁᛋᛟᚢᛞᛖᛋᚢᚾᛖ〉

(……バレないと思い込んでいる、窓から覗く失礼な人を使えば再び貴方に会える日が近づきそうですね)


また訳の分からないことを呟くと同時に、エルフは右手をゆっくりとベッドから引いてするりと立ち上がる。


〈ᛗᚪᛏᛏᛖᛁᛏᛖᚴᚢᛞᚪᛋᚪᛁᚾᛖ. ᚪᚾᚪᛏᚪ. ᚴᛖᛋᛁᛏᛖᚺᚢᚱᛖᛋᚪᛋᛖᛗᚪᛋᛖᚾᚴᚪᚱᚪ, ᛋᚢᚴᛟᛋᛁᛞᚪᚴᛖᚳᚺᚪᛒᚪᚾᚾᛁᛏᚢᚴᛁᚪᛏᛏᛖᚴᚢᛞᚪᛋᚪᛁ〉

(待っていてくださいね。貴方。決して触れさせませんから、少しだけ茶番に付き合ってください)


例の大きな布のような衣服を軽く直すと、暖炉に向かって軽くその白い手を振った。

すると、不自然なことに瞬く間に火が消えた。



〈〉


「“それ”は取り上げられる!きっと粉々にされるぜ!大昔に無くなった筈の、治療法が無い病気なんて死んでも流行らせるわけにはいかねぇからな……」


「分かるか?俺はお前の弱みを握ったんだ!!だから」


〈ᚾᛁᚥᚪᛏᛟᚱᛁᚾᛟᚤᛟᚢᚾᛁᛟᚱᛟᚴᚪᛞᛖᚺᚪᚾᚪᛁᚴᛖᚱᛖᛞᛟ, ᚺᚢᚴᚢᚱᛟᚢᚾᛟᚤᛟᚢᚾᛁᛋᚪᚴᚪᛋᛁᚴᚢᛗᛟᚾᚪᛁ. ᚪᚥᚪᚱᛖᚾᚪᚴᚪᛏᚪᛞᛖᛋᚢᚾᛖ〉

(鶏の様に愚かではないけれど、梟の様に賢しくもない。哀れな方ですね)


「……………あ?」



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