来客
娘が死んだ。自殺だった。
何か悩み事や隠し事があるようには見えなかったが、きっと私の母としての目が肥えていなかったのだろう。何の変哲もない平日、娘は通学路の橋梁から飛び降りてしまった。事故ではない。目撃してしまった人々の話によれば、娘は確かな足取りで自らの意思だと誇示するように堂々とそこから舞い落ちたらしい。
彼女が自ら死を選ぶ理由なんて、果たしてあっただろうか。あの子が幼い頃に夫と別れ、もう十年以上二人きりで過ごしてきた。片親だとしても不自由なく幸せに暮らせるよう、彼女の心の機微を見逃さまいと気を張ってきたつもりだ。しかし、私は結局娘の悩みに気がつくことすら出来ないダメな母親だったのだろうか。辛いことを相談することすら出来ない、頼りない母だったのだろうか。
何もなかったわけがない。それなのに、何も思い浮かばない。
どれだけ思い返しても、浮かぶのは無邪気に笑う娘の顔だけ。娘が、彩未が死んだあの日から、もう毎晩彼女の夢ばかりを繰り返し見ている。そこに登場するのはいつだって、楽しそうに私を見て笑うあの子の姿。どれだけ場面が切り替わろうが、そこに映るのが彼女であることと、綻ぶ微笑みだけはずっと同じ。この一か月、ずっと。
黒色で縁取られた狭そうな四角い世界の中に、色褪せることなく脳裏に残り続ける娘の笑顔が永遠の終わりを告げるように佇んでいる。正座した足の甲に畳みの目が食い込むように張り付いて、ゆったりと漂う線香の香りと共に私をこの場に縛り付ける。食事をとり終えるたび、ただそこに残り続けるだけの笑顔と遺骨の前に座りこんでは動けなくなる。もう娘は二度と戻らないのだという残酷な実感を持ち続けながら、少しでも彼女の余韻が残っている場に縋り続けたくて堪らない。折りたたまれていく身体が、全てを諦めたように畳へと吸い寄せられていく。髪の毛が肩から垂れ落ち、電気がついているはずなのに視界が薄暗くなる。あの日から、太陽が差していても、世界が暗い。光源など人生の補佐でしかないのだと思い知る。
鼻先が畳に付きそうだった私を引き留めたのは、居間から届いたインターホンの音だった。予定にない来客に、私の身体は巻き戻るように起きていく。
人を顔を合わせるような気分ではないが、そうも言っていられない。私は大人になってしまった。面倒な新聞勧誘や保険の営業であったとしても、バレているのではないかと思うと居留守を使うことすら出来ない。
「・・・はい」
通話ボタンを押し、顔の見えない来客に応答する。
「あ、あの、室田さんの・・・彩未さんのクラスメイトの鶴見といいます」
恐る恐ると言い表すのが相応しい、か弱く小さな声だった。
「突然すみません。その・・・彩未さんに手を合わせたくて」
諾否の言葉が出てこなくて、自然と和室の方向を振り返った。閉まりかけたふすまの向こうに見える仏壇では、娘が変わらぬ笑顔を向けている。生きていた頃は毎分毎秒笑顔でいてほしいと願っていたのに、今では変わらない表情が胸を締めつける。
「・・・ありがとう。今開けますね」
通話終了ボタンを押し、みっともなく崩れた髪に指を通す。ソファに沈みそうになっていた髪ゴムを手に取り、視界を邪魔する髪の毛をまとめて後ろで一つに結ぶ。形から入るというほど大袈裟なものではないが、こうすると何だか母親や大人としての電源が入るような気がする。娘が居なくとも、私はもう大人なのだ。そうなってしまったのだ。