3.標的のコード
「資料……あれって木下さんですよね? 詳しく教えてもらえませんか?」
咲良は、コーヒーマシンの前にたつ木下に、手に汗握りながら尋ねた。エナジードリンク片手にいつものように飄々としていた木下の瞳が、僅かに泳いだ。「君に資料を渡したのは失敗だったかもね……」小さくため息をついた。
「僕はプログラムのことは、あまり分からないけれど……あの人は、僕達のいる世界とは別の次元にいる気がするんだ」
「別の次元……? どういう意味ですか?」
木下は一瞬言い淀んだが、静かに呟いた。
「――前の現場でも、〝彼が来たら全部片付く〟って噂があった。実際、何かが消えるんだ。証拠とか、経緯とか、ミスした奴の〝痕跡〟とか……」
咲良の胸に、ぞくりとした感覚が走った。火消し屋とは、ただ修正する者ではない。
〝都合のいい真実〟を作る者――かもしれない。
※
その日の午後、咲良は、コード管理システムの履歴を確認していた。
「……これって……?」
彼女の指が止まった。前回の障害修正で、澤村が行ったコミットの中に、一件だけ説明のないコード変更があった。関係ないはずのモジュール。だが、そのコードには、エラートラップの中に不可解な回避ルートが追加されていた。
(なにこれ……? 誰にも知られたくないバグを〝封じ込めた〟ような……?)
さらにログを追うと、その処理は半年以上前、某大手ベンダーとの共同開発コードの名残だった。
(まさか……そんな前のコードまで〝直して〟たの?)
澤村という男の輪郭がぼやけていくのを咲良は感じた。
※
「おい、お前……余計なもん調べてないか?」
喫煙所で、鬼頭が声をかけてきた。咲良はびくりと肩を震わせた。
「な、なんの話ですか?」
「……澤村のことだよ。いいか、あいつに関しては〝見なかったことにする〟のがルールなんだ」
「それって……なにか隠してるってことですか?」
鬼頭は深く煙を吐いた。
「いや、俺たちは隠してもらってるんだよ。あいつに。プロジェクトの失敗、誰かの凡ミス、それをなかったことにしてくれる。代償もなく、な」
「代償……?」
「そう。だから俺たちは、〝目をそらす〟ことでバランスを取ってる。それを崩すな。お前まで燃えるぞ」
※
深夜、オフィスでひとり残って作業をしていた咲良のもとに、澤村が現れた。
「……検索ログ、見たよ」
咲良は咄嗟にモニターを閉じた。
「澤村さん……あの、私――」
「別に、怒ってないよ。ただ、ひとつ教えておこうか」
澤村は淡々と語った。
「〝コード〟には、魂がある。人が書いたものには、必ずその人の〝癖〟や〝思想〟が染み込む。だから俺はそれを読み取れる。壊れた構造、怠慢な書き方、焦りの痕……全部、わかる」
咲良は言葉を失った。それは、技術というより、共感覚に近い能力……
「でも、なんでそんなことが……?」
「昔、ある現場で〝人が死んだ〟 プログラムのバグが原因でね。誰も責任を取らず、誰も謝らなかった。だから俺は、あの日から〝すべてを直す〟ことを自分の仕事にした。誰にも見えなくても、俺だけが真実を見つけて直す。……それだけだよ」
※
次の日、咲良は誰にも告げずに、例の修正モジュールをテスト環境で動かしてみた。そして驚愕した。
〝隠された処理〟は、ある特定の顧客データをフィルターし、ログに残さず破棄する機能だった。
(これは……〝誰か〟を守るための処理……? それとも――)
咲良の中で、澤村への〝興味〟が、〝警戒〟へと変わった。この男は、ただの火消し屋じゃない。標的を選び、〝正義〟の名で、コードを書き換えている。