2.疑惑のテストケース
プロジェクトの完了とともに、社内は安堵と歓喜に包まれた。打ち上げの席でグラスを静かに傾ける澤村の横顔には、達成感と、どこか遠い眼差しが同居していた。
だが、その横で咲良の視線だけが、鋭く彼を射抜いていた。
――あの日、澤村が見せた〝あの解決〟 あれは偶然なんかじゃない。
咲良の中で芽生えた疑念は、確信へと変わりつつあった。
※
「咲良。あのテストケース、もう一度見直してくれ」
数日後、鬼頭に呼び止められた咲良は、重いファイルを手にテスト環境へ戻った。鬼頭のコードは、今回もまた複雑極まりなかった。だが、彼女の違和感は、コード自体ではなかった。澤村が修正したバグに関連する一連のテストケース――そこにだけ、妙な〝隙〟があった。
「鬼頭さん、このテスト、少し甘くないですか?」
鬼頭は顔をしかめ、「問題ない。俺のコードは完璧だ」と即答した。
けれど、咲良にはわかっていた。これは、コードの問題ではない。テストが〝巧妙に調整〟されている。澤村の手で――
※
咲良はその疑念を胸に秘めたまま、誰にも打ち明けることができなかった。鬼頭は論外。ネットワークエンジニアの木下も頼りにならない。澤村本人に尋ねるには、まだ心の準備が足りなかった。そんな矢先、新たなプロジェクトが始動した。クライアントは大手ECサイト。ユーザー数は数百万。開発の難度は、前回とは比にならない。
鬼頭のコードは、相変わらずエレガントで複雑だった。咲良は再び、巨大なテストケースとの戦いに身を投じることになる。
そして――事件は起きた。
「……個人情報の漏洩……!?」
重大なバグが、運用前の最終検証で発覚した。一歩間違えば、会社が吹き飛ぶレベルの危機。鬼頭の手が震えた。
「……わからん……なぜだ……!?」
「――澤村さん、お願いします!」
咲良の懇願の声に、澤村は静かに頷いた。眼鏡の奥の眼差しが、プロジェクト全体を鋭く見通している。
数時間後――バグは修正され、システムは奇跡的に安定を取り戻した。咲良は、その一部始終を息を呑んで見守っていた。そして確信する。
澤村拓也は、ただのSEなんかじゃない。
※
「鬼頭さん、澤村さんって……元開発者なんですか?」
咲良は、思い切って鬼頭に話を切り出した。鬼頭は、煙草に火をつける仕草を止め、ああ……と頷いた。
「――あいつはな、俺よりも速く、正確にバグを潰す。それも、一切の無駄がない」
「え……?」
「昔、一緒に組んだプロジェクトでな。俺が一晩かけて潰したバグを、あいつは十分で終わらせたよ。しかも、再発ゼロだ」
咲良は黙って聞いていた。
「だが、あいつはそれを誇らない。むしろ、隠そうとしてる。まるで……自分の才能が罪であるかのようにな」
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咲良は澤村の正体を探る決意を固めた。社内の人事システムにアクセスし、彼の過去のプロジェクト履歴を調べようとした。だが、検索結果には――ほとんど何も表示されなかった。咲良は木下を頼ることにした。木下は鬼頭の次に社歴が長い数少ない社員。きっと彼について何かを知っているはず……
「木下さん……澤村さんって、昔、何してた人なんですか?」
サーバールームでネットワーク機器に埋もれていた木下は、一瞬、目を細めた。
「さあね。俺は〝今の澤村さん〟しか興味ないし、それ以外は知ろうとも思わないよ」
しかし、咲良はその言葉の裏にある〝防御〟に気づいた。木下は何かを知っている。間違いない。数日後、データファイルが一通、匿名で社内メッセンジャーに届いた。そのファイルには、かつて澤村が所属していた大手Slerの情報が記されていた。彼は、かつて国家プロジェクト級のシステム設計に携わり、ある事件をきっかけに姿を消していた――
※
咲良は、夜のオフィスで一人、画面を見つめていた。
「あなたは、なぜその才能を封印しているの?」
この謎を解くことが、自分に課されたミッションのように思えてならなかった。
その頃、澤村は小さなノートPCの前で、静かにコードを眺めていた。そこには、決して表に出ることのない、彼だけが知る〝真実の設計図〟が広がっていた――