1.火消し屋
IT業界には、誰にも頼れない〝最悪の夜〟がある。納期前日、システムは動かず、顧客は激怒、上司は責任を押しつけ、プロジェクトは崩壊寸前。
――その夜、ひとりの男が呼ばれた。
彼の名は、澤村拓也。表向きは、地味な中堅システムエンジニア。だが、業界の裏ではこう囁かれていた。
〝火消し屋〟
※
「また落ちた!? なんでだよ……」
若手プログラマの悲鳴が、深夜のオフィスに響いた。システムは止まり、エラーはログを埋め尽くしていた。ベテランプログラマーの鬼頭は無言でキーボードを叩いていたが、額には汗が滲んでいる。彼のコードに致命的なバグが混在していた。だが、もはや誰にも解読できないレベルに複雑化している。試験要員テスターの咲良は、冷たい缶コーヒーを握りしめながら、ただ画面を見つめていた。
「……あと十二時間。納品できなければ、このプロジェクトは終わる」
そのとき、部屋の空気が変わった。一人の男が、ゆっくりと入ってきた。
「――状況、見せてもらえるかな」
無精ひげに、くたびれたシャツ。だがその声には、不思議な〝落ち着き〟があった。鬼頭が顔を上げた。
「澤村……来たのか」
澤村は、誰にも指示されることなくPCの前に座った。誰よりも静かに、誰よりも速く、ログを読み、コードを追い、仮想環境を構築していく。
「このコード、三層構造で再帰してるな……なるほど、バグの震源はここか」
鬼頭が目を剥むいた。
「おい、それ……俺でも見落としてたぞ?」
「お前のコードを貶けなすつもりはない。むしろよく書いてる。ただ、組み方が悪い」
淡々と告げる澤村。その指は、キーボードの上で踊るように動き続けていた。咲良は息を呑んだ。この人……コードと対話してる?
※
朝五時。すべてのバグは潰され、システムは完全に動作していた。プロジェクトリーダーが歓声を上げた。
「動いた! これで納品できるぞ!」
鬼頭は椅子にもたれて、タバコを取り出した。
「やれやれ、また命拾いしたな」
咲良は黙ったまま、澤村の背中を見つめていた。誰よりも静かに、淡々とその役目を果たしていた彼。褒められることもなく、誇る様子もなく。ただ一言、「……完了」とだけ呟いて、ログを閉じた。
※
打ち上げの居酒屋。仲間たちが酒を酌み交わし、安堵の声が飛び交う中で、咲良は一人、澤村の言葉を思い返していた。
「完了」――それだけで、すべてを終わらせた男。
彼はいったい、何者なのか。そしてなぜ、自らの力をあくまで〝影〟に徹して使おうとするのか。咲良の胸に、名状しがたい感情が芽生えていた。疑問、尊敬、そして――興味。
やがて彼女は知ることになる。この〝火消し屋〟には、誰も知らない過去と、決して語られない秘密があることを。