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初期化した人生も、最初のプログラム設定を適当に完了させるとさすがに退屈になってきた。この土地は風が吹く時間が極めて少ない。太ったゴールキーパーにいつも通せんぼされているみたいだ。昼のアスファルトの表面はずっとバーナーで焼かれたように熱く、外に出ると俺は靴の底が溶けないよう小刻みに歩いた。いつもの定食屋で天津飯を食べたあと、駅前の喫煙所で煙草を口に挟んだ状態でまた視線が止まる。伝言板だ。
《できるならそうしたいけど、そしたらもうここへは帰ってこれないし》
出たな妄想系女子。おぉついに二行にまたがって書きだしたか。この女も相当退屈なのだろう。いかにもって感じで雲行きが怪しくなるストーリーズの展開。これインスタだったら思いきり加工した悲劇のヒロイン的な写真をアップしている。そうしたいって、どうしたいのだろう。というかどういう話の展開にしたいのだろう。俺は煙草の灰を落とし、不幸になる妄想で幸せになれるやつに本物の不幸を味合わせてやりたいと思った。
小石を蹴飛ばしながら帰ってくると、買い物袋をかごに乗せて自転車で出て行く伯母さんの後ろ姿が見えた。その背中は俺に気付くことなく反対方向へ遠ざかっていく。事務所のドアはいつも開けっぱなしなので俺はそのまま中に入り、階段を昇った。2階の部屋に入ろうとしたときに事務所の電話が鳴った。あと数分遅かったら伯母さんがまだいたのに。俺は電話を掛けている相手を不憫に思いながら部屋に入って扇風機を回した。電話のベルは九回鳴って切れた。無意識にかぞえていた自分の聴覚は、性感帯として機能していたときも相手の声とかぴちゃぴちゃと響く音とかスプリングのきしみ音などを無意識にかぞえていたのかもしれない。ふと性的な感覚の汁が脳内に染み出す。でも、記憶から滑り落ちそうになっている声が誰のものか分からない。元妻の声か、部長の娘の甲高い声か、ズワイガニのどうしようもない角度で上ずった声か。とそこへ電話のベルが再び鳴り響いた。今度は声に出してかぞえてみた。四、五、六、七。十八回を超えたあたりでさすがに不安になり、俺は階段を降りた。事務所の白いビジネスフォンが誰かの声でぱんぱんに膨張しているように見える。受話器を取るといきなり大声で何やってんだ、と言われた。晋太郎伯父さんだった。伯母さんはさっき買い物に出掛けたみたいで、俺が言うと伯父さんは急に声色を変えてそれは悪かった、ところでマサユキくん、今何してる、と言った。
事務所の裏にあるプレハブ倉庫の中は完全にサウナ状態だった。おまけに物が溢れかえっていて扉を開けるだけでも一苦労だった。俺は腕で汗を拭いながらとりあえず棚の上から順番に物をどかしていった。テントウ虫の形をしたポータブルのレコードプレイヤー、黄ばんだ観光地のペナント、鮭を銜えた木彫りの熊、バットとグローブ、バドミントンのラケット、古いミシン、大量のコマ、大量の輪投げの輪。全てに埃が厚く堆積しているが、以前は誰かの大切な所有物であったことが窺える。その中に古い安全帯が透明の袋に入った状態で置いてあった。それには埃も被っておらず、歴史もそんなに感じなかった。これだ、俺は思わずつぶやいた。マサユキくん悪いがそれを見つけ出したら現場まで届けてくれんか。伯父さんは電話でそう言っていた。俺は安全帯を抱え、ついでにいくつかの輪投げの輪を失敬して2階の部屋に持ち込んだ。退屈を紛らわせるための道具としてそれは役に立ちそうな気がした。
伯父さんたちは今日、隣町の駅舎の漏水補修工事をしているらしい。俺は安全帯の入った袋を抱えて駅に戻った。運良くそれほど待たずに到着した電車に乗リ込み隣の駅で降りる。線路に架かった跨線橋の屋根にヘルメットを被った作業員の姿が見える。直射日光を遮蔽するものが一切ない場所は見ているだけでふくらはぎが痙りそうだ。ホームから声を掛けると伯父さんが手を上げて応答し、階段脇に設置された抱足場を伝って降りてきた。足場の下にはチョージもいる。いやぁすまんね、それこいつに渡してやってくんねべか。伯父さんに言われて俺は安全帯を袋から出し、チョージに手渡す。ありがとございます。腰に安全帯を巻くと、チョージはおぼつかない足取りで鉄骨足場を昇っていった。
「あいつにはまだ高所作業をやらしてなかったんだ。でも今日は手配ミスでクボタとツカさんが別の現場に持って行かれちゃったからよう」
「そうでしたか」
「助かったよマサユキくん。ありがとな」
そう言って伯父さんはするすると足場を昇っていった。
「あ、伯父さん」俺は反射的に声を出していた。「この高さだとフルハーネスじゃなきゃまずいんじゃないですか」
「ははは、東京じゃそうだべな」
全国的にそうだろ、と思ったが言うのはやめた。俺はもう建設業界の人間じゃない。なんの業界の人間でもない。呼吸をしているだけの生物なので人間でもないかもしれない。炎天下で汗を流しながら親綱にフックを掛けるのが人間だ。今の俺にはフルハーネスもなければフックを掛ける親綱もない。まして誰かの親綱になんかもう二度となれない。
待合室に行って時刻表を見ると、帰りの電車が来るのは一時間以上先だった。扇風機もない待合室でこのままじっと待っていたら死んでしまうので、まぁそれでもいいが、俺はとりあえず改札を出ることにした。
その駅の周辺は輪を掛けてというか見事に何もなかった。線路に平行した細い道路には標識もなければ電柱もなく、少し歩くと急な下り坂となった。いつの間にか線路は見えなくなり、道の両脇には鬱蒼と茂る雑木林が続いていた。枝葉の日陰によっていきなりの涼しさに包まれた俺は、くすぐったい重力の中に踵を踏み込んでいる意識に包まれた。一歩一歩、からだがどこかへ静かに落ちていく感じだ。水の流れる音が耳に入る。大地をえぐり取ったような斜面からはジャングルジムほどの巨大な木の根が露出しており、その脇に水嵩の浅い小川が斜めに流れているのが見えた。わずかな隙間を縫う午後の木漏れ日が肌色の光線となって水面を照らし、それ以外は多種多様な形をした緑色の葉っぱで景色が覆われている。道路や小川の周辺にはゴミひとつ落ちていない。それは清潔というより無機質で一歩間違えば死臭が漂っている印象だ。死ぬにはよさそうな場所かもしれない。熱のこもった俺のからだは道路から離れ、誘われるように水辺へ導かれた。靴と靴下を脱いでズボンの裾を折り曲げ、浅い小川に足を浸す。つーんとする冷たさが全神経を一斉に撫でる。なんという心地よさだ。俺はそのまま小川に沿って歩いてみることにした。緩やかなカーブを何回かやり過ごすと深緑はさらに濃さを増し水嵩も深くなっていった。撫でるような水の流れる音に混じって短い鳥の啼き声も聞こえる。枝葉で隠れていて空はほとんど見えない。青っぽく見える葉の隙間の空間はまるで折り紙でできているようだ。鳥の声はそこに誰かの指が強い力で精巧な折り目を入れる音に聞こえる。俺は両手に持った靴を茶色い岩の上に置き、ズボンの裾をもう一段折り曲げて前に進んだ。するとだんだん川底と両脇の斜面との高低差が大きくなり、ミニチュアの渓谷を歩いている気分になった。ふと見ると、目の前に苔むしたコンクリートの小さな橋が架かっている。どうやら小川を渡る道があるらしい。俺は橋をくぐろうと腰を曲げた。辛い態勢だが少しの辛抱だ。橋の下に入るといきなり視界が暗くなった。折り曲げたズボンの裾が濡れている感触。やばい思ったより深くなっている。一歩足を踏み出すたびに底石の水苔で踵が5ミリくらい滑る。俺は視界の悪い水面を凝視しながら進んだ。これ以上深みに嵌まらぬよう一歩ずつ慎重に。それにしてもおかしい。この態勢になってから結構進んだ。とっくにくぐり終えてよさそうな距離を。なのにまだ暗い。変だな。俺は立ち止まって顔を上げた。暗い橋底はずっと先まで続いている。ズボンは膝下まで完全に水没してしまった。折り曲げた意味がなくなっている。水に浸したノートの文字が段々消えていくように、俺の生きてきた時間や記憶や感情やデータや売上や利益率や快感や落胆や愛情がこのまま橋の下の誰にも見えないところで滲んで溶けて消えていくような気がした。人生を何度も折り曲げた意味なんて最初からなかったのだ。伸びしろがなくなった時点で生きる喜びを味わう可能性はなくなり、あとは後悔の振り幅だけが増えていく。誰かの人生を羨ましがり、そいつは別の誰かの人生を羨ましがり、嫉妬し合って後悔し合って勇気がないから見なかったことにして、仲間はずれにされることを怖がって生えてしまった嘴が親にばれることを怖がってみんなで醜い風貌になっていくのが人間建設工事の基本工程なのだ。もういい。どうでもいい。俺は視線を水面に戻し、再びゆっくりと歩きだした。おしっこがしたくなったけど我慢して進んだ。ようやく橋をくぐり抜けるといつしか水が引いていて、土の斜面が階段状のコンクリートに変わっていた。いわゆる堤防だ。俺は濡れたズボンの裾を絞り、靴と靴下を履いて橋の上にゆっくりと登った。そして目の前に広がる光景を見て息を飲んだ。庇付きの駐車場。手入れの行き届いた植栽。その向こうに見える白い壁の建物。なんだこれは。橋をくぐる前まではそんな建造物がある雰囲気ではなかったのに。駐車場には一台の乗用車とマイクロバスが停まり、建物の中には数人の人影が見える。声は一切しない。奇妙なほど静かだ。何かが整いすぎていて人影も含めて全てがプラスチックでできているように見える。その中で唯一マイクロバスのバックドアに嵌め込まれた細い鉄格子だけが硬さを感じる物質として見えている。俺は濡れたズボンを気にしながら玄関側へまわってみた。鋼製ポストのプレートにNPO法人という表記が見えてその下に四文字のアルファベットが並んでいる、俺はその名前を見たことがあった。以前、立川かどこかで軽量鉄骨造の宿舎建設工事に携わったのだが、その施主がこの名前だった。確か薬物依存症からの更生を目的する団体だった気がする。ということはここも依存症患者の更生施設か。そのとき建物のドアが開き、中からTシャツに短パン姿で黒い帽子を深々と被った子供が出てきた。俺は咄嗟に足を止めた。子供は不思議そうな顔で俺を見ると、何かを諦めたみたいに薄く微笑んでから嘴で急所をひと突きするような目で睨んだ。鳥怪人のエキスを注入されて育った子供にしか見えないその少女は、定食屋のかん子だった。俺は言葉を失って脳の活動が一旦停止した。薬物依存。あのかん子が。しまむらで最強を買うあっけらかんのかん子が。一瞬俺の脳裏に注射器を持った鳥怪人の姿が浮かんだ。直後に玄関ドアが少し開き、中から車椅子に乗った中年女性が顔を出した。かん子が回り込んでドアクローザーを開けたままの状態にすると女性はじっと前を見据えて表情を変えずに右手を上げた。かん子がその指に小さな人形のようなものを握らせる。そして耳元で何かを囁き、女性をその場に残して小さく手を振り駐輪場の方へ走っていった。その間女性は顔の角度を一切変えず、手も振らなかった。視線は前を見据えているわけではない。俺は分かった。女性の目は、どこも見ていないのだ。その脇を自転車に乗ったかん子がすり抜けていく。剥き出しの膝には絆創膏が二枚貼ってある。少し離れた出口から敷地の外に出ると、かん子はお尻を突き上げてペダルを漕ぎながら橋を渡り森の中へ消えていった。俺には見向きもしなかった。しばらくして中年女性は人形を膝の上に置き、車椅子をUターンさせてゆっくりと建物内へ消えた。開けっぱなしになったドアの中には表情を失った若い女性の姿が数人見え、薄ピンクのエプロンをしたふたりのスタッフらしき女性が忙しそうにホワイトボードをごろごろと移動していた。自分でも分からないが、本当によく分からないが、俺の唇は引っ切りなしに震えていた。なぜ震えているのかが分からない震えは、なぜ怖がっているのか分からない怖さに似ていると思った。
電車に乗り込んで隣の駅で降りる。結局帰ってきたのは夕方近くになってしまった。改札を抜けて外に出ると、暑さが大部落ち着いていた。俺の唇はまだかすかに震えている。それは伝言板に新たに上書きされたメッセージを見てなぜか微妙にエスカレートした。
《わたしにはそんな勇気ありません》
なんだこれ。妄想でネガティブになってどうするんだよ。そういったオタク思考は見ていて痛いだけだ。なんだっけ、刺繍はどうした、ハンカチはどこへいった。勇気がない? それじゃ普通じゃん。てか、それってただの嘆きツイートじゃん。ピエンじゃん。気が付いたら俺は支柱にぶら下がったチョークを右手で掴んでいた。
《勇気とかじゃなくて、あなたが傷付きたくないだけでしょ》
彼女の文字の隣にそう書き殴ってやった。するとからだのどこかがすっきりした。アンチコメントを投稿するやつらってこんな気持ちになっているのだろうか。でもこれは誹謗中傷ではない。確固たる意見であり、紛れもない主張だ。だからすっきり感がまるで違うと思う。その証拠に俺は今書いた自分の下手くそな文字を見て少しだけ真面目に、というか前向きに何かを考えてみたくなっている。彼女は誹謗中傷と捉えるかもしれない。もうここに書き込むことはなくなるかもしれない。そうしたら申し訳ないけど、でも今日の俺はなぜか書かずにいられない。黒い紐に繋がったチョークがぶらんぶらんと揺れている。俺は指についた白い粉をズボンで拭いた。濡れていたところはすっかり乾いている。震えも止まった。チョークだけがまだ揺れている。分かった。いや、分かっていたことを恐る恐る認めた。そうだ。俺の震えの正体は、初期化して最初に生まれた怒りだ。
怒りについて考えていたわけではないのだが、どういうわけか俺は一睡もできなかった。そもそも怒りってなんだろう。俺は東京に爆弾が落ちてほしいと真剣に思っている。これは怒りなのだろうか。考えていたら余計に目が冴えてしまった。不眠はいくら断っても退屈という大親友を必ず連れてくる。そいつが来たら結局もてなさなくてはならない。ポスピタリティだ。そういうときのために俺は輪投げの輪を失敬したのだ。自販機で飲料を三本買い、布団の上にそれを並べて的にした。夜中に床の上でやったらうるさいと思って配慮した。居候の身としては気を遣うのだ。ペットボトルがいい感じのサイズ感でその役目を立派に果たしてくれたので、輪投げは想像以上の退屈しのぎアイテムとなった。ん、待て、俺は居候なのか? しばらくこの場所に居着く気でいるのか? いやいや、それはさすがに無理だろう。じゃあどうする。これから俺はどうする。悶々とした頭を抱えて俺は明け方の散歩に出掛けた。散歩というと聞こえはいいが、要するに輪投げにも飽きたので気晴らしに外へ出ただけだ。夏の朝の空気は澄み切っていて水色の小さな粒が鼻毛に優しくまとわりつくような感じがする。北関東特有の色なのだろうか。東京では朝も昼も夜も灰色だった。全ての人間の鼻毛が灰色だったと思う。もう忘れたけれど。
伯父さんの家から歩いて二十分程度のところに川の合流地点があった。その一帯が沼地になっている。水辺には背の高い笹状の植物が繁茂していて、たくさんの細長い葉が風にそよいでいる。もう使用されていない腐朽した木製桟橋の上をゆっくりと歩いて行くと、砂利が滞積した洲が現れた。色鮮やかな鳥が流木の上で翼を広げている。首回りから背中にかけては波打つようなスカイブルーで、翼は黒とオレンジがシンクロしながら先端まで続いている。そのカラーリングに目を奪われながら、なぜか不思議な既視感が俺の記憶の先っぽを指でちょんと弾いて通り過ぎていった。流木の端に俺は腰掛ける。俺が座っても鳥は逃げようとしない。それに翼を広げてはいるが飛び立つ気配がまるで感じられない。警戒しているのか、それとも友達になりたいと思っているのか。不思議な鳥だ。鳥は怒りを感じるのだろうか。子供の頃、店の暖簾の裏側に蜂が巣を作り始めたことがあった。大事な暖簾になんてことを。蜂が出掛けた隙を見計らって父親はラーメンスープをすくうおたまで建設途中の巣を払い落とした。いびつな形の小さい巣の中を俺と弟は恐る恐る観察した。精緻に作られた巣穴にはぎっしりと卵が産みつけられていた。その日の夕方、学校から帰ってきて暖簾の後ろを見たら一匹の蜂が巣のあった場所を何度も旋回しながら飛んでいた。俺は慌てて店内に逃げ込んだ。くそうまた来たな。おたまを持って外に出ようとした父親を母が無言で後ろから止めた。あのときの蜂はきっと父親より何倍も怒っていたに違いない。帰ってきたら子供と家がまるごと粉砕されていたのだ。自分のからだの百倍くらい長くて太い毒針を父親にぶっ刺してやりたい、と思って飛んでいたのかもしれない。風がいつの間にか止んでいる。藪となって垂れた葉っぱの先端が、俺の身長を超えたあたりで朝露を光らせている。静かだ。俺と鳥しかいない。ここも意外と死ぬには適した場所かもしれない。なんだよ、俺は毎日死ぬ場所を探しているのか。
「あれ、マサユキさん早いね」
突然の声に驚いて俺は流木から立ち上がった。振り返ると長靴を履いて釣り竿を抱えた職人のツカさんがこっちを見て微笑んでいた。そうか、今日は日曜だ。
「あぁ、おはようございます」
「散歩かい」
「ま、そんなもんです」
「なんか渋い表情してたけど、なぁに、考えごと? あ、あれでしょ、最近の、スマホでやるやつ、知らねえやつに悪口書かれるやつ」
「違いますよ。スマホなんて鳴りもしないし、もう見てもいません」
「じゃあ、何考えてたの」
ツカさんは別にからかっているわけではなさそうだ。釣り竿を砂利の上に置いてどかっと座り、煙草に火を点けた。話したいことがあったら話せ、という顔つきをしている。そんなツカさんを見て俺の中で小さい何かがぱかっと開く音がした。
「その、怒りについて、考えていたんです」死ぬ場所のことではない、あくまでも。
「怒り?」
「ちょっと、なんて言うかいろいろあって一回リセットしたくてこっちに来たんだけど、その、まっさらにしたつもりの感情の表面に薄い膜があることを最近知って、それがどうやら怒りらしくて、俺の感情の皮膜には最初に怒りがコーティングされてて」
「待って待って、申し訳ないけど言ってること全然分かんねえや。何、ひょっとしてまたプライマーの話してる?」
「ははは、そうですね。プライマーの話です。ただ、そのプライマーはなんのために塗ってあるのか、これから俺は塗装をしたいのか、ウレタン防水でも塗りたいのか」
「だから言ったじゃん。それはスマホの話だろって。最近の人の怒りってみんな四角くなっちゃってるんだよ。怒りだけじゃねえな、自分がまるごと四角くなって手のひらに収まってるんだ。そんなんじゃ本物の怒りなんか分かりっこねえよ」
「ツカさんは分かるんですか、本物の怒り」
「分かるよ」
「なら教えてくださいよ。本物の怒りってどんなのを言うんですか」
「どんなのって、俺はその、バカだからあんたみたいな精神論は語れないけど」
ツカさんはそう言って煙草をもみ消すと、眉間に皺を寄せて藪の中をじっと眺めた。いつしか鳥はどこかへ飛び立っていた。
「怒りってよ、複数の人にとか、知らねえやつにとか、国にとか世界にとかに向けられるもんじゃねえんだよ。そんなの俺に言わせりゃ怒りでもなんでもねえ。ただのあがきだ。タツオが死んだのはよ、あ、タツオって俺の息子、もう大部前に死んじゃったけど。タツオは、たったひとりに殺されたんだ。だから俺はそいつが出てきたらぶっ殺してやる。あ、すいませんね。社長の甥っ子さんにこんな話しても気ぃ悪くするだけだね」
「いえ」咄嗟にそう言ったものの、この場合次に言葉を発するのは俺であるべきかツカさんであるべきか必死になって考えた。そしてやはり俺なんだろうなと思って諦めた。
「で、そのタツオくん、事故とかですか」
穏やかな表情でツカさんは首を振った。会話の順番はこれで合っていたのだろう。
「ハンマーで殴られた。なんつーの、相手は誰でもよかったってやつ」
「通り魔」
ツカさんは小さく頷くと、耳に人差し指を突っ込んで耳垢をほじくり出した。
「まだ六年生だってのに。ったく悪魔だよ。そんときから俺の怒りの対象は世界でたったひとりに限定された。だからそれ以外は怒っても怒りじゃない。ちょっとむかつくだけ。あれだよ、むかつくぅ、ってな」
そのジェスチャーはどんだけ~だろ、と思ったが俺は突っ込む気にもなれなかった。ツカさんは本物の怒りという言い方をした。怒りに本物と偽物があるなんて俺は知らなかった。そうか、ターゲットが絞られた怒りだけが本物と言えるのか。あのときの蜂は既に絞っていたのかもしれない。それを母は分かっていたのだ。そうなると昨日俺が感じた怒りのような感情はなんだったのだろう。何を見てその感情が発動したのだろう。依存症の更生施設、かん子の嘴。車椅子。絆創膏。そう言えば定食屋でツカさんが言っていた。かん子はお母さんがちょっとあれだから――。あの車椅子に乗った中年女性のことだろう。詳細をツカさんに尋ねてみたかったが、そのとき不意に俺の視界が三尺くらい上にスライドして、尋ねている俺とどこまで答えるべきか苦慮しているツカさんの姿が突如現れた。なんだかとても残念なツーショット映像だったので俺はすぐに視界を元の位置に戻した。
「やべ、ニジマスは早朝にしか釣れねえんだ。じゃあねマサユキさん」
釣り竿をひょいっと肩に担ぐと、ツカさんは手を振りながら藪の中をばしゃばしゃと分け入って消えてしまった。あんまり悩んじゃだめだよー。それは声だけで、最後はバラエティ番組の効果音みたいに明るくフェイドアウトした。そう言えばツカさんは言葉のイントネーションがこの土地のものと随分違っている。どこの人なんだろう。どうしてあんな話を俺にしたのだろう。この土地に来た人はみんなあっけらかん子になってしまうのか。俺も、あっけらかん子になりたいと思っているのか。いや、それはない。ないない。
《分かったようなこと書かないでください》
その文字を見て俺は伝言板の前にしばらく立ち尽くしてしまった。なんだなんだ、俺への反論か。オブジェクションか。そうきたか妄想炸裂娘。まだ始発が出たばかりの時間だというのに。しかも俺が昨日書いたメッセージはきれいさっぱり消されている。となると彼女は日曜も仕事で、始発に乗って出勤しているってことか。ふん、ご苦労様なことで。でも残念ながらそんな言葉で怯む俺ではないのだ。そのことを彼女には思い知ってほしいと思った。俺はチョークを掴んで彼女の字の隣にこう書き殴ってやった。
《そっちこそ、妄想ならもっと楽しいことを書いてください》
そのとき、俺の額に小さな水滴が落ちてきた。駅舎の向こう側の空がいつしか灰色の雲で覆われている。いくつかの雨粒が二行目の文字を縁取るようにそっと流れる。なんだか俺の書いた文字が泣いているように見えたのでちょっとむかつく。なるほど、これは断じて怒りではない。
事務所の2階で濡れた髪を拭いていると、珍しくノックの音が聞こえた。オイさん、いますか。チョージの声だった。ドアを開ける。チョージはカラフルな包装袋を両手に三つ抱えたまま思い出し笑いを我慢しているような顔で廊下に立っていた。これ、お母さんが送ってくれました、オイさんミャンマーのお菓子、食べたことある? 俺はないよ、と答えた。チョージは得意げに袋を俺の前に差し出し、昨日の安全帯のお礼です、と言った。ちなみにオイさんと呼ぶのは晋太郎おじさんが俺のことをうちの甥っ子、と紹介するのでそれが名前だと思っているらしい。絶対嘘に決まっているが。これほど流暢に日本語が話せるやつが甥っ子の意味を知らないわけがない。最初にそう呼んだとき、みんなに少しだけウケたから調子に乗っているのだ。俺は袋の透けている部分から中身を覗いた。
「へぇ、クッキー?」
「そうです。カシューナッツの。好きですか?」
「おう好き好き。ありがとう」
確かに美味そうなクッキーだった。俺が袋に書かれた文字を読み取ろうとしていると、部屋の中を覗き込んでいたチョージの目が突然輝いてあの丸いのなんですか、と言った。輪投げだ。俺は答えた。日本の古いゲームだよ。なにそれ、やりたいです。ホントに?
こうして俺が倉庫で見つけた日本のトラディショナルな玩具は、雨降る休日のインターナショナルヒマツブシツールとなった。俺は飲料をさらに三本買って合計六本の的を作り、それぞれに点数を設定してふたりで合計点を競い合った。それはことのほか盛り上がり、気付いたら俺もチョージも汗びっしょりになって夢中で輪を投げていた。この輪は木製でなぜか二重構造の円になっており、一部持つところに金属の小さなフックみたいな部品がついていた。表面の色褪せ方から相当な古さだと思われるが、意外としっかりしていてよく見ると何種類かのサイズに分かれていた。立て続けに二十ゲームほど対戦したあと喉が渇いたので的のジュースを一本ずつ飲みながらカシューナッツクッキーを食べた。背徳感を覚えるほど甘い味だったが、時間をかけて結構な数をふたりで食べてしまった。
「どう、輪投げ、楽しい?」俺はチョージに聞いた。
「めちゃくちゃ楽しいです」
「それはよかった」
「礼拝所にはいつも最新のおもちゃがあったけど、こんなに楽しいのはなかったです」
「へぇ。チョージは子供の頃から礼拝所に行ってたんだ」
「そうです。ミャンマーではほとんどの人が生まれたときから仏教徒です。仏陀の教えが全てなんです。仏陀は、いいことしかしません」
「仏陀の教えかぁ。きっと厳しいんだろうね」
「厳しくないです。人間は悪いことをする生き物。それはもうしょがないことね。だからその代わりに仏陀がいいことをしてくれる。礼拝は、しょがないみんなで、ごめんなさいを言う場所です。仏陀今日もごめんなさい、ごめんなさい、って」
チョージは言いながら両手を合わせた。
「へえ。それを聞いて仏陀はなんて言うんだろう」
「分かった分かった、って」
「しょがないなあ、って?」
俺が言うとチョージは床にクッキーをぼろぼろとこぼしながら大笑いした。しょうがないやつだ。
昼はチョージを誘っていつもの定食屋に行った。奢るから好きな物食べろよ。俺が言うとチョージはなんでもいいです、と言った。俺は壁に貼ってあるメニューで一番高価なミックスフライ定食を二つ注文した。この町にいる限り貯金の残高が減る見込みはほとんどない。散財するにもしようがないからだ。それにしてもミックスフライのラインナップに俺は驚いた。ハムカツとエビフライまでは普通だが、そこにアジフライとホタテフライと蟹クリームコロッケが折り重なって、千切りキャベツの上には串刺しになったウズラの卵が乗っている。皿の上が、見たことのないものまねタレントが超大物歌手の真似をしたら恐ろしく似ていてびっくりしたところに本人登場で涙のデュエットが実現、みたいな状況になっている。ふたりで大満足な自分の舌に戸惑いながら夢中でそれらを頬張った。俺はあの怒りのようなものを感じたことがきっかけで、忘れていた何かを思いだした気がしていた。単純に怒り方かと思ったが、それはもしかすると笑い方かもしれない。
煙草を吸わないチョージとは店の前で別れて俺はひとり駅前の喫煙所に向かった。いつの間にか雨は上がり、大規模イベントを前にして研修を受けるバイトの警備員たちみたいに不安げな声で蝉たちが鳴き始めていた。煙草を銜え、火を点ける。……えっ?
《妄想? 私は大事な決断を迫られているんですよ》
伝言板を見て俺は自分の目を疑った。朝のやりとりが全部消され、新規のメッセージが一行書かれている。この人は始発で出掛けてもう帰宅したのか。それともこれは別人か。いや字面はいつもの字だ。間違いない。そして、決断を迫られている? なんだよ、随分とまたリアルな話に持っていっちゃったな。妄想にしては逸脱しているというかテーマがずれているというか、そう、一貫性に欠けている。ルンルンならルンルン。ドロドロならドロドロ。そこを明確にさせた方がいい。彼女がどっちに話の軸を置きたいのかイマイチ分からないので今回はスルーしようかとも思ったが、せっかく芽生えた怒りのようなものを試運転したいという気持ちもどこかにあり、結局俺はチョークを持ってまたしょがない皮肉を隣の行に書いてやることにした。
《わかるわかる。つらいよねそーゆーとき》
そしてその日の夕方、俺は再び目が点になった。煙草を買いに金物屋まで行った帰りに冗談のつもりで伝言板を見たら、信じられないことに四時間ちょっと前のやりとりが一掃されて、代わりに新規メッセージが一行書かれていたのである。
《茶化さないで。どうせあなたにはないんでしょう?》
は? 何が? というかこの女は早朝、昼、そして夕方と今日だけで三回もここに来て自分の書いた文字と俺の文字をわざわざこの黒板消しで消し、このチョークで新しい伝言をしかも超きれいな字で書いたことになる。そう。基本的にこの人の書く字はいつも新聞の活字みたいに大きさやバランスが見事に整っていて、見たら一発で分かる。筆跡鑑定などする必要がない。はねるところや流すところなんかもう完璧で、書道の先生が部位的な赤丸を書くのにいちいち苦労しそうな字体なのである。それに加えてこのスピード感というか神出鬼没感というか、一体いつ来て書いているのだ。俺は電車が来る時間以外滅多に人通りがないこの閑寂な駅前広場の伝言板の前で腕を組みながら考えてみた。まず、この女性は駅の近くに住んでいることは間違いない。俺みたいに煙草を買うついでに立ち寄れる距離にいないと、この即時対応は物理的に不可能だ。でも、駅周辺で見かける女性というと定食屋の眉毛一文字おばさんを筆頭にかなりの高齢者ばかりだ。郵便局には何人かの女性局員がいるが、土日は営業していない。かん子は夜しか来ない。その他沿道に数軒ある民家にも若い女性がいる気配は全くない。しかし伝言はこうして確実に更新されているわけだから、彼女はその都度ここに来ているはずだ。彼女? 待てよ、男が女になりすましている可能性も考えられる。だとしたら気色悪いことこの上ない。でも、そうだけど、なんだろう、どうしてだろう、なぜか気になって仕方がない。どうせあなたにはない?
俺はその言葉を見て最初に思ったことをそのまま隣に書いてみることにした。
《は? 何が?》
さて、どう出るだろう。
珍しく下の事務所から晋太郎伯父さんの声がする。しかも声がするといういうレベルではない。極めて分かりやすい怒号だ。図面が描けるって言うから採用したんだぞ、お前の言うことはいつも嘘ばっかじゃねえか。誰かのくぐもった声がぽつりぽつりと聞こえる。だからそういうことを言ってんじゃねえべよ、話をすり替えんな。くぐもった声はもう聞こえない。なんとか言えよ。返答はない。おい、クボタ、聞いてんのか。どうやら怒られているのはあの小太りのクボタらしい。しばしの静寂のあと、再び晋太郎伯父さんの荒々しい声が響く。あーんもうこんな時間だ、おいクボタ、俺が帰ってくるまでに平面図だけでも終わらしとけよ。言い終わると同時に引き戸が開く音と閉まる音がして、さらに深く透明な静寂が建物全体を覆った。小便を我慢していた俺はそっと階段を降りて事務所のトイレに入る。用を足してドアを開けると、一台しかないパソコンの前に座ったクボタと目が合った。彼は泣きべそをかいていた。というのは勝手な思い込みで、実際には俺を見るなりヘラヘラと笑って頭を下げた。おはよう、俺は仕方なく口にした。いやあ仕事って難しいっすね、なんか、難しいっすマジで。ヘラヘラした口調だが言っている内容はやはり思いっきり泣き言だった。俺はできれば無視したかったが後味の悪い空気だけが残されても敵わないと思い、泣き言の根幹に触れないような話題を敢えて返すことにした。
「あれ、ふたりは、現場?」
「ツカさんとチョージすか? 現場ですよ。ほらこの間の、寺の住職んち。社長は打ち合わせ。俺だけ残って図面描きっすよ。専門学校出てるからって面倒くさいことは全部俺に丸投げなんだもんなぁこの会社」
それが社会の仕組みというやつなんだよ、と俺は思った。
「まぁいいけど。ひとりにされるのは慣れてるし」
クボタはそうつぶやくと、諦め慣れた表情でマウスを握った。パソコンの画面には簡易的な平面図がJW・CADで途中まで描かれている。見ると壁線と柱の色がごちゃごちゃで、改修位置を示す斜線が所々壁からはみ出ている。建具サイズも微妙に合っていない。俺も最初はそうだった。入社したばかりの頃はひたすらCADの訓練で、こんなもの営業の役に立つわけないだろ、と思いながら必死にやっていた。
「あのさクボタくん、まず柱と壁をレイヤー分けした方がいいよ。それと改修範囲はこの多角形を押してソリッド図形のコマンド使うと指定した範囲を着色できるから、斜線にするよりそっちの方が分かりやすいと思うんだ」
あれ、俺は何を言っているのだろう。初期化した人生にそんな情報はないはずなのに。あ、本当だ本当だ、色がついた、すげえ、マサユキさんすげえ。クボタは大袈裟に言って手を叩いた。それから俺はレイヤー分けの方法と各線を一気に包絡させる方法を教えた。そのたびにクボタは大袈裟な褒め言葉を俺に浴びせた。マサユキさんマジ神なんですけど。教えて欲しいのか代わりにやって欲しいのか分からない尻すぼみの返し方だった。その常に語尾が聞き取れない言い方が癪に障った俺は、気が付いたらマウスを握っていた。
平面図は昼少し前に大方仕上がった。その間クボタはずっと俺のことを賛美し続けた。あれ、俺はこんな場面をずっと見てきた気がする。ただ、立ち位置が逆だ。俺は丸投げされているのか。まぁいい。ただで泊めてくれている晋太郎伯父さんに対して肩身の狭さを丁度感じていたところだ。それにしても気になるのはクボタの口調だ。感謝を伝えるにしてもワードセンスがなさ過ぎる。これで普段は伯父さんが言うように嘘ばかりで都合が悪くなると話をすり替えていたら確実に人から信用されなくなる。語尾を曖昧にするということは常に逃げる準備をして人と向き合っているということだ。言葉に本心が染みこんでいない。感謝など最初からしていないのだ。だからいつだって目がテンパっている。俺は彼のひとりにされるのは慣れているという言葉を思い出した。なるほど。これでは孤立するのも無理はない。でもどうしようもないことなのだろう。先天的な性格、いや体質と言うべきか。そう、いじめられる要素とは目に見えない生まれ持った体質なのだ。だから何歳になっても治しようがない。目に見えないということは、気付きにくいということだ。よって世の中にはいじめられっ子体質なのにいじめられていない人が許多潜伏している。これが動物の世界だと無条件で排除対象となる。みんなで生き延びるために必要なこととして排除されるのだ。ストレスというものがある限り、スケープゴートなしではどんな生態系も確立しない。心を痛めるのは誰だって嫌なはずなのに、いじめられっ子体質に触れるとどうしてもいじめたくなってしまうのは、自然の摂理に従って排除せよという生態系保存の指令がDNAにインプットされているからだ。ここで最も厄介な存在となるのが、世界に潜伏する隠れいじめられっ子たちだ。彼らは生粋のいじめられっ子を自分のスケープゴートとして見ている。だから排除したくなるのは他者ではなく自分の隠したい体質なのだ。そうなると当然心は痛まない。自分の痛みで相殺できるから。
結局俺が全部描いてしまったのでクボタの作図スキルは向上しないだろう。それは向上させたくないと思う俺が狡猾に操作したことだ。にも関わらず俺は晋太郎伯父さんに感謝され、クボタ本人からも感謝される。俺の心も当然痛まない。善意や正義感はいつでも剥き出しの世間体が後ろ盾になってくれるので、こうして最強の道具となるのだ。悪意の。俺は厄介な存在だったのだ。
悪意と言えば、俺は今までクボタのようにおどおどして自分を持っていない体質の人間と妄想系オタク人間に対しては反射的にスケープゴート臭を嗅ぎ取ってしまいがちだったが、不思議と彼女に対してそれは最初から感じなかった。俺は定食屋でクボタにもミックスフライ定食を奢り、鼓膜がゼリー状になって体内に流れ込んでしまうほど稚拙な感謝の言葉を延々と浴びせられてあぁこいつはこうして多くの人を苛立たせて多くの人の心の痛みを解消させる道具となってきたんだろうと思った。そしてそれを感じない彼女というのはもちろん今俺が目の前にしている伝言板の女性だ。全く、なんなのだろう。
《全てを捨ててまで手に入れたいもの》
例によって前のターンがきれいに消去されているので俺は記憶を辿ってみた。確か彼女が「どうせあなたにはないんでしょう?」と謎の質問を投げかけ、それに対し俺が「は? 何が?」と聞き返したのだった。
全てを捨ててまで手に入れたいもの。いつものように腕を組んだままそのきれいな字を凝視していると、また俺の中で小さな何かがぱかっと開く音がした。同時に親指の関節が少しずつ震え始めた。指の関節でここが一番敏感になっているのは、気付いたら無意識に液晶をタップしているような生活を何年も続けてきた因果だろう。全てを捨ててまで手に入れたいもの。今度はそれを声に出してゆっくりと読んでみた。すべて、を、すてて? 指先の震えが腕の血管の位置にソリッド図形のコマンドを使って赤い色をめらめらと塗っている。なめるんじゃねえ。それは思うだけにして、俺は続く言葉を隣に書き殴った。
《バカにすんなよ、俺はすでに全てを失ってんだ!》
既に、という漢字が思い出せなかったので平仮名で書いた。思い出している余裕もないくらい俺は久々に憤っていた。自分の感情がよく分からなかった。でもこれだけははっきりと言える。この感情は、いじめたくなる自然の摂理とは真逆にある純粋な憤りだ。そして純粋な、交流を希求する欲望だ。
2階の事務所に戻ると親指の震えは治まっていた。そしたらなんだか無性に恥ずかしくなってきた。伝言板は駅前にあるのだ。辺鄙と言っても公的な場所のメインスポットだ。そこで個人の感情を吐露するなんて、昭和の勘違い青春野郎かあるいは欲求不満の変態がやることだ。あぁ俺は何をしているんだ。今すぐ消しに行きたくなったが彼女の返答を見たい欲望がそれを上回ってしまった。リアクションがあることを俺は完全に信じている。そしてそれを強く求めている。全く、これはなんなのだろう。
感謝するよマサユキくん。その日の夕飯の席で晋太郎伯父さんは嬉しいことがあった日にしか飲まないという熊本の焼酎をあけて俺にグラスを差し出した。またあいつにCADをたたき込んでやってくれ。そう言ってグラスを合わせてきた。予想通りの展開だった。夜は相変わらず蒸し暑かった。食後に外で星を見ながら一服していると、不意にこの星たちは世界のどこにも繋がっていないことを思い出した。どこにも繋がっていないから争いごとも起きないし、いくら見つめても何見てんだこの野郎ともあんまり見ないで恥ずかしいからとも言われないのだ。平和への究極の近道は、繋がらないことなのかもしれない。煙草の煙を吐きながら珍しく俺はもうちょっとだけ酔いたいな、と思った。
定食屋にはふたりの先客がいた。ふたりとも同じ紺色のズボンを履いている。一目で分かるJRの制服だ。おそらく勤務終わりの駅職員だろう。いらっしゃませもなくかん子がスマホ片手に壁の奥から現れ、俺の顔を見て一瞬眉間に皺を寄せる。ビールと枝豆と冷や奴。俺が言うとかん子はポケットから栓抜きを出して駅職員たちの隣のテーブルに置き、スマホを持った方の手で冷蔵庫を指差した。勝手に出して呑め、ということなのだろう。コップは冷蔵庫の脇の棚に並んでいる。
二杯目のビールをもちろん手酌で呑み終えたとき、ふたりの先客が勘定して出て行った。店の外で自転車のスタンドが跳ね上がる音がする。かん子が乱暴な手つきでテーブルを片づけ始める。テレビもラジオもないため狭い店内にはかん子が皿を重ねる音と枝豆をかじる俺の規則的な咀嚼音だけが響いている。かん子が危なっかしい持ち方で食器類を運ぶ。ダスターが残された状態だったので、俺はテーブルをきれいに拭いてあげた。醤油のこぼし跡を拭くと白いダスターに茶色い染みができた。かん子が戻ってきたのでそれを渡す。きれいになったテーブルを一瞥してかん子は俺の顔を見る。礼を言われるかと思ったら予想通りそれもなく、代わりにつーか、引いた? と訊かれた。俺が固まったまま返答に困っているとかん子はさらにこう続けた。今はあぁだけど、豊橋にいるときは凄かったんだから、うちのママ。俺はそこでやっと話の内容を理解した。
「豊橋って、愛知県の?」
かん子の大きな目玉が突然くりくりっと動いた。俺の質問には最初から答える気がないことをその目は示していた。
「ねぇねぇ、東京ってどこに住んでんの?」
「あぁ、んー、阿佐ヶ谷ってところだよ」
「そこ、スタバある?」
「あるよ」
「ドンキは?」
「隣の駅まで行けばある」
「何それ、だっさ。じゃゲーパニは?」
「ゲーパニ?」
「ゲームパニック。レアフィギアとか超揃ってるゲーセン」
「ないな、たぶん。豊橋にはあるんだね」
「は? ちげーし。歌舞伎町の話だし」
「歌舞伎町って、新宿の?」
それには答えずかん子は隣のテーブル席にどかっと腰を下ろして入り口の方を見ながらダスターの端を持ってくるくると回し始めた。
「なんだ、かん子ちゃんも都内に住んでいたのか」
「ううん、ママと、つーかママが住んでたのは川崎」
また違う地名が出てきた。一体この子はどこの子なんだろう。そしてママが、に言い直したのはどうしてだろう。
「じゃ、歌舞伎町へは遊びにきていたの?」
「住んでた、あ、泊まってた。だって超楽しいじゃんあそこ。繋がってるみんなに会えるし。ゴーキューゴあれば泊まれるし」
なるほど。一時期ニュースで報道されていたキッズだったわけだ。職安通りを渡った先には確かに五千円台で泊まれる激安ホテルがあったはずだ。
「でもキミくらいの歳じゃその宿泊代を稼ぐのもなかなか難しいよね。というか稼いじゃまずいわけだし。ママに出してもらってたの?」
「ははは」かん子はいきなり笑い出した。笑い声は中学生というよりむしろ小学生が水たまりに映った郵便ポストの形を見て意味不明の大受けをしているような声だった。
「ママがくれるわけないじゃん。あのさ、先っぽっつーか、傘みたいになってるところの根元のでっぱりをまたぐようにしてさ、皮をこう持ってこうすると」
「あ、ちょっとかん子ちゃん、やらなくていいから」
小刻みに動き始めたかん子の手首を、俺は慌ててはたき落とすように制した。軽く丸めた状態で動きを止めたその指を見ながらかん子が続ける。
「白いのが出たら六千円。一泊分。ね、泊まれるでしょ。ふたりやったら二泊かまひるとツインで泊まれる。まひるって超仲良しの子。今度久々に会う約束してるんだ」
「へぇ。でもそんなこと、どこでできるんだ、まさか道端でじゃないだろう」
「え? 白いの出すやつ?」
「そう、出すやつ」
「道端でやるわけないじゃん、バカじゃないの」
俺はこの年齢になって中学生にバカと言われるとは思わなかった。
「アーバンってネカフェでやんのよ。店長知り合いだったし。てか客だったし。口だと一万だから焼き肉とか食えるんだ。でも、シナノヤの通りから向こうに立ったらヤバいの。車乗せられてパンツだけにされて大久保公園の脇で蹴り落とされるの。泣いちゃうよね、ヤバいでしょ、まひるがされたときあたしされてないのに泣いちゃったもん」
泣く前にすべきことがたくさんあるように思えるが、俺はとりあえず相槌を打つだけにした。先ほどかん子は繋がっているみんな、と言った。友達と、繋がっているのだ。星はどこにも繋がっていないのにかん子たちは繋がっているのだ。そして死んだらではなく車から蹴り落とされたと聞いただけで泣いちゃうのだ。
「優しいんだね、かん子ちゃんは」
「みんな優しいんだよ。優しすぎるから、うちに帰れないんだよ」
優しすぎる、か。俺も以前誰かに言われた気がする。
「お母さんは優しくなかったの?」
「優しいに決まってんじゃん、バカじゃないの。注射したあとなんか優しいのを通り越して赤ちゃんになっちゃうの。定まってないときはぶったり蹴ったりカレシとやってるところを無理矢理見せつけたりするんだけど、あたしが小さいころはね、寒いよって言ったらもっとこっちにおいでって髪の毛を引っ張って抱きしめてくれた。ちょっと痛かったけどあったかかったの、ほんとだよ、だから大好きだった。いつの間にか寒いよって言うのはママになっちゃったけど、ママはあたしの全部だからいいの。優しいときのママはあたしに何してもいいの、あたしもなんだってできる、ママのならうんこだって食えるよ、繋がってるの、それに今は定まってないときなんかないし、もう完全に赤ちゃんになっちゃったから、今度はあたしがママの髪の毛を引っ張る番」
「その、定まってないときって?」
俺が尋ねるとかん子は黙って呆れたような顔をした。バカじゃないの、が出るかと思ったが出なかったので俺はほっとしながら少しがっかりした。
「ママの中にいる亡霊がママの形でぴったり定まってないと凄い力で攻撃してくるのよ。プロレスの人でも敵わないくらい本当に凄い力で。それであたし右の耳聞こえないし」
なるほど。だからかん子はずっと入り口の方を見たまま、つまり左耳をこちらに向けて話しているのか。捕まってくれて良かったよ、あたしに注射する前に。かん子はそうつぶやくと、ダスターの匂いを嗅いでおえっとのけぞり顔をしかめた。本当だ。本当にそうだ。逮捕されて良かった。暴力も薬物もこんな少女には絶対与えてはいけない。でもかん子の母親が娘に与えた最も酷いものは、きっと本物の寂しさだ。俺は二本目のビールを冷蔵庫から取り出して栓を抜いた。母親が本物の寂しさを与えてしまったら、一瞬にしてその子の世界が終わる。極めて残念なことだが、かん子にとっての世界はもう既に終わっている。俺がくぐったあのコンクリートの橋の下にはかん子の世界があったのかもしれない。橋をくぐり終えて俺が見たものは、行き場のない怒りの抜け殻で埋め尽くされた世界の終わりだったのだ。そしてかん子はなんでもあっけらかんと話すことで怒り方を忘れた世界に復讐しているのだ。
そうだ、いいもの見せてあげる。そう言ってかん子はおもむろに最強ブラの中へ手を突っ込んだ。思わずやめろ、と叫びそうになった俺の目の前に一枚の古い写真が差し出された。真珠のティアラを頭に乗せて白いワンピースを着た美しい女性が映っている。肩から斜めに掛かったたすきにはミス豊橋と書かれている。ねえここ見て、ここにあたしがいるんだよ、凄くない? かん子は写真の女性のお腹のあたりを指で差して笑った。それは、フォローなんてしなくても人は繋がることができるんだと教えてくれる笑顔だった。俺は怒られる覚悟で恐る恐る訊いてみた。
「ねえかん子ちゃん。キミはもし、そのまひるさんが死んじゃったら、泣くよね」
「泣くよあったりまえじゃんバカなの、てかバカすぎてもうなんつーか、バカ!」
「ははは。じゃあさ、もしもだよ、もしもだからね、お母さんが死んじゃったら?」
かん子は一瞬ぽかんと口を開けて薄く息を吸うと、今度は安らかな表情を浮かべてゆっくりと右側の耳を俺に向けた。
「死ぬ」
俺にはそのとき確かに見えた。かん子の顔から鋭く突き出た嘴を。
《じゃあ教えて下さい。あなたは今、何かを手に入れたいと思っていますか》
三行に渡っている。今までで最長だ。俺は煙草を挟んだ指でその文字をなぞってみた。白いチョークで書かれたきれいな文字が俺の指で乱れて震えていく。バランスが整っていた一字一字が罫線をはみ出して滲んでいく。金を払って定食屋を出て、この伝言板の前まで夜道を数十歩。その間に二回もつまずいて転びそうになったので俺はさすがに酔っていることを自覚した。なぞり終える直前に定食屋の灯りが消えて、扉から出てきたかん子の自転車に跨がる背中が見えた。そう言えばあの定食屋の厨房はどうなっているのだろう。どんな人があの多岐にわたるメニューの料理を作っているのだろう。最初にこの駅へ降り立ったときは半径五メートル以降が完璧な暗闇だったが、不思議と今は随分遠くまで見えるようになっている。この土地を覆う闇の周波数に俺の目の周波数が合ってきたのだろう。かん子は俺に気付くこともなくお尻を突き上げて闇の向こうへ消えた。残された俺は伝言板にもたれて、いくらきれいに書かれた字でも俺がなぞると乱れて震えて滲んでしまう呆気ない現実にざまあみろ、と思った。ざまあみろ現実。でもなんで滲んでいるのだ。俺は既に全てを失っている、じゃあ教えて、あなたは今何かを。何かを。なにかを手に。
《入れたいよ、もう一度手に入るもんなら》
千鳥足ならぬ千鳥指先で俺は三行のメッセージの横にそう書いた。彼女の書いた字も、隣に書いた俺の字も、ボロボロで繕いようもなくなっている。針も糸もハンカチも刺繍も近寄れないほどボロボロに。ただでさえ字の下手なやつが酔っ払って書いたメッセージは夏を滲ませる乾かない反吐となり俺の網膜に白濁色の染みを作る。星が、星たちが、何かを繋げようとしている。キミは、どこに、いるんだ。
蒸し暑さで目が覚める。深夜になっても気温が下がらない。扇風機の風量を最強にして首を左右に振らせ、頭から爪先までまんべんなく風が当たるようにする。からだを急激に冷やすポイントがどこかにあるかもしれない。その可能性に賭けて彼はキーキーと音を立てながら必死に首を振ってくれている。彼というのはもちろん年代物の扇風機のことだ。俺は彼に感謝しながら無理矢理目を閉じて子供騙しの眠りをたぐり寄せる。開けっ放しのサッシ窓に垂れ下がるカーテンの裾が闇の中で膨らんで、誰かに話しかけるように撓る。しまむらブランドのTシャツと短パン姿で寝転がる俺のからだに冷却スイッチはあるのだろうか。可能性は極めて少ない。でもいいのだ。可能性というやつは、あるかもしれないと思うことが幸福の原料となり、あったかもしれないと思うことが不幸の原料となるのだ。風で時折撓るカーテンの膨らみが本当に何かを喋っている。いや、喋るはずはない。やっと夢の中に入れたようだ。眠りにつく直前に見たカーテンの残像が意思のある膨らみ方に見えたのでそう思ったのだ。心配するな、わたしはただの雰囲気だ。カーテンは言った。いや言ったのは俺の唇で、膨らみは身振り手振りでハンドパペットみたいにそういう動きをするだけだった。人の口を使って自己紹介をされても困りますよ。俺が言うとカーテンは夢の中で皮肉たっぷりな膨らみ方をした。まぁケチケチするなって、減るもんでもあるまいし、ここはひとつ仲良くいこうじゃないか、な? くわーっかっか。
最後の間抜けな雄叫びはどこかで聞いたことがある。いつだっけ。誰だっけ。思い出そうとするとそのパワーが暑さに吸い取られてしまう。夢うつつの状態で俺は何度も寝返りを打ち、結局朝日が昇る頃には完全に目が覚めてしまった。どういうわけか異様にすがすがしい。アルコールも記憶も雪に足跡が残る程度になくなっている。あなたは今、何かを手に入れたいと思っていますか。そんな彼女の問いかけがあったのは覚えている。俺はなんと答えたんだっけ。思い出せそうもないので確かめに行くことにする。
幾分暑さが緩まった始発前の時間。誰も来ていないはずの駅前ロータリー。俺は自分が書き込んだメッセージを確認しようとして、伝言板の前で立ち尽くしてしまった。もう何度目だろう、このパターン。確認しようとした俺のメッセージも、その横にあったはずの彼女の書き込みも全て消され。代わりにこんな一行がきれいな文字で書かれていた。
《あなたはきっと近いうちにそれを手に入れますよ》
単なる希望的観測だ。そんなこと分かっている。大体それってなんだよ。俺には分からないぞ。希望的観測つったって、果たして何を希望しているのかが自分でも分からない。分からないけど、明らかに俺は嬉しい気持ちになっている。愚直なくらい純粋に顔がにやけているのが分かる。結局なんて書いたかは思い出せなかったが、俺は今彼女のメッセージに救われている。そして恐怖さえ感じている。だって、どう考えてもおかしい。夜は明けたばかりだ。まだ電車も動いていない。彼女は夜中のうちにここへやってきてこれを書いたことになる。一体なんのために。まさか俺をにやけさせるためではないだろう。彼女はどこにいるのだ。近くにいることは確かだ。今こうしている俺の姿もひょっとしたら観察されているのかもしれない。俺は人が住んでいそうな数軒の民家を片っ端から訪問したくなった。静かすぎる夏の夜明け。水彩画のようにおぼろげな田舎の駅前風景。いつしかこの伝言板は俺と彼女だけの大切な対話ツールとなっている。東京に裏切られ、世界に裏切られて、人生を初期化するしかなかった俺を彼女はどこかへ導こうとしている。導こうとしているような気がする。錯覚でもいい。妄想と思われてもいい。よし、こうなったら俺は、俺の嫌いな妄想系男子になってやる。彼女をにやけさせてやる。
《きみだって本当はもう決断しているんだろう?》
俺はいつものように彼女のメッセージをそのまま残し、隣に下手な字でそう書いた。選べない、勇気がない、などと言いながら彼女は意外とぶれない芯を持った強い人のような気がしたからだ。もちろん妄想だが。
基本設定でマウスホイールをプラスにし、自在に拡大縮小しながら立面詳細図を描いていると伯母さんが紅茶を淹れてくれた。このままいけば午前中には東面が完成する。俺は一息ついて煙草に火を点ける。東京でこの昔ながらの一服ができるオフィスはもうほとんどないだろう。マサユキさん、本当に助かっていますよ。上品に言って笑う伯母さんのイントネーションもやはりコミカルな起伏を伴っている。俺はクボタの席に座り、朝からひとりで図面を描いている。これは住職の家の改修図だ。工事が始まっているというのに、どうして図面ができあがっていないのだ。工程管理はどうなっているのだ。北関東だとそれでまかり通ってしまうのか。というか俺は何をやっているのだ。
昼飯は数種類の山菜天ぷらが乗ったそばを伯母さんが作ってくれた。お手製のミニ餃子と大根サラダもついている。これで午後も引き続きCADでの図面作成が決定だ。
満腹の腹を抱えて俺は玄関で靴を履いた。歩き出したつもりがいつの間にか走っている。食後なので途中で脇腹が痛くなる。でも我慢して駅前まで走り、伝言板の前でいつものように視線が固まる。気付いたら息もしていない。本当に俺は何をやっているのだ。
《あなたに言われて決めました。傷付くことを恐れず前に進もうって》
二回、いや三回黙読して俺は息を吐いた。まず、彼女は明らかに優しい人だと感じた。それから驚いてもいた。既読をつけるだけではなく文字で書き記すということがこんなにも優しく思えるなんて。やりとりが手書きというだけでこんなにもワクワクするなんて。昔は当たり前だったはずなのに。驚きだ。そしてこの文言を読む限り、彼女は近いうちにここからいなくなる可能性が高い、となぜか思った。俺は慌ててチョークを掴む。
《ねぇ、よかったら会って話さないか》
もう誰かに読まれて恥ずかしいとか、そういった気持ちは消えている。誰が読んでも構わない。彼女に会えるなら、俺はどんなに叩かれても、拡散されてもいい。伝言板リテラシーなんてこの世にはないのだ。
午後に北面と西面の立面図を完成させた俺は、再び駅前までダッシュした。完全にその気になっている山の稜線の上で、太陽がオレンジ色に変色しながらこのまま沈むべきかどうか不毛な逡巡を繰り返していた。そのオレンジ色を反射して右に傾いた伝言板には、予想通り白いチョークの文字がくっきりと浮かび上がっていた。
《ありがとう、背中を押してくれて》
彼女がどこかへ行ってしまう。俺は直感的にそう感じた。辺りを見渡す。朝に見たときと同じ水彩画のように停止した駅前風景が夕暮れ色に染まっている。誰の姿も見えない。定食屋も金物屋も扉が閉まったままだ。郵便局前で荷物を送るならゆうパック、と書かれたのぼり旗がやる気のない風に吹かれている。野良猫一匹歩いていない。それがなぜか逆に俺の焦燥感をあおる。待って。待って。ぶら下がったチョークの紐がうまく掴めない。息を吸って、息を吐いて、どうにか指に挟んだチョークで俺は一気に文字を書いた。
《会おうよ。教えてよ。きみは何を手に入れたいの?》
それから俺は一時間、伝言板脇のベンチに座っていた。定食屋と金物屋はその間ずっと閉まったままだった。夕陽の欠片が更迭された議員秘書のように往生際悪く山際で踏ん張っている。郵便局が終業すると中から三人の局員たちが出てきて俺の前を通り、改札を抜けて駅に入って行った。三人とも中年男性だった。上りの電車で帰宅するのだろう。先に下りの電車が到着したが、駅から出てくる乗客はひとりもいなかった。郵便局のシャッターが降ろされ、駐輪場からふたりの女性が自転車を押して出てくる。何かの話題で盛り上がり、お互いの肩を叩き合って爆笑している。のぼり旗は出しっ放しだ。道の反対側からかん子が乗る自転車がやってきて爆笑女性とハンドルが接触しそうになる。このばばぁ。ブレーキをかけて振り返ったかん子がつぶやく。全く気に留めず、ふたりの局員は大笑いしながら自転車に跨がり太いふくらはぎを剥き出しにして夕陽の中へ消えていく。かん子は舌打ちして定食屋の脇に乱暴に自転車を停める。もうそんな時間だ。定食屋の扉がガラガラと閉まると、それからは再び死んだように動かない駅前風景が俺の視界に淡くこびり付いた。俺はどうすればいいのか、自分がどうしたいのか分からなくなった。ねぇ、キミはどうしたらそんな自在に、空間移動するみたいにここに来れるんだ。どんなトリックがあるんだ。本当に、今こうしている俺の姿をキミはこの風景のどこかからじっと見ているんじゃないのか。もしそうだとしたら、ちょっとでいい、顔を出してくれ。俺はキミがどんな人であっても、若くてもそうでなくても、美人でもそうでなくても、会った瞬間眉間に皺を寄せるなんてことは絶対にしない。だからお願いだ。顔を見せてくれ。
結局夜の八時近くまで駅前のベンチに座っていたが、伝言板の彼女らしき人物は現れなかった。灰皿には俺が吸ったシュートホープのフィルターだけが力なく堆積している。次第に雨雲で星が隠れ始め、草むらでは蛙たちがコロナ渦の保健所に置かれた外線電話みたいにヘビーローテーションで鳴き始めた。俺は最後の煙草をもみ消すと、伯父さんの家に向かってとぼとぼと歩き出した。早足で歩く気にはなれなかった。いっそのこと俺を濡らしてくれ、と意味もなくつぶやいて小石につまずいた。
その夜、俺は布団の上で部屋に貼られたカレンダーの数字をなんとなくかぞえてみた。夜行バスと電車に揺られてこの町に来てから今日で七日が過ぎたことになる。俺はなんのために来たのだろうか。どうしてあのとき夜行バスに乗りたいなんて思ったのだろうか。俺は逃げ出したかったのだろうか。いや、その前に逃げ出すべき環境を全て失っていた。やり直そうという意思もスピリットも全くなかった。ということは、俺は死のうとしていたのだろうか。東京の記憶はおろか、七日前の記憶も曖昧になっている。俺はどこに来て、どこに行こうとしているんだろう。答えを誰に求めようとしているんだろう。部屋の灯りを消すと、いつもの暗闇が俺の目蓋の裏でうずくまる暗闇と緩やかに混じり合う。酢の小皿に醤油を垂らしたように。雨の音が聞こえる。降り始めたばかりのようだ。慎ましく、しとやかに、さ行でポリカーボネートの庇に粒を落としている。俺の書いた伝言、消えちゃうかな。キミは何を手に入れたいの? 俺は彼女にそう尋ねた。彼女に会えてその答えが聞けたとしても、そのあとにじゃあ、あなたは? と訊かれたらなんて答えよう。質問者が答えられないのはアンフェアだ。何を手に入れたいのか。その質問はもしかすると今に始まったものではないのかもしれない。ずっと、今まで生きててずっと、俺は誰かに訊かれていたのかもしれない。その答えから逃げ続けた結果がこれなのか。いやそれはない。たぶんない。キー、キー。扇風機の首が今夜も暢気に歌っている。カーテンが餃子の形で膨らみ始めたところを見ると、どうやら俺は眠りの世界に入ったようだ。
「わたしが誰かは先日言ったかな」
「聞きましたよ。雰囲気さんでしょ」
「敬称は要らないよ、名字も名前もミドルネームもないんだから」
雰囲気は相変わらず俺の口を使って喋った。おかげで俺の唇は橋でパンを持った子供の下を泳ぐ鯉の口みたいにせわしなく動くはめとなった。
「お主は確かに逃げ出した」雰囲気は言った。お主、って……。「でもお主は何から逃げたのかを分かっておらん。そこが致命的なんだ。哀しさからか、寂しさからか、はたまた怒りからか。あのさぁ、てかどれも違うであるよ。お主は普通の、当たり前の世界から逃げ出したんじゃ」
まず口調について突っ込みたい要素が満載だったが、とりあえず俺は我慢して聞くことにした。何しろ実際に喋っているのは俺の口なわけだし、そもそも夢なんだし。
「ネガティブな感情って、自分の中じゃどうしても特別扱いしちゃうだろ。こんなの普通じゃないじゃん哀しすぎー、とか、なんで俺だけこんな状況に陥らなあかんねん、とか。あのさ、簡単な例を挙げよう。大好きな恋人に突然フラれたとする。哀しいよな、信じていた人に裏切られるって。そのとき目に映るものを想像してみろ。交差点、ビルの看板、無表情で行き交う群衆、空の色、バーニラバニラ高収入のトラック、壁の色、ドアの形、テレビの中で笑う人たち、どれもいつもと変わらないであろうぞよ。そんで思うべ、あぁ俺がこんな目に遭ってんのになして周りは俺に合わせねぇんだ、なして世界は俺に合わせて哀しまねぇんだ、どうして普通でいられるんだ?」
ここでも俺は突っ込まずにひたすら聞くことにした。
「それでもっと哀しいことに気付くんだ。合わせる必要があるのは俺の方なんだ、って。だってさ、どんだけ哀しかろうと信号の色は変わらないんだぜ、お天気キャスターの笑顔も変わらないんだぜ、お主だって月曜になったら普通に仕事に向かうであろう。そんで火曜日には燃えるゴミを出して二箇月後には棚からセーター出して年末には紅白歌合戦を見ながら蜜柑を食らうのだ。その頃にはフラれた哀しみなんて三学期の体操着のネームくらい薄くなっておるのだよ。本当は今の俺の辛さが全人類の当たり前になってほしいのに。全人類で共有してほしいのに。そしたら俺は普通に一歩目を踏み出せる気がするのに。分かってるよ。そうならないのが当たり前だってことくらい。でも自分がその当たり前を分かってるってことが、そのときはなんか負けた感が漂ってて超むかつくんじゃ。俺彼女と別れたら死んじゃうだろうなぁって思ってたのに、てか実際言ったりもしてたのに、なんだよ普通に仕事行くのかよ、って自分で自分にがっかりしちゃうの、そしたらなんかもう許せなくなるのよ自分が。だからそれをなるべく早く消去するために、人の目からは水が出るようになっているんだわ。チョークの粉を消していつでも誤魔化せるように」
ついに女も出てきたようだが、もはや口調について言及する段階ではなかった。雰囲気の言っていることが正論のような気がしたからだ。当たり前のことが妙に嬉しかったり、当たり前に思うことがひたすら哀しかったりすることって確かにある。
「要するに哀しみも、怒りも、普通から取り残されそうになった自分の焦りなのさ。だから人はネガティブな感情から逃げ出すことは一生できんのじゃ。もし逃げ出したくなったら、方法はひとつっきゃねえ。もっとでっかい普通を自分の中に作ることだぜ」
それが成長ってやつかもしれない。俺はここで初めて質問をしてみることにした。
「その普通の作り方って、どこへ行けば教えてくれるんですか」
雰囲気はカーテンの膨らみを変幻自在に変えながら表情豊かに俺を嘲笑した。
「決まってるだろ、母親の胎内さ。だからお主にはもう無理だ。残念くわーかっか!」
「あの、ひとつ言っていいですか」
「何かね」
「あなたの台詞、長すぎます。これじゃ起きたときに俺の喉はからからですよ」
結局雰囲気は俺が何を手に入れたがっているのか、ヒントさえも出してくれなかった。雨の音だけが呪文のように続く。さ、し、す、せ、そ。
そんな雨も翌朝にはすっかり上がっていた。雰囲気が散々喋ったカーテンを開けると、暑さの予告編みたいな日差しが2階の部屋に差し込んだ。隣地境界の垣根の中で黄色い角張った花がいくつか咲いているのが見える。見たこともない花だ。どういうわけか俺はその花の名前が知りたくなり、この家に来て初めてスマホの電源を入れた。わずかにバッテリーが残っている。そう、数箇月前まではこの液晶画面の中に人生が丸ごと詰まっていると思っていたのに、いつしかこの機械の存在すら忘れていた。階段を降りて、晋太郎伯父さんのサンダルを突っかけ外に出る。写真を撮る。グーグルで検索をかける。そのたびに目障りな赤い数字が何度も表示される。ラインとメールと電話の着信数だ。無意識に指が動いて履歴画面が開く。相変わらず会社と社会保険事務所の名前がずらっと並んでいるが、どちらも少し前の日付で止まっている。ようやく諦めてくれたか。ほっと息をつき、全部消去しようとしてふと俺の指が止まる。あ。電話の着信履歴の最終行に純一の名前がある。事務所の壁時計を見る。七時二十七分。俺は少し迷ってからその名前をタップし、コール音を聞いてワン切りした。用事があるのなら放課後にでも折り返してくるだろう。それから2階に上がり充電ケーブルをコンセントに接続した途端着信音が鳴った。放課後どころか、ワン切りした二分後に純一は折り返してきた。会いたいんだけど。純一は言った。どうした、なんかあったのか。しばし沈黙に包まれる。回線の電波が途中で水の中かこんにゃくの中にでも入ってしまったのではと思うくらい圧倒的な沈黙だった。俺の息を吸う音がそれを遮り、よし、まぁすぐには無理だけど近いうちにそっちへ、と言った俺の声を純一がさらに遮った。俺が行くから場所教えて。場所、と言っても、ちょっと遠いぞ。いいから、なんて駅。俺は駅の名前を告げる。キーボードを入力する音が聞こえる。んー、十時三十二分到着。ツー、ツー、ツー。俺は壁の時計を見た。さよならも言わずにいきなり切れたと言うことは、えーと、約三時間後に会話はまた再開されるという意味なのだろう。充電ケーブルが繋がったスマホの通話ボタンを切ると液晶に黄色い角張った花の写真と解説が現れた。ガザニア。南アフリカ原産で多年草として毎年花を楽しめる草花です。花言葉は「身近な愛」。マサユキくん、起きてっか。ふいに階段の下から晋太郎伯父さんの声がした。あ、はい、おはようございます。ドアが開いて伯父さんが顔を出す。これ、仕上げてくれたのか。そう言ってプリントアウトしたA3の図面を数枚差し出す。昨夜雰囲気に起こされたあとで眠れなくなった俺は、結局残っていた図面を全部完成させたのだ。いやー、助かるっつーか、こりゃもう給料払わんといけねえな。伯父さんはひとしきり笑ってから真剣な表情で頭を下げた。急に静かになったのでシュルシュルシュル、はあぁ、と息を吐く音がつまらないネタのオチみたいに六畳の部屋を涼しくさせた。考えてみたらあの地下鉄の中でこの呼吸音を聞いたときは随分な老人に見えた。でも実際には鉄骨足場も軽々と昇降する現役バリバリの職人だった。ありがとうマサユキくん。改めて礼を言う晋太郎伯父さんの身体はもしかしたら俺よりもずっと若いかもしれない。そして俺は礼を言われるような人間ではない。
ありがとう、背中を押してくれて。会おうよ。教えてよ。キミは何を手に入れたいの?俺は駅前の伝言板の前に来て、先ほどから文字を何度も目でなぞっている。メッセージが更新されないのは、俺がチョークを握ってから初めてだ。彼女の文字と俺の文字がそのままの状態で残っている。どうしていつものように更新されないんだ。本当にキミはここからいなくなってしまったのか。礼を言われるような人間ではないやつがガチのありがとうを言われたらどうなるかキミは知らないのか。困ってしまうのだよ。何かが続く、と思ってしまうのだよ。よく分からないけどひとりになったら足をバタバタさせたくなるような何かが。でもそれが続かないって分かると涙がこぼれてしまう。そうさせないためにも、お願いだから顔を見せてくれ。純一が到着する時刻にはまだ一時間半以上ある。俺は紐をたぐり寄せてチョークを掴んだ。三行目に文字を書こうとしたが、言葉が見つからない。会おうよ。教えてよ。キミは何を手に入れたいの? その気持ちから俺も更新されない。ひとつだけほんわりとした思いが鼻の頭あたりをちょんちょんくすぐっている。それは、ありがとうと言いたいのは俺の方だよって気持ち。キミと言葉を交わせて俺は心の底から嬉しかったよ。でもなぜかそれを書いたら本当に彼女とは一生会えないような気がする。困った挙げ句、俺はボタンがないので欄外に文字で書くことにした。
いいね!
数箇月ぶりに会った純一は、今度は髭ではなく俺の髪の長さにまず驚いた。でも意外と似合ってるかも。揶揄しているわけでも褒めているわけでもないその口調はやはりぎこちなく、笑っていなかった。それにからだが全体的に細長くなっている。痩せたのか、身長が伸びたのか。おそらく両方だろう。顔がどことなく疲れた表情をしている。それも若者の疲れ方ではない。どう表現すればいいのだろう、酷い生理中の女性十人と更年期真っ只中の女性十人による朝まで生テレビの司会をたった今終わらせたという感じの疲れ方だ。前もって言っておいたので、晋太郎伯父さんの家に連れて行くと既に伯母さんが得意の山菜そばを作り始めていた。伯父さんも現場から戻ってきている。俺が促す前に純一は自分の名を名乗り、父がお世話になっています、と言った。あら立派な中学生ねぇと伯母さんが笑う横で俺はどこを見たらいいか分からず、下を向いて思い切り目を瞑ったらなぜか涙が出そうになった。早めの昼食を食べたあと、おばあちゃんのお墓に行ってみたいと言う純一を連れてみんなで車に乗り込んだ。住職の家のリフォーム工事はあれから大部進んでいた。晋太郎伯父さんは俺のときと同じようにみんなを集めて純一を紹介した。今日は住職とその奥さんに加え娘さんと小学生の孫までがぞろぞろと庭に出てきた。わーお、イケメーン! 住職の娘が北関東らしからぬ言葉を発すると、チョージがいつものように意味不明の拍手をしてみんなで大笑いした。そんな中、住職だけは相変わらずニコリともせず俺たち親子をずっと睨んでいた。俺はあの爺さんだけは好きになれそうにないと思った。もしもこれが映画のワンシーンなら、あの目の大写しのバックにはいつもひずんだギターのチョーキング音が流れているに違いない。
墓地の区画道を純一とふたりで歩く。空調設備機器を製造する会社がコンペティションで作った贋作の秋風みたいな空気が頬に当たる。純一の靴に蹴飛ばされた玉砂利が桃の木の根っこにぶつかり乾いた空洞のような音を立てる。どうした、なんかあったのか。とりあえず俺は電話での会話の続きをしようと思った。
「別に」
「別にって、じゃ、ただ俺に会いたいと思っただけか」
「……」
偽物の風が頬を撫でる。そのうちに風が本物で頬が偽物のような気もしてくる。変わり映えしない暑さの中、今日はからだの内側を通って汗が流れている。俺はこういったシチュエーションでよくある会話のパターンを必死になって思い出そうとした。
「学校はどうした、サボりか?」
そうだこんなカンジだ。離れて暮らす親子が久々に会って会話するシーン。あれ、今日はやけに映画付いている。しかしそんな王道の絡みにも純一はノーリアクションだった。台詞を忘れたとも思えない無表情ぶりだ。大部後ろに離れた住居の方からチョージの笑い声が小さく聞こえる。純一が声のした方向を一瞬振り返る。
「家とかを建てるのって、そんなに楽しいのかな」
俺の渾身の台詞ではなくチョージの馬鹿笑いに反応したことに少しだけむかついた。
「楽しいんじゃないか。あいつは別に建ててはいないけど」
「ふうん」
「でも得意にはなれるよな。建物と乗り物があるから人間は人間でいられるわけだし」
「そうかな」
「そうだよ。俺が子供の頃にはそれぞれに大臣がいたんだ。立派な省庁だった。建設省と運輸省。お前は知らないだろうけど。それがいつからかそんなのひとまとめにしちゃえ、ってなった。プロ野球とJリーグを一緒にしちまえってなモンだよ。それによって生まれたのが過疎化だ。昔は田舎にもちゃんと金を配ってたんだ。そりゃ田舎だから独り占めするじじいや横取りするじじいも多少いたけど町全体が潤うんならいいやってみんな大目に見てた。いいか純一、建設も運輸も目に見えるものしか生み出さない。目に見える結果しか出さない。なんでだか分かるか。それが答えだからだよ。答えがちゃんとあるからみんな頑張れるんだ。頑張れば何ができると思う。丸投げだよ。答えが分かっているからそんなの誰がやったって同じだろ。ある程度まで階段を登ったら、あとは下の段にいるやつに丸投げすりゃいいんだ。でもクリエイティブな世界はそうはいかない。這い上がるためのツブシもきかない。だからお前も進むなら理数系がいいぞ。就職にも有利だし」
一気に喋ってもまだ表面に汗が滲んでこない。風が偽物だからか。雲の位置がやたらと低い。これは食品会社が作った贋作のようだ。
「俺はさ」石を蹴飛ばしながら純一が言う。「まず、悩みたいな」
「悩んでるさ。建設業界のやつらもみんな最初は悩んで答えを出してる」
「違うんだ。うまく言えないけど、俺はどうして悩んでいるのかを悩みたいんだ。答えなんか最初から要らない。そういう仕事、ないのかな」
「残念だけど悩むだけの仕事なんてこの世にはないし、あったとしても誰もやらないよ」
「そっか」
考えてみたら純一とこんな話をするのは初めてだ。そしてこいつは人生のことなどまるで分かっていないということと、晋太郎伯父さんが一番楽しみな年代だって言ったことがなんとなく分かった。お、あったこれだ。俺は立ち止まる。母の墓石の表面は、町や人々がカクカク動く色褪せた映像を鏡のように映し出している気がした。その立派な佇まいに純一も息を止めて見とれていた。あるいは毎年お盆に墓参りをする千葉の市営霊園の墓とどちらが本物なのか考えているのかもしれない。手を合わせて、何かぶつぶつ言いながら時折えくぼを見せるその横顔を見て俺はどんなに悔やんでいることがあってもずっと時間が経ったあとにそれが正解だったんだよと言ってくれるのが家族なのかも、と思った。
「おばあちゃんもきっと心配してるよ」純一が手を離して言う。
「心配?」
「おじいちゃんの容体。ねぇ、病院に行ってあげてよ」
弟のやつ、俺に繋がらないからって純一にまで触手を伸ばし始めたか。俺は弟に任せてあるから心配要らないことを純一に説明した。
「あのさ」純一のえくぼが鋭く消滅する。「それは丸投げしたらだめなんじゃないかな」
「え?」
「最低だと思う」
バカだの、最低だの、大人には言われないことを中学生ははっきりと言うんだな。でも確かにそうだ。最低だ。人生のことをまるで分かっていないのは俺の方かもしれない。
「分かった。明日朝一で千葉に向かうことにするよ」俺は言った。
住職の家まで戻ってくると、娘さんがほとんど原液に氷を入れただけなのでは、と思うほど濃いカルピスを出してくれた。田舎はどこの家の冷蔵庫にもカルピスが入っていて、しかも客に出すときはその濃さを競い合う習慣があるのかもしれない。総檜の縁台に腰掛けて住職が盆栽をいじっている。相変わらず眉間に皺が寄っている。中尾工務店のみんなは各持ち場でそれぞれの作業に勤しんでいる。こうして世界はまわっているのだ。いや、田舎が世界となっているのだ。電波ではなくひとりひとりの手で繋がっているのだ。餃子とカルボナーラがひとつの店で食べられる世界、亀の子束子とミックスベジタブルがひとつの店で買える世界、目で見て手でさわれるものを信じて憎んで喜ばせる世界、身近な愛が咲いている世界。ねぇ純一くん、せっかくだからここら辺をぐるっとひとまわりしてみない? 案内してあげるよ。住職の娘さんが言うと純一はどこで覚えたのか分からない笑顔を作り、バスのチケットを買ってあるのでそろそろ行かないとまずいんです、と言って腕時計をちらっと見た。しかしその針はとんでもない時間を差していた。なんだよその時計壊れてるじゃん、俺が言うと純一はあぁそうだった、と恥ずかしそうに言ってポケットからスマホを出して時刻を確認した。それを見て住職が渋いため息をつく。そうか、なら仕方ないね、今度夏休みとかにゆっくり来てよ。分かりました、是非。ねぇお父さん、純一くんたちを駅まで送ってってくれない? 娘さんの声に住職が盆栽鋏を持つ手を止める。大丈夫ですよ歩いて帰れます、と言おうとして俺の声は喉の縁につまずいた。顔を上げた住職が俺を見て初めて笑ったからだ。一瞬だけ。
マセラティに乗り慣れているであろう純一もさすがに緊張した表情を浮かべている。シートが新幹線のグリーン車の百倍くらいふかふかなのだ。ヤバいぜベンツ。ちょっと前の俺なら確実にそんなキャプションにメンションを付けてインスタに上げていた。あくまでも落ち着いた表情で後部座席に座る俺たち親子の胸中が大興奮していることを、おそらく運転席の住職は知る由もないだろう。泥の塊が点在するでこぼこの市道を走っているとは思えない快適さで住職の運転するベンツはあっという間に駅に着いてしまった。ここからターミナル駅まで電車で行き、そこで高速バスに乗るらしい。つまり俺が来たときの逆ルートだ。ありがとうございました。俺たちが声を揃えて言う。ドアを開けて車外に出ると運転席の窓がウイーンと開いて住職がおい待たんか、と呼び止めた。振り返るとごそごそと腕から何かを外している。時計だ。要らなきゃ売っ払っていい。そう言って純一に時計を握らせる。純一も俺もびっくりして声も出ない。じゃあまたな。窓が閉まり、ベンツはそのままタイヤを鳴らして泥だらけの市道に消えて行った。ろーれっくす、って書いてあるけど。腕時計を見て純一はぼそっと俺に言った。
駅のホームにあるベンチに座って俺たちはしばらく腕時計を観察した。してみろよ、俺が言うと純一は恐る恐る左の手首に嵌めてみる。腕でフラフープの曲芸ができるくらいゆるゆるだったので俺は笑ってしまった。純一も照れ臭そうに笑う。でも一瞬はっとなって腕をズボンの下の隠す、はっとなったのは俺の方が少し早かった。純一の左の手の甲に、煙草を押し当てられたような火傷の跡が見えたのだ。なんだその傷は、見せろ。いやだ。純一はいつしか歯を食いしばっている。誰にやられた。無言。友達か。激しく首を振る。まさか、マセラティの……。無言。純一っ。無言。無言。お前、本当に今日は、どうしてここに来たんだ。俺が訊くと純一はいっそう強く歯を食いしばった。何か俺に言いたいことがあったんだろ。間もなく電車が参りますというアナウンスがホームに流れる。純一の口元が一瞬緩み、そこから意外にも大きな声が飛び出す。あのさ、ほんと、なんでもないから。そう言って左腕を外側に曲げてくるくるまわす。口元にはえくぼが浮かんでいる。遠くのレール上に電車の頭が見える。純一が立ち上がる。つられて俺も立ち上がる。
「なあ純一、これだけは答えてくれ。一緒に暮らしてたとき、俺の何が一番むかついた。何が一番いやだった。今更だけど頼む、ぶっちゃけてくれ。俺、何がいけなかったんだ」
俺は、きっと、確かに、いけない父親だったのだ。自分でもそう思う。電車がホームに滑り込む。ドアが開く。俺と身長が大して変わらなくなった純一が乗り込む。
「なぁ、純一、俺のどんなところが」
「そんなのもういいよ。その代わりさ」
「うん」
発車のベルが鳴り響く。
「また俺の保護者になってよ」
「え?」
「ひとりだけなんだよね、俺の、父親」
ドアが閉まり電車が走り出す。ガラス越しに手を振る純一のロレックスを嵌めた左腕は、やはりお粗末なフラフープの曲芸にしか見えなかった。
レールの先で小さくなっていく電車の上を大きな雲がゆったりと移動している。すぐ後ろを小さな雲がせわしなく形を変えながら移動している。どうして悩んでいるのかを悩みながら懸命に追いかけているようにも見える。電車が見えなくなるまで何度も指差し確認していた駅員がホイッスルを胸ポケットにしまって駅舎の方に向かう。安全を守る仕事は大変だ。勤務上がりにあの定食屋で呑むビールはさぞかし美味いことだろう。駅員? そうか、駅の職員なら何か分かるかもしれない。もしかしたらその中に彼女を装ってあのメッセージを書いていた人物がいるかも。あまり考えたくない結末だが。俺はホイッスルの駅員を呼び止めた。すいませんちょっと伺ってもよろしいですか。はい、なんでしょう。外の伝言板についてなんですが。伝言板? そうです、待合室を出てすぐのところにある……。俺が言うと、駅員は一瞬パプアニューギニアの鉄道路線について質問されたような顔になり首を傾げた。伝言板ってあの、人が文字を書く? そうです、人が文字を書く。えーと、どこにあるって? どこって、だからこっち。俺は彼を連れて改札を抜け、待合室を通って外に出て指を差そうとして自分の目を疑った。あれ、あれ、ない。右に傾いた古い伝言板が、チョークと黒板消しが紐でぶら下がった伝言板が、なくなっている。縦型灰皿、ひび割れたアスファルト、錆びたベンチ。見えるのはそれだけだ。付近に何かを撤去した形跡もない。なにこれどういうこと? 俺は思わず声が出た。
「すいません、その伝言板があったというのは、いつ頃のことを仰っていますか、実はわたくし五年程前にこの駅に配属……」
「今朝、今朝今朝今朝! 俺最後、欄外にいいねって書いて、ねぇ、どういうこと?」
「さぁ」駅員は憐憫の眼差しで俺を見てから斜めに苦笑した。「どういうことでしょう」
分かっている。論理的に考えたら俺は自分の目を疑うだけでは済まなくなる。当然だ。これは明らかにおかしい。でもまだ自分の脳みそは疑いたくない。晋太郎伯父さんの家に戻ると、事務所の裏から何やら物音が聞こえた。現場を早めに切り上げたらしいチョージがひとりで平板に五寸釘を打ち付けている。何をしてるんだ。俺が聞くとチョージはあぁオイさん、これゲーム板ね、と言った。釘の下にはマジックで得点と思われる数値が書いてある。ゲーム板? 俺が数値を見ていたらその釘に輪投げの輪っかが飛んできて引っ掛かった。チョージが満面の笑顔で投げている。そんなに気に入ったのか。なんだか俺は意味もなく嬉しくなった。よしできた、オイさん勝負だ! そこへ伯父さんと伯母さんが帰ってきた。車を降りるなり伯父さんがチョージを一喝する。こらチョージ、道具で遊ぶんじゃねえっ。チョージがシュンとなる。あらこれ懐かしい。輪っかを摘まんでそう言ったのは伯母さんだ。ほら、つばささんの。あぁほんとだ、つばさの刺繍枠だ。母さんの? 俺は思わず口を挟んだ。この家を新築するとき、昔っからあるガラクタをまとめて倉庫に突っ込んどいたんだ、忘れてたわ。そうだったんですか……って、刺繍? 母さん刺繍できたんですか。つばさの刺繍はここらじゃ有名だったよ、よく朝まで夢中になって花だの鳥だのを縫ってはハンカチとかこさえてよう、そんで特攻服にも……。特攻服? 俺が聞き返すとなぜか慌てて伯母さんが伯父さんの腕を叩く。あ、あぁ、とにかくこれはそんときつばさが使ってた道具だよ、いやぁ懐かしい。俺は輪っかをひとつ手に持って眺めた。そうかこれは輪投げじゃなかったのか。よく見ると金属のパーツ部分には手回しネジがあるものとないものがあり、どれも錆びきっていて木製リングの外側には手垢のような染みが幾何学的な模様となって付着している。十代の頃の母が夢中になった跡だと思うとなんだか愛おしく思える。母が死んだとき、俺は二十二歳だった。仕事も恋愛も全てが不安との戦いで、生きているだけで忙しく、逆に忙しくない時間は死んでいた。周りはおろか自分自身さえも見えていなかった。母が闘病していたこともその忙しさにかまけて目に入らないようにしていた。逃げていた。そう、俺はやはり逃げ続けていたんだ。それも強靱な敵からではなく、自分自身からでもなく、普通にあるもの、近くにあるもの、身近な愛から逃げていたのだ。いつも咲いているガザニアに目を向けようとしなかったのだ。不意に父親の顔が浮かぶ。俺は輪っかを握ったまま晋太郎伯父さんに言った。伯父さん、突然で申し訳ないんだけど俺明日の朝帰ることにしました。帰るって、東京へ? いや、千葉の実家へ。そうか。ほんとにお世話になりました、あと俺、実は……。汗臭くてよ。は? とりあえずシャワー浴びさせてくれ、そんでそのあとふたりで一杯やるべ。はぁ。後ろで聞いていた伯母さんがニコッと笑って裏口から台所に入っていく。夕方にはまだまだ早い時間で、蝉たちの暢気なコーラスが事務所裏の雑木林に降り注いでいた。
それから俺は2階の部屋で私物をリュックに詰め込んだ。と言っても元々何も持ってきていないので荷作りは一瞬で終わった。しまむらで購入した服は全てチョージにあげることにした。半分以上は袋から出してもいない。JW・CADの操作のコツをいくつかノートに書いてクボタの机の上に置いたとき、冷えたビールとグラスを持って晋太郎伯父さんが事務所に入ってきた。一杯やるってまさか事務所で呑むとは思っていなかった。打ち合わせ用のガラステーブルにビールをどかっと置き、伯父さんは俺にグラスを渡す。乾杯直後にふたりで一杯目を一気に飲み干した。
「伯父さん、別に隠すつもりはなかったんだけど、実は俺、四箇月前に仕事も家族も全部失ったんです。それで東京にいられなくなっちゃって」
「そんなことだろうと思ったよ。どうだ、こっちに来てちっとは気分が晴れたか」
「はい。とても」本心だった。「なんか、ちゃんと生きていこうってすごく思いました」
「そりゃ良かった」
晋太郎伯父さんがエアコンの設定温度を低くする。ピッピッピというリモコンの操作音に例の呼吸音がシンクロしてなんだか心地よいパーカッションの音みたくなっている。
「そうかぁ、全部失ったか」伯父さんが椅子に座り直して言う。「でもよ、全部失うのと全部捨てるのって、どっちが辛いんだべな」
「つまり、なくなるっていう結果は同じで、それが受動的か能動的か」俺は言った。
「そう」
「うーんどっちだろう。決心する必要がある分、捨てる方が辛いかな。まして全部なんて、相当勇気がないと無理ですもんね。まぁ捨てても失っても身軽になるってのは一緒だから、なんかあったとき逃げ出すのは楽になるけど」
「逃げるって、分かんねえな。俺は逃げ出したやつってあんまり見たことねえぞ」
「今、目の前にいるじゃないですか」
「マサユキくんは逃げたんじゃなかっぺよ。選んだんだべさ。ここに来ることを」
「選んだ?」
一本目のビールが空になり、晋太郎伯父さんは二本目の栓を抜いた。
「あのさ、古い話していいか」
「どうぞ」
「暴走族、まぁ昔はカミナリ族って言ってな、みんなで単車乗って走り回るやつ、そのアタマをあの寺の住職がやっててよ、大昔の話な、そんで走ってっと隣町のおんなじような族とよく鉢合わせになんだよ、したら先頭走ってる住職の野郎、横のあぜ道にひょいっと曲がっちまうんだ。なんで逃げるんだよって聞くと、あいつは決まってこう言うんだ。逃げてねえ、俺はこっちの道を選んだだけだ、って。確かに向こうの方が人数も多いし喧嘩になったら負けんのは分かってた。要するにあいつは賢かったんだよ昔から。しかもそうやって口も上手いから、なんか言うと大人も警察もみんな納得しちまうんだ」
「へぇ、すごい人だったんですね。って今もすごいけど」
住職と晋太郎伯父さんの武勇伝については以前障りだけ聞いていた。伯父さんが二本目のビールを空ける。滅茶苦茶なペースだ。ほとんどひとりで呑んでいるので、早くも呂律がドリフトしている。
「賢くて喧嘩が強くておまけにでかい寺の息子だから金もある。もう、欲しいモンが全部手に入るわけよ。一番高い服、一番高い単車、そして一番いい女。――あいつは」と言って伯父さんは母屋の方を指差す。どうやら伯母さんのことらしい。「言っちゃまずいって思ってるみたいだけんど、俺は思わねえから言っちゃうよ。マサユキくん、いいよな」
「はあ、なんでも言ってください」
「その、住職が惚れに惚れ込んだ、この町の誰もが一緒になるだろうって思ってた女が、あるとき何もかもを捨てて消えちまったんだ」
俺は、背筋だけではなく肩から脇腹にかけて背中全体が内側から撫でられているような感覚を覚えた。刺繍、特攻服。
「まさか」
「そう、俺の妹だよ。マサユキくん、あんたの母親は、決死の覚悟で全部を捨てたんだ」
言ってから伯父さんは喉を鳴らしてグラスを空けた。そしてウシガエルのようなゲップをしたあとでこう続けた。
「逃げたんじゃねえ。選んだんだ。あんたの父親をな」
えーと、整理が必要だった。いろんなことが結びついたり混乱したり集結したり飛び散ったりして頭の中のデータ量が一気に増えてキー操作の処理スピードが著しく遅くなっている。今すぐにゴミ箱の中を消去して不要な脳内アプリを全部アンインストールしたい。何十年も前に確かにあった圧倒的な怖さ、圧倒的な憎さ、そのふたつの密着部を押し広げながら突き刺さる圧倒的な愛おしさ。とりあえず俺がこの町に一度も来たことがなかった理由がなんとなく剥がれた気がする。お尻にできたかさぶたが湯船の中で知らないうちに剥がれるように。それだけならまだいい。この混乱はなんだ。この何かが飛び散っていく厄介な痛みはなんだ。振りほどこうとするとさらに深く突き刺さる時間の棘はなんなのだ。以前テレビで見た深海魚の歯を思い出した。内側に向かって斜めに生えているので、噛まれた獲物が逃げようとするとより深く歯が突き刺さるのだ。厄介な角度だ。それに似た刺さり方だ。痛みが映像を映し出す。俺の視界を通り過ぎていった全ての情景が理由であり布石でありヒントであり前振りであり逆になんの意味もないガラクタであるような気がする。刺繍、鳥、かん子の嘴、ミャンマーのただ甘いクッキー、ツカさんが抱き続ける本物の怒り、ミックスフライ定食とクボタのテンパった目、ロレックス。それらがごちゃごちゃに絡み合って、ミキサーにかけられ液体になって知らないうちに俺の血管に注入された。鳥怪人のエキスは俺の身体を支配し洗脳し破壊して蘇生させようとしていたのだ。そんな俺に背中を押されて、彼女は……。
はれまあ結構な呑みっぷりだこと。刺身と焼き茄子とニンニク醤油をお盆に乗せて伯母さんが入ってきた。晋太郎伯父さんは一瞬口をつぐんだあとガハハと笑っていやあ楽しいマサユキくんと呑んでると楽しいよここでずっと働いてほしいぐれえだ、と言った。そんなこと言われたってほれ、マサユキさんも困っちまうべさ。言いながら伯母さんが嬉しそうに伯父さんの肩を叩く。
「あの、ひとつくだらないこと聞いていいですか」俺はどちらにともなく言った。「駅前に、伝言板がありましたよね」
「でんごんばん?」伯父さんが顔を少しずつ斜めにしながら伯母さんを見る。すると伯母さんも目を菱形にして伯父さんを見返す。
「そういやあったな、ありゃいつの頃だ、何年前だ、なくなったの、忘れたなぁ、でもそうだ、昔はあった、よく使ったよ、ほれ、お前との待ち合わせんときも」
「あらやだ恥ずかしい」と言って伯母さんが顔を赤らめる。「でもマサユキさん、そんな昔のことよく知ってるわね」
俺は苦笑いするしかなかった。もういい、考えるのはやめよう。深呼吸という名のため息がくだらない質問を余計に深く突き刺すだけだ。この町にへばりついている何十年もの時間の棘が、コップに浮いたビールの泡を一粒ずつ丁寧に諦めながら潰していった。
最初に降り立ったときはこの駅が闇の中に浮かぶイカ釣り漁船に見えた。その駅名を記すプレートに、オレンジ色の陽光が斜めに当たっている。下にはいくら目を凝らして見ても古びたベンチと灰皿しかない。俺はそんな駅舎の入り口で今度はちゃんとしたため息をついた。小さなリュックを肩にかけ、スイカで自動改札機を抜ける。早朝だというのに律儀にも中尾工務店のみんなが駅まで見送りに来てくれた。これ、バスの中で食べて。伯母さんが握り飯の入ったしまむらの袋を俺に渡す。元気でねー。また来いよ。純一くんにもよろしく。みんなが一斉に喋るので収拾がつかない。チョージが俺のTシャツを着て涙を流しているのも意味が分からない。それを見て思わず感極まっている俺の鼻の奥の痒さはもっと意味が分からない。
ともかく俺はこうして母が生まれ育った町をあとにした。すぐに戻ってくるような気もするし、もう二度と来ない気もする不思議なさよならだった。
千葉の暑さはなぜかからっとしていた。涼しくなることを潔く諦めて開き直っているようにも思える。市民病院のベッドの枠には何かのゲームのキャラクター人形がたくさんぶら下がっている。うちの子供たちが来るたびに括り付けていくから困っているんだ。弟は全然困っていそうにない口調で俺に言った。父さん。俺が声をかけると父親はベッドに横向きで寝たまま目を薄く開いた。まさ……と小さな声が喉からこぼれる。そうだよ、マサユキだよ、父さん久し振り。俺は父親の手を握る。その手に力は全くなかったが、かすかなぬくもりが魂の残量メーターをはっきりと表示させていた。
「マサ、ユ、キ」父親が長男の名を呼ぶ。
「ん、なんだい?」
「乗れ」
「え?」
俺は父親の口元に耳を近づけた。しかしそれ以上は低い呼吸音しか聞こえなかった。今、なんて? 俺は弟の顔を見た。弟が小さく首を傾げる。一昨日くらいからそればっか口にするんだ。乗れって言ったように聞こえたけど。うん、おそらく車の中にでもいると思ってんだろうな。ええっ、父さん自分が病院にいることも分からなくなっちゃったのか。俺の声が少し大きかったのか、弟は周りの入院患者の表情を窺ってから、俺の顔をじっと見た。目が哀しみで溢れている。昔、よくドライブに連れてってくれたもんな。弟の語尾が鼻水で滲む。しわくちゃに縮んでしまった父親の顔はまるで校庭の水飲み場の蛇口にぶら下がる石鹸のようだ。そこには父親が晋太郎伯父さんよりも十歳近く年上だということ以上に抗えない何かがあるような気がした。
俺は単純にショックを受けていた。父親がこんな姿になってしまったことと、父親とドライブした記憶なんてまるで残っていないという事実のダブルパンチだった。病室の窓からピンク色の飛行機雲が見える。もう大部太い線となっており、端の方は普通の雲と区別がつかなくなっている。父親はいつものようにまたけろっと復活するのだろうか。それとも今回ばかりは本当に危険なフェーズに差し掛かっているのだろうか。もしそうだとしたら、俺には何ができるのだろうか。しばらくすると白衣を着た主治医が現れて父親のからだの状態を軽く診察した。治療方法の説明をしたいのでおふたりともちょっとよろしいでしょうか。主治医に促されて立ち上がったとき、父親の声がかすかに聞こえた。俺たちはすかさず口元に耳を寄せた。乗れ。まただ。弟がため息をついて苦笑する。分かったよ父さん、乗るよ、今日は兄貴も一緒だ、さぁて、どこにドライブ連れてってくれるのかな。
延命という単語を頻繁に使う主治医との面談が行なわれたあと、俺たちは売店でサンドイッチを買って屋上に上がりそれを食べた。レタスが点滴の台車の先端についた緩衝ゴムの匂いにそっくりだった。兄貴、どうしてもっと早く来てくれなかったんだよ。悪い、いろいろあって。俺はそう言うしかなかった。いずれちゃんと説明しなくてはならないことは分かっている。でも、今ではない気がする。父さんさ、この間までは普通に喋れていたんだ、でも少しずつ言葉が続かなくなって今ではあんなふうにわずかな単語だけでしか会話できない、もどかしいもんだね、話せないって。そう言って弟は点滴レタスをゆっくりとかじった。もう飛行機雲はどこかへ消えている。西の空に浮かぶ雲の襟足が若い夕日に炙られて反対側に生まれたばかりの夜を誘惑している。ビルとビルが誰かのわがままに付き合うようにずっと遠くまで続いている。その先に海が見え、さらに向こうにはもっと高い建物の影が頑固な蜃気楼みたいに居座っている。東京は、残っていた。どこの国も爆弾を落とさなかったようだ。でも、と弟は最後のサンドイッチを飲み込んでから言った。わずかな単語だけで会話してると喧嘩にはならないんだ、きっとさ、余計なことばっか付け加えすぎてるんだよ普段みんな、だからうまくいかなくなるんだよ、だって人にむかつくときって大抵は余計なこと言われていらっとすることから始まるじゃん、最小限の単語だけで話してりゃそんなことないのに、あ、ゴミ。弟は俺の丸めたビニールを自分のゴミと一緒にしてゴミ箱に投げ捨てた。いろいろあってと言って口をつぐんだ俺への気遣いかもしれないと思った。父さんなんて言ってた? 何が。だからちゃんと話せた頃最後にどんな会話をした? どんなって、普通だよ、飯が不味いとか、テレビの映りが悪いだとか、寿司買ってこいとか。寿司? そう、ラーメン屋のくせに。ふふ、父さんらしい。全く。そう言って微笑んだ弟の顔が一瞬こわばって固まった。何が起きたのか分からず俺は弟の視線を目で追って思わず声を洩らす。あ。なんとなく言葉にはしづらい、ふたりの間だけで何年も何年も放置したままの気まずさが俺たちの間をすり抜けた。弟が見ていたのは、ビルの隙間にのそっと顔を出した赤い三日月だった。やがて弟は視線を元に戻し、足を組み替えてから少し笑った。俺も暮れていくだけで爆発しない東京を見て笑った。鳥怪人、俺は言った。兄貴よく覚えてるな。そりゃ覚えてるよ、あんなに怖いもの他にないだろ。そうだよな、俺は未だにあれを見ると足が震えるもん。赤い三日月? うん。同じだよ。でもなんであんなに怖いって感じたんだろう。確かに。それからしばらく俺たちは夜の緞帳が下りてくる西の空をぼんやりと眺めた。千葉の町明かりがでたらめな順番でポツポツと灯っていく。平静を装いながら横の方角を見ることができずにいるふたりの中年男。
「きっと羨ましいって思ったんだ」俺は言った。
「何が」
「あの、嘴の生えた赤ん坊がだよ」
「ああー」弟が言って大きく頷く。「それ、それだよ。だから混乱するんだ。だってさ、羨ましいっておかしいじゃん、あんなふうにされちゃって、羨ましいはずないのに」
「そう。なのにあの母親は、母さんは、頬擦りまでして」
不思議なことに俺はそのあとの言葉が続かなかった。鼻水があるような気がしてすすってみたがどこにもなくて、空気だけが俺の鼻の穴を悪人面して通り抜けた。
「あのとき感じた怖さって嫉妬心だったんだね」弟が言う。「だって、俺にもし嘴が生えたら母さんには絶対に見えちゃうだろうって思ったし。ほら、丁度あのころ俺、母さんに怒られるようなことばっかしてたから」
「怖いのは嘴が生えることじゃなかったんだな」俺は言った。
「そう、母さんの目にそれが映ってしまうことが何よりもいちばんの恐怖だったんだよ」
「だから俺、母親に盲目的に愛されているあの赤ん坊を羨ましいって思いながら、なんて言うか、憎たらしかったもん」
「俺もだよ。憎かった。でも意外だなぁ。兄貴もそう思ったなんて」
「思ったさ。だけど嫉妬の原理を理解していないからどう処理していいか分からなくて」
「俺の場合処理する必要なんかなかったよ。だってあの赤ん坊は、兄貴だったもん」
病室に戻ると、弟の奥さんが子供たちを連れて来ていた。元気のいい双子の男の子だ。ピンク色の剣を持ったキャラクター人形を取り合っている横で俺たちは沈鬱な表情を浮かべながらも当たり障りのない世間話に花を咲かせた。それは病人をなんとか元気づけようとする祈りの儀式みたいに思えた。面会時間が終了する頃、はじめから今夜はここで付き添うつもりでいた俺を残して弟たちは帰って行った。点滴を交換しに来た看護師が出て行くと、病室は異様な静けさに包まれた。何もかもがスローモーションで動き、まるで水の中にいるような情景に俺はかん子の母親がいた施設の静けさを思い出した。父親は眠っているのか目を閉じているだけなのか分からない。とにかく俺は今夜ここで一晩中父親と過ごすのだ。それは昨日から決めていたことだ。ベッドの枠に括り付けられた人形がひとつ増えている。それは紫色の服を着たインチキ手品師みたいなキャラクターだった。
近くの定食屋でお粗末なミックスフライ定食を食べ、俺は消灯された病室に戻った。父親のからだがあるところだけ、白い掛け布団が薄く盛り上がっている。傍らの丸椅子に腰掛けて俺はしばらく薄明かりに照らされた網石鹸のような父親の顔を見ていた。すると頭の中に誰かを心配するボタンが現れた。進むボタンでも戻るボタンでも消えるボタンでも破壊ボタンでもない、新たなボタンだ。俺は恐る恐るそれを押してみた。かん子はちゃんと眠れているだろうか、繋がっている友達とは笑って会えるだろうか、ツカさんはニジマスが釣れただろうか、クボタは晋太郎伯父さんに怒られていないだろうか、伯母さんの肩凝りは軽くなるだろうか、チョージはお母さんを思い出して泣いていないだろうか、純一は笑っているのだろうか、俺は動かない父親の手を握る、生温いその手は大事なものを手に入れてずっとずっと守ってきた硬さと強さと後悔しない諦め方を俺に命がけで伝えているように見える、父さん、後悔してないよね、俺は、後悔ばかりだよ、ドライブに行ったことも思い出せないよ、俺はそのまま掛け布団の上にうつ伏してきつく目を閉じた、そうしないといられなかった、父さん、俺たちに守ることのかっこ良さを教えてくれた父さん、俺たちに謝ることのかっこ良さを教えてくれた父さん、純一は俺に言った、ひとりだけなんだ、と、ひとりだけ、ひとりだけ、そうだよ、どんな生き物だって、本当の父親はひとりだけなんだ、部長の娘にできた子供の父親もひとりだけなんだ、元気に産まれてくるだろうか、幸せになってくれるだろうか、純一、だめな父親でごめんな、純一、じゅ、あ、あぁ、出た、窓も開いていないのに、カーテンの裾が膨らみ始めた。
「お主はなーんも分かっちょらんのう」雰囲気は言った。
「千葉にまで現れるんですか。よっぽど暇なんですね」
「わたしに場所という概念はない。てか結構都会じゃんここ、何あれモノレール? なんか超やばくね?」
「ないんでしょ、概念」
「ない。それよりなーにが心配じゃ。お主が心配しておるのは、心配してますアピールが相手に伝わるかどうかだろ。それも文字とかスタンプにしてよ。要するにあれだ、承認されたいだけなんだ。そうだろ」
「そんなんじゃないですよ。俺はただ純粋に」
「くわーかっか、あんまり笑わせないでくんなまし。ほならどないして伝えるっちゅうねん。いつでもどこでも暇さえあればすぐ親指くるくる回して文字打ちよるくせに。言葉に頼りすぎなんじゃどあほ、お主ら人間は、所詮我々と違って気持ちを正確に伝える手段を最初から持っておらんのだ。諦めろザコ、カス、ちんカス野郎」
あぁいちいち台詞が長い。言う方の身にもなってほしいものだ。
「酷い言い方ですね。気持ちを伝えるために言葉が必要なのは当たり前でしょ」
「伝わっておらんから申しておるのじゃ。あんな大事なことを言っておるのに。てか気持ちって、言葉に変えた時点で嘘になるのよ。嘘っていうか偽物に。どんなに美しい風景でも写真に撮ったものを別の場所で見たらそれはもう偽物でしょ。さわれにゃあし、感じることもできにゃあし、言葉だって同じだがや。感じた瞬間の気持ちを誰かに丸ごと伝えたいのなら、自分の脳を取り出してUSBか何かで相手の脳につなげて再生してもらうしかなかろう。QRコードでもよいが。そう、未来では会話が全部QRコードになっているやもしれぬ。特にお主みたいなどあほはそうでもせにゃやっていけんだろう、くわーっ」
……あれ、「かっか」は? というかその雄叫びはやはりどこかで聞いたことがある。なんか目の前にヒントが出ている気がするのだが思い出せない、というじれったい気持ちに神経を揺さぶられて目を覚ました俺は代わりにそのじれったさを感じている相手が誰なのかが分かった。俺だ。俺は自分に対してじれったさを感じていたのだ。だってあれはどう考えてもSOSだ。じゃなきゃわざわざ平日に学校をサボってあんな田舎まで来るか? サボったんじゃない。きっと行ってないのだ。思いっきり通学時間帯に電話したにも関わらず異常なくらい静かだったではないか。それに見ただろうあの火傷の跡。おかしいってどう考えても。もうじれったいったらありゃしない。何やってんだよ俺。どうにかしろよ早く。早く早く早く早く。俺は立ち上がる。病室を飛び出て階段で屋上に上がる。ポケットからスマホを取り出す。
「なに」三回目のコール音の途中で純一は出た。
「ごめん、こんな夜中に。今病院の屋上から掛けてる」
しばらく間があってから純一はぼそっと言った。「へぇ、ちゃんと行ったんだ」
「約束しただろ」
「その、約束を一度も守ってくれなかったこと」
「へ?」
「言ってたじゃん昨日、むかついたこと教えろって」
「あぁ、そうか」
俺は空を見上げた。純一と交わした約束。純一と今まで交わした約束。なんてことだ。ひとつも思い出せない。随分と高く遠い空まで移動した三日月は、もう赤くない。そうなると怖くもなんともない。代わりに話題を変えようとしている自分が怖くなって、そんな自分をさらに分裂した別の自分が見て殴りたいくらいじれったく思っている。
「どうだ、ロレックスは」俺は少しおどけて鼻から抜いた声を出した。
「……」
「少しは腕に馴染んだか」
「……」
「純一、聞こえてるか」
「……」
どんなにどあほな、どんなに約束を守らない父親であっても異常を察知できるくらい長い間のあとで純一は言った。
「…………ごめん」
何があったかは大体想像がつく。マセラティだ。その瞬間、俺の感情の出口が急激に狭くなるのが分かった。ホースの先端を指できつく挟んで蛇口を回したみたいだ。針のように細くて強くて激しい何かが圧力を増幅させて遠くまで噴射する。何が噴射したのかは、ツカさんの顔が一瞬浮かんだことで分かった。これか、ツカさん。これが本物の怒りか。
「純一、今から荷物をまとめろ。明日の夜阿佐ヶ谷に来い」
「え」
「俺がお前の保護者になる」
「ほんと?」
「ほんとだ」
どんなにどあほな、どんなに約束を守らなかった父親であっても気持ちを察知できるくらい長い間のあとで純一は言った。
「……約束だよ、お父さん」ツー、ツー、ツー。
聞いたか雰囲気。昨日、あの町で一度も、いやその前からずっと何年も呼んでくれなかった呼び方で今、純一は俺を呼んだ。じれったさがまだ誰も泣いていない星空の隅で粉々になっている。俺は暗い屋上をゆっくりとフェンスの端まで歩いた。L字に曲がった病棟の並んだ窓が見える。どの部屋も薄明かりに照らされて昔のブラウン管テレビみたいに少し膨らんで見える。6階の父親が眠る部屋の窓に掛かったカーテンが内側に、というかベッドの方向に向かって小さく揺らいでいる。堪えきれずに現れた酸っぱい湿気と声の出そうな痒さが俺の目の奥を先の尖った硬いもので啄んでいる。おい雰囲気、何がUSBだ、何がQRコードだ、人間だってな、こうやって伝えることができるんだ、そしてな、気持ちが丸ごと伝わったら、分かり合えたら、人間はなぁ、人間は、こうして泣いちゃったりするんだ、そういう生き物なんだ、これは承認なんかじゃない、繋がったというエキスなんだよ。そのとき俺は確かに見た。6階の病室のカーテンが特撮番組で使われるしょぼい小道具みたいな嘴の形に膨らんで、ゆっくりと平べったくなっていくのを。
薄明かりが灯る病室に戻り、丸椅子に座って父親の顔を見て俺は息を飲んだ。枕の上でその目は確かに開いていた。頬も眉毛もいくつかのチューブが繋がった腕も全く動いていないのに、目だけが近代的な博物館の天井に設置された採光用のハッチみたいにぱかっと開いていたのだ。俺が顔を近づけると、口の両端に小さくて硬そうな皺が寄った。父親は俺だと認識して見ているのだろうか。そもそも俺が見えているのだろうか。哀しいがその目には何も映っていない気がした。だから吐いた息に綿埃がついただけのような細い声を聞いたとき、俺は耳をその口の中に押し込むくらい近づけてしまった。
「えっ、なぁに」
「ま、さ、ゆ、き」父親の声は間違いなくそう言った。俺だと認識している。
「そうだよ俺だよ、ちゃんと見えてるじゃん、でも父さん、今は夜中だよ、起きちゃったのかい、眠れなくなっちゃったのかい」
「の、れ」
「……」
俺はため息をついた。また車に乗っているらしい。父親には空気の裏側が見えているのかもしれない。コメント欄のない、本物の空気の裏側。というか父親にとってはそっちが表側なのだ。そっちが本物の動いている世界なのだ。俺を車に乗せてどこへ行くつもりなのだろう。想像してみる。いや、両極にあるものを科学融合させて新素材を生成するように、記憶にない思い出というものを作ってみる。ドブ臭い交差点を右折して、貨物倉庫の並ぶ県道を走って港まで行き、船を横目で見ながらぐるっと一周して海浜公園の駐車場に車を停めていつもの桟橋で釣りを楽しむ親子。売店で父親にソフトクリームを買ってもらった俺と弟が、奥に飾られた黄色いゲイラカイトも買ってくれとせがむ。だめだ。なんだよとうちゃんのけちんぼ。だってお前らあんなの買ったってどうせすぐに飽きるんだろ。父親は口を開いたついでに息をしているような、なし崩しで生きているような状態で俺を見ている。暗い病室でなんの影も映っていない天井が俺と父親の新鮮な沈黙を包み込んでいる。ベッドの上で父親の口はそれ以上動こうとはしなかった。いつの間に閉じた目にはきっと唇をすぼめた俺と弟が映ったままだ。俺は手を握る。相変わらず生温い。父さん。もっと喋ろうよ父さん。まだ何か言いたそうな形のまま父親の口は薬臭い闇の中にゆっくりと沈んでいった。もう何も動かない。父親も、俺も、カーテンの裾も、ベッドの枠にぶら下がった人形たちも。目を閉じる。ほんの一分前によぎったインスタントな思い出のサンプルが俺を不安にさせる。ソフトクリームとゲイラカイト、糸が切れてそのずっと奥に吸い込まれていく、青い空、海浜公園、それはフェイクではない、失われた記憶の繭だ、不安、あの時間はもう失われてしまった、ここからあそこへ行く道は閉ざされてしまったのだ、場所だけが残っている、丘の上から見える、電車から見える、こうして目を閉じているので見えるわけがないのだが、でも見える、鮮やかに見えている、それが、哀しい、哀しいと思う予感がして怖い、平べったい不安、平べったい怒り、それに足が生えて立ち上がった姿を想像して俺は震えている、拳を握る、うんと硬く握る、ゆっくりと一発殴る、顔が分からないので車を殴る、殴る、殴る、車は両手をついて俺に謝る、分かったならもう行けよ、二度と俺の前に現れるな、車はとぼとぼと歩きだす、口の端から血が垂れている、俺から死角になった途端にものすごい早さで親指を回転させる、インスタとツイッターを無作為にスクロールして開いたコメント欄にバカだの死ねだのと投稿しまくる、走っていって背後から一発殴りどうしてそんなことをするんだと言ったらすっきりしたいからだというのでそんなことをしても自分を貶めるだけだからやめろともう三発殴ってやったらマセラティは顔をアドバルーンみたいに腫らして泣き始めてそしたら俺から全てを奪ったやつがこんなに情けないやつだったってことが死にたいくらい哀しくなってもういいよ投稿してすっきりするなら死ねだけじゃなく溶けろ砕けろ潰れろ消えろ腐れなくなれ親族まで全員焼け死ねってくらい書けよなんて言いそうになっている自分が怖くて俺は震えてその止め方が分からないから、よし、よし、よし、頭の中を空っぽにするのだ、空っぽ、空っぽのイメージってなんだ、白い箱、中には何も入っていない、ただひらすら空っぽの巨大な箱、俺が入れるくらい、逆に俺が小さくなってもいい、ガラスの瓶でもいい、何も入っていない大きな瓶、中に入らなくてもいい、見ている、空っぽの瓶を見つめている俺、違う、もっと圧倒的な空っぽじゃないとだめだ、不安と焦りと怒りが笑いながら肩を組んで押し入ってくる、草原だ、草原の中に俺は立っている、おおう、空っぽっぽい、足元に生えている草はなんの植物だ、どんな葉っぱの形をしている、いやいや芝生みたいで葉っぱなんかないぞ、青い空は見えるか、雲は流れているか、どこまでも澄んで、どこまでも他律的で、どうだ、面倒くさくないか、煩わしくないか、厄介ではないか、無視できるか、関わらずに丸投げできるか、消されていく、空っぽのイメージに不安と怒りが払拭される、雰囲気が現れなくても俺はこうして入っていける、眠りの世界に入っていける、空っぽの世界に入っていける。
いつしかベッドに上体を伏せて寝入っていた俺は、看護師が床を転がす台車の音で目を覚ました。朝食の時間らしい。クリーム色のカーテンは既に開けられており、眩しい陽光が父親のしぼんだ顔を淡く照らしている。父親は薄く目を開いて、壁の一点を見ている。クロスには細かい皺が何本も寄っている。経年劣化で糊が剥がれた時間の皺のようだ。もう長くは生きられないという蓋然的であり確信的であり言うなれば滑稽でさえある身内の心理をその皺は表している気がする。これ以上の延命治療を希望されますか、昨日主治医はそう質問した。兄と相談して決めたいのでもう一日ください、と弟は言った。世の中には返答を引き延ばしにできる質問とできない質問があります、主治医は言った。滑稽だ。滑稽なお説教だ。全く手を付けずに片付けられた食事のあとで父親はまた眠りについた。なぜか怒っているようにも見える寝顔だった。
程なくして幼い声が廊下に響き渡り、弟の奥さんと双子の子供たちが顔を出した。今日も括り付ける用の人形を持っている。どうして人形をベッドにぶら下げるんだい、俺は双子に訊いた。かぞくはぁ、いちばんのぉ、たからもの。ひとりが言う。夏休みに入る前に幼稚園で教わったみたいなんですよ。母親が照れながら俺に説明する。たからものはぁ、こぉれ。もうひとりが言って人形を差し出す。確かに持ち方がいかにも大事なものを持つときの形をしている。手が小さいからなおさらだ。そうか、じゃあ今日はおじさんがつけてあげるよ。人形を受け取ると子供たちは不安そうに俺の手元を見つめた。俺は落とさないよう慎重に持ち、ストラップの紐をベッドの枠に結んだ。いや、結ぼうとして落としそうになった。その前に叫びそうになったからだ。人形を持っていない方の手で口を押さえた俺の記憶が高速回転する。大事なもの。大事なもの。ハンカチです。いいんですか、そんな大事なものに。伝わっておらんから申しておるのじゃ、あんな大事なことを言っておるのに。人形を双子に渡し、廊下に飛び出ると俺は一目散に階段を駆け上がった。屋上でスマホを取り出し弟の名前をタップする。
「お前今どこにいる」
「なんだよいきなり。習志野に向かってるとこ。今日は半休とってるから次の打ち合わせが終わったらそっちに……」
「戻れ、今すぐうちに戻れ、暖簾だ」俺は弟の言葉を遮った。
「え、兄貴どうした、何言ってる?」
「暖簾だよ、まだあるよな」
「うちの? あぁ、確か父さんの部屋の押し入れに」
「それ持って病院に来い」
弟が黙る。ハンズフリーのノイズが無音の電波の間でゆったりとしたラリーを続ける。年配の太った看護師が洗ったタオルを干している。その向こうに金波銀波をきらめかせた海が見える。困惑が意思と使命に変わった瞬間の声が俺のスマホから漏れる。
「分かった。すぐに持ってく」
カチカチカチ、と性急に鳴り出したウインカーの音とともに電話は切れた。
一時間もしないうちに弟は病院のエレベーターホールに現れた。色褪せた布が巻き付いた長い棒を持っているので、通り過ぎる医師や患者がいちいち振り返る。なるほどね、兄貴よく分かったな。弟は頭の回転が速いので助かる。小学生になってもおねしょをしていたくせに。俺たちは廊下を早歩きで移動し、父親のいる病室に入る。弟の奥さんが父親の耳元で何かの合図を送るように言葉を投げかけている。枕の上で父親の目は開いている。乗れ、じゃなかったんだね、父さん。ベッドの右側から俺が言う。気付いてあげられなくてごめん。左側から弟が言う。棒の端を持った俺たちは暖簾をくるくると広げた。父親の眼球がせわしなく動く。同室の入院患者が何事だとこっちを凝視している。父親はベッドの上を橋渡しするように垂れ下がった古い暖簾をまじまじと見て、視線をかすかに動かしながら両サイドの俺たちを見て、最後に暖簾の右端を見て笑った。本当だ。嘘じゃない。本当に笑ったのだ。その笑顔は、今まで俺が見た人間の笑顔の中でいちばん美しかった。顔の奥深くにある一点が微妙に震えだし、じりじりと周りの壁に伝わってやがて全体的な振動となり、途中にあるいろんな記憶や感情や興奮をぜーんぶ巻き込んでそれらをぜーんぶ喜ばせた上でぽろっと表面に溢れ出たような笑顔だった。暖簾の右端には黒とオレンジがシンクロする美しい翼を広げた鳥が刺繍されている。正確に言うなら、鳥の刺繍が施されたハンカチが縫い付けられている。開店から二十五年間、ずっと店の入り口を守り続けた暖簾だ。大事なものを守り続けた翼だ。父親がその鳥を見て、心の底から安心したように笑っている。目が、父親の目が、潤んでいる。その十倍くらいの水分が俺と弟の目の奥に溜まる。弟の奥さんの目からは壁が既に崩壊して大量の水が流出している。ぽかーんとした表情でそんな光景を見つめる双子にも俺は言ってやりたいと思った。可能性をあったかも、と思うことほど辛いものはないんだぞ、でもそんなとき、いやいや今のこれが正解だったんだよと言ってくれるのが、家族なんだ。俺は父親の顔の皺がこの笑った形でいつまでもいつまでも刻まれていてほしいと思った。死んでからも、ずっと。
聞いてるだろ。何を。知ってるんだぞ、お前純一と連絡取り合ってるだろう。へ? へ、じゃねえよ。なんだバレてたか。平日の昼間に病院の屋上のベンチに座る目蓋を腫らした中年男ふたり。ま、そういうことだから。うん、兄貴もいろいろと大変だね。別に大変なことはないよ、自分で蒔いた種だもん。どうすんの、仕事とか。ぼちぼち探すよ。東京で? 分からない、とりあえず今夜、純一と会ってから話し合うことにする。へえ! 弟は口に当てた缶コーヒーを思わず離して目を丸くした。兄貴が人と話し合って何かを決めるなんてねぇ、大した進歩だ。ちょっとそれどういう意味だよ。いや、別に。弟はそう言って皮肉っぽく笑い、缶コーヒーを一気に飲んだ。遠くに見えるモノレールの上を鳥たちが立体的な群れを作って飛んでいく。いつだって人間たちは鳥の下で生きている。地上では平面的な群れしか作れないから、その分話し合ってなんとか生きている。だって結局は人だろ、俺は言った。人と繋がってなきゃなんにもできないんだよ。まぁ、そりゃそうだけど。なんだか腑に落ちていなさそうな弟の手から俺は空き缶を抜き取り、自分の空き缶と一緒にゴミ箱へ投げ捨てた。二つの空き缶の軌道は中途半端な三日月の形を描いた。でも人と繋がるってさ、と俺が言ったとき、塔屋の扉の内側でうきゃーっとはしゃぐ子供の声が響いた。フォローするボタンをクリックすることじゃねえんだよな。え、なあに? 俺の声も、聞き返した弟の声も、扉が開いて飛び出してきた双子の嬌声にかき消された。なんでもないよ。苦笑して俺は言った。双子が超人的な笑顔で俺たちの方に駆け寄ってくる。病室でおとなしくしていた分一気に解放されて舞い上がったのだろう。遅れて階段を昇ってきた弟の奥さんが慌ててどやしつける。うるさくしちゃだめって言ったでしょう、ほら待ちなさい、タケシ、ケンタロウ!
鳥怪人 〈了〉