表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鳥怪人  作者: 岩槻大介
1/2

(1/2)



 あけましておめでとう! でもこの言葉、最初に誰が言いだしたのだろう。先人は一体何がめでたかったのだ。年が変わっても生き延びていることか。だったら前年は死ぬかと思うほどの苦難で埋め尽くされていたのか。そういう人が切り傷だらけの足で立ち血豆だらけの手のひらをかざして荒波に浸食された断崖で眩しそうに元日の日の出を見ていたのなら確かに良かったねおめでとう、と言いたくはなる。よし、新年一発目のツイートはこのあけましておめでとう論にしよう。おそらくリツイートの嵐となる。特にリアルな俺のことを知らないフォロワーたちはそういう斜に構えた投稿を望む傾向がある。いい角度で斜に構えていますね、なんて粋なコメントが届くかもしれない。

 ストーブをつける。夜になってぐんと気温が下がった。下ろした点火レバーをしばらくその位置に固定していないと、このガスストーブはすぐに種火が消えてしまう。何しろ十年以上前に中古で買った年代物だ。デザインもやたらと古風で、オレンジ色の炎の廻りを赤錆の浮いた金属板がぐるっと覆っている。そこに俺の顔が歪曲して映っている。三十代も終わりに近付いたその顔は、老けたというより悪人面になったという印象が強い。人に言われるのではなく自らそう思うのだから傷つきようもない。オレンジ色の炎が次第にその顔を包み込んでいく。悪人が火炙りにされているような気がして見ていられなくなり、着火の途中で俺の寒い視線はストーブから逃げ出す。点火したかどうかは大体の時間で判断する。十五秒。手を離す。消えた。はいやり直し。再び黒いレバーを下ろす。十五秒。二十秒。ゆっくりとレバーから手を離す。よしついた。これで今夜も部屋が暖かくなる。ストーブの炎が金属板を照らす。そのとき着信音が鳴る。剥き出しの炎が壁を、カーテンを赤く照らす。このままそれらに引火する光景がほんの一瞬頭に浮かぶ。天井が赤い炎で包まれ、家全体から黒煙が立ち上り、その中で俺も妻も息子の純一も焼け死ぬのだ。火はそのまま隣家に燃え移り、狭隘な路地に囲まれたこの住宅地全体に燃え広がる。消防車も入って来れない。そして近年まれに見る大火災となる。連日に渡って報道のヘリが空撮した緊迫感たっぷりのニュース映像は、過去の惨劇を特集するテレビ番組で毎回取り上げられることになる。ナレーションはいつも決まってこうだ。皆さんこの教訓を活かしてストーブの火には充分注意しましょう。それを暖かい部屋で見ている視聴者が、あぁうちじゃなくて本当に良かったと思いながら雑煮の残りを食べる。良かったね、おめでとう。美味しいね、おめでとう。はいおめでとう。あけましておめでとう。スマホの着信画面に弟の名前が見えたので、まさにそんな気持ちで俺はお決まりの挨拶を口にしたのだ。それが、あんまりめでたくもないんだ。弟は言った。

 数週間前、父親がまた入院したことは弟から聞いていた。

 父親は数年前まで千葉の街外れで中華料理店を経営していた。カウンター席の他にテーブル席が二つという迂闊に内緒話もできないほど狭い店だった。入り口にはオープン当時からずっと変えていないというボロボロの暖簾が掛かっていて、母以外の従業員は一度も雇ったことがなかった。その母は、俺が二十二歳のときに癌で死んだ。俺は高校を出てすぐに実家を飛び出したが、弟はそのまま残って家族を持ち、独り身となった父親と今も一緒に暮らしている。そんな父親も少し前までは夏に帰ると孫たちを連れて釣りに出掛けたりしていたが、不摂生が祟ったのかここ数年で心肺器官が急激に衰え、入退院を繰り返すようになっていた。最初はそれなりに心配したが、いつも二週間程度でけろっと復活して退院するのでこれは父親が何かをアピールするために企んだ定例行事なのでは、と俺は疑うようになった。それでも病状が悪化していることは事実らしく、先週弟は主治医にこう言われたそうだ。ご親族には会えるときになるべく面会に来るようお伝えください。

「だから兄貴も時間作って病院に来てくれよ」

 弟の声に小刻みなノイズが入る。そのたびに俺はスマホを耳から遠ざける。

「分かったよ。それより捕まるぞ、運転中に電話してると」

「大丈夫。ハンズフリーだ。……あっ」

 弟が嘘くさい悲鳴みたいな声を上げる。それは引き出しの奥で消しゴムのかすにまみれて忘れられていた恨みを孕んでいるような声にも思えた。

「どうした、事故ったか」

「違うよ。兄貴、今どこにいる」

「どこって、うちにいるよ、阿佐ヶ谷の」

「月って見られる?」

「月?」

 俺はせっかく暖まり始めた部屋の窓を開け、ベランダに出て空を見上げた。月明かりの衣をまとった天ぷらみたいな雲が見える。

「ちょうど雲に隠れてる。月がどうかしたのか」

「そうか……いや、いいんだ」弟はなぜか詫びるように言った。「とにかく来てくれよ、病院」

「あぁ、うん」

 電話を切ると、無機質な冷気がパジャマの襟廻りにぐるぐると何周も巻き付いた。弟の詫びるような口調と、その直前に薄い動揺を隠すような短い間があったことが少し気になった。純一の部屋の窓から昔のヒット曲が何かを諦めたように染み出している。ばらまき配信によるボーダレスな音楽産業の普及は、ブルーハーツに心打たれる中学生をこの世に再び誕生させたようだ。俺はぶるぶるっと震えたあと、リンダリンダー、と口元を動かしながら暖かいリビングに戻り、カーテンに手を掛けた。窓ガラスに映った俺の顔は相変わらず悪人面だった。その背後、寒い中置き去りにした雲の切れ間に一瞬だけ月が見えた。赤い、三日月だった。俺は思わず閉めたばかりの窓を開け、再びベランダに降りた。なるほど。月はすぐにまた天ぷら雲の衣に隠れてしまった。俺は唇の端を悪人ぽく曲げてもう一度つぶやいた。なるほどね。息が、田んぼにひらひらと舞い落ちる白鷺の羽根みたいに白かった。ぶるぶるっ。二回目の震えは、寒さのせいだけではなかった。


 鳥怪人は俺たち兄弟が子供の頃夢中になって観ていた特撮番組に登場した悪役だ。その風貌は、怖くもなんともない残念なものだった。鳥の怪人のくせになぜかインチキ手品師みたいな恰好で、大きな嘴を持つその顔はブランコの順番待ちをしながら支柱のボルトをじっと見つめている女の子のようになんにも考えていない表情をしていた。

 でも俺たちはその日の放送を観たあと、あまりの怖さにしばらく立ち上がれなかった。次の番組になってもその恐怖は頭から離れず、こめかみ辺りに開いた小さな穴から粒々の恐怖の液体が流れ込み、丸いガスタンクのてっぺんに通じる階段みたいによく分からない曲がり方でうねうねとからだに巻き付いて、それがおちんちんにまで届きそうな気がしてちびりそうになっている俺の隣で弟は本当にちびっていた。

 鳥怪人は赤い三日月の晩になると現れた。そして生まれたばかりの赤ん坊をさらって悪のエキスを注入し、そのまま母親の元へ返した。赤ん坊の中でエキスは粛々と成長していくのだが、母親にはそれが分からない。しかし他人が見ると母親が抱いている赤ん坊の口にはおぞましい嘴が生えている。変身したヒーローが赤ん坊を取り上げようとすると母親は必死で抵抗する。私のかわいい子を渡すもんですかっ。母親の盲目的な愛情ほど強いバリアはない、それを利用して我々の子孫を増やし世界を征服するのだくわーかっか。チープな羽根を翻しながら鳥怪人はそう言って哄笑した。

 で、何がそんなに怖かったのかと言うと、もちろん醜い赤ん坊の姿と、それが見えていない母親の無防備で空虚な丸い笑顔だった。双方とも知らぬうちに通り過ぎてきた記憶の繭を苦さとか辛さとかそういう大人にしか分からない味で攻撃されているような怖さだった。今思うと汚いやり口だ。怖さの引き出し方がなかなかずるい。悪の立ち位置が子供の頭にとって最も見えづらい。毛虫がうじゃうじゃと這う桜の木の下を通り過ぎたときにそれが落ちて自分のシャツの中に入ったような気になってしまう無根拠だけど真実味のある地獄がそこには広がっている。前述したように鳥怪人自体は微塵も怖くなかった。しかし人間の赤ん坊に嘴が生えているだけで、子供はちびってしまうほど畏怖するのである。そしてなぜか母親にはその姿に気付かないでほしいと願ってしまう。ビジュアルではない。怖さの仕組みが全く理解できずに混乱している自分が怖いのだ。人間の赤ん坊ではなくなっているのに、必死で守って、愛おしそうに頬擦りまでする不憫な母親を見たとき、俺はもし自分の顔に嘴が生えてしまっても母親は抱いてくれるだろうか、と不安になった。その不安こそが、怖さの第二形態であり、生きるためには絶対に必要な痛みであり、弟が漏らしたおしっこなのである。でも子供だった俺はそんな解釈に行き着くわけがなく、それどころか嘴が生えるのが自分ではなく弟だったら母親はきっとすぐに気付いて放り投げてしまうだろう、とこれもまた無根拠でしかもその割には結構確信的にそう思った。実際に弟は何をするにも要領が悪く、母親を手こずらせてばかりいた。そこには年齢の差という物理的な理由では決して片付けられない明らかなスペックの違いが見られた。おしっこだってそうだ。弟は小学生になっても頻繁におねしょをしていた。そのため弟のシーツの上にはしばらくビニールシートが敷かれていた。

 三年生くらいになっておねしょがようやく治まりかけた頃、ふたりでザニガニ釣りに夢中になって気付いたら日が暮れていたことがあった。帰りが遅い、とまた母に怒られる。俺たち兄弟は慌ててあぜ道を走り出した。にいちゃん待ってよ。要領が悪いだけではなく弟は足も遅かった。足が遅いことで要領悪く見えたのかもしれない。いずれにしろ子供にとってその二つは密接な関係にある。ねぇ待ってってば。俺は無視してぐんぐん走った。にいちゃんはいつもそうだ。弟の声が切羽詰まって一気に吐き出した蜘蛛の糸みたいに背中にへばりつく。またおれだけおこられるんだ、だからかあちゃんは、おれよりにいちゃんのほうがすきなんだ。

 気付いたら俺は立ち止まっていた。何か言い返したかったけど、何をどう言えばいいか分からなかった。ふと疑問が湧いた。あのとき俺はどうしてそう思ったんだろう。どうして、母さんには弟に生えた嘴が見えると思ったのだろう。盲目的なテレビの母親を見て、もしかしたら弟も同じように感じていたのかもしれない。きっと自分はそうはいかない、と。ザリガニの入ったバケツを持って必死に走る弟の靴音が近付く。せめてそのバケツだけでも持ってやるか、そう思って振り返ったとき、俺は口を開けたまま動けなくなった。やっと追いついた弟がそんな俺を見て立ち止まる。

「どうしたの、にいちゃん」

「うしろ……うし、ろ」

 弟が半泣き顔のまま振り返る。その向こうの空に、真っ赤な三日月が張り付いている。一瞬、聞いたこともない音楽が目の奥で流れた気がした。それは気持ち悪い色の汁が薄いストローをぱんぱんに膨張させて流れているような音楽だった。俺は持っていた釣り竿を放り投げて、あぜ道を一目散に駈け出した。じょじょじょじょじょ。要領の悪い汁が弟の半ズボンを濡らしていく音と、言葉にも音にもならない絶望的な金切り声が重なって俺の背中に突き刺さる。それでも俺は、振り返らずに走り続けた。うちに向かって、全速力で走り続けた。

 ただただ全速力で走り続けた結果だと思っています。5階の大会議室でマイクを渡された俺は、二十五人の社員の前でそう言った。定例会議の最後に今年の社長賞の授与が行なわれたのだ。それにこれは決してわたくしひとりの力ではなく、いつも一緒に汗を流している営業二課全員で……。ここまで言ったとき、部下である二課の三人の目がくすぐったそうに揺れながら輝いた。……手にした賞だと思っております。一瞬の静寂のあと、三人がほぼ同時に遠慮がちな拍手をした。するとあっという間に二十五人全員の手のひらが同じ動きを始めて、社長はおでんのはんぺんが思ったより熱くなくて安心したときのような顔で笑い、最も周りが見えていない性格の部下が大粒の涙を零した。そこに太った総務の女の子がはぁはぁ言いながらスマホを向けている。会社のインスタの公式アカウントに上げるつもりだろう。俺は尊敬されやすい角度で顎を曲げ、左側の頬だけで笑った。万人に愛される角度で斜に構えることがSNSを味方につける最大の武器なのだ。全ての印象は角度で変わるのだ。もっと言うなら、未来は角度で変わる。いい天気だ。窓の外には向かいのビルの窓をロープに吊られた清掃員が春先の鼻水みたいに不規則なテンポで降りているのが見える。うん。いい天気だ。いい角度だ。


 三箇月ほど前に担当とうまくいかない、と同期の同僚から相談を持ちかけられた。担当というのは、受注したばかりの大手ゼネコンの現場主任らしかった。JV発注の一次下請に社員二十五人の会社が参入できて本来は大喜びのはずだが、その同僚は仕事よりもまず人間関係の構築に苦悶していたようだ。このままだと俺のせいでうちの会社外されるよ。同僚はトタン屋根を拭いたあとの雑巾みたいに青ざめた顔で、出されたビールジョッキに触れることもなく俺にそうこぼした。

「分かった。じゃ明日から俺が引き受けるよ、その現場」

「そんな、そんなありがたいこと、お前マジで言ってる?」

「ありがたいなんて思うなよ。俺はただお前を悪者にしたくないだけだ」

 そう言うと同僚は唇の端をぷるぷる震わせながらカウンターに乗せていた俺の手のひらをぎゅっと握って、そのあとなぜかおしぼりで一旦自分の手を拭いて、再び今度は両手で俺の手を握った。

 その叩き上げの現場主任は確かに意味もなく上からくるタイプだった。たわんだかんぴょうみたいな締まりのない平成の時代にキャリアを武器にする方法を悪い側面から覚え、その勢いで出世できずにいることをさらに悪い側面から周りに放散しようと躍起になっているような目をしていた。彼はまず俺に同僚の不甲斐なさをまくし立てるように言った。まことに申し訳ありませんでした。俺は深々と頭を下げたあと、平面詳細図の端に乗せた中指と人差し指をもじもじと動かしながらこう言った。実はわたくしも、彼にはほとほと手を焼いておりまして。そうだろう? 詰所裏手の喫煙所まで歩きながら主任はそう言って俺の顔をまじまじと見た。あんまり使えねぇやつよこすなよ。いやぁほんと、なんてお詫びしたらいいか。でも今日からは大丈夫です。それからゼネコン主任は工事発注者として名前を連ねている東京都に関しても、お役所仕事の傲慢さや建築とは関係のない都政への罵詈雑言を俺に吐き散らした。それにも俺は激しく頷きながら大袈裟に同意して、大袈裟に憤って、大袈裟に笑って、大袈裟に手を叩いて、ライターの火を大袈裟にパワーアップさせて彼の煙草の下に差し出した。この人種は悪口の上塗りをしてあげれば大抵はうまくいく。

「ところであんた、野球は好きか」

 主任が煙草の煙を吐き出しながらそう言って俺の顔を覗き込んだ。嫌いと言ったら臍を曲げそうな聞き方だったので俺はとりあえず大好きです、と笑顔で答えた。そして実はうちの息子がな、と話し始めたときにはもう、最初に感じた一本一本大事そうに棘を刺すような喋り方は完全に消滅していた。この流れさえ作ってしまえば、あとは経理部に売上の計上先を俺にする担当者変更届を出すだけでいい。俺は緩みそうになっているほっぺたの肉に力を入れて、そのあと延々と続いた大学野球のエースとして活躍している息子の自慢話にも大袈裟なリアクションで褒め言葉を連発しながら、この低脳主任の機嫌をタワークレーンのコックピットくらいにまで高く押し上げた。見返りを計算に入れて相手を巧言令色する場合に最も必要なものは、ワードセンスなのだ。

「どうだった。散々言われただろう」

 会社に戻ると同僚が心配そうな顔で俺に話しかけてきた。膝の不自然な曲がり方に申し訳なさが滲み出ていた。

「いやぁ参った。最悪だなあのオヤジ。お前のこともぼろくそに言ってたぞ」

「やっぱり」

「でも大丈夫だよ。もう担当は俺になったんだから、俺のことはこき下ろしてもあいつのことは言わないでください、ってはっきり言ってやったから」

「マジか。で、そしたらなんて?」

「分かったよ、だって。お前にもよろしくって言ってた。だからもう気にするな」

 言い終わると同僚はまた顔全体がぷるぷるし始めた。手を握られそうだったので俺は慌てて両手をズボンのポケットに入れた。

 同じ方法で、他の社員が抱えている担当とうまくいっていない物件をいくつか俺に流れるようにした。作業のスキームはその苦しんだ社員たちが既に構築してあるので、あとは俺が彼らに対する悪口の上塗りをミスなくこなせばいいだけだった。完全な陰口ではなく、バランスを取って嘲罵することでそのうまくいっていない担当者は俺のことを味方だと認識する。そう、建築業界で上からくるタイプのオヤジは大抵味方を欲しがっているだけなのだ。それでもこじれたり雲行きが怪しくなったりしたら、適当なところで全て部下に丸投げした。周りが見えていない部下は信頼しているからな、と俺が缶コーヒーを手渡しながら優しく肩を叩くと、蛇しかいない藪の中でも軽快なダンスステップを踏みながら突入していった。社会人として持つべきものはスキルでも情報でもテクノロジーでもない。百パーセント信頼できる従順な部下だ。もっと言うなら、従順にさせる角度だ。


「そう言えば営業成績またトップだったんだってね。パパが言ってた」

 彼女はシューズラックの前で俺に靴べらを差し出してそう言った。返答を求めていない事務的な言い方だった。帰るという言葉を出すと彼女はいつもこうして機嫌が悪くなる。パパというのはうちの会社の経理部長のことで、彼女はその娘だ。二年前に父親のコネで同じ会社に入社して、システム事業部の受付嬢兼お茶くみをしている。厳密に言うと現代においてお茶くみなどという職務はなく、要するに一日中微笑んで接客しているだけのマスコット的な仕事だ。以前は不定期だった彼女のマンションに立ち寄る回数も最近では週一回、火曜日か水曜日のどちらかというパターンに落ち着いた。妻が昨年から通い始めた食育インストラクターの夜間講座が火曜と水曜にあるからだ。

 俺は靴べらを断って、指をかかとの後ろに差し込み強引に革靴を履いた。黒い靴下が、人差し指の爪の周りに残っていたヨーグルトみたいな彼女の分泌物をきれいに拭い取った。そして指に走るかすかな痛みを俺は罰として大事に大事に心にしまった。

「じゃあ、また明日会社で」

 ドアを閉めてマンションの廊下を歩く。左側は中庭になっているので、吹きだまりとなる暑さや寒さが俺のだらしなくふらつく両足にいつも絡みついた。エレベーターに乗り込み、すぐに一階のボタンを押す。以前、乗った直後に腰までふらついている自分が怖くなってしばらくぼーっとしていたら行き先ボタンを押してください、というアナウンスの声が響き、それが妻の声にそっくりだったので口から背骨が飛び出るほど身の縮む思いをしたことがあった。それ以降、このエレベーターに乗る際にはいつも決まってすぐに、そして何度も行き先ボタンを押す癖がついた。階数表示のランプが少ない数字になっていくのを見届けながら俺はいつも罰のことを考える。夏の暑さも、冬の寒さも、転んで膝を擦りむいたのも慣れない包丁を使って指を切ったのも全部罰だと思うことにした。償えるネタを希求するようになったのだ。得体の知れないところで世界の不文律を司っているもののバランスを取るために。とにかく何でもいいからマイナスがないと怖くてたまらなかった。こうして秘密のプラスを作るということは、どこかで帳尻合わせのマイナスを作っておかなければきっと世界はゆがんでしまう。俺はそれほどの楽しみとそれほどの淫楽を味わっているのだ。週一回、西落合にある彼女の部屋の白いベッドの上で。だから地球よ、俺のまわりだけでいいから、もっと暑くなってくれ。もっと寒くなってくれ。俺にもっと罰を与えてくれ。罰を積ませてくれ。

 秘密のプラス。そもそも男にとってそれは死ぬまで償い続ける罰のような行為なのかもしれない。オナニーがそうだ。精液を放出したあと、いつだって男は無尽蔵な罪悪感に一瞬襲われる。ごめんなさいもうエッチなことは考えません、と意味もなく無駄な更生を誓ったりする。高校生のときなどはオナニーの直後によしもうこんなグラビアなんか捨てて真面目に勉強するぞ、と真剣に思ったものだ。でも三十分後には大抵忘れて今度はエッチな漫画をめくっている。そう考えるとあの三十分は全世界の男にとってマジックアワーだ。精液を放出した直後の状態が永遠と続く世の中になったら、きっと戦争は終わる。

 観たことのない、そしておそらくこの先も観ることはないディズニーの映画とこうして毎回コラボしてくれるおかげで帰宅後の厄介な尋問が回避できるミスタードーナツに俺はテーブルの下で合掌しながら感謝した。妻はふんだんに散布された極彩色のチョコレートチップを嬉しそうに見つめ、既に映画を観たような満足げな表情をしてから、あぁ今夜はもう歯を磨いちゃったから明日の朝食べるね、ありがと、と笑った。左の頬にパジャマの袖の跡が薄く刻まれている。うたた寝していたソファーから立ち上がって風呂のスイッチを入れようとする妻に大丈夫だよ自分でやるから先に寝てな、と俺はドーナツの箱を閉じながら言った。うん、ごめんそうするね、おやすみ。おやすみ。俺は今ならきっとドアに足の小指をぶつけても床に落ちた画鋲を踏んでもその痛みたちを心の底から敬愛して迎え入れることができる、と思った。チョコチップドーナツの穴は、こうして二十五時にフェイク残業を終えて帰宅する男の慰藉を正当化するためにくり抜かれた罰の形をしている。


 電車の走り去ったホームのベンチには四人の男女が座っている。皆一様に背中を丸めてスマホの画面を凝視している。指の動きを見ていると何をしているのかが大体分かる。親指だけでやんわりとスクロールしているあの女はインスタに上げる写真を選んでいる。考えながら文字入力に勤しんでいるあの若い男はラインで会話中だ。その隣で二本の指を昆虫みたいに動かしている高校生は対戦型ゲームの真っ最中。親指で横にスワイプしながら何かをつぶやいているあの中年男はマッチング相手を必死に検索している。みんなスマホがなくなったら人生が成立しなくなる。逆に言えば十年ちょっと前までは誰の人生も成立していなかった。人生は面倒だったのだ。そして面倒なことからの回避方法を身につけた順番で人は大人になっていった。その回避方法が、四角い液晶にはぎっしり詰まっているのかもしれない。ちなみに俺が子供の頃に身につけた回避方法とは、面倒なことが起きたら進むボタンでも戻るボタンでもなく消えるボタンを押すことだった。改善修復を試みるのではなく、その場から消えるのだ。ドロン。でも、そのボタンが社会的な理由で押せないケースもある。例えばこうして日曜日の夕方に馴染みのない地下鉄の駅の案内板で久松警察署という文字を探している現在の俺がそうだ。

 今から一時間ほど前、スマホが震えたので着信ボタンをスライドさせると若い警官の声がした。彼は純一の名を挙げ、万引きという言葉を幾度かさりげなく織り交ぜながら俺に何かを説明した。これは面倒な案件だと察した俺はすぐに消えるボタンを押したので途中から話の内容に逃げ足の速い靄が掛かり、こうして辛うじて場所の名前だけが鼓膜の粗い目に張り付いた状態になった。ちなみに妻は同窓会に出席中で電話がつながらなかったらしい。あ、あった、A1番出口だ。

 謝るだ謝らせるだ反省するだのと、いかにも社会的なやりとりを経て警察署を出た俺と純一は特に話すこともなく馴染みのない地下鉄に乗って帰路についた。もしかしたら馴染みがないのは俺だけであって、私立の中学に通っている純一にとっては馴染み深い路線なのかもしれない。そう言えばその中学校、どこにあるんだっけ。そもそもなんという名前の学校だっけ。

 車内は微妙に混んでいたが、一駅目で前に座っていた乗客が降りたのでその空いた席に俺は腰を下ろした。見ると純一もいつしか向かいのシートの端に座ってスマホをいじっている。俺もポケットからスマホを取り出してラインで妻のアイコンをタップし、経緯を簡単に伝える。着信に警察署の文字があったので折り返して内容を聞いた、との返信がすぐに飛んできた。酷く混乱している胸中が窺えるメッセージだった。純一にラインしたんだけど既読もつかないのよ、あの子どうしたの、元気なの、何が原因なの、ねえそこにいるんでしょう。地下鉄なので車窓には静かで黒い塊がガラスを引っ掻くように流れている。元気さ、本人もちゃんと反省してる、だからそんなに心配しなくて大丈夫だよ、と俺はラインを返した。実際のところは分からないがこうして正面から見る限り純一は元気そうだ。時折眉毛を片方だけ動かして家にいるときと同じようにスマホの画面を目で追っている。顎回りのニキビは成長過程のアイドリングとして仕方ないにせよ、顔のパーツが中央に寄りがちなのは明らかに俺の遺伝だろう。しかしそれらをセパレートで見ると何気に整っているのは妻の遺伝と言える。そう考えるとDNAってやつはバカにできない。分け合った相手が妻ではなく部長の娘だったら俺の子供はどんな顔をしていただろう。化粧を落とした部長の娘は目蓋が若干腫れぼったい奥二重で、口が大きく、笑うと上唇が焼いている途中のピザの外郭みたいにうねうねと波打って変形した。逆に妻の目は至近距離で羽毛が舞っているような瞬きがよく似合う二重目蓋で、たるみ始めた頬肉の横に線状のえくぼが見え隠れした。そのえくぼは純一の頬にも時折現れて、小さい頃はふたりで親子の紋章だねって笑い合った。でもパーツごとに融合させてみると、案外部長の娘との方が一周して童顔になっていたかもしれない。何をもって一周なのかは不明だが。性格は部長の娘の方が断然明るく社交的で、きれい好きで頭の回転が早いのは妻の方だった。しかもインストラクターの資格を取ろうとするくらいだから料理の腕も確かだ。そういや流れでその話を部長の娘にしたところ、彼女はそれ以来毎回手の込んだ料理をこしらえて俺を迎えるようになった。手の込んだ、というかパスタやカレーなど普通の夕食メニューなのだが、その見映えを含むクオリティがなぜか驚嘆するくらい本格的だった。本格的すぎてその料理をインスタに上げるとたちまち全国から絶賛のコメントが届き、あっという間に俺の倍のフォロワー数を獲得することになった。ちなみに妻は日常会話と電話の声に恐ろしいほどの落差があり、部長の娘はあえぎ声が別人かと思うほどの高音だった。そのあえぎ声を聞くたびに俺はいつもソーダ水の中を懸命に泳いでいるような気分になり、射精する直前の、というか我慢することを諦めた瞬間の、今ここで大地震が発生してもどうすることもできないぞ、というあの一秒間でこの女をむちゃくちゃに、むちゃくちゃに幸せにしてやりたいと思ってしまう。あるいは俺のからだのどこかを切って、そこからドクドクと流れ出る血液を全部彼女にあげたいと思ってしまう。それくらいの超絶快感がいつも俺を突き抜ける。音が聞こえる。幸せにしたいと思うだけなら無音だが、それがむちゃくちゃとなると、思う音が聞こえるのだ。思念するエンジン音が轟くのだ。幸せにするということはどういうことだ、結婚して一緒に暮らすということか、それには妻と離婚しなければならない、純一はどうする、まだ中学二年生だ、養育費の負担、いやその前に慰謝料の話が出るはずだ、非があるのは完全に俺の方だ、どっちにしても金が必要になる、それには次年度の人事で昇進、いやせめて昇給が絶対条件となる、半年間トップを譲らずに手にした社長賞の一万円で誤魔化されるわけにはいかない、いや待てよ、それより簡単に負担を軽減させる方法がある、非を俺だけにしなければいいのだ、妻が浮気をしてくれたら、妻が、浮気を、あぁ、そっちの方が見通しは暗いか。なんだか思考が無軌道に旋回している。バルーンアートの風船の結び目がほどけてシュルシュルと回転しながらしぼんでいくのを見ているようだ、と思ったら呼吸する音だった。大きなショルダーバッグを大事そうに肩から提げたスーツ姿の老人がいつしか目の前に立っている。シュルシュルシュルシュル、はあぁ、と息と一緒に新しい記憶も漏れているような音を吐き出しながら。俺は慌てて立ち上がり、どうぞと空いたシートを指差した。あーらすんませんです。老人はペコリと頭を下げてそこに座り、ショルダーバッグを膝に乗せた。イントネーションの位置に微妙な違和感を覚えるなんとも形容しがたい喋り方だった。何が違うのか判明させたかったがここで会話を膨らませてもなんの得もなさそうだし、それよりこうした姿を純一に見せることの方が父親として、いや養育費の負担者として有益だという気がしたので俺は黙ったまま後ろを向いて反対側の吊革を掴もうと手を伸ばした。

「マサユキくん、じゃねえか」

 イントネーションの位置が微妙に違う老人の声は、意図せぬところで会話が膨らむ予感を秘めていた。いつしか電車は九段下の駅を出発している。俺はゆっくりとからだを反転させた。目が合った。

「やっぱり」

 たったそれだけの言葉にも感じるイントネーションの違いは、違和感ではなくくすぐったい懐かしさだということに俺は気付いた。笑った老人の顔には、間延びしたえくぼのような縦線が何本も入っていた。


 晋太郎伯父さんは母の兄である。北関東の外れの山間部にある小さな町で工務店を経営している。会うのは母の葬式以来だから、十七年ぶりということになる。この発音で呼ばれる自分の名前は、東京の地下鉄車内で聞くとなんだか形のない後ろめたさを感じる地名のような気がした。考えてみたら俺は母の生まれ故郷であるその町に行った記憶がない。母に帰郷を阻む何らかの要因があったのだろうか。あるいは父親がそんな不義理に直接関与していたのだろうか。まぁいずれにしろ今の俺にとってはどうでもいいことだ。もう既に乾いて皺が寄った時間の抜け殻でしかないわけだから。

 伯父さんは建築系の資格更新講習を受講するために今朝早く家を出た、と言った。そして俺が建設会社で働いていると言ったら不敵とも思える笑みを浮かべた。

「東京の地盤はあれだな、締め固めする必要ねえだろ」

 口調は荒いが、言った後の面倒見のよさそうな目の逸らし方を見て俺は弟のおねしょ癖を直そうと毎晩小さな声で楽しい絵本を読んであげていた母の横顔を思い出した。

「ありますよ。なんでそう思うんですか」

「だってこんだけの人や建物が毎日加重を掛けてて、相当な土圧になってっぺよ」

 不敵という印象はどうやら誤解だったようだ。素直に感心して素直に冗談を言って笑って欲しかっただけみたいだ。でも俺はイントネーションの位置ばかりが気になって上手に突っ込んであげることができなかった。俺は吊革に掴まったまま、てっぺんが見事に禿げ上がったドーナツ状の白髪頭を見下ろす形で苦笑した。

 夜の地下鉄が走る音は、言えなかったことや言わなければよかったことや言ってくれたら嬉しかったことやそこまで言わなくてもいいことや死ぬまで誰にも言えないことなどが分別なく一斉に巨大な排水溝に流れていく光景を想起させた。紛れもなく万引き犯である息子を伯父さんに紹介できなかったことを俺はそうやって地下鉄のノイズのせいにした。排水溝の網にはずっと忘れていた母の面影と、妻より十歳以上若い女を幸せにする方法について模索していた先ほどまでの自分が流れずに引っ掛かっている。

 新宿駅で一緒に降りた晋太郎伯父さんはショルダーバッグをホームの床に乱暴に置くと、ニコニコして俺に名刺を差し出した。端っこに寄った皺を渡す直前に何度も指で伸ばして。受け取りながら今日は休みなので名刺を持ち合わせていないことを俺が告げると、いいのいいの、とくしゃくしゃな縦線に挟まれた口を可愛げに尖らせた。

「東京の会社とは格が違うだろうけんど、まぁおんなじ業界ってことで一応、ね。なんかあったらご用命くださいな」

 名刺には中尾工務店代表取締役、と書かれていた。うろ覚えだった母の旧姓を見て俺は喉の奥で六人くらいの小人が一斉にしゃっくりをしているような照れ臭さを感じた。

 そして晋太郎伯父さんは陽気に手を振ると、バッグを担いで新宿バスタ方面に歩き出した。夜行バスで帰るらしい。その角張った背中が人混みに消えていくのを見ていたらふと耳元で誰、という声がした。純一がすぐ横に立っていた。

「あぁ、晋太郎伯父さん。俺の伯父さんだからお前の、おばあちゃんの……」

「腹減った。早く帰ろ」

 最後まで聞かずに純一が歩き出す。世界中の洗面所の蛇口が開いて、雑踏の中で遮断された俺の声を排水溝の網ごと一気に流して消し去った。 

 地下を走っていたので気付かなかったが、いつしか雨が降り出していたらしい。ホームに滑り込んできた中央線の車両は、全てのガラスが濡れそぼってさまざまな色の光を反射していた。阿佐ヶ谷の駅に着き、スイカをチャージしたいという純一に俺は一万円札を渡した。精算機に並ぶ純一を見て身長が伸びたな、と誰に報告する必要も何かに書き留める必要もない発見をしている自分に笑いそうになった。そのとき、すぐ後ろにある柵の外で傘を三本抱えたまま改札出口をちらちらと目で窺っている妻の姿が見えた。こちらには全く気付いていない様子だ。そのちらちらがあまりにも真剣な表情だったので、俺は声を掛けるのを思わず躊躇してしまった。ネイビーブルーのコートに黒いスリムジーンズ、撥水加工されたサイドゴアのショートブーツを履いた爪先は、せわしなく向きを変えている。人波が途切れると、妻はしばらく俯いてから先端が濡れた長い前髪を左手で掻き上げた。まるで数秒前に思ったことを心の外側にそっと払いのけるような仕草だった。その光景を見て、俺は顔だけだったら部長の娘より妻の方が断然美人だな、と思った。胸も妻の方が若干大きい。そうなると先ほど離婚や調停のことまで考えてしまった思考の渦はなんだったんだ。部長の娘の方が勝っている点は一体なんだ。天衣無縫な若さか。能動的に脱いだり脱がしたりしてくれるところか。受動的な段階になって俺のかたちのスキャンも終わっていよいよ、というときに発するサプライズのような甲高い声か。もし空から降ってくるのが雨ではなく物事の理由だとしたらどうなるのだろう。理由たちが楽しそうにガラスを滑り傘に張り付いて靴下に染みこむ。きっと世界は嘘みたいに分かりやすくなるだろう。分かりやすくなって、単純になって、全ての人間は全ての結果に納得して、全ての裁きが正当化されて全ての矛盾と全ての悪因が泡沫的に淘汰されて地球上に圧倒的な平和が訪れて、やがて全ての人類は滅亡するだろう。そんな気がする。矛盾があるから人は生きられるのだ。理由が分からないから人は明日も生きてみようと思うのだ。しぶとく生き長らえるのだ。純一も妻に気付いたみたいだ。たっぷりとチャージしたスイカを財布に入れて、それをポケットにしまおうかどうしようかもじもじしている。足が改札口になかなか向かない。ここは他律的な理由を降らせてあげるしかなさそうだ。さぁ帰ろう、俺も腹が減った。そう言って肩を叩くと、純一の頬にスロー再生でやっと分かるくらいの瞬間的なえくぼが現れて消えた。

 家に着く頃には既に雨も上がっていた。正面に見えるビルとビルの隙間に丸い月が出ている。本当にジンライムのグラスを上から覗いたようなお月様だ。俯いて前を歩く純一。その背中に執拗に話しかけている妻。ふたりは月に気付くことはなく、傘も差したままだ。その光景がおかしくて俺はスマホを取り出した。カシャ。二つの傘越しに浮かぶ丸い月の写真をインスタに上げる。雨上がりの夜空に、とキャプションを入力する。家に着いてリビングのソファーに座り画面を開いたら既に「いいね!」が8件押されている。にやけた俺の顔がベランダの窓に映り、いつかここから赤い三日月を見たことを思い出した。今夜は赤くもなければ三日月でもない。満月だ。鳥怪人も来ない。誰もさらわれないし誰も殺されない。「いいね!」とは生きてていい、という意味だ。誰かの許可がないとみんな生きていけない世の中になったのだ。そして勝つことも負けることもなかったこんな日のことを圧倒的な平和と呼ぶ時代になったのだ。俺はホーム画面に戻り、新規投稿の写真を次々とタップした。泣き疲れて眠る子供の生ぬるい涙みたいなハートマークが浮かんでは消えた。いいね。いいね。いいね。いいね。俺もこうして許可してあげないと、本当に人類は滅亡してしまう。

 バスルームのドアに洗い立てのバスタオルを引っ掛けて妻がため息をついている。シャワーを浴びている純一にドア越しで何やら話しかけていたが全て無視されたようだ。中学二年の男子なんてそんなもんだ。別に怒っているわけではない。戸惑っているだけだ。野球やサッカーは上手くなるためにカリキュラムとしての練習を大人たちが組んでくれる。その通りに練習して子供たちは少しずつ上達していく。でも大人になる練習は誰もカリキュラムを組んでくれない。自分で試行錯誤するしかないのだ。だから戸惑ってしまうのだ。大人というのはどんなものなのだろう。子供というのはどんなものだったっけ。まずはっきりしているのは、子供はゲラゲラ笑うこと。ならばゲラゲラ笑わないことがとりあえず大人ということか。よし、これからはなるべく笑わないようにしよう。笑わなくするには、そうだな、会話を減らすことだ。まずは家でそのカリキュラムを実践してみよう。それが健全な中学二年の男子の脳内だ。戸惑うことは、健全である証拠なのだ。だから何も心配することはない。でもきっと妻には分からない。うなだれてリビングに入ってきた妻は、力なく椅子に腰掛けて何度目かのため息をついた。俺は後ろからまわって妻の頭頂部を軽く2回ポンポンと叩いた。妻が顔を上げて振り返る。俺は何も言わずゆっくりとうなずく。妻は呆れたような、それでいて脆いものが音もなく崩れながら白い床に落ていくように微笑んでえくぼを見せた。幸福が、代わりにじりじりと音を立てて滲んできた。

 極めて単純な話だが、圧倒的な平和とは怒りを感じずに過ごすことなのかもしれない。今の俺は、妻に小言や文句を言われても怒りを感じることはまずない。いつだって鼻歌をうたっていられる。何を言われても妻をやわらかな心地よい存在物として心が勝手に梱包してくれる。俺が怒らないということは、もしかしたら人類規模で途轍もなく素晴らしいことなのかもしれない。だって、いつ誰が見ても俺たちは仲の良い夫婦として成立しているのだ。喧嘩が絶えない夫婦からは羨望の眼差しで見られるのだ。部長の娘の存在の偉大さに俺は改めて感嘆する。敬服もする。夫婦間で、いや日常全ての時間において苛立つことや不条理に思えることを根こそぎ鼻歌に変えてくれるのだ。週に一度のあの時間があるだけで。妻に暴力を振るう夫が逮捕された事件をよく耳にする。夫婦間のDVを撲滅させようと様々な機関や団体、政治家や学識者が真剣に議論し方策を検討して法改正にまで踏み切ったりしている。妻に暴力を振るうなんて、俺には考えられない。そんな夫は刑に処すべきだと思う。いや、それ以前にまず憐れだなと思う。目を細めて顎を上げたあと肩から一気に上半身が崩れ落ちてしまうほどの無念さを感じてしまう。男として。逮捕された暴力夫に俺みたいな週に一度のあの時間があったなら。思念する音が聞こえるほど幸せにしたいと思ってしまうあの一瞬があったなら。奥さんに対する不満や怒りを一瞬で鼻歌に変えてくれるあの一秒があったなら。人類にとって怒りは戦争の始まりであり、鼻歌は幸福の象徴なのだ。暴力を振るう夫もきっと心の中では痛みを感じていると思う。辛いんだと思う。辛さを自覚して、さらなる怒りが発動しているんだと思う。誰も決して幸せにならない負のループだ。夫から暴力を受けたいなんて思っている奥さんはこの世には存在しない。みんな幸せになりたいと願っているのだ。それにはまずDVを撲滅させる前に怒りの感情を撲滅することだ。怒りへの連動装置を解除して、というか撤去して、幸福のループを作り出すのだ。部長の娘はそのループの潤滑油となっている。彼女の存在は俺という男を幸福にしている。怒らない男の幸福は世界の幸福なのだ。今の俺は誰が作った料理も美味いと感じて心からのごちそうさまが言える。夕暮れの空からまっすぐ下りた光の柱を見て涙が出るほどきれいだなと思ったりする。老人に席を譲るのはもちろんのこと、困っている人を見掛けたらなんとかして助けてあげたいと思ってしまう。暴力夫に限らず世間一般の夫たち全員に俺は言いたい。ありますか、ごはんを食べるときにありがとうって思うこと、夕日を見て泣いちゃうこと、あなたにはありますか、それって人間の心が究極に寛容になって優しくなったときの状態でしょう、いわば心身平穏の完全体ですよ、ほとんど菩薩です、部長の娘がいる限り、というか日常に定期的な秘密のプラス、つまりどくどくと脈打って精液を放出しながら聞く幸せにしたいと思念する音がある限り、男は誰に何を言われてもその光景のバックに鼻歌を流せるし、それを含めた森羅万象を幸福の白い布で包み込んで人に優しくなれるんです。暴力を振るうどころか、全ての怒りがなくなるんです、政治家や学識者やマスコミや倫理武装したSNS発信者の人たちだって本当は分かっていることでしょう、彼らの中にもこのいちばん手っ取り早い方法を使って幸せな家庭を築いている夫が多数いるはずだから、つまり世の中の平和はたくさんの部長の娘で成り立っているってわけです、いいですかもう一度言います、怒らない男の幸福は世界の幸福なのです、現に俺は週に一度の西落合のおかげで菩薩化した幸福に包まれ、菩薩化した優しさで妻をじりじりと幸福にし、家族を幸福にしています、この菩薩の輪が広がっていけば、世の夫たち全員から怒りの感情がなくなれば、みんなで夕日を見て涙ぐむようになれば、終局的に世界を幸せにできるんです。――といった大演説を心の中で終えた俺の手を妻はそっと握った。人差し指の先端で俺の手の甲を軽く二回弾く。先ほどの頭ポンポンのお返しだろう。その美しい瞳の外周に細やかな水滴がぐるっと張りついている。テーブルの上に出しっぱなしだった醤油差しが俺たち夫婦を祝福しているみたいでおかしかった。

 妻の手はあったかかった。妻は沖の海だ、と思った。部長の娘はプールだ。これは決して比喩ではない。圧倒的な平和を維持する上で最も重要な定義だ。定則と言ってもいい。底が見えているか見えていないかで男の泳ぎ方は如実に変わるのだ。変えなくてはならないのだ。なぜなら、それが平和を維持するための定則、いや鉄則だから。


 でもまぁ圧倒的な平和は、そもそもも地球全体を包み込む必要などないのかもしれない。もっと規模を小さくして、もっともっと細分化して、小分けにしてくれた方がみんなで悠長に人間を続けられる気もする。ヒト科の生き物は大抵弱くできている。大抵ずる賢くできている。だから戦争が勃発するのだが、みんな本当は苦労して戦いたいとは思っていないのだ。誰かの悪口に賛同してみんなで盛り上がったあたりでお開きにしておく方が国としては平和が保てる。飲み会翌日の社内の雰囲気と同じだ。だからヒト科のコミューンは常識という画期的でしかも都合の良い理由システムを開発したのだ。戦争をしない理由。誰だってなんの不利益も不都合もない日常を手放したくない。それこそが平和への第一歩なのだ。その時点でもう弱さやずるさの基となる理由は全て常識という言葉に自動変換され、正しい判断として社会に君臨し、家にも会社にも町にも駅にもコンビニにもレストランにも公園にも地下道にもこうして西落合のマンションにも君臨しているのだ。

 部長の娘は俺の胸に二本の指を乗せ、先端を交互に押し当てている。よく見るとそれが少しずつ前に進んでいる。くすぐったいよ。俺が言うと、枕にぺちょっと押し潰された彼女の下唇が恥ずかしそうに少しだけ開いた。その中の浅いところに先ほどまで大活躍していた舌があるらしく、ライトに反射する小さな光の粒がいくつか見え隠れしている。

「何してるの」俺は聞いた。

「走りたくなるの、こうして」

「ん、終わると?」

「ううん、この部屋にあなたがいないとき。木曜から週明けくらいまで」

彼女はまどろむような目をそっと閉じた。奥二重の人にしかできない秘技のような動作だと思った。

「会社で会えるじゃん」俺は彼女の髪を撫でながら言った。

「だめなのよ」鼻に掛かった声で彼女はそうつぶやくと、薄く開いた唇の隙間から長めの息を吐いた。「この部屋で、あなたがこうしてくれていないとだめな夜があるの。悔しいけど、情けないけど、掻きむしりたくなるくらい、その、なんて言うか、要るのよ」

 俺の胸の上にあった彼女の二本の指が動きを早めながら胃の辺りまで移動する。交互に押し当てているだけだった長い爪が、いつしか俺の肌を優しく引っ掻き始める。

「雨なんか降ったらもうだめ。窓の外を見ているとだんだんおかしくなってきて、手足がむずむずして無性に走り出したくなるの。シャツなんかもう胸の上までまくり上げてさ。最初は何もない真っ白な空間を走るイメージだったけど、最近はマンションのすぐ下の、あの狭い道路を走りたくなるんだ。駅の方に向かって、必死に、何か叫びながら」

「なんて叫ぶんだ」

「分かんないよ。わーっとか、会いたいぞー、とかじゃない?」

彼女は薄く笑いながら二本の指を小刻みに交差させて臍の方へ滑らせた。

「なんでかな、雨が降るとああなるのって。何も聞こえなくなるの」

 俺は彼女の耳の外郭に沿って指先を這わせた。

「何も、見えなくなるのよ」

 俺の指が彼女の顎をなぞって首筋をなぞって鎖骨まで届く。すると走っていた彼女の指が臍の上で戸惑うように止まった。

「わたしはこのまま、超えて、求めて、いいの?」

 臍を越えてさらに下へ向かおうとする彼女の指を俺は手のひらで包み込んだ。彼女の目の奥にプールの底が見える。屈折した光彩が揺らいでいる。俺は変形しそうになっている彼女の唇をそっと唇で封じ込んだ。彼女は分かったから、今日はもう言わない、と囁いて壊れるように微笑み、仰向けになって俺の手をぎゅっと握った。俺も握り返す。彼女がそれを自分の胸に押し当てる。俺の手の甲が生温かい弾力に包まれる。いい匂いのする肉の塊としての彼女とこうして一緒にいる時間を、俺は心から愛おしいと感じた。

「ねぇ、二百歳になったら結婚しよう」

 俺がそう言うと、部長の娘は握る力を一瞬弱めた。じっとしているからだの中で眼球だけが繊細に、練習問題の答え合わせをしているように動いていた。

「なに、それ」

「プロポーズのつもりだけど」

「……そうか、なるほど」

「嬉しくない?」

 彼女は甘い鼓動を俺に伝えながら少し黙ったあと、顔をゆっくりとこちらに向けた。

「うれしいよ。やったぁ、ケッコンだぁ、ケッコンだぁ」

 その笑顔を見て、真顔は完全に勝負ありだけど笑顔ならこっちもなかなかどうしてだなと思っている自分に気付き、脳裏にひょっこりと出そうになった妻の顔をモグラ叩きの要領で慌ててかき消した。そして無邪気におどける彼女の胸に指を立て、中くらいのサイズの〈の〉の字を書いた。

「ところでさぁ、二百歳って、どっちが?」彼女が熱い吐息を洩らしながら訊く。

「俺、かな」

「よぼよぼだね」

「そっちもね」

「あ、そっか」

「でもきっとびっくりするよ」

「何が」

「よぼよぼでも、こんなに力が出せるんだ、って」

 俺は彼女に覆い被さり、いい匂いのする肉の塊を力いっぱい抱きしめた。雨の中にいるような静寂がベッドを軋ませる。世界中の寂しいという感情を殺してやりたいと思った。

「みんな死んじゃってるね、その頃には」腕の中で彼女が言う。

「うん。もう誰も傷つけることはない。だからずっとこうしていてあげる」

「あなたは、ほんとうに、優しい」

「そうかな」

「優しくて、優しすぎて、きっと分からないんだね」

「何を」

「それがどれだけ女を馬鹿にしてるか」

 天井に向けてつぶやいた彼女の声にはエコーが掛かっていた。それは次第に言葉ではなくなり、女の求めるものが腐食して異臭を放つときに聞こえる荘厳な呪詛となって水曜日の夜を包み込んだ。



 経理部長の娘が会社を辞めて二週間が経った。ラインもツイッターもインスタグラムも全てブロックされたことで俺は彼女の本気度を知り、いちばん遠ざけておきたかった本気という言葉にうろたえながらも同時に少し安心した。いや、大部確実に安心した。正直言うとこのままあの快楽だけは手元に置いておきたかったが、ブロックされたからと言って西落合のマンションにまで足が向かなかったのはその安堵感があったからだろう。顔では明らかに勝っている妻にもう嘘をつかなくて済む。家族を失わずに済む。ギリギリだったが、これで世界に君臨する常識というラインの内側に留まっていられる。VARで判定する必要もない。俺は二十五メートルコースをもう何往復もした。充分泳いだ。そろそろ上がってシャワーを浴びて着替えて売店でガリガリ君でも買って頭を拭きながら食べよう。

 それからしばらくは俺のフェイク残業もなくなり、夕食後に俺は率先して家族の食器を洗い、妻には食育インストラクターの試験に合格するよう湯島天神でお守りを買ってあげて、休日には純一を連れて三人で下北沢の中華料理店に行った。ここで昔ヒロトはバイトしてたんだぞ。俺が言うと純一はマジで、と目を輝かせた。そしてラー油の瓶を滑らせて丼に落とした俺を見てふたりは大笑いした。平和な家庭の中に安心があるのではない。安心の中に、常識があるだけだ。

 打ち合わせと称して呼び出された会議室には俺と経理部長しかいなかった。噂を簡単に流すことができて、しかも本人には届かないように操作できる、と部長は長テーブルを三つ挟んだ先の椅子に腰掛けて俺にいきなりそう言った。キミ、なんのことか分かるよね。並んで正座した小坊主に長旅から帰ったばかりの僧侶が難解な教えを説いているような喋り方だった。

「すいません、なんのことでしょう」

「SNSの最も優れた機能の話だよ」

「SNS?」

「うちの娘は部屋で撮った料理の写真をしょっちゅうインスタに上げていたらしい」

「はぁ、そうなんですね」もちろん俺は全力でとぼけた。

「よく端っこに見切れて写ってるって。キミの鞄が」

 数年前の誕生日に妻からプレゼントされたイタリア製のベージュの革鞄のことだ。文句なく気に入っていたその特徴的なデザインは、俺の言い逃れを無効とする決定的な証拠となってしまったようだ。

「そんな噂が流れてるって当のキミは知らないだろう。凄いよね、SNSって」

「あ、いや、でもそれは単なる噂であって……」

「そう、噂を鵜呑みにしちゃいけないよね」

 俺は声を出したつもりがうまく出ておらず、結果的には頷くだけとなってしまった。

「ところでキミは娘の退社理由って知っているのかな」

「さぁ、聞いておりません」

「そうか。じゃあ、ここからは人の噂じゃなくて真実を話すとしよう。だから遠野くんも真実を話してくれよ」

「はぁ……」

 もう無理だ。俺は多角的にそう思った。俺のことをちゃんと名前で呼んだのはもちろんこの先は経理部長としての話じゃないぞ、と分からせるためだ。かと言って俺が全力で真実を話したらこの父親はどうなるのだろう。すみません確かにそういう関係でした、でも今はきっぱりと別れ、二度と……。俺は脳内でなんとか持ちこたえられそうな台詞を必死で組み立てた。しかし次の瞬間、その台詞たちはカギ括弧から一気に粉砕された。

「娘は妊娠している。産むと言って聞かない。それが退社した理由だ。相手の名前はひっぱたいても言わない」

 ぷう。

 凍り付いた右脳と左脳の間にひっぱたいたのかよ、と攻め寄りそうになっている第三の脳があって、それがおかしくて笑いを我慢したらどういうわけかおならをしてしまった。張り詰めた空気の中で時間と息がわずかに止まったあと、部長が堪えきれず吹き出した。「すいません」

「ははは。どうやらキミじゃなさそうだな、相手の男。まぁいい。何か心当たりがあったら教えてくれ。どうしても見つけ出したいから」

「はぁ、分かりました」

 俺は声を両側からしっかりと抱え、絶対に震えないようにしてから外に出した。部長が腕時計をちらっと見て立ち上がり、出て行こうとドアの方を向いた。

「あ、ちなみに部長、見つけ出して、その、どうするおつもりですか」

「うーん、そうだな」少し考えた後、部長は目にした風景と痛手となる記憶が不意に重なったときのような苦笑いをしながらこう言った。「まぁこっちにもやれることはいくつかある。じゃ、悪かったね、時間取らせちゃって」

 俺の目にコマ送りの映像が映る。ドアが開く。部長の背中がその向こうに消えていく。妊娠という言葉が冷たい錨となって大会議室の床に沈み込み、そこから伸びた鎖が足首に絡まる。とりあえず俺は震えの制止を諦めて、ため息の出口を思い出すことにした。

 営業二課のデスクに戻ると、俺はまず部長の娘のインスタを開いた。当然のことながらプロフィールボタンを何度押しても「ユーザーが見つかりませんでした」の文字が表示される。どうせならアカウントの存在を示すトップページから見られなくしてくれた方が、落胆を軽減できるのに。俺はため息をついてスマホの画面を閉じた。顔を上げると、いつもと変わらないオフィスの光景が目の前に広がっていた。みんな冴えない表情でパソコンに向かったり資料を綴じたり計算機を叩いたりしている。俺が顔を上げることを察知して数秒前に慌ててその動作を始めたのかもしれない。部長の言ったことが蘇る。噂を本人には届かないよう操作する……。確かに、それは可能だ。ということは、ここにいる全員は既に……。俺はぶるぶるっと首を振り、脳内をリセットしようと手帳を開いた。本日のスケジュールの最後に十八時、神宮、という文字が見えた。神宮? そうだ忘れていた。日米大学野球選手権大会に息子が出場するので応援しに来い、と例のゼネコン主任に言われていたのだ。多くの人が読めても書けない地名の町にあるデニーズのアルバイトシフトくらいどうでもいいことだが、一方で極めて大事な仕事とも言える野球観戦だ。


 春先の銀杏並木は太陽の骨組みとなっている。考えてみたら神宮外苑を歩くなんて数年ぶりだ。プリンターが音を立てるたびに俺にだけ届かない俺の噂が印字されているような気がして午後からはもう会社にいられなくなり、俺は適当な行き先をホワイトボードに書いて外へ飛び出した。そしてあてもなく東京の町をさまよい歩いた。部長の娘は、俺をブロックしたということは俺に認知を求める気はないということなのだろう。それほど俺は嫌われたのか。俺は嫌われるようなことをしたのか。馬鹿にしたのか。まぁ、嫌うならとことん嫌って、恥だと思って欲しい。恥は極限まで人に知られたくないと思うのが通常の心理だ。だから彼女はきっと、いや絶対に口を割らない。何度ひっぱたかれても。それにしてもあの父親、怖すぎる。こっちにもやれることってなんだよ。マフィアかよ。平気でひっぱたくし。俺だってひっぱたいたことないのに。あ、最中に軽く尻をひっぱたいたことはあったか。その時の声も凄かった。叫喚に近かった。痛いのかと聞いたがそうじゃないと言ったので俺は安心してさらにひっぱたいた。白い尻の肉に赤い手形が浮かんでそれが銀杏の葉っぱみたいだなと思った。どうしてモミジではなく銀杏だと思ったのだろう。などと考えながら歩いていたら、マイクロビキニみたいな若葉を数枚つけただけの状態で春の両側に遠くまで伸びる銀杏並木が現れ、その先端に沈んでいく太陽が見えて、俺は広尾から神宮外苑まで歩いて来てしまったことに気付いた。

 馴染みの飲食店に入るとなぜかいつも決まって注文する料理があるみたいに、俺はこの辺りを歩くと決まって思い出す記憶がある。サーカスだ。俺と弟が赤い三日月を心の底から畏怖していた頃、父親に連れられて一度だけ神宮外苑にサーカスを見にきたことがあるのだ。あの日は朝から小雨が降ったり止んだりしていた。俺と弟は初めてサーカスを見るとあって興奮を抑えることができなかった。この並木道に落ちている銀杏の葉っぱ一枚一枚にバネが仕込んであり、歩くたびに俺たちの足はぴょんぴょん跳ね上がった。控えめに表現してもそんな感じだ。おまけに路肩には等間隔で様々な露店が出ており、そこで俺たちは鳥怪人を倒した特撮ヒーローの帽子が並んでいるのを見つけた。ダメ元でねだってみたら、いつもは吝嗇な父親がそのときばかりはすんなりと買ってくれた。どうやら父親も素知らぬ顔して静かに舞い上がっていたようだ。そんなわけで千葉からやってきた俺たちのボルテージはこの並木道を歩いただけで最高潮に達していた。

 やがてサーカス小屋を囲むようにぐるっと伸びた長い列が見えてきた。ほとんどの人が傘を差していた。自分が傘を忘れたことを悲観する父親の腕を引っ張って、俺と弟は列の最後尾を探し始めた。俺たちには雨など見えていなかった。買ってもらったばかりの帽子はさすがに濡らしたくなかったのでシャツの中に入れた。そのとき背後で荒々しい声がした。おっさん割り込むんじゃねえよ。振り返ると既に父親は濡れたアスファルトに尻餅をついており、派手な柄の傘を差した男が突き飛ばした腕を引っ込めるのが見えた。あっ。俺たちは声を上げた。同時にシャツから帽子を出して被り、目配せをして、その男にいつでもパンチとキックを繰り出せる構えをとった。幼い俺たちは真剣だった。こんなやつ鳥怪人より楽に倒せるぜ、と真剣に思った。そんなテンションだった。しかし構えただけで俺たちの動きは止まってしまった。その前に父親が派手傘男に深々と頭を下げたからだ。なんで、なんでとうちゃんがあやまるんだよっ。叫びながら上着を引っ張る俺たち兄弟の帽子の上に父親はポンポンと手を乗せた。何も言わなかった。何も言わずにまた列の終わりを探し始めた。そのお尻についたハート型の雨の染みが死にたいくらいかっこ悪くて、俺は泣きそうになった。

 サーカスを見に行った思い出のはずなのに、サーカス自体の記憶がまるでないことがいかにも俺らしい。あのときの空は薄汚いグレー一色だった。でも今日は違う。さっきまでそこにいた夕陽の匂いがプンプン残る色の空に、大胆衣装の銀杏並木が濃いオレンジ色のVライン作っている。先生の添削がたくさん入った習字の半紙を裏から見ているようだ。やがてその半紙を一億枚くらい貼り付けたような色に染まる神宮球場が見えてきた。ゼネコン主任に何番ゲートから入ればいいか確認しようとスマホを出したとき、白いパーカーにピンクのサンバイザーを被った女の子から俺は何かを手渡された。パーカーの背中にはカメラレンズで有名な会社のロゴがプリントされている。渡されたのは、閉じるとカードみたいにコンパクトになる携帯型オペラグラスの試供品だった。先着何名かに無料で配布しているらしい。俺はそれをポケットにしまい、主任に座席番号を聞いてそこを目指した。階段を昇り、麦芽臭い通路に出るといきなり鮮やかな光を浴びた芝生とアンツーカーのコントラストが目に飛び込んできた。座席に座る多くの人の後頭部が見え、降り注ぐような光の下ではユニフォーム姿の若者たちが誰も予測できなかった一秒前の白球に後悔し、少しは予想できる十年後の白球をフルスイングしていた。

 聞かされた座席番号の隣の席にゼネコン主任の姿が見えた。片手にメガホン、片手に先ほどのオペラグラスを持ち、ピッチに向かって何やら奇声を発している。そしてその隣、本来俺が座る席に主任よりも大きな声を出して声援を送っている男の姿が見えた。階段状の通路を下まで降りて前に回り込むと、男は俺に気付き曖昧な表情で右手を上げた。

「おう遠野、お前も来たのか」

 半年前までゼネコン主任の現場を担当していた同僚だった。俺はとりあえず主任に挨拶し、同僚に近付いて耳元でなんでお前がいるんだ、と聞いた。だってさぁ、と眉間に皺を寄せてだるそうに口を開いたのは同僚ではなくゼネコン主任だった。

「だってさぁ、やっぱいろいろとめんどっちいわけよ。人が変わると施工体制台帳も全部作り直さなきゃなんねえし。そんなら変更しなくていいんじゃね、ってなって」

 主任は声援の合間合間で言葉を細切れにしながら俺に言った。俺は乾いた眼球をそのまま同僚に向けた。彼はばつが悪そうに下を向いてから顔を上げてこう抜かした。

「……だって」

 と申しております、という意味のだって、だ。そうらしいよ俺は知らないけど、のだって、だ。あれほど忌み嫌っていたのに。俺が救いの手を伸ばしたら、自分の手をおしぼりで拭いて握ってきたのに。そんなことよりほらあんたもこっちにきて、応援は大勢いるに越したことはない、あ、俺の息子ね、今日はたぶん中継ぎで……。ゼネコン主任は早口で喋ると、メガホンを口に当ててよっしゃあ気合い入れていこー、と耳には届くが胸には決して届かない微妙な声量で叫んだ。

 三回裏の時点で六点差がついた。このまま日本の大学生選抜チームが圧勝するのはもう間違いないだろう。俺は中継ぎ投手を見ることもなく球場をあとにすることにした。ゼネコン主任にそのことを詫びて席を立つ。そして入ったときと同じ通路を抜けて階段に向かっていたら、売店エリアの手前で俺の名を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、同僚が肩で息をしながら立っていた。走って追ってきたようだ。彼は既に担当者変更届を経理部に提出したこと、あの主任が他にも大口の追加工事を発注すると明言していることなどを矢継ぎ早に伝えた。俺は頷くしかなかった。来月から数千万の俺の売上があいつに全部流れる。裏で何をしたのかは大体想像がつく。

「ところで今朝は大丈夫だったか」そう言って同僚は手摺りに寄りかかった。

「今朝って?」

「あの経理部長、気をつけた方がいい。お前のコーヒーカップに毒を盛ることくらい平気でするぞ」なるほど。噂が広まっているのは本当らしい。

「なんのことだ」

「もったいないから俺なんかに無理してとぼけるエネルギーを使うなよ。これでも俺は、遠野を心配して言ってるんだぜ」

 同僚はスピーチで大事なところを噛んでしまった人を慰めるような口調で言った。

「お前だな、噂流したの」俺は言った。

「哀しいな」少し間を作ってから同僚がつぶやいた。「お前本当に何も知らないのか」

 知るべきことの中心にあるのが名詞なのか動詞なのかさえも分からなかったので、俺はとりあえず平然を装うための咳払いをした。

「部長以上に気をつけるべき人間がいるってことだよ」

 そして彼は、社長賞の授与式で大粒の涙を流した俺の部下の名前を挙げた。

「あいつマジで惚れてたらしい。部長の娘に」


 走る電車の扉ガラスに俺が映っている。その顔が不思議と今夜は善人に見える。肌の中に肉が見え、肉の中に血管が見え、血管の中にヘモグロビンが見えてそれらが千切れそうなくらい頑張って作り笑いしながら何かに耐えているのが分かる。つまり意匠的な視点ではなく構造的な視点からイメージした善人の汁が顔面から飛び散っている。車体が揺れるたびに黒い吊革が一斉に同じ方向へ同じくらい傾く。俺以外の乗客はみんなその角度を知っているような気がする。俺だけ知らない角度。俺だけ知らない世界の仕組み。若い頃はよくパラレルワールドについて考えた。空気の粒子には表と裏があって俺にはその一方しか見えていない、反対側には全く違う世界が映っている、とか。今ではその幻想が少しだけ歪んで、反対側に見えているのは違う世界ではなくコメント欄だと思うようになった。俺の映像にリアルタイムでさまざまなコメントやスタンプが投稿されているのだ。

 こうして、中央線の車内で俺の散々な日が終わろうとしている。朝の会議室に始まり神宮球場のナイトゲームまで。とった行動が散々だったわけではなく、入った情報が散々なものばかりだった。俺は扉に寄りかかって目を閉じる。なんだか急に力が抜ける。電車の走行音や車内アナウンスの声が鼓膜をどろどろに溶かし、時間を作っている黒い粒が鉄板の上のたこ焼きみたいにくるっとひっくり返って空気の裏側が映し出される。そこには様々なコメントがカタカタと音を立てながら荒れ狂う嵐にように書き込まれている。産むって言って聞かないんだ――部長に殺されるだろうな――社員全員が知ってるぞ――来月から売上ガタ落ちだざまあみろ――いつまでも従順だと思ってたら大間違いっすよ――。間もなく荻窪、荻窪、お出口は右側です。

 あっ。思わず声が出てしまい、俺は慌てて口を塞いだ。空気の裏側に書かれたコメントの文字が真っ黒い窓外を流れる家々の灯りとなり、一駅乗り過ごしてしまった事実だけが俺の意識を気怠く吊るし上げた。

 ため息と一緒に俺は荻窪駅のホームへ降り立った。反対側には電車を待つ人の短い列が等間隔にできている。タイミング良くそこへ上りの電車が滑り込んできた。引き返さなくては。しかし俺はその電車に乗り込むことができなかった。今夜はこれ以上電車に乗ったら夜に押しつぶされてしまう気がした。俺は階段を昇り、滅多に降りることのない荻窪駅の改札を出た。今日が水曜日であることをなぜか思い出した。そうだ、今夜はこの時間に帰っても妻はいない。食育インストラクターの夜間講座がある日だ。そして俺がいつも西落合にいた曜日だ。あぁごめん。思わずこぼれた独り言は駅前の歩行者信号の音に紛れて誰にも聞かれずに済んだ。あぁ、妻に会いたい。妻の顔が見たい。妻に謝りたい。理由なんて挙げれば空気の裏側のコメント欄みたいにぞろぞろ出てくるが、そんなことは関係なく謝りたい。謝って、妻が喜ぶ約束をしたい。食事に行く約束。何かを買う約束。そうだ、妻は海が好きだから灯台に登って海を見る約束がいい。岩に砕かれる波しぶきや空をくすぐるように飛んでいく鴎の群れや水平線のそばで停まっているように見えるけど実はちょっとずつ移動している大型客船なんかを眺めるのだ。灯台って登れないのかな。どこかにないかな、登って遠くまで見渡せる灯台。

 そんなことを考えていたら、夜の青梅街道を歩く足取りも少しずつ軽くなってきた。思えば今日は結構な距離を歩いている。会社から神宮球場までと、この中央線の一駅区間。いい運動になった。靴の踵が減るのは優れた営業マンの証だ、と俺が言ったらあの部下の靴は翌月には肉まんの下に貼ってある紙のように薄くなっていた。もしかしたら一生懸命ヤスリで削ったのかもしれない。交差点を渡りJRの跨線橋を渡ったら車の量もまばらになった。青梅街道は混雑する時間をちょうど過ぎた頃なのだろう。信号待ちしているタイヤの太いワンボックスカーと格安タクシーの間をウーバーイーツの電動自転車がすり抜けていく。風の間をすり抜けてどこまでも飛んでいく帽子みたいだ。あーあ、気に入ってたのに。妻が嘆いて唇をすぼめる。よし、灯台に着いたらまず帽子を飛ばされないように気をつけろよ、と妻に言おう。車のライトが当たるたびにそれまで気付かなかった交通標識の看板が夜陰に浮かび上がる。歩道の脇にはこんなにたくさんの標識が立っていたんだ。進入禁止、駐停車禁止、Uターン禁止。このUターン禁止マークを見て何かの記憶の断片が俺の中で自動再生した。思い出そうとしたが、それは古い服を箪笥から出したときにふわっと舞い上がる綿埃みたいにゆっくりと落ちていって、夜のアスファルトの小さな窪みと区別がつかなくなった。押しボタン信号がなかなか変わりそうになかったので歩道橋の階段を昇る。青梅街道を空中横断する。いくつかのヘッドライトとテールランプが専攻していない教科の先生と廊下で会ったときみたいに素早くすれ違っている。その両脇に本日二度目の登場となる生肌を露出した銀杏並木の影が夜の排水溝に吸い込まれている。階段を二三段降りると、薄い闇の中に浮かぶ阿佐ヶ谷の屋根たちが見えた。人の姿は全く見えない。静まり返った路地の先で屋根だけが俺のことを味方かどうか判断しているようだ。すぐ下にはコインパーキングがあり、一台の車の中で人影が動いたような気がした。そのシルバーのマセラティは駐車区画から外れた端っこに斜めになって停まっている。利用客ではなく乗ったまま無断でちょっと立ち入っているだけらしい。目立たない位置に停めているつもりかもしれないが、煌々と灯る料金看板が真上にあるためここからは車内の光景が丸見えになっている。運転席が後ろに倒れている。シートの部分に女の顔が覆い被さり、長い髪で隠れた横顔がリズムをとるように小刻みに上下している。俺は思わず膝を曲げて上体を手摺りの高さまで屈めた。そういうことか。そういうことをしている最中か。理解したら鼓動が少しずつ激しくなってきた。さすがは心臓だ。いくつになっても中学生のときと変わらない反応を示してしまう自分の器官にお前はまだ生きていていいんだよと言われたような気がした。俺は胸に手を当てた。自分の心臓に礼が言いたくなったのは初めてだ。手摺りから頭だけを出して下を見る。カタツムリになった気分だ。女の顔の上下するリズムが先ほどより若干速くなっている。どちらから言い出してそうなったのだろうか。あの行為に関して部長の娘は必ずと言っていいほど自分から口火を切った。そう考えると、なんだかくちびをきる、という表現が途轍もなく官能的に思えてくる。俺はいつも完全になすがままだった。そして彼女は上手だった。妻よりも舌の動きのバリエーションが豊富だった。俺は心臓に手を当てて何を思いだしているのだろう。哀しいことに別の器官も反応しかけている。寝静まった阿佐ヶ谷の屋根たちに悟られるわけにはいかない。俺はどうにかしてそれをなだめようとズボンのポケットに手を入れた。いきなり硬いものが指に当たったので一瞬のけぞりそうになる。それは球場で無料配布されていた折りたたみ式のちゃちいオペラグラスだった。俺は思わず苦笑して息をついた。同時に素敵な閃きが俺の右手を熱くした。そうだ。俺は手の中にあったオペラグラスをかちゃっと開き、目に当ててマセラティにピントを合わせた。思わず声が出てしまうほど鮮明な光景が目に飛び込んでくる。なんだ、驚愕の精度じゃないかこれ。フロントガラスにぶら下がる交通安全のお守りから女の髪の間に見え隠れする耳の形までそのまんま見える。マンマミーヤ、とオペラグラスっぽい言葉を阿佐ヶ谷の夜に叫びそうになったが状況を鑑みて思い留まる。運転席でそんなことをされている男もさぞかしブラボーな気分だろう。女の性感帯は全部肌の上に露出している。しかも年齢や季節やちょっとした環境の変化で無作為に移動したりするので、男にとっては毎回宝探しゲームをやっているようなものだ。それに対して男の性感帯はああして一極化されており、あとはほとんど視覚と聴覚の中に埋没している。視覚と聴覚。何を見たいか。どんな声を、どんな言葉を聞きたいか。そう、言葉だ。俺にその男特有の性感帯を気付かせたのは妻ではなく部長の娘だった。なんか今日すごくない? 大きさといい角度といい、とんでもないことになってるよ、きっとあなた史上最高でしょ、キャリア・ハイってやつ? なんかじっと見ていたくなっちゃう、だめだめ、もったいなくて触れない、やーだそんなことできない。……あの声のままそう言われたら、どんな男も聴覚から青筋が浮かび上がるほど興奮したヘモグロビンが血管中に流れ出す。それはエッチとか官能とかアダルトとかそんなカテゴリーで分類される表現ではなく、総じてバプテスマに近い魂の電流を言葉によって浴びるに等しい。そうだ思い出した。彼女は足を絡ませながらベッドでアダルト用品のサイトを見るのが好きだった。さまざまな道路標識が股間にプリントされたボクサーパンツを見て大笑いしたあと、ねぇ誕生日にこれ買ってあげるよ、と指を差したパンツにあったのがUターン禁止のマークだった。理由を尋ねると、彼女は誕生日に実際に穿いてくれたら教えてあげると言った。俺はオペラグラス片手にそんなことを思い出していた。くそう、マセラティの男、いい思いしやがって、くそう、長い前髪が邪魔で女の表情が見えないじゃないか、くそう、俺の誕生日はまだ五箇月も先じゃないか。買われることのなかったボクサーパンツ。俺を完全ブロックした部長の娘。そんな彼女が妊娠したなんて。純一以外の俺の子供が、大人になっても童顔な俺の子供がこの世に誕生するなんて。いやいやいやいや、だめだ、無理だ、ないない、絶対にあり得ない、どうしたらいいんだ、この状況、どうすれば抜け出せる、どうやったらすり抜けられる、ほら考えろ、きっと良い方法が見つかるはずだ、シミュレーションするんだ、得意だろ、考えろ。夜の歩道橋の階段で俺の視覚と思索が唸りを上げて絡み合う。女の顔の上下するピッチが早くなる。俺は身を乗り出す。オペラグラスが軋む音を立てる。顔の動きが止まる。唇の下で手が激しく上下するのが見える。そして、ぴたっと止まる。何もかもがぴたっと静止する。死んだように動かなくなる。俺の心臓だけが無言で鼓動をせき立てている。女がゆっくりと口を離す。糸を引いて繋がる。光の粒々がそれを照らしだす。前髪を掻き上げる。その顔を見て心臓の代わりに俺の世界が止まった。妻だった。


 助手席のドアが開き、見覚えのあるサイドゴアのショートブーツがコインパーキングのアスファルトに降り立った。運転席で手を振る人影が見える。マセラティはバックで切り返し、青梅街道に出た。妻は小走りであとを追い、街路樹の下で胸の高さまで上げた右手を小さく振った。糸を引いていた唇の両サイドには線状のえくぼが浮いている。車はテールランプを点滅させて新宿方面に消えていった。俺はゆっくりと階段を降りた。目の前にはまだ右手が胸の高さにある妻がいる。そう言えば今夜は月が出ていない。星も見えない。妻が俺の足音に気付く。俺はあと五段というところまで階段を降りている。妻から見たら暗闇に突然俺の姿が浮かび上がったように見えただろう。目が合う。妻が凍り付く。どうするべきか考える方法さえ思いつかないようだ。思考するメカニズムがまるごと崩壊した表情をしている。あるいは単に中途半端な高さの右手をどの位置に持っていくべきか考えているのかもしれない。歩道に下り立った俺は妻を見て、上り車線の先を見て、再び妻を見た。妻は口元をわずかに震わせたあと、鼻からゆっくりとため息を漏らした。

「見てたの?」

 俺は答えたくなかったので、黙って妻を見ていた。

「いつから?」

 その質問にも答えたくなったので、黙って妻の顔を見ていた。妻は諦めたように左手で前髪を掻き上げ、今度はちゃんと口からため息を吐き出した。美しいと思った。俺はとりあえず簡単な質問から始めようと思い、飲んだのか、と尋ねた。もちろん、酒ではなく。



 この国では、生きるだけなら適当なところを最低限押さえておくだけで生きていける。適当に寝て、適当に起きて、適当なものを胃に詰め込んでおけばとりあえず息をしていられる。何も望んだりこだわったりしなければいいのだ。鳥怪人みたいに無理して世界征服を企まなければいいのだ。仕事をしていてもしていなくても、金を持っていても持っていなくても、食って出して寝ることの繰り返しであることに変わりはないのだ。それに人は確実に強くなっている。俺が子供の頃はまだ道端に空き缶を置いて正座しているオーソドックスな物乞いをよく見掛けた。借金まみれになって夜逃げする人も離散する家族も特に珍しくはなかった。昔の人はプライドを捨ててもまだ生にすがりつきたいと願ったのだ。でも今は、そんな窮地に立たされたら人はスマートに自死を選ぶ。人間としてのアカウントを喪失したと分かった時点で、明日にログインできなくなるからだ。誰からも生きてていいね!と許可されなくなったら、物乞いも夜逃げも無理だ。どうせ毎日指一本で適当に生きているのだ。だから指一本で適当に死ねる。それが現代における死というものだ。自殺者が増えたのは人が弱くなったからではない。強く、そしてクレバーになったからだ。簡単にログアウトしたりオフラインにしたりできるデジタル思考で生きるようになったからだ。エラー表示が出続けるログイン画面を、物乞いしたり夜逃げしたりしてまでタップするやつはもうこの世には存在しない。適当なのは、強さと賢さと潔さの証だ。

 初期化して、人生を「生きているだけ」という工場出荷時の状態に戻した俺は、もはや何も恐れず適当に息をしていられる。会社からの電話は現時点で全て無視できているが、純一を連れて妻が出て行った二日後に鳴ったインターフォンにだけは応答してしまった。アマゾンの配達人はシャンプーとコンディショナーが一ケースずつ入った段ボール箱を玄関に置いていった。妻が年間で購入契約をしている商品だ。俺は捨てる気にもなれずそのまま放置した。一箇月ほど経った頃、突然妻から電話が掛かってきて今からそれを取りに行く、と言われた。でも実際に取りに来たのは別れた妻ではなく純一だった。

 そんなわけないのに、純一はニキビが減って身長がさらに伸びたように見えた。家族のキャスト変更にうまく対応できているかは別に知りたくもなかった。できれば純一にもそこら辺は適当に受け流してほしいと思った。夫婦とか家族とかはある意味記号に過ぎず、これはひとつの常識的なフェーズの転換、つまりよくある展開の話なのだと。

 純一が玄関にいた時間はほんの一分ほどだったが、そのときに交わした会話はどういうわけか一言一句覚えている。

「ははは、なんか、すごいね」そう。純一は俺を見てまず、笑ったのだ。

「何が」

「髭って、一箇月でこんなに伸びるんだ」

 俺が純一の身長に違和感を覚えたように、いやそれ以上に、純一は俺の髭にびっくりしたらしい。そうか。考えてみたら俺はあの日以来髭を剃っていない。風呂にもろくに入っていない。本当に、この家の中で当てずっぽうに息をしているだけの毎日を送っている。俺は異臭を放っていないか少しだけ心配になった。でも純一は特に鼻を摘まむこともなく、足元にあった段ボール箱をひょいっと持ち上げた。

「あ、重いぞ。ひとりで持てるか」

 玄関のドアを開けながら俺が言うと、純一はノーリアクションのまま外に出て爪先でドアを閉めた。なんだか俺から逃げているようにも思えたが、夜逃げとはほど遠いものであることは確かだった。なぜなら、先ほど笑ったとき純一の頬に浮上した親子の紋章が俺にはログインボタンに見えたからだ。純一は、俺と違ってとりあえず明日にも明後日にもちゃんとログインできている。俺は顎髭を触りながらリビングに戻り、なんとなくベランダに出て下を見下ろした。交差点から少し離れた街路樹の陰にシルバーのマセラティが停まっている。エントランスから段ボール箱を抱えて出てくる純一の後ろ姿も見えた。交差点を渡りきったところで、運転席から見知らぬ男が出てきて車のトランクを開ける。純一は荷物をその中に放り込み、男と顔も合わさず後部座席に乗り込んだ。車が立ち去ったあとには、初夏を感じさせる乾いた後ろめたさが風景からその残像を適当にかき消していた。放課後に中年の女教師が穴の空いた黒板消しで卑猥な落書きを消すように。

 俺が髭を剃り落としたのは、それからさらに二箇月ほど経ってからだった。



 開けることのなくなったベランダの窓に何かが当たる音がした。狂った蝉だった。生物の狂った状態が難なく分かる俺は演繹的に考えても至って正常だということだ。冷蔵庫は見事に空になったというのに妻や純一がいた頃の時間をいつまでも冷やしているので、俺はおそらく近いうちにそれを破壊するだろうと思った。洗濯機もそのふやけた時間をいつまでもぐるぐると回し続け、壁と天井からはペースト状になった足首やドライヤーや逆富士型のマグカップや乳房やスピーカーやブレザーの制服などがことあるごとにどろどろと垂れ下がるので、近いうちに根こそぎ破壊するだろうと思った。床にはカップラーメンの容器や折れた割り箸が散乱してフローリングの木目を見えなくさせている。古い新聞紙の束には食用油がべっとりと染みつき、その上で黒光りした巨大ゴキブリが元気に触覚をスイングさせている。それらも俺は近いうちに破壊するだろう。ベランダの窓ガラス越しに見える空は午後から陰っており、そこに杉並区じゅうのマンホールの蓋がひとつずつゆっくりと吸い込まれている。まだ誰も泣いていない夜空に浮かぶごま粒みたいな点となってそれがぱかっと開く。蓋が開く。出てくるのはペースト状の理由たちだ。無数の理由たちがぽたぽたぽたと落ちてくる。雨がそうして落ちてくる。理由でできた雨の壁に心が圧迫されそうになる。何がしたい。いま、なにが、だれが、どうしてほしい。ほんとだ無性に走り出したくなる。なるほどこれだな、部長の娘はこれを言っていたのか。進むボタンも戻るボタンも消えるボタンも要らない。破壊ボタンさえあればいい。理由は浴びるほど飲んでいる。空から糸を引いて落ちてくる破壊の雨。あぁ走り出したい。答えろよ。飲んだんだろ。分かるさ。俺だって散々飲ませたもんな。俺は部屋じゅうをひっくり返す。破壊ボタンを探してひっくり返す。カーペットごとひっくり返す。しかし何をいくらひっくり返してもボタンは見つからない。仕方なく自分もひっくり返して何かを激しく叫んでから全ての動きを停止する。息を吐く。息を吸う。そしてじっとしたままゆっくりと数をかぞえる。いち、に、さん、し。目を閉じて数をかぞえる。ご、ろく、なな、はち。五十三までかぞえたときにもう大丈夫だと判断して熱い湯で新品のタオルを浸し、両手を真っ赤にしながら緩めに絞って顔の上に乗せる。そして時間を掛けて震えるほど丁寧に髭を剃った。洗面所で奇跡的に見つけたヘアワックスをつけて、長く伸びた髪をオールバックにした。ひっくり返りそびれていた白いTシャツとジーンズ姿に着替えて外に出た途端破裂するかのように汗が噴き出して俺の額で雨と溶融した。西落合、と言って後部シートに乗り込むとタクシーの運転手は氷上を滑るように発進させ、紳士的な笑みを浮かべながらルームミラーで俺の顔をちらちらと覗き見た。心配すんなよ。俺は財布を出してこれ見よがしに紙幣をかぞえた。すると運転手はミラーを見ることはなくなった。

 タクシーを降りたときにはもう雨は止んでいた。カナメモチが赤く並んだ植栽の向こうに今年の春まで週に一度訪れていたマンションのエントランスが見える。腕を組んだ若い男女やスーツ姿の中年男や宅配ドライバーが出入りしている。どうしてだろう。もの凄く久し振りな気がする。同時にもの凄く、なんて言うか言葉にできないのではなくそもそもそれを表す言葉が最初からないと思われる感情に襲われる。嬉しくて哀しくて痛くてとろけそうで訳の分からない、パレットに絵の具を全色ひねり出して筆でぐちょぐちょにかき混ぜたような感情だ。抑えられない。はち切れそうだ。叫び出しそうだ。何かが飛び出しそうだ。生きているのが複雑すぎる。俺は耐えきれなくなって雨と汗でぐっしょりと濡れたTシャツを胸までまくり上げ、自動ドアを開けてセキュリティゲート脇のインターフォンで慣れ親しんだ番号を押した。カメラが起動するランプがつき、はーい、と落ち着いた女の声がした直後にそれはきゃあという悲鳴に変わった。背後でママーという小さな女の子の声がする。どういうことだ。まさか俺の娘か。生まれたのか。そんなわけない。あの日から四箇月ちょっとしか経っていないのだから。落ち着け。そうか。そうだ。別人だ。知らない人だ。あの部屋にもう彼女はいないのだ。かといって部長の住む実家に帰ったとは思えない。どこか知らない町でひとりっきりで俺の子供を産むつもりだ。厄介だ。本当に厄介だ。それより本当に俺の子供なのだろうか。まぁいいや。適当に幸せになってくれ。むちゃくちゃに幸せにしたいと思ったのは、痛くて哀しくて訳の分からない興奮と恍惚の中でどくどくと波打つ射精をしたからだ。今だったら分かる。よく分かる。夕暮れ時に乳首を出したオールバックの男をインターフォンの画面越しに見て悲鳴を上げる俺の知らない母親はむちゃくちゃに幸せになるべきだ。俺はまくったTシャツをゆっくりと下ろし、カメラに向かって深々と一礼してエントランスを出た。大々的に遅刻した太陽の沈みカスが西の空の終わりを縁取っている。不意に思った。俺が死んだら泣く人っているだろうか。結果を予想してアドレス帳の隣に○と×を書き連ねてみたい。俺は未来にではなく今にしかログインできなくなっているスマホをポケットから取り出した。即ヤリ系アプリを開き、最初に画面に出た女とアポを取って新宿のホテルへタクシーで向かう。運転手は都内の抜け道を完全に把握した天才ドライバーなのか単純に道に迷っただけなのかよく分からないルートで始まりかけた夜の路地にタイヤの軋み音を響かせた。

 画面で見た女は実際に会うと中央で切断したズワイガニの断面みたいな顔をしていた。ズワイガニを最後に食べたのはいつだったろう。かなり前だ。埼玉の女子大生と一瞬だけ付き合っていた頃だ。その彼女もいかんせん顔が芳しくなく、会う前夜にオナニーをすると出した直後にティッシュペーパーを丸めながら翌日のデートがのたうち回るほど面倒になり、あぁ今すぐ大地震でも起きないかなぁと真剣に思ったものだ。あの面倒くささは強烈だった。しかし翌朝になるとけろっと忘れて歯磨き後の息をコップで何度も確認したりしていた。結局男は出したいだけなのだ。出せればいいのだ。それだけ。それが叶ったら、のたうち回るほどの面倒くささもどこかへ行ってしまう。代わりに女は出してからが面倒な生き物になる。厄介だ。世界は厄介だ。ねぇ、最初ドア開けたとき一瞬眉間に皺を寄せましたよね。バスルームに行こうとベッドから立ち上がった俺の背中にズワイガニが声を投げ掛ける。たぶん寄せたのだろう。でもそのことについて論じるパワーが今の俺には蚤の体長ほどもない。どうしてチェンジしなかったんですか。ズワイガニの声に膜が掛かっている。今度は俺の背中ではなく天井に向けて言ったのだろう。ホテルの天井は厄介な世界の共通言語で内装されているのかもしれない。俺は答えずにバスルームのドアを開ける。白とオレンジとモスグリーンのボトルが並んでいる。ボディーソープは何色だったっけ。文字がよく見えない。おいおい老眼にしてはちょっと早すぎないか。ねえどうしてよ、あんな顔したくせに。振り返るといつしかベッドから降りてドア枠の前に立つズワイガニの太腿が見えた。厄介な絡み方をした毛細血管が白い肌に赤く浮かんでいる。なんでそんなこと聞くんだよ。仕方なく俺は言って視線を上に移動した。そのときはじめて彼女の顔をまじまじと見た。そしてもの凄い努力をすることになった。眉間に皺が寄らないように。なぜならその顔は各パーツの形状がどれも根本的に不恰好で、配置もバランスというものが一切考慮されていなかった。その上干ばつ地帯の轍のように起伏に富んだ顔面から前歯だけがひょっとして受け狙いなのかと思うほど突出しており、まぁ概して言えば壊滅的な作りに仕上がっていた。決まってるじゃない、私がブスだからよ。ズワイガニは言ったあとで少しだけ申し訳なさそうな表情をした。客に対しては敬語で話すようにと派遣先から言われているのだろう。俺は聞こえないように舌打ちする。このままだと世界でトップクラスの面倒な会話が始まってしまうので俺はとりあえず消えるボタンを押すことにした。ごめん。手のひらを立てて笑顔でドアを閉める。ドロン。埼玉の女子大生を思い出した。正確にはデート前夜の丸めたティッシュペーパーの匂いを思い出した。バスルームのドアが半透明なので肌色のズワイガニの形だけが外にぼんやりと残された。シャワーをひねる。何色でもいいや。俺は何かのどろっとした液体をポンプから出して、濡れた局部に擦りつけた。少しだけ泡立った。そうなるって誰だって分かるじゃん、パパとママ両方とも不細工なんだから。シャワーの音に混じって聞き取りにくい人の声がガラリの隙間から入ってくる。全く、なんで子供なんか作ったかなぁ。ドア越しに届くズワイガニの声はよく分からない全ての厄介な液体と一緒に排水溝に流れて消えていく。小三の頃から分かってたもん、自分がとんでもないブスだって、私が何をしても何を言ってもみんなはまずブスのくせにと思うって、すれ違っただけでも。だから授業中に手も上げられなかったし差されても何も言えなかった、人の前に立てなかった、人の視界に怖くて入れなかった、誰にも見えなければブスのくせにって思われずに済むでしょ、ブスは大人になれないの、だってブスが大きくなることは人の成長じゃないんだもん、女の子の成長じゃないんだもん、ただひたすらブスさ加減が肥大していくだけなんだもん。途中から耳に入らなくなっていたズワイガニの述懐は、洗い流してシャワーを止めた途端クリアになって俺の鼓膜の手前をひらひらと舞った。心地よい音楽を聴いているようだった。私が罪をおかしたら、はんこうりゆうはブスだからになるんだ。その音楽は敬語を失って漢字も失って代わりに涙でトリートメントされたつるつるの平仮名になっていた。けいさつもさいばんしょもあーなるほどそうだね、ってなっとくしてじけんかいけつ、ひとをころしても、ね、だってほんとそうなんだもん、ブスはね、せかいさいきょうのハンデをせおわされてるの、だからブスってだけですべてのつみのりゆうになるんだから、じょーじょーしゃくりょーになるんだから。音楽として聴いていた彼女の声がそこで途切れたので俺はすいませんバスタオル取ってもらっていいですか、と言った。なぜ俺の方が敬語になっているのか分からない。なのになんで、どうしてお客さんは、あんな顔したのにチェンジしないで私の中で出してくれたんですか。ズワイガニもつられて敬語に戻った。声色がどうしようもない角度で上ずっている。ブスじゃないからだよ。俺は言ってドアを開ける。狭いバスルームのエコーが一溜まりもなく息絶える。タオルを持ったズワイガニがいきなり俺の首にしがみついてくる。女を馬鹿にしているだと? そうかもしれない。ただ、このときの男にとって顔はどうでもいいんだ。出せればいいんだ。俺は鳥肌が立つ前に急いでワイガニの腕を振りほどき、ありがとうと言った。タオルを取ってくれたことに対する礼がなんだか途轍もなく気色悪い勘違いをされているような気がして恐ろしくなった。確かにズワイガニには情状酌量の余地がある。今ここで俺を殺しても。

 結局六十分コースを五十分で終わらせて、俺はからだを隅々まできれいに洗い流した。すると煮すぎた牛すじ肉みたいだった心に新しいログインボタンが薄く点灯しているのを感じた。ホテルを出て靖国通りを渡る。別れ際にまた指名してねと渡されたズワイガニの名刺をジーンズのポケットから出して捨てようとしたら、そこには違う文字があった。

 中尾工務店代表取締役、中尾晋太郎。

 俺はどこかで誰かが勝手に記憶のコマンドを操作しているようなぼんやりとした脳の動きを感じながら、誰かが勝手に操作しているような指の動きを見ていた。すると俺の指はスマホから晋太郎伯父さんの声を蘇らせた。

「おう、マサユキくんか。どしたの急に。あ、もしかして仕事の発注かい?」

「いや、あのとき伯父さんが乗った夜行バスに俺も乗ってみたくなっちゃって」

 晋太郎伯父さんのイントネーションは相変わらず芳しくない口蓋骨の起伏みたいな線を描いていたので、俺は細切れに笑ってしまった。



 二十時四十分発のバスは窓際の席だけが埋まっており、ほとんどの乗客が既にカーテンを閉めて眠る態勢に入っていた。そこへ発車ギリギリで乗り込んだ俺はなぜか目が冴えまくっており、薄い紙なら数回のまばたきで切れるようなテンションだった。バスはすぐに首都高に乗るとスピードを上げて様々な色のライトを窓ガラス越しに滑らせ始めた。俺の並びに座った中年男は反対側の窓外風景をしばらく眺めてから突然自分が今したおならの匂いの元は昼に食べたユッケであることを解明したときのようなドヤ顔を俺に向けてカーテンをしゃーっと閉めた。その前に座る若い男女はジグソーパズルの隣り合わせたピースみたいに頭と首を器用に密着させて既に爆睡している。バスはいくつかの川を渡り、いくつかのトンネルをくぐって揺れることもなく夜の高速道路をひた走った。実は路面から5センチ浮いたまま移動しているんです、と運転手に言われたら俺は信じてしまうかもしれない。それほど快適な走行だった。三本目の大きな川を渡った頃には、ほぼ全員の寝息が聞こえた。鋏のように覚醒した俺だけが結局終点までカーテンを開けたまま起きていた。

 バスを降りてJRに乗り換える。車内広告が一切ない車両には俺しか乗っていない。俺は狭いバスの座席で収縮しきっていた手足を大きく広げてあくびをし、スマホを出してツイッターとインスタのチェックをした。両方とも全く更新していないのでコメントもなければDMもない。最後にいいねをしてくれたフォロワーたちの名前をひとりずつ噛みしめながら確認する。古新聞で過去の栄光を眺めてニヤニヤするアスリート上がりのテレビタレントみたいに。ひとりずつ、ひとりずつ、知らない人の名前を。生きてていいねをタップしてくれた心優しい人たちの名前を。俺が死んでも明らかに泣かない人たちの名前を。

 ちなみに電話とメールとラインの着信は全て三十件を超えており、そのほとんどが会社の営業部長からと社会保険事務所からで、他に弟から三件、銀行から二件、非表示が二件あり、妻と経理部長の娘からは一件もなかった。


 晋太郎伯父さんに言われた駅に着いたときには既に日付が変わろうとしていた。

 電車を降りたのは俺だけで、自動改札機が使えたのでとりあえず外には出られた。その駅は異様な静けさに包まれており、狭い待合室には極端に文字数の少ない時刻表が貼ってあった。ベンチの肘掛けは折れたまま腐食し、ブリキの看板は錆びきって美白が魅力の女優の顔を赤く染めている。何十年も前に時間を誰かが後ろから羽交い締めにして先に進めなくさせたみたいだ。待合室を出ると駅名の書かれた木製プレートを照らす裸電球のまわりに見たことのない色の蛾が浮遊しており、その斜め下には朽ちかけた伝言板が少し右に傾いて立っていた。支柱の穴には二本の紐が通され、先端にそれぞれチョークと黒板消しが括りつけてある。人類がスマホの上で生きてスマホの上で死んでいくこの時代に手書きの伝言板など利用する人がいるのだろうか。それにしても暗い。この駅舎の灯りはまるで世界中の暗闇を集めて作った海原にぽつんと浮かぶ一艘のイカ釣り漁船だ。静かで、波もなく、水平線も地平線も山手線も小田急線もない。半径五メートル以降は全周が完璧な暗闇だ。とりあえず俺は晋太郎伯父さんに電話し、駅に着いたことを報告した。五分もしないうちに伯父さんは軽自動車に乗って迎えに来た。真夜中に呼び出したことを詫びながら俺は助手席に乗り込んだ。シートに深く座って前を見る。車のライトが先ほど見た伝言板を照射する。そのとき俺は一瞬はっとした。何年も前に役目を終えたはずの伝言板に一行だけメッセージが残っている。さっきは気付かなかった。俺は目を凝らした。

《刺繍です。楽しいですよ》

 ライトが移動するギリギリのところで俺はその文字を読み取った。教室あるいはコミュニティの宣伝か。なるほど。確かに刺繍という漢字をチョークで書くエネルギーはSNSで拡散できるものではないかもしれない。パンケーキを食べながらいいねボタンを押せるものでもないのかもしれない。でもそんなことは一切お構いなしで伯父さんの軽自動車はバス停もタクシープールもない駅前ロータリーを一周すると、来た道をタイヤを鳴らして走り出した。街灯も標識も信号機もない真っ暗な景色の中、晋太郎伯父さんだけがここが道であることを知っているようだった。

 俺は煩わしいことを訊かれたくはなかった。しかしパブリックな話題を持ち出そうにもこの数箇月間ニュースに全く接していないので何を話していいか分からず、俺はうろたえながらイカのような泡を吹いた。というのはもちろん嘘で、うろたえる前に車は伯父さんの家に着いてしまった。田舎の人は百メートルの距離でも車で移動するというのは本当だった。暗くてよく見えなかったが伯父さんの家は敷地内に母屋と事務所があり、その二棟をポリカーボネートの庇で繋げて下を駐車場にしていた。俺は事務所の2階へ案内された。夜間作業があるときはここで従業員が寝泊まりしてんだ、滅多にないけどね。伯父さんは歌うように言うと、押し入れを開けて布団を引っ張り出した。今日はもう遅いから寝るっぺ、明日はつばさの墓参りにでも行こうや。母の名前は平仮名で「つばさ」だった。そうだ思い出した。火葬場で伯父さんは父親にしきりに分骨のお願いをしていた。いや、逆だ。骨壺をまるごと持って帰ろうとした晋太郎伯父さんに俺にも分けてくれ、と父親がすがりついたんだった。本当に何があったのだろう。

 ズワイガニの顔をした女が注ぎ口の詰まったシャンプーのボトルを逆さにして浴槽の縁にこんこん当てている。うるさいからやめろと言おうとしたらそれはノックの音だったので俺はくだらない夢を蹴散らして目を擦りながら返事をした。はーい。ゆっくりとドアが開きおはようございます、と顔を出したのは褐色の肌に長い睫毛が生えた若い男だった。誰だ。もの凄い状態になっていた股間を押さえながら俺が挨拶を返そうとしたら男はその前にあさごはん、と言った。伯父さんを上回る妙なイントネーションだった。そして俺の股間を見て薄く笑いながらできました、と言って階段を降りていった。結局俺は何も答えられず、しばらく開けっぱなしのドアを見つめてからとりあえずジーンズを履いた。

 母屋に入ると今の若い男と伯父さんが朝食の並んだテーブルについており、そこに伯母さんがマサユキさんしばらく、と言いながら味噌汁を運んできた。お、おはようございます。俺はアイロンを掛けて皺を伸ばしたような自分の声を初めて聞いた。

「おう起きたな。さ、食おう食おう。あ、びっくりしたっぺ、こいつ住み込みで雇ってるチョージ。チョー・ジン・えーとなんだっけ」

「ラウール」褐色男が言った。

「そうそう。なんかミャンマーの名前って長くて面倒くせえからよ、いいやチョージで、ってな。居酒屋チョージ。ほれ、こうして見っと高倉健さんみたいで男前だべ」

 チョージはそれに全く反応せずいただきます、と手を合わせてレタスを箸で摘まんだ。「マサユキくんとこもあれだよな、子供らは店継がなかったんだろ」晋太郎伯父さんは鮭の骨を抜きながらそう言った。子供らとは、俺と弟のことらしい。

「うちもおんなじだよ。みんな家出てって、やれデザイナーだ、やれラジオ局だって勝手なことばっかしてる」

「そうですか」

 伯父さんは顎をチョージの方に向けて続けた。「今はこいつの他にふたりの職人がいるけど、俺の代でおしまいだなここも。こいつだって国に帰んなきゃなんねぇし。な?」

 チョージが味付け海苔をご飯に乗せて器用に巻きながら神妙な顔つきで頷く。

「会社は、有給かなんか?」そこで伯母さんが優しい視線を俺に向ける。

「あぁ、はい」俺の声には相変わらずアイロンが掛かっている。

「今は取らなきゃ労基に言われちゃうもんな。昔は工期が迫ったら二三箇月休みなしなんてザラだったのによ。ま、給料貰う方にとっちゃいい時代になったもんだ」

 伯父さんはそう言ってがははと笑った。おそらく解雇されているだろうけど、ここはとりあえず俺もはははと笑ってみた。つけっぱなしのテレビには胸の大きなアナウンサーが舌足らずの声で天気予報を伝えている。それをチョージが箸を止めて哲学的な眼差しで真剣に見入っている。興味の先はあくまでも日本の気象学です、と言わんばかりに。絶対そうではないと思うけど。アナウンサーの後ろに見えるお台場の風景がなぜか遠く感じる。絶望的な距離感に包まれた遠さだ。本当に俺は昨日まであの東京にいたのだろうか。東京ってどこだろうか。なんなのだろうか。なんかもう思い出せない。東京の感触がズワイガニで完全に終わっている。

「マサユキさん、確かひとりじゃなかったわよね」

 伯母さんにそう聞かれて俺は我に返った。俺はこの世に何人いるんだ。いや違う。

「あ、はい」

「そうよね。お子さんはもう大きいの?」

「中二、いや中三になりました」

「中三かぁ。一番楽しみな年代だな」伯父さんが口を挟む。「今度連れてくるといい」

 天気予報が終わり、画面の左上に出ていた時刻の数字を見てチョージが慌てて残りのご飯を口に突っ込む。考えてみたらこんな早い時間に起きたのは何箇月ぶりだろう。


 こちらの寺に立てられた母の墓は、千葉の市営霊園の墓よりも数段立派なものだった。晋太郎伯父さんは腰袋を巻いたニッカポッカ姿で線香をあげたあと、じゃ行ってくらあと言って消えてしまった。丁度先月から同一敷地内にある住職の住まいのリフォーム工事を請け負っているらしい。ちなみに伯父さんと住職は幼なじみで、学生時代は二人とも相当なワルだったそうだ。

 墓地は緩やかな斜面を上るのも下るのも躊躇するようなところにあった。階段状に墓石が並び、その先は山とは言えない高さの丘になっている。砂利の通路から中途半端にはみ出た位置に大きな桃の木があり、熟しすぎた実が落ちて自らの根を汚していた。母の墓石は眩しい朝の陽光が反射して文字が全く読めなかった。読み方を俺が忘れているのかもしれない。そういえば今朝俺は確かに天気予報を見て東京が思い出せないと感じた。でも、それよりここはどこなのだろうか。一番楽しみな年代って一体どういうことなのだろうか。時代も年代も、全ての時間が平面的に見える。いや、立面的と言った方が正しいか。そうだ立面図だ。奥行きが感じられない。目には何かが映っているのだが、全てが曖昧であやふやで視覚のバッテリーが感情に伝わるまでに切れてしまう。落ちた桃の実がどうしようもなく醜いのと、この土地に遠野つばさ、いや中尾つばさという女性が二十歳までいたということだけが嬉しくも悲しくもない事実として夏を熟成させている。今風が吹いたらきっと熟しすぎた夏が透明な水となり、両目からこぼれ落ちて俺の根元を汚すだろう。

 本堂裏の駐車場まで戻ると、ハンマーで何かを叩く音やグラインダーで金属を研磨する音が聞こえてきた。カイヅカイブキの垣根越しに入母屋の古そうな民家の屋根が見える。軽自動車のフロントガラスに図面を広げていた晋太郎伯父さんが俺に気付き手を上げる。どうだ、お母さんとは話せたか。えぇ、話せました。そりゃよかった。話すどころか母のことを思い出せなくなっている自分に泣きそうになったことはもちろん黙っていた。タオルを首に巻いて伯父さんは歩き出し、振り返って手招きをする。マサユキくん、ちょっといいかな。はい? 伯父さんが俺を促して垣根の間から民家の庭に入る。ハンマーの音はその家の中から聞こえている。外壁の一部には単管足場が架けられ、ニッカポッカを履いた小太りの男がコーキングガン片手によじ昇っている。伯父さんが勝手に玄関のドアを開けて声を掛けると、中から銀縁眼鏡をかけた中年の作業員が出てきた。その後ろにチョージもいて、俺と目が合うと白い歯を見せた。彼は作業服姿になるとどこかの国の一騎当千な工作員に見えた。こいつがさっき話した俺んとこの甥っ子だ。そう言って晋太郎伯父さんは俺の肩を叩いた。全員が俺を見る。俺はとりあえずぺこっと頭を下げた。足場から降りてきた小太りの作業員が東京の大手建設会社にいるとやっぱ違うねぇ、こっちじゃ髪の毛を後ろで結んでるやつなんて若い女しかいねえもん、と言う。おそらく皮肉のつもりだろう。若い女自体おらんがな、と銀縁眼鏡の方が突っ込むと隣でなぜかチョージが大受けした。意味を理解して笑っているのだろうか。ふと見ると、開いたままの玄関ドアからもうひとり初老の男が顔を出していた。なんとなく頭を下げると男は微動だにせず俺を見て、俺を透かしてカイヅカイブキを透かして遠くの情けない高さの山々を透かしてもっと遠くのどこかを透かしてそのまま地球を一周して自分の後頭部を透かして中を覗き込んでいるような目つきのままゆっくりと近寄ってきた。きっとこの人が住職なのだろう。おたくがつばさの息子さんかい。住職は言った。その目は少しだけ潤んでいるように見えた。はい。そう答えた俺の声は、またアイロンを掛けたように感情の皺が伸びていた。

 あれ、これ変成シリコンじゃねえか。突然伯父さんが小太りの持つコーキングガンを指して言う。だめだよウレタンじゃなきゃ、塗料が乗んねえべさ。え、俺図面通りにやってるっすよ。いやいやそんなはずはねえ。伯父さんが車から図面を持ってきて広げる。矩計図に書かれた文字が目に入った俺は思わずあ、と声が出ていた。この製品名、確かに変成シリコンですね。ほらぁ。小太りが鼻息を荒くして伯父さんを見る。なんだ、じゃ設計屋が間違ってんじゃん、参ったなぁ。頭を抱えた伯父さんに俺は言った。まぁ変成シリコンでもプライマーを塗れば塗膜はある程度密着するから大丈夫、問題ないですよ。本当かいマサユキくん。俺は頷く。プライマー、あるよな。そう聞いた伯父さんに一斗缶で持ってきてます、と小太りが得意満面な顔で答えた。内装担当の銀縁眼鏡の作業員が俺を見てさすがだねと言い、チョージがその後ろで褐色の手を何度も合わせた。拍手のつもりらしかった。そして一同が一斉に持ち場につく。庭にひとり残った住職が俺を見てマサユキというのがあんたの名か、と言った。はい。俺は頷いて住職を見た。微笑もうとしたが頬の肉が満足に動かなかった。へぇ、と言って住職はまた地球一周して自分の後頭部を見た。

「四十五か」

「いえいえ、まだ三十九です」

「早いよな」

 俺の返答は、なぜか住職の耳には全く届いていないようだった。

「早すぎるって。四十五なんてよ……」


 車で送ると言う晋太郎伯父さんを断って、俺は歩いて帰ることにした。道順は頭に入っている。駅から続く一本道だ。迷いようがない。というかズワイガニで終わった東京以外ならどこにたどり着いてもいい。どこにもたどり着かなくてもいい。どうせ初期化したのだ。工場出荷時の状態に戻したのだ。俺は耕運機の泥が転々と落ちた車道を歩き始めた。風が吹いていないので、俺の輪郭を縁取りする空気が全て逆風の発生源となった。

 手入れされていない雑草だらけの畑が道の両端に続いている。法面になっている箇所は石積みの苔むした擁壁で土留めされており、反対側の低い土地に掘られた用水路には床下の配線ケーブルみたいな赤黒い葉っぱが大量に流れている。屋根が半分朽ちかけた肥料倉庫。当てつけがましいとさえ思える巨大な道路標識。それらは全部模造紙に描かれた絵のように見える。奥行きを失った風景は口に入る汗の味を分からなくさせた。近付いただけで弾け飛ばされそうな苦さと辛さ。たくさんのアプリを同時に起動させたやつにしか分からない味。初期化したやつには怖さでしかない味。どうして怖がっているのか分からないことほど怖いものはない。母親が鳥怪人のエキスを注入された赤ん坊のおぞましい嘴を撫でて愛おしそうに頬擦りする姿がどれほど怖い光景か。どうして嘴が見えないのかが分からない。見えてしまったとき、母親がどうなるのかが分からない。分からない。分からない。ただただ圧倒的な怖さだけが毛先と指先と足先から心臓に向かってクロヤマアリの大群みたいに突き進んでくる。考えていたら視界が少しずつ黒ずみ始めた。ひび割れたアスファルトも中古車センターの看板もいびつな形の畑で肥料を散布する老人も蔦が絡まる雑木林からいやらしく膨らむ百日紅の花も端からインクが少しずつ滲んでいくように黒ずんでいる。黒ずんでいないものを視界の中に探し出そうと目を凝らしたら駅が見えてきた。昨夜は完全なる暗黒世界だった駅前の風景。奥行きのない郵便局。奥行きのない定食屋。金物店という看板が出ている店には雑誌やシーツやドッグフードが店頭に並び、アイスクリームボックスにはミックスベジタブルがぎっしりと詰まっている。俺は一年以上前に辞めたはずなのにショートホープはありますか、と店主に尋ねた。ありますよ。四角い目をした老店主は当然のように答えた。煙草とライターを購入して俺は昼食を摂ろうと向かいの定食屋に入った、壁に貼られたメニューには餃子と天丼とカルボナーラという文字が横並びに書いてある。分かった。これは節操のなさでも民度の低さでもない。ニーズへの対応を自分たちでカバーしているだけだ。晋太郎伯父さんの会社も工務店と謳っていながら基礎工事から塗装、左官、家具の造作までなんでもこなしている。カスタマーファーストが多様化したら全てなんでも屋になるのだ。

 俺は定食屋でカレーライスを食べてから駅前のベンチに座って煙草に火をつけた。ゆっくりと吸い込んで吐き出したら数時間後の自分の魂がからだから抜けていくような気がした。何かが違う。目の前の風景か。暗闇の中で想像した景色との差か。確かに駅舎の壁は白だと思っていたのに実際はグレーだった。バス停は本当になかったが、その名残のようなベンチがこうしてあった。伝言板は昨夜見たときと同じく少し右に傾いて立っている。そこに違いはない。でもやはり昨夜の景色と何かが抜本的に違っている。俺は煙を吐き出しながら、間違い探しゲームの感覚で視線を蛇行させた。そして小石につまずくように、視線がつまずいた。伝言板に書かれた文字を見て。

《ハンカチです。上手にできたら送ります》

 あれ、あの難しい漢字がない、なんだっけ、そうだ、刺繍だ、刺繍教室の生徒募集じゃなかったのか、というかこの伝言板、伝達アイテムとして今でも機能しているのか。カスタマーファーストの多様化もここまで進むとデジタル文化は不要になるのかもしれない。恐るべし北関東。恐るべし読めるけど誰も書けない田舎町。でもどういうことだ。刺繍です、楽しいですよ、からのハンカチ。そうか。ハンカチに刺繍を施したのか。待て。全くの別人だという可能性もある。そうなると刺繍とハンカチにはなんの接点もなくなる。俺はどうでもいいことを考えながらその考えた時間を取り戻したくなるほど後悔した。刺繍だのハンカチだの、今の俺には悲しいくらいどうでもよすぎる。

 夕方、現場から戻ったふたりの職人に一杯やろうと誘われた。連れて行かれた店は予想通り昼に入った定食屋だった。昼は眉毛が一文字に繋がった初老の女がひとりで配膳作業をしていたが、夜は若い女がひとりで注文を聞いて料理を運んでいた。滅多に客が来ないのでそれで充分賄えるのだろう。テーブルに着くなりふたりの職人は勝手に冷蔵庫からビールを取り出して栓を抜いた。チョージがどこからかグラスを持ってくる。そういうシステムらしい。職人たちが店の女に適当なつまみを大声で伝えると、彼女は億劫そうな顔で伝票らしき紙に何かを殴り書きしてそれを持って壁の向こうへ消えた。若い女性ちゃんといるじゃないですか。俺が言うとふたりは乾杯しようとしていたグラスをテーブルに置いて同時にため息をついてから笑い出した。かん子は若いって年代にもまだいってねえっすよ。クボタと呼ばれている小太りが言う。確かに恐ろしく若かった。というか、子供だ。純一くらいかもしれない。かん子は隣町に住んでて、夜だけここでバイトしてる、ちょっと弱いからちょっとかわいそうなんだ。そう言って銀縁眼鏡が人差し指でこめかみの当たりを差した。訊いたらなんでも喋るからあっけらかんのかん子。なるほど。お母さんがちょっとあれだから、それもかわいそうで。ちょっとちょっとって、ちょっとなんだよ、と俺は突っ込みそうになった。お前らは全然あっけらかん子じゃないんだな。

 鯖の煮付けと鶏の唐揚げがテーブルに並んだ。どんと置いて何も言わずに去ろうとするかん子をクボタが呼び止める。あれ、かん子ちゃんなんだか今日おっぱいでかくね? あ、分かった? これ中身超スカスカなんだけど押してもへこまないの、ほらマジやばくない? かん子はそう言って自分の胸を親指で押した。なにそれ最強じゃん。なんだ、最近しまむらじゃ最強が売ってるのか。ツカさんと呼ばれている銀縁眼鏡が言う。そうだよしまむら今激バズってんだから。かん子が言うとチョージが手を叩いて大受けした。彼は本当に会話の意味が分かっているのだろうか。というか今のくだり、都心なら最初の一言で確実にアウトだ。下手すりゃ訴訟案件になる。恐るべし北関東。そういやさぁとツカさんが切り出す。女は胸を少しでも大きく見せようと頑張ってんのに男は頑張らないよね、あれ、なんでだろ。そりゃやっぱでかく見えるとえぐいし引かれるからじゃないですか。クボタが謎を解かない名探偵のような口調で言う。そんなことねえだろ、女はみんなあそこがでかいのが好きに決まってんだから。いやいや分かんないっすよ、男にだって貧乳マニアが結構いるじゃないっすか。かん子はいつしか消えている。貧乳マニア? そんなんいるか、男はみんな生まれたときからでかいおっぱいを求めてるんだよ、な、チョージ、ミャンマーでもそうだろ? そうね、ババロアね。チョージがニコニコしながら両手で胸の辺りに半円を作る。こいつ意味分かっている。三人はひとしきり大笑いした後、ひとりで間延びしている俺を同時に見た。あ、すいませんね田舎は下品で。クボタが苦笑いしながら俺に言って、同時に何がババロアだ、とチョージの腕を肘で突く。そうだ、東京の大手建設会社の人に言うことか、謝れチョージ。ツカさんが言う。そしてチョージがペロッと舌を出してまことにすいまめーん、と両手を広げて言い、今度は俺を含めた全員が大笑いした。俺が笑った理由は大手でもないしもうそこの社員でもないってことがおかしくて馬鹿らしくてそれが不思議と嬉しくなったからだった。全てを失うと人は無邪気に嬉しくなれるのかもしれない。そうか。初期化した人間は赤ん坊から始まるのだ。一昨日までの俺にはやはり嘴が生えていたのだ。よし、赤ん坊からやり直すなら、まずは鳥怪人にエキスを注入されないよう注意しよう。赤い三日月の夜はもう絶対に外へ出ない。


 翌日、俺は伯母さんに自転車を借りて激バズっているというファッションセンターしまむらに出掛けた。そこで下着とTシャツとポロシャツとジーンズとカーゴパンツを大人買いしてレジを待つ列に並んだ。三つ先にある女性用下着の棚には、ピンク色の大きな文字で最強ブラ、と書かれたポップがあった。しまむらには本当に最強が売っていた。

 大きな袋を自転車の籠に乗せて駅前まで戻り、定食屋で半チャーハンセットを食べた。眉毛一文字おばさんが言うありがとうございましたのイントネーションを聞いて俺はなぜか都営新宿線の輪郭だけを思い出した。重そうなショルダーバッグを抱えた晋太郎伯父さん。あのシートは何色だったろう。俺はどうしてあの電車に乗っていたのだろう。俺はどこへ向かっていたのだろう。もうどうでもいいことだけど。赤ん坊の脳下垂体になった俺が思い出そうとしてくれないので、記憶が襞の裏に顔を半分隠して拗ねている。

 昨日と同じ喫煙所で煙草に火を点ける。あ。また視線がつまずいた。例の伝言板だ。

《いいんですか、そんな大事なものに。すごく、すごく嬉しいです》

 やりとりが進展している。なんだなんだ、何が起きた。そんな大事なものってなんだ。一体この女性は(女性だよな?)誰と何をしているんだ。相手取っているのはひとりなのか。それとも複数人か。そう言えばこの人たち、一切名前を書いていない。というか相手の返信はいつ書かれているのだろう。メッセージはいつも一番端に一行だけ書かれてそれをきれいに消して同じ位置に返信、を繰り返している。でも不思議なことに、ぶら下がった黒板消しにチョークの粉は一切ついていない。どういうことだ。この女性は何者だ? どうでもいいことだと分かっていながら、辛うじて残っている好奇心がくすぐられる。俺はいくつか推論を立ててみた。最も有力な線はこんな感じだ。実はこのメッセージ、誰からも返信されていない。彼女がひとりで書いているだけ。つまりこれは彼女の創作チャンネルに過ぎない。だからどんなことが起きているかは彼女にしか分からない。というか実際には何も起きていない。どうだろう。電車通学の妄想系女子、いや、刺繍とかハンカチなどといったワードを出すあたりそんなに若くはないのかも。まぁ、ともかくこの辺鄙な田舎町にしてはなかなかノーブルな遊びだ。今どきこんなアナログな方法でストーリーズを発信するなんて。確かにこれなら炎上することもない。俺は煙草を灰皿でもみ消した。今日は珍しくこの町に風が吹いている。見慣れてきた駅前の風景がやけに慈悲深く見える。薄い紫色の皮膜が掛かっているような。きっと風がそういう色なのだろう。

 晋太郎伯父さんの家で二回目の夕食をご馳走になったあと、ひとりで外をぶらついてみた。帰りたがらない夏祭りの小学生みたいに昼間の暑さが闇の中で膨張している。低音でハスキーな蛙の声や、まとまってひとつのノイズになっている虫の声が土地の静けさを強調させている。中尾工務店の立看板の下に飲料の自販機があり、そこだけが洞窟の抜け穴みたいに明るくなっている。結構な幅のある車道の両端には街路樹もなければ歩道も縁石も側溝もない。東京の街路がいかに整備されているかを改めて痛感する。インフラは都市政策の主幹となり、経済政策の主幹にもなる。道路や鉄道をはじめ公園整備、街路整備、歩道の緑化、バリアフリー化などなど。東京はハイブリッドになるわけだ、なんだっけ、国道の、何街道だっけ、大きな道の両側には、あれ、なんだっけ、街路樹、何が、あれ、あれ、街道の名前が思い出せない、並んでいた街路樹の名前が思い出せない、あれ、東京の、東京の道が、東京の街並みが、東京の全てが思い出せない、夜空を見上げる、星が、プラネタリウムで見るより鮮明な星たちがすぐ近くで輝いている、どこにも繋がらずに輝いている、どこにも繋がっていないということは、それぞれが死んでも泣くことはないということだ、繋がっていないのだからいいね!もされない、そんなもんだ、畜生、思い出せない東京、もういい、このままなくなれ東京、どこかの国が落とした爆弾で全部燃えてしまえ、大丈夫、ここまで火の粉は飛んでこない、風はずっと西に向かって吹いてくれ、そうすれば火の粉は千葉にも飛ばない、東京だけが火の海となるんだ、火の海、火の海、そして連日に渡って報道のヘリが空撮した緊迫感たっぷりのニュース映像は、過去の惨劇を特集するテレビ番組で毎回取り上げられるんだ、そうかしまったテレビ局も軒並み全焼している、よし分かった、それなら歌おう、よし歌おう、もう思い出さない、思い出すもんか、って歌うんだ、でっかい声で歌うんだ、歌うんだ俺。

 風呂上がりにバスタオルで髪を拭く時間が長くなった。当然だ。この長さだ。ひと通り拭き終わりいつものように後ろで束ねてゴムで留めようとしたら、居間から伯父さんと伯母さんの会話が途切れ途切れに聞こえた。

「あんなに買い込んで、いつまでいる気なんだべか」伯母さんの声。おそらくしまむらで買った衣服のことを言っている。それに対して伯父さんが何か答えているが、声が小さくて聞き取れない。

「違うわよ、私はただ、東京で何かあったんじゃないかって」

 伯父さんがまた何か言っている。だめだ聞き取れない。

「そだね、詮索はよくない。うんそれがいい。いたいだけいさせてあげっぺ」

 俺はバスタオルで顔をごしごし拭きながら脱衣所のドアを開けて居間に入る。伯母さんが氷の入った濃いめのカルピスを作ってくれる。せっかくごしごし拭いたのに、また拭くはめになる。きっと俺の目の下は今、不自然に赤くなっている。



~つづく~


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ