第9話:入るは易く、出づるは難し
白炎の何かは、獣のように森へ逃げ込んだ。
追っている存在そのものが、トーチのように行き先を照らしているせいで、見失うことはない。
だが、追跡を拒んでくるのは――
墨染の鎮護の森、そのものだった。
踏み入った瞬間、視界は一気に鬱蒼とした闇に沈む。
泥濘んだ土が足を取ろうとし、無秩序に伸びた雑草が脛を撫でる。
枝や葉は容赦なく服に絡みつき、前進を阻んだ。
――歓迎されていない。
そうはっきり感じるほど、ここは手つかずの空間だった。
踏み荒らすこと自体が罪だと、無言で突きつけてくる。
「……獣道だな」
俺がそう口にするより早く、茜は進路を選んでいた。
わずかな踏み跡と折れた草を頼りに、迷いのない足取りで獣道へ踏み込んでいく。
「そういえば、これ見て」
前置きもなく、茜が声をかける。
「……ん?」
走りながら、茜は器用に黒檀の木刀を竹刀袋から抜いた。
白い炎に斬りつけた、その切先をこちらへ向ける。
さっき、袈裟斬りでかすった部分が――白い。
まるで色だけを抜き取られたように、放射状に脱色していた。
「たぶん、これが白い炎の正体だと思う」
茜は淡々と言う。
「脱色したみたいでしょ? 燃えてるんじゃない。――色を、喰われたみたい」
試しに触れると、豆腐のように脆く、ぽろりと欠けた。
「……普通にやばいな。攻撃したら、こっちにダメージが返ってくるなんて冗談じゃない」
迂闊な攻撃はできない。
これでは、茜の“受けの剣”は論外だ。
攻撃でこの有様なら、防御など成立しようがない。
何をされるかわからない相手に、守りの剣を任せるのはナンセンスすぎる。
戦略的に考えても、手持ちの木刀や警棒による直接攻撃は、あくまで最終手段。
捨て身の一手として扱うべきだろう。
残念ながら、飛び道具は持ち合わせていない。
家に戻れば和弓、小型のスリングショット、投げナイフもあるが――
戻る時間が惜しい。
白く染まった切先から視線を外し、
戦略を組み立てながら、森全体に意識を広げる。
逃走の軌跡は、ほぼ一直線。
能力は凶悪なのに、ただひたすら逃げに徹している。
人間の思考とは別のベクトル。
まさしく、獣の逃げ方だ。
あの白炎は、闇雲に暴れる類じゃない。
奪えるのに、奪っていない。
今回の出現も「点」に留まっている。
複数、あるいは同時多発的な「線」にはなっていない。
つまり――
目的は、破壊じゃない。
確実に言える。
完全に“狩られる側”の思考だ。
逃げている以上、逃げ込む先は確保されている。
さっきから急勾配を登っている感覚があり、
精度の高い位置情報ではないが、進行方向は墨染の御神木――
そして、神楽殿だ。
神社の拝殿の奥。
さらにその奥にある神楽殿は、七年に一度、神楽舞の奉納でしか使われない。
例の黒猫の神使の住まいだと、母から聞かされていた。
近づいてはいけない場所。
――魔のものは、入れないんじゃなかったか?
腑に落ちないまま、その疑問を思考の端に追いやる。
地形の配置を思い出す。
墨染の鎮護の森は、結界じみた構造をしている。
意味のあるものが、意味のある場所に配置され、
中心である御神木へと、緩やかに収束する。
“入るは易く、出づるは難し”を体現した造り。
宗教建築は本来、開かれた構造を持つものが多い。
だが墨染神社は違う。
――閉じ込めるための神域だ。
外から入った異物は、
無意識のうちに、内側へ引き寄せられる。
「……神楽殿だな」
俺が呟くと、茜が一瞬だけ振り返った。
「やっぱり、そう思う?」
「ああ。逃げ込むなら、あそこしかない」
ゴールの位置がわかった以上、最短距離で走り抜ける。
やがて、少し開けた場所に出る。
ほどなくして、神楽殿が見えてきた。
苔むした石畳。
静まり返った舞台は、威風堂々と鎮座している。
白炎は苔の絨毯を踏み鳴らし、興奮を鎮めているようだった。
「……たぶん、偶蹄目の動物だな」
白炎が残した足跡を見ながら、ぼそりと呟く。
「偶蹄目? それ、なに」
「たぶん、鹿とか猪の類だ」
不自然なほど大きな足跡に首を傾げつつ、息をひそめる。
苔の絨毯を踏みしめる音が、不意に止んだ。
足元の緑が、じわりと白く変色していく。
白炎の衣は、脱皮するように剥がれ落ち、
本体のシルエットが露わになる。
おそらく、相当な年齢を重ねた鹿だ。
だがそんなことは意にも介さず、
神楽殿の正面、石段の手前で身を低くし、
異常なほど枝分かれした角を、首ごと振るような仕草を見せている。
その佇まいは、追い詰められ――
それでも、腰を据えた姿に見えた。
「……たぶん、茜と同じスタイルだな」
「え?」
「あれは、相手の攻撃を受けて立つ構えだ。迎撃するつもりだろう」
神楽殿に入るわけでもなく、
境界線を前にして、足踏みしている。
そのとき、逢魔が時を過ぎ、
残っていた光が完全に闇へと沈んだ。
押しつぶされそうな感覚が、辺りを包む。
ピシリと空気が張り詰め、
凍りつくような圧――
何かが、“満ちる”。
肌の内側を撫でられるような、冷たい気配。
「……何かいる」
茜が低く言う。
木刀を構えはしないが、
一歩踏み出す力そのものを削がれているようだった。
異物であったはずの白炎が霞んでしまうほど何かがその場を支配していた。
「……空気が、重い」
神楽殿は、静まり返っている。
だが、静かすぎる。
風がない。
虫の声も、葉擦れの音もない。
この場所だけ、
誰かにピリオドを打たれた世界――
そんな感覚。
白炎の鹿は、畏れもなく、
神楽殿を仰ぎ見ていた。




