第4話:霓ヶ崎の賢人
一連の鍛錬が終わり、きららと並んで道場を出る。
冬と春を溶かし合わせたような空気と、それを受け止める器みたいな空を見上げながら、大きく伸びをした。
背後で、カチャリと鍵のかかる音。
振り返ると、きららが満足そうに微笑んでいる。
「ありがと」
「うん」
それだけで十分だった。
少しずつ明るさを増していく空の下、並んで境内を歩く。
母屋に戻ると、汗で冷えた身体をきららに気遣われ、そのまま風呂へ直行することになった。
臭いなんて言われたら、一週間は立ち直れない自信がある。
少し伸びた髪をドライヤーで乾かし、居間へ向かう。
味噌の匂いがした。
台所では、きららが小さな踏み台に乗り、鍋を覗き込んでいる。
さっきより目は覚めているが、それでもまだ少し眠そうだ。
「お兄ちゃん、手伝って」
「はいはい」
茶碗やお椀、箸を並べていると、背後で足音がした。
引き戸が開き、父――嚮夜が入ってくる。
くたびれたスウェット姿。
ちゃんとした格好をしたらそれなりになるはずなのにくちゃくちゃになった姿に苦笑する。
寝癖のままの髪をぼりぼりと掻きながら、食器棚からいつものマグカップを取り出す。
眼鏡の奥の目は、いつにも増して赤い。
「おはよう……今日も早いな」
俺を見るなりそう言って、小さく欠伸をした。
「おはよ。そっちこそ、どうせ寝てないだろ」
「論文が佳境でね。
寝るタイミングを完全に見失った」
言いながら、迷いなくコーヒーメーカーに手を伸ばす。
豆を量り、水を入れ、スイッチを押す――完全に身体に染みついた動作だった。
「お父さん、おはよう……ブラック?」
「今は、それ以外は飲めないなぁ……」
コーヒーが飲めないきららが、むっとした顔をする。
「甘いのも美味しいのに」
「脳が受け付けない」
淡々としたやり取りのまま、三人で食卓についた。
じいちゃんは朝食を取らない。
たぶん自室で新聞でも読んでいるのだろう。
きららが上手に焼けた玉子焼きを頬張る横で、俺は軽めの和食を口に運ぶ。
味噌汁の湯気が、ゆっくりと立ち上る。
嚮夜はコーヒーを飲みながら、資料の束を脇に置いていた。
「今日も道場か?」
「このあとは蔵で本読む」
「……そうか」
それだけ言って、再び紙の向こうへ視線を落とした。
蔵の蔵書主である父さんは、読み終えた文献にはあまり興味がない。
それ以上に、剣の話は出てこない。
霓ヶ崎の賢人と呼ばれる父さんは、剣術そのものよりも、蘇芳流がどう生まれ、どう変遷してきたのかに興味を示す、少し変わった人だ。
怪我だけは心配されるが、それ以上、俺のやることに踏み込んでくることはない。
「……最近、因幡会館で見つかった古文書の解読で、妙な記述が多くてね」
珍しく、独り言のように呟いた。
「色が、抜けるんだそうだ」
きららが首を傾げる。
「色?」
「うん。“白くなる”って書いてある」
「「????」」
それ以上は語らず、父さんは立ち上がった。
研究に没頭すると、会話のキャッチボールを放棄するのはいつものことだ。
特に気にすることもなく、朝食を続ける。
「行ってくる。夕方には戻るよ」
そう言って軽く手を振り、大学の研究室へ向かった。
その背中は、少しだけ疲れて見えた。
朝食のあと、きららと一緒に食器を片付ける。
きららは学校の宿題をするため部屋に戻り、午後に勉強を教える約束をした。
俺は母屋の裏にある蔵へ向かった。
ダルマ錠と呼ばれる大きな鍵を外し、重い扉を開ける。
紙と木の匂いが混じった空気が、自然と流れ出した。
ここには父さんが集めた書物だけでなく、じいちゃんが持っていた古書も並んでいる。
霓ヶ崎に関する記録、神社に伝わる文書、民話集。
口承されてきた民間信仰を、父さんがまとめ直した資料も雑多に収められている。
一方、じいちゃんの棚には、今は亡き文豪の初版本や、珍しい英文学・仏文学の翻訳書が年代順に並ぶ。
二人の性格や、本に対する距離感がはっきり分かって、少し面白い。
今日は、じいちゃんが持っていた司馬遼太郎の『梟の城』でも読もうと思っていた。
だが、父さんの蔵書群で雪崩が起きていた。
――よくあることだ。
片付けながら、適当に一冊を手に取る。
『霓ヶ崎の成り立ちとその考察』
父さんが若い頃に書いた本だ。
内容は、その名の通り、霓ヶ崎がなぜこの名前で呼ばれるようになったのかを紐解いたものだった。
母さんが生きていたころ、だいぶ噛み砕いて読んでもらった記憶がある。
数ページ、ぱらぱらとめくる。
複数の引用元を示しながら、伝承が丁寧に記されている。
伝承によれば、霓ヶ崎は、もともと二匹の番いの龍が天から降り立った土地だという。
雌雄の龍が、この地にもたらした恵みや知識が具体的に列挙されていた。
やがて雄の龍が早くに亡くなり、それでも雌の龍は人々に教えを与え続けた。
その敬意から、雄の「虹」ではなく、雌の「霓」の字が使われた――そんな説もあるらしい。
尼寺が多かった土地だった、という別説も併記されていた。
次の章から考察に入ろうとした、そのときだった。
正午を告げる、大きな鐘のアナウンスが響く。
霓ヶ崎市では、市内放送で正午と十七時に時報が流れる。
どこにいても聞こえる、生活の区切りの音だ。
朝食を軽めにしたせいか、腹が小さく鳴った。
蔵を出ると、境内が少し賑やかになっていた。
じいちゃんの声。
きららの笑い声。
それから――
聞き慣れていて、慣れたくもない。
少し張りのある、女の声。
「こんにちはー! 遅れましたー!」
反射的に、入口の鳥居の方を見る。
ショートボブの黒髪。
動きやすそうだが、この季節には少し早いショートパンツにハイカットのスニーカー。
背中には、今にも破裂しそうなほど膨れた木刀袋。
幼なじみで、兄弟弟子。
蘇芳茜が、そこに立っていた。
……今日の昼は、残念だが、
静かに過ごせそうにない。




